"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

羽田空港の国際化について

2010-10-29 05:00:00 | 日記
先日、羽田空港の国際化についてのNHK番組を見ていましたが、愕然としました。
自分の不勉強を恥じるとともに、将来が心配になってしまいました。

新しく完成した4つ目の滑走路、それは、他の3つの滑走路とあわせると、井げた構造になっていたのです。
即ち、他の3本のうち、2本の滑走路を使って飛行機が離陸すると、その目の前には、そこを横切る新滑走路が・・・。

衝突事故を防ぐには、管制官に高い集中力が求められますが、常に複雑な連立方程式を解いていくようなものでしょう。
1回では着陸せず、旋回して入り直すようなことも度々あるでしょうし。

更に、南から入ってくる飛行機は、北側の滑走路に、北から入ってくる飛行機が、南側の滑走路に着陸することになっているとのこと。即ち、それぞれの飛行経路が、着陸寸前で交差しているのです。

ようやく着陸すると、そこはまた、井げた構造になっているがゆえに、滑走路をたくさんの車が横切ったり・・・。

一体、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?

その説明については、NHKの解説を見て頂きたいと思いますが(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/63273.html)、番組を見ながら思い当たることがありました。

これは、今、日本が抱えている問題の縮図ではないかと。

空港の西側は、横須賀基地との関係で、飛行機が通れません。
そして、通れるところも、高度制限があるので、急上昇しなければなりません。

即ち、これは米国との関係から生じる制約要因なのです。

今の日本の外交の姿にダブって映ります。
中国の台頭もあり、益々米国の顔色を伺わなくてはならなくなり、言いたいことが言えない、という外交上の制約のごとく。
(それにしても、今の政権、関係を保ったままで、言えることはあると思いますが)

もう一つは、国内要因。

飛行本数が集中する千葉県の反対によって、高度や夜間の飛行等、様々な制約が生まれてしまっているのです。
この姿は、国内で互いが権利を主張しているうちに、グローバル競争から遅れて行く、日本の産業や政治の姿に重なって見えます。
PC、テレビ、携帯電話業界しかり、もともと成田と羽田に分かれて交通も不便な飛行場しかり・・・。

私は、日本のワーカーのレベルは、その現場の対応力において世界一だと思っています。
余談ですが、大晦日の生放送、あれ程の高いクオリティで、無数の人々の協力と効率性が求められる“紅白歌合戦”は、日本以外では絶対出来ないと思っています。

しかし、それだけに、今回の滑走路を始めとした構造的な欠陥が、優秀な現場の負担を高めることになる。
管制官しかり、パイロットしかり。
(羽田の離着陸に慣れていない海外からのパイロットは、どうするのでしょうか?)

ミスは必ず起きるもの。
発着便数を増やしていく中で、もし、事故が起こってしまった時、その管制官やパイロットを責めることが出来るのでしょうか?
しかし、日本では、今までずっとそうして来たように思います。

ごく当たり前のことながら、大量の飛行機の離発着を、安全かつスムーズに出来る仕組みや構造を作ることが、最も重要なこと。
それが出来ないのであれば、もともと進めるべきではなかったと思います。

人の負担を軽くしても、無理なく循環していくオペレーションの仕組みをつくること。
そうすることによって初めて、他の空港に伍して行くキャパシティが生まれ、一方で、そのマンパワーを、サービス向上や、グローバルで競争出来る戦略を生み出すことに特化出来るのだと思います。

妥協の産物で走ってしまう今の思考の延長戦上では、サムソンやインチョン空港から、どんどん取り残されていくのではないかと懸念します。

今は、政治においても経済においても、目を大きく外に向けた考え方が重要だと思います。
明治維新時の日本人のように。

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「私は、なぜ日本国民となったのか」 金美齢著

2010-10-27 11:12:43 | 日記
著者の金さんは、TVにもよく出ているので、ご存知の方も多いかも知れません。
日本の占領下にあった台湾に生まれ育った後、日本の学生となり、その後50年以上、日本から母国台湾の独立を願い、運動を続けました。

監視を受けていた為、延長出来ないことが明白であった台湾のパスポートは破り捨ててしまいました。
同胞がどんどん脱落していく中、日本で結婚し、パスポートがないまま、子育てをしながら活動を続けました。

ようやくその活動が実を結び、台湾独立を目指す民進党が、選挙で初めて勝って希望が見えたのもつかの間、次の選挙で、民進党は大敗し、もとの国民党に政権が戻ってしまいます。

希望の光が消えたと感じて、金さんは、そこで初めて国籍を日本に変えました。

日本という国に住んでいること
日本人であること
日本語を話し、読み、書くこと

こうしたことを、私たちは空気と同じようにごく当たり前のことだと思っています。

自分の国が、将来なくなってしまうかも知れない。
日本人でいられなくなってしまうかも知れない。
日本語を使うことも出来なくなってしまうかも知れない。

その気持ちは、その時になって初めてわかるものなのかも知れません。

中国軍によるチベット弾圧の真最中にあった台湾総統選挙。
しかし、期待に反して国民党の総統が選ばれます。

「台湾人は、チベット問題をわが事として考えようとしない」

その時の著者の思いです。
“台湾人”を“日本人”にそのまま置き換えることも出来るように思います。

今、日本には、夫婦別姓の件しかり、外国人への地方参政権付与の件しかり、日本、そして日本人というアイデンティティを壊しかねないような動きがあるように思います。

家族、そして国を守るために亡くなった方々を祀る靖国神社への参拝、一部の海外から批判されて、やめてしまう政治家。
国際法違反の東京裁判史観にずっと縛られて来た日本人の意識。

「このままでは、将来、日本は属国になってしまう」

そう言っても、今は、笑われるだけかもしれません。

しかし、仙谷官房長官は、自民党議員から、尖閣諸島の対応について懸念を示すこの言葉を聞いた時に、

「属国化は今に始まったことではない」

と返したと言われます。

もうその流れは決まってしまっているのでしょうか?
50年後には、中国のGDPは日本の10倍になるという試算もある中で。

金さんが思い出す、日本占領時の台湾。
日本人の先生は、日本人と台湾人の生徒に平等に接しました。
叱るべき時は叱り、褒めるべき時は褒める。

誠実であること、勤勉さ、遵法精神・・・
その“リップンチェンシン(日本精神)”は、当時の台湾の人々の心の中にも自然に宿っていったとのこと。

敗戦後の日本では、歴史、教育を含めて戦前のものが根こそぎ否定されました。
その流れは、今でも変わらず、私たちはそのことを当然だと思っています。

しかし、著者は、

「反省すべきは戦前ではなく戦後」

であると言います。

実は、私にも思いあたることがあります。
香港にいた時にお会いした、タイ在住の台湾人の方のことです。
その方が話される、今まで聞いたこともない美しい日本語、その表情から醸し出される当時の日本人への尊敬の念。

それまで、私の意識に完全に刷り込まれていた、
「占領地の人々にひどいことをした日本人はけしからん」
という話とは、あまりに隔たりのあるその姿に、驚いてしまいました。

そして、当然日本人だと思っていた私と、その方の、一体どちらが真の日本人なのだろうと、恥ずかしくなりました。

著者は、もう“最前線は、台湾から日本に移った”と書いています。
そして、今度こそは、50年過ごした日本を守るのだと。

私たちは、今、大きな岐路に立っているのかも知れません。

私は、なぜ日本国民となったのか (WAC BUNKO)
金 美齢
ワック

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「働く幸せ」 大山泰弘著

2010-10-07 18:51:56 | 日記
大山さんは、日本理化学工業という会社の会長さんです。
会社の7割以上は知的障害者の方々で構成されています。

障害者の方を採用する会社は増えているようですが、従業員比率は圧倒的に少なく、また、会社のメインの部門で仕事をしている方は、非常に少ないのが実状のようです。

この会社の場合、その心臓部である工場は、ほとんどが知的障害者の方々です。
会社に不可欠な人材として働いているのです。

私は、この本を福祉関係の本として読みませんでした。
すぐれた経営の書であり、すばらしい人生論として受け取りました。

知的障害者の自立を心から願う、養護学校の先生の熱心さに負けて、2人の障害者を短期で受け入れるところから、この旅が始まります。

体験期間終了前日、休みも取らないで働く二人の一途さに打たれた他の従業員が、二人の分もカバーするから、仕事を続けさせて欲しいと大山さんに懇願し、二人は本採用になります。

大山さんは、障害者の採用で有名なアメリカの会社に視察に行きます。

そこでわかったことは、その会社で働いているのは、身体障害者であって、知的障害者を採用している会社は、アメリカにもないということ。
経営面も政府の補助金に依存していることがわかりました。

その事実に、かえって発奮した大山さんは、補助金に頼らず、民間企業として、きちんと収益をあげて行こうと決心します。

言うは易く、行うは難し。

すべての製造工程は、障害者の方々に合わせて見直さなければなりません。

知的障害者の方には、数字が理解出来ない方が多くいます。
この材料なら何グラム、この材料なら何グラム、という作業が出来ません。

しかし、考えてみると、信号の色を見分けて通勤することが出来ている。

それをヒントにして、材料の同じものは、決まった色の容器に入れ、同じ色の重りを作って、それと釣り合うように材料を入れるようにしました。

勝手に会社を休んでしまう従業員がいました。

やって来たその従業員に、担当の方は、ラインに入らないで見ているように言いました。

そして、本来その従業員が担当すべき最後の工程で、降ろされなかった製品が溜まってしまって、しまいには、どんどん落ち始める様子を見て、その従業員は、自分がどれだけ大切な業務を担当しているのかを理解しました。

そして、無断欠勤がなくなったばかりか、高熱があっても会社に出て来て会社の方々に帰されるようになるほど、仕事に対する責任を自覚したのでした。

発作的に奇声を発して、製品を倒してしまう従業員には、すぐ家に帰るように指示、しかし、反省したら戻ってくるように言って帰す。
同じことを繰り返して約5年。そうしたことがなくなりました。

施設に入って、過ごした方が楽でよほど楽しいだろうに。

障害者の方々の懸命な働きぶりを目のあたりにして、最初の頃不思議に思った大山さんは、導師に話を聞きます。

そして、人間の究極の幸せは、

人に愛されること
人にほめられること
人の役にたつこと
人から必要とされること

であり、仕事によってあとの3つが得られるのだ、と聞きます。

しかし、後に、大山さんは、仕事は、最初のひとつも含めた4つすべてを与えてくれるのだ、と思うに至ります。

そうして、創意工夫の繰り返しによって、全く粉の出ないチョーク、ガラスに書けるチョーク等、画期的な商品を世に出していくのです。

働く幸せ~仕事でいちばん大切なこと~
大山 泰弘
WAVE出版
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