ダイヤモンド社、ビジネス情報サイトよりです。
致知出版社(http://www.chichi.co.jp/monthly/201108_pickup.html)の「人間力メルマガ」より転載させて頂きます。
高見澤潤子さんは、小林秀雄さんの実妹でいらっしゃいました。
2004年に99歳で亡くなられました。
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「兄・小林秀雄から学んだこと」
高見澤潤子(劇作家)
『致知』2001年10月号
特集「先知先哲に学ぶ人間学」より
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子どものころから兄・小林秀雄は、
私には尊敬すべき存在だった。
私は兄から多くのことを教えられた。
しかし、私があんまり知らないことが多すぎて
恥ずかしいといったとき、
「何ももの知りにならなくてもいい」
といってくれて、
「学者はknowledgeだけあって、wisdomがないから駄目だ」
といったことがある。
人間は生きていくためにはもちろん
学問、知識(knowledge)は必要である。
しかし、物事をよく判断し、よく処理する心の動き、
賢さというようなもの、生きていく知恵(wisdom)は、
それ以上に大切であることを、兄はいうのである。
兄は理論よりも行動を重視した。
何かせずにはいられないという気持ちは、
愛情とか尊敬からおこるものである。
頭で考えているだけでは、
そういう気持ちにはなかなかなれない。
愛情をもって対象物を本当に理解しなければ、
実行することはできない。
知ることは行うことだ、と兄はいっていたし、
「実行という行為には、
いつでも理論より豊かな何かが含まれている。
現実を重んじる人というよりは、
現実性を敬う心がある」
というようなこともいっていた。
私たちはあまりにも観念的になり、抽象的になり
理論的になっている。
理屈ばかりいって、実行しない者は多い。
現実を大切にしないからである。
実行するのは難しいことなのだが、
具体的にものをいうよりも、抽象的にいった方が
深みがあるように思っているからである。
しかし目の前に現れている現実、
具体のほうが大事なのである。
私が自分の結婚問題について、
手紙で兄に相談したとき、兄は長い返事をくれた。
その中にこういう言葉があった。
「人間が人間の真のよさだとか悪さだとか
わかる迄には大変な苦労が要るものだ。
人間を眺める時、その人間の頭にある思想を
決して見てはならぬ。それは思想だ。人間じゃない。
その中によさも悪さもあるものでない。
大体、アリストテレスの言ったように、
人生の目的は決してある独立した
観念の裡(うち)にはないものだ。
人間の幸不幸を定める生活様式の裡にあるのである、
いい生活様式を得れば人間はそれでいい」
兄は何も知らない私に人間の見方と、
人生の幸福というものを教えてくれた。
人間は頭より情緒、心の優しさが大切で、
人間をみるというのは、実生活の具体的なものを、
しっかりみることである。
────────────────────────────────────(以上)
小林さんの著者では、昔、「モーツアルト」を読み、天才だ!と思いました。
言葉一つ一つに重要な意味が込められているのだろうな、と思いながらも、私にとっては難解な文章。
結局、最後まで読み通すことが出来ませんでした。
「批評の神様」と称せられた、小林秀雄さん、
あまり動かずに、思考を働かせることがお好きだったのだろうな、と想像していました。
しかし、妹さんの高見澤さんの言葉からは、勝手に想像していたのとは異なる小林さんの姿が見えて来ます。
「何ももの知りにならなくてもいい」
「学者はknowledgeだけあって、wisdomがないから駄目だ」
「実行という行為には、いつでも理論より豊かな何かが含まれている。
現実を重んじる人というよりは、現実性を敬う心がある」
これらは、小林さんが、知識よりも、“生きていく知恵”、
頭よりも、“現実”、そして“実行”するということを大切にしていたことを示しています。
“人間は頭より情緒、心の優しさが大切で、
人間をみるというのは、実生活の具体的なものを、
しっかりみることである。”
“具体的なものをしっかりみる”ということは、実は、その奥にあるもの、背後に隠れているものを見つめる、ということでもあるのだと思います。
“実生活の具体的なものを見ること”、“生きていく知恵を学ぶこと”、“実行する”ということは、まさに、今、求められていることですね。
致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。(http://www.chichi.co.jp/book/7_news/cd_kouwa3.html)
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致知出版社の「人間力メルマガ」
【2011/7/27】 致知出版社編集部 発行
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私はこれまで千日回峰行という行に自分自身を立たせてみて、
「人生とは何ぞや」「信仰とは何ぞや」という熱い思いで、
23歳の時からお山を歩き続けてまいりました。
行は1日48キロ山道を16時間かけて、
9年がかりで合計4万8,000キロ歩き続ける
というものでございました。
この行には、たった一つの掟(おきて)がございます。
ひとたび足を踏み入れますと、
決して途中でやめることは許されません。
万が一の時には、短刀で自分の腹をかき切るか、
腰に結わえてある「死出紐(しでひも)」で首をくくるか、
二つに一つです。
「行を終えたら行を捨てよ」
これはお師匠様から一つだけ授かった言葉です。
行とは、山へ行った回数で価値が決まるものではない。
どんな経験を積んでも決してそれを勲章にすることなく、
ただ善なる功徳のみを徹底的に
積み重ねよという教えだと思います。
平成3年5月3日、目を開けた瞬間から
千日回峰行者になるための自分の定めが始まりました。
目を開けると身体の重い日もあります。
調子の「いいか悪いか」ではなく、
「悪いか最悪か」のどちらか。
そのスレスレのところを行じていくので、
起きた瞬間に足が動かない日もある。
一度行に入ると医者に行くことも許されません。
ある日、突然右目が充血して
腫れあがってきたことがありました。
一週間たってもどんな薬をつけても治らず、
徐々に不安が募ります。
どうしてだろう、といくら原因を考えても分からない。
その時に、当時23歳という若さゆえ、
命の一つや二つ落としてもなんてことはない
という気持ちでいた自分のことが省みられました。
あんなに大きなことを言っていた人間が、
右目一つ霞んでくるだけでこんなにも不安になっている。
そう思った瞬間に、
「神仏から頂いたこの命は決して粗末にしてはいけない」
という戒めだったのだと気づいたのです。
それから数時間後には目の腫れが引き、
次の日には元どおりになっておりました。
『致知』2007年12月号より
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修験道の中でも最も過酷な行の一つといわれる
千日回峰行に果敢に挑み、見事満行を果たされた
塩沼亮潤大阿闍梨(しおぬま・りょうじゅんだいあじゃり)。
東日本大震災以降、その塩沼師が住職を務める
仙台の慈眼寺(じげんじ)へ、多くの方々が
ご自分の悩みを打ち明けに訪れると聞きます。
塩沼師は「自分に何ができるだろう……」と
煩悶されながらも、ご自分の話を聴かれた方々が、
元気を取り戻し、最後には笑みさえ浮かべながら
寺を後にされる姿をご覧になりながら、
ご自分の役割がここにあるのだということを
あらためて確信されたといいます。(後略)
…………………………………………………………………………………………(以上)
“ある日、突然右目が充血して
腫れあがってきたことがありました。
一週間たってもどんな薬をつけても治らず、
徐々に不安が募ります。
どうしてだろう、といくら原因を考えても分からない。”
“あんなに大きなことを言っていた人間が、
右目一つ霞んでくるだけでこんなにも不安になっている。
そう思った瞬間に、
「神仏から頂いたこの命は決して粗末にしてはいけない」
という戒めだったのだと気づいたのです。
それから数時間後には目の腫れが引き、
次の日には元どおりになっておりました。”
“命の一つや二つ落としてもなんてことはない”と思っていた塩沼さんが、
右目の充血で不安になること・・・
やはり、考えることと、やることは、全く違う、別の次元のことなのだと痛感します。
そして、そこに気づきが生まれた時、腫れが引いてしまう・・・
それは生きていることの不思議にも繋がることなのではないでしょうか。
私たちが日々経験する、体の痛みや、心の痛み、実は、その中にもその人にとって大切な教訓が隠されているのかも知れませんね。
23日の日記(http://blog.goo.ne.jp/tera-3/e/24a99a9c20eaab0b6bf8e2f0f20e6130)のフォローアップになります。
私の出した質問メールに対して以下の内容で返事が来ました。
同じ内容で、ブログも更新されているようです。(http://www.drboylan.com/07.2011japanmegaquake.html)
Here is the latest on the major seismic event originally foreseen to occur around the July 23-24-25 time period.
On Saturday afternoon there was 1) a sizeable 6.4-magnitude quake which occurred (1:34 pm, Japan time) near Sendai, Japan
On Sunday (Monday-Japan time), four additional earthquakes of size occurred yesterday:
2) a 5.1 magnitude quake right after midnight (Japan time Monday ), July 25, 2011 at 12:07 am (the original time the Big One was foreseen to strike);
3) a 6.2 magnitude quake at 03:51:25 AM ( Monday Japan time );
4) a 6.2 magnitude earthquake which occurred at 6:52 pm Monday, Japan time; and
5) an additional (fifth) 4.9 earthquake which occurred at 8:04 pm (Japan time) Monday evening. (Additional lesser quakes also occurred. See below*. )
These all really can be seen as a set, and the sum of those energy releases may have substituted, at least temporarily, for the expected 9.5 earthquake event.
Taken as a whole, Mother Earth may have had an at-least temporary dissipation of the tremendous force of a potentially-looming 9.5 Mega-Quake into a set of several more-moderate quake events.
The dissipation of that foreseen 9.5 Mega-Quake into a series of five moderate quakes would temporarily forestall additional destruction to the Fukushima and other nuclear plants in Japan, and thus for now avoids even more radioactive pollution of land, sea, and atmosphere, and those who dwell there .
The breaking of the Mega-Quake into five smaller quakes was NOT the doing of Gaia .
Rather, it was human interference by the Cabal for their own devious power-and-profit purposes facilitated by their "earthquake-engineering" .
And thus we can expect the built-up pressure at the contact point of the Pacific Plate and the Okhotsk Plate (that Japan rests on) still remains to be dealt with, and will sooner or later have to be released anyway in an even-more-major seismic event, perhaps 9.7, in the not-too-distant future.
<要約>
1)〜5)で23〜25日に起きた5つのM5以上の地震について列挙した後、
“これらの地震は一連のものとして見なすことが出来、M9.5 地震の代わりとなって一時的にエネルギーを解放したと言えるのではないか。
全体として見ると、母なる地球は、M9.5 級の大地震の強大なパワーを、一時的に中規模地震として分散したということになるかも知れない。
M9.5 級の大地震が5つの中規模地震に分散されたことによって、福島や他の原発の更なる破壊を防ぎ、土地、海、大気やそこに住む人々への更なる放射能汚染を防いでいるということになる。
しかし、大地震が5つの地震に分散されたということは、実はガイアの行為ではなかった。
むしろ、“地震工学”を利用し、自らのパワーと利益を得ることを目的とした陰謀によるものであり、人的に介入されたものであった。
従って、太平洋プレートと(日本が乗っている)オホーツクプレートの接触地点において、引き続き圧力が蓄積されていることを考えると、それ程遠くない将来に、多分M9.7級の 更に大きな地震となってその力が解放されるのではないかと予想する。”
確かに23日〜25日には、東日本だけでも下記を始めとする地震がありました。
7月23日 13時34分 宮城県沖 M6.5 深さ約40km 最大震度5強
7月25日 3時 51分 福島県沖 M5.2 深さ約40km 最大震度5弱
7月25日 20時55分 千葉県東方沖 M5.7 深さ約30km 最大震度3
しかし、リチャードさんの内容を読んでいると、“人為的に起こそうとした地震が、うまくいかずに分散してしまった”、というように聞こえなくもありません。
ただし、引き続き注意は必要だと思っています。