"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“「再生可能エネルギーで経済成長」は楽観論”

2011-07-29 02:26:02 | 日記

 日経ビジネスオンラインの記事です。

連載コラム “哲学者・萱野稔人の超マクロ経済論” よりです。
 
“「再生可能エネルギーで経済成長」は楽観論”
副題は、『エネルギーの「質」が足りない』となっています。
 
 
 
 
“再生可能エネルギーへの転換によって新たな経済成長がもたらされる、と主張される。問題は、その主張がどこまで妥当なものかということだ。”
 
この命題に関して、萱野さんは、“電力需給を管理するスマートグリッドや蓄電分野を代表例”とする“新たな成長産業を生みだすことはまちがいないだろう”と説明する一方で、こうした新しい“成長産業が生まれることと、経済成長がもたらされることとは、まったく異なる次元の話”、だと訴えます。
 
そして、“なぜ再生可能エネルギーの活用は化石エネルギーと同じようには経済成長をもたらしえないのだろうか。”ということに関して2つの理由を挙げています。
第1の理由は、太陽エネルギーは、化石燃料と比べてエネルギー密度がかなり薄いために、エネルギー産出/投入比率も低いからだという説明です。
“太陽光や風力の利用では日々の太陽エネルギーの「フロー(流れ)」が活用されるだけなのに対して、化石燃料の利用では何億年ものあいだに蓄えられた「ストック(貯留)」が一度に活用されることになる”為にエネルギーの質が違うという説明です。
 
第2の理由は、再生可能エネルギーの活用がほとんど発電に限られてしまうという点だと説明します。
 
“エネルギー消費の全体のなかで電力というかたちで消費されているエネルギー量の割合は、日本では25%ほどにすぎない(先進諸国の平均はもっと低く、2割程度)。
再生可能エネルギーの活用は、けっしてエネルギー利用の全体の構造を変えるわけではないのだ。”
 
“化石燃料が現実に果たしている圧倒的な役割からすれば、再生可能エネルギーが「エネルギーのパラダイム・チェンジ」を実現し、新たな生産拡大の局面を準備するとはとうてい考えられないのである”
 
“私たちは化石燃料の活用が人類にもたらした生産拡大のインパクトをもっと認識しなくてはならない。再生可能エネルギーへの転換によって経済成長がもたらされるだろうという楽観論は、そのインパクトに対する認識を決定的に欠いている。あるいはその楽観論は、2次エネルギーにすぎない電力をエネルギーそのものと取り違えるという誤謬のうえになりたつものでしかない。”
“もちろん、再生可能エネルギーの活用が経済成長をもたらさないからといって、その普及や拡大がまったく意味をもたないということではない。それは、リスクの高い原発への依存度を下げるという点でも、新たな成長産業を生みだすという点でも、さらにはエネルギー源の多様化やエネルギーの地産地消を進めるという点でも、意味があることだ。ただし、それらの利点と経済成長そのものはまったく別の事柄である。経済成長の問題から切り離されて、再生可能エネルギーの活用は考えられなくてはならない。”
私は、ここで萱野さんが述べられている内容についてはその通りなのだろうな、と思っています。
読んでいて感じたことが2点あります。
1点目は、萱野さんは、経済成長を生み出すことを大前提として、それを満たすエネルギー手段を模索するというアプローチを取られているということです。
それは全く正しいアプローチだと思います。
経済成長がなければ、企業の成長も望めませんし、そこで働く人々の給料も増えません。
年金や社会福祉等に回すお金も生まれません。
でも、今、人々の間でその考え方が少しずつ変わりつつあるのではないかと思います。
経済成長を続けていくことが、人々の真の幸福に繋がるのかどうか、ということについて、今、疑問符がつき始めているのではないかと思うのです。
もっと別の道があるのではないか、と。
であれば、エネルギー政策に関しても、必ずしも経済成長を前提にする必要はなくなって来るのではないか、という点です。
 2点目は、1点目とは逆説的になりますが、でも、しばらくは、既存の考え方も取り入れていかないとならないのだろうな、ということです。
今は、まだまだ変化の入口だと思っています。
変化の過程では、異なる考え方を並立していくことも必要なのではないかと思うのです。
エネルギー政策についても、いずれ、今とは全く違ったエネルギー供給手段が生まれて来るのではないかと思っています。
しかし、それをまだ持っていない今は、色々な選択肢を残しておくべきだと思うのです。
特に今は、東日本の復興、そして原発事故への対応という、とても大切で大きなイベントがあるということを忘れてはならないと思うのです。


“兄・小林秀雄から学んだ感受性の育て方”

2011-07-29 02:23:23 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201108_index.html

   
昨日に続いて、小林秀雄の実妹で、
劇作家でいらした高見澤潤子さんの記事です。

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       「兄・小林秀雄から学んだ感受性の育て方」
       
       
           高見澤潤子(劇作家)
        
        
                 『致知』2001年10月号
                  特集「先知先哲に学ぶ
人間学」より


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兄に感受性を養い育てるには
どうしたらいいかと聞いたとき、兄はこう答えた。


「始終、怠ることなく立派な
芸術をみることだな。
 そして感じるということを学ぶんだ。
 立派な芸術は、正しく豊かに感じることを
 いつでも教えている。

 先ず無条件に感動することだ。

 ゴッホの絵だとかモーツァルトの音楽に、理屈なしにね。
 頭で考えないでごく素直に感動するんだ。
 その芸術から受ける何ともいいようのない解らないものを感じ、
 感動する。そして
沈黙する。
 
 その沈黙に耐えるには、
 その作品に強い愛情がなくちゃいけない」


感じるには、理解力とか判断力とかいうものではなく、
心の才能というものが必要なのである。

子どものような
純粋な謙遜な気持ちが
なくてはならないのである。

いろんな知識を得、経験を重ねると、
こういう素朴な心を、私たちはみんな失ってしまう。
人間は心の底から感心し、感動しなければ
よいものは創れないし、よい考えもおこらないと思う。


また、個性について兄がこんなことをいったのを覚えている。


「人間は、自分より偉い、優れた人に出会ったら、
 その人を心から尊敬できるような
 ナイーブなものを持っていなくちゃ駄目だ。

 他人への信頼と無私な行動とが一番よく
 自分の個性を育てるものだ」


私はこの言葉を聞いたとき、正直なところ、
本当にそうなのかと疑問を持った。

個性というものは自分に与えられているものだから、
自分が育てなければならない、
自分の個性と思われるものを努力して、苦労して、
自分で磨き上げなければならないと思っていた。

しかし年をとるとともに、この言葉が
真実であることがわかってきた。


個性を育てるのに、たいていの人は私のように誤解して、
間違った方向をとってしまう。

ことに、人を尊敬するとか、他人を信頼し、
無私になることは却って自分を殺してしまうと思って、
俺が俺がという気持ちを持とうとする。

そうすれば、ますます個性を育てることは
難しくなるであろう。

兄のいうように「心から尊敬できるナイーブなもの」が
大切なのである。

────────────────────────────────────(以上)


“頭で考えないでごく素直に感動するんだ。
 その芸術から受ける何ともいいようのない解らないものを感じ、
 感動する。そして沈黙する。
 
 その沈黙に耐えるには、
 その作品に強い愛情がなくちゃいけない。”


感受性を養うには芸術に接するのがいいとはよく言われることですが、小林秀雄さんの説明は一味違いますね。

“沈黙する”というところ、私の勝手は小林さんのイメージでは、“思考する”と当てはめてしまいそうですが、
違うのですね。


“その沈黙に耐えるには、
 その作品に強い愛情がなくちゃいけない。”

なんとも深い言葉です。


“沈黙”するとは、自分に向き合うという意味でもあるのかも知れません。
“愛情”とは、作品への愛情であると同時に、自分への愛情、信頼でもあるのかな、と思いました。


“個性”についての小林さんの言葉も一風変わっていますね。

“他人への信頼と無私な行動とが一番よく
 自分の個性を育てるものだ”

一体どこからこんな発想が出てくるのかと思います。


私も、その時の高見澤さんのように、

“個性というものは自分に与えられているものだから、
自分が育てなければならない”

と思っていました。


しかし、そうすると確かに、

“俺が俺がという気持ち”が入りやすくなってしまい、

“ますます個性を育てることは難しく”なってしまうのかも知れませんね。


“心から尊敬できるナイーブなものを大切にすること”

深くて繊細な表現ですね。
やはり相手の中に、自分の個性をそっと映し出していくように感じます。


“なでしこ報道で露呈した“ニッポン”の未熟な女性観”

2011-07-29 02:21:21 | 日記

 日経ビジネスオンラインの記事です。

河合薫さんの連載コラム、新・リーダー術 上司と部下の力学 よりです。
「男性社会の自覚なきが女性を働きにくくする」という副題がついています。
大変興味深い内容です。
 
是非、ご一読下さい。
 
 
 
河合さんが、このコラムで書かれていることは、海外滞在をしている私が、一時帰国するときに痛感することでもあります。
 
『自覚なき刃』という表現、そのものずばりだと思います。
 
 
W杯で大活躍したなでしこジャパンに対する質問、
 
選手に対しては、
 「結婚したいですか?」
 「彼氏はいますか?」
 「将来、子供は欲しいですか?」
 
監督に対しては、
 「女性だけのチームをまとめるのって、大変でしょ?」
 「オヤジギャグは、女性の心をつかむため?」
 「全国の女性部下を持つ上司たちが、監督のノウハウを知りたがってるでしょ」
 
こうした質問は、海外ではもちろん、今や日本の職場でもさすがに少なくなって来ているのではないでしょうか。
しかし、日本のTVでは、こうした質問が、極めて普通に、そして頻繁に出て来ます。
これが、どんなにヘンテコなものなのかということは、男性に置き換えてみるとよくわかりますね。
もし、私が男だったら、「忙しくて恋愛とか、結婚とかできませんよね」とか、「敬遠しちゃって、結婚なんてできませんよね。ガッハッハ」などと、言われることはないはずだ。
その通りだと思います。
 日本のメディアのクオリティ、河合さんがご覧になった米国の番組からもよくわかります。
米国チーム、アビー・ワンバック選手とホープ・ソロ選手が出演した番組でのソロ選手の言葉、
 「試合後、彼女(宮間あや選手)はすぐに私のところにやって来てくれて、互いに労をねぎらったの。でも、彼女は喜びをあらわにしていなかった。なぜなら、彼女は私たちが負けてどれほど傷ついたか分かっていたから。だから、私は言ったわ。『もっと喜んで! あなたたちは素晴らしかったのよ!』ってね」
感動します。
   「日本の選手たちは、最後まであきらめなかった」、「日本の選手たちは、彼女たちのサッカーのスタイルを信じて、最後まで戦っていた。新しい女子サッカーの息吹を感じた」といった、日本を称賛するものも多く報じられていた。
 アメリカ代表の選手も、彼女たちのコメントを伝えるメディアも、なでしこジャパンのメンバーをねぎらい、感謝していた。海の向こうのメディアの方が、よほど「なでしこジャパン」に一流のアスリートとして敬意を払っていたのである。
“一流のアスリートとして敬意を払っている”、この言葉、大切ですね。
 
米国と日本のTVでこれだけ違いがあるということは、実は、『自覚なき刃』が、日本人男性の中に紛れもなく存在しているということなのだと思います。
「結婚は?」、「子供は?」、「彼氏は?」と、なでしこジャパンのメンバーに、容赦なく質問を浴びせたように、「仕事と家庭の両立は難しいでしょ」「子供が小さい時は、母親は一緒にいた方がいいよね」などと、あたかもそれが常識のごとく浴びせられる言葉。「やっぱり辞めた方がいいのかなぁ」と本人の気持ちを萎えさせるような、何気ない一言や態度。
親の考え、子供の時によく見たテレビや雑誌に描かれていたこと、周りの人がよく言っていたこと。そういったものが、自分でも気がつかないうちに、あたかも自分の考えのように刻まれていく。
恐らく日本社会の「女性」に対する価値観は、過渡期にあるのだとは思っている。でも、くだらない質問が公然と繰り広げられる事態を目の当たりにして、「本当に変わるのか?」と不安になってしまったのも、また事実。
いかなる価値観であっても、自覚さえされていれば、むやみに人を傷つけることはない。無自覚の価値観だから、ためらいのない無責任な言動となり、刃となるのだ。
その覚悟を、私たちは持つことができるのだろうか。
 
河合さんの、“「本当に変わるのか?」と不安になってしまったのも、また事実。という言葉、胸に響きます。
しかし、変わらなくては、日本の未来はないでしょう。
逆に変わることが出来れば、日本はこれから黄金時代を迎えると思います。
 
最後に書かれたエピソード、さもありなんのお話ですね。
以前、取材させていただいた会社のトップの方は、さんざんダイバーシティーだの何だのと語り、そこにいた部下に、「何でうちの会社には女性の役員がいないのかね。私は、女性を積極的に登用しなさいって、散々言ってきたつもりだけどね~」と語った。ところが、その後に一緒に乗ったエレベーターで信じられない一言を言い放った。
一緒に乗り合わせた女性社員が先に降りた時にこう言ったのだ。「あれはうちの社員か? 女は3歩下がってついてくる、って言葉を知らんのかね」と。
さて、女性役員が一向に増えない理由が分かりましたね。ウソのようなホントの話。これが今の日本の現実。自覚なき価値観、恐るべし。
 
自分の言葉や考えの中に 『自覚なき刃』を見つけること、それを自覚に変えていくこと、とても大切な一歩だと思います。