致知出版社(http://www.chichi.co.jp/monthly/201108_index.html)「人間力メルマガ」よりです。
────────────────────────────────────
「人生の師・土光敏夫氏から学んだこと」
矢野弘典(中日本高速道路顧問)
『致知』2011年7月号
連載「私の座右銘」より
────────────────────────────────────
私の人生を支えた信条の一つに、
「青草も燃える」
という言葉があります。
青草というのは夏に茂る草のことです。
冬の乾燥した草とは違って
水分をたっぷり含んでいるため簡単には燃えません。
しかし、その青草も火種が強ければ一挙に灰になります。
これは土光敏夫さんがご自宅の庭で畑づくりを続けながら、
実感として得られた言葉です。
つまり、自分の火種が強ければ
どんな困難をも克服することができる。
相手を変えようと思えば、
まず自分が変わらなければならないという意味です。
私は昭和三十八年に大学を出てすぐ東芝に入社し、
川崎にあるトランジスタ工場に配属されました。
当時東芝は経営難に陥っており、
その再建を任せられた土光さんが
社長に就任したのは昭和四十年のことです。
何万人もの社員を抱える
大企業の社長と二十四歳の駆け出し社員です。
普通なら接点のあるはずがないのに、
私は幸運にもお目にかかる機会を数多くいただきました。
土光さんは社長就任後すぐに現場視察を始められ、
私の居た工場にもお一人でやって来ました。
視察を終えた後、全従業員を集め、
「力を合わせて会社の業績をよくしよう。
皆さんは倍働いてください。私は十倍働きます」
と訥々と訴えられました。
驚いたことに、社員は目に涙を浮かべて
聞き入っているのです。
その多くは十代の女子社員です。
私はその時、単なる言葉そのものではなく
土光さんの全人格、オーラが
感動を与えているのだと感じました。
後に『正法眼蔵』を読み、
道元が如浄に会った時の文章
「まのあたり先師をみる、これ人にあふなり」
という記述に出合った時、
ああこれだと思ったものです。
私は真のリーダーたる姿にすっかり魅せられ、
どうしたらこんなふうになれるのだろうか、
ということが一生のテーマになりました。
そして、新聞や雑誌に載っている
土光さんの記事を貪るように読み始めました。
* *
それから八年後、私の人生を変える
大きな転機が訪れます。
東芝の子会社の朝日木工という会社が業績不振に陥り、
これを残すか潰すかが本社の大問題になっていました。
役職もない一担当者である私が
会社の行く末を決める案の作成を命ぜられ、
何日も徹夜して報告書を作成しました。
当然社長への説明は担当役員がやってくれるだろうと思い、
検討案を上司に渡して私は事を終えたつもりでいました。
ところが、報告当日になって急に担当役員に呼び出され、
私が直接説明するようにと言われたのです。
応接室に入ると大きな長机があって
奥に土光さんが座っており、
両側には片方に常務、部長、課長が、
その反対側には副社長三人が並んでいました。
私が一番手前、土光さんの向かいに座ると
土光さんはジーッと私の顔を見ました。
その眼差しは眼光炯々、恐怖ではなく
畏敬の念を感じさせる眼でした。
私が説明を始めると一転、腕組みをし
目を閉じ黙って聞いていました。
私が、この会社は残して再建すべきであると述べ、
再建策についての説明を終えると、
今度はバッと目を開けて深く頷き
「よし」と一言。
これで一諾決裁を得て、その後間もなく
私は社長付として出向を命ぜられたのです。
その時、土光さんから餞の言葉としていただいたのが、
この「青草も燃える」でした。
………………………………………………………………………(以上)
“「力を合わせて会社の業績をよくしよう。
皆さんは倍働いてください。私は十倍働きます」”
平易な言葉で、多くの社員が泣きました。
“単なる言葉そのものではなく
全人格、オーラで感動を与えること”が出来ること。
“畏敬の念を感じさせる眼”
“バッと目を開けて深く頷き
「よし」と一言。”
まるで、土光さんが眼前にいらっしゃるかのようです。
真のリーダーの姿に、感動します。
致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
致知出版社の「人間力メルマガ」
【2011/7/5】 致知出版社編集部 発行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
このメールマガジンでは、
人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
そのエッセンスの一部をご紹介しています。
* *
財界にこの人ありといわれ、
国鉄や電電公社の民営化のために
大ナタを振るった土光敏夫氏。
晩年、秘書として五年間側に仕えた
吉良節子さんが語った土光氏との
貴重なエピソードをご紹介いたします。
────────────────────────────────────
「土光敏夫氏の座右の銘」
吉良節子(土光敏夫氏元秘書)
『致知』2003年11月号
特集「仕事と人生」より
────────────────────────────────────
昭和六十一年、電電公社や国鉄の民営化を
やり遂げた臨調は解散。
その功績を認められ、土光さんは民間人では
初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章しました。
その後、次第にお体に無理が利かなくなり、
ご自宅で静養されるようになりました。
それでも社内には「土光さんの意見を聞こう」
という案件が多く、私は週に一度はご自宅まで伺っていました。
神奈川の鶴見にひっそりと佇む土光家。
「地味で質素」を絵に描いたようなその家は、
およそ東芝の社長や経団連の会長を
歴任された方のお宅とは思えません。
門を開けようとすると「ギーギー」と轟音が響き渡る。
廊下を歩いてもギシギシいって、
「女性の私が歩いて穴が開いたら恥ずかしいわ」と
いつも気を使いながら歩いていました。
冷暖房設備がないあの家に、
真夏にいらっしゃった方は、
「あの家は暑くてなぁ」とぼやいていらっしゃいました。
秘書側が家の修理を申し出ても「まだ使えます」、
クーラーの取り付けを申し出ても「いりません」の一点張り。
「営業の話に見えるお客様もいらっしゃいます。
冷暖房がないと営業上、困ります」
と申し上げると、
「会社が困るなら入れましょう」
と快諾したものの、応接間のみ取り付けを許し、
自分の部屋に取り付けることは拒みました。
受勲の際、土光さんは
「個人は質素に、国は豊かに」
とおっしゃいましたが、その人生は
まさに言葉通りだったと思います。
メザシが一番のごちそうで、着飾ることを嫌い、
背広も鞄も使い古したものを大切に使う。
ペン一本も、文字が擦れるまで使っても
「まだ使える、まだ書ける」と言って
捨てようとなさいませんでした。
私心なく、公私の別に厳しく、質素を好んだ土光さんが、
色紙を求められるといつも書いたのは
「日新 日日新」
という言葉でした。
出典は中国の古典『大学』で、
「きょうという一日は天地開闢以来
はじめて訪れた一日である。
それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。
その一日を有意義に暮らすためには、
その行いは昨日よりもきょう、
きょうよりも明日は新しくなるべきだ」
という意味があるそうです。
それについて、以前土光さんは
次のようにお話しされていました。
「一日の決算は一日にやる。失敗もあるであろう。
しかし、昨日を悔やむこともしないし、
明日を思い煩うこともしない。
新たにきょうという清浄無垢な日を迎える。
ぼくはこれを銘として、毎朝
『きょうを精いっぱい生きよう』と誓い、
全力を傾けて生きる」
この言葉に土光さんの人生が
詰まっているような気がします。
土光さんが亡くなられた後、
「日新 日日新」の文字を九谷焼の皿にしたい、
と熱望される方が現れ、ご協力した関係で
その一枚をいただきました。
長い間忘れていたのですが、母を亡くしたいま、
こうして出てきたのです。
母が亡くなったことに囚われすぎてはいけない。
過ぎ去りし過去を悔やまず、
これからやってくる新しい日々を生きていこう。
土光さんの字を拝見し、
そんな思いが湧きあがってきました。
清廉の人・土光敏夫さんの生き方は、
いまなお私を導いてくださるのです。
…………………………………………………………………… (以上)
“門を開けようとすると「ギーギー」と轟音が響き渡る”玄関。
“歩いてもギシギシいって、
「女性の私が歩いて穴が開いたら恥ずかしいわ」と
いつも気を使いながら歩いていた”廊下。
私には、この家をイメージする時、まばゆい光に包まれた家しかイメージ出来ません。
“修理を申し出ても「まだ使えます」、
クーラーの取り付けを申し出ても「いりません」の一点張り”
“「会社が困るなら入れましょう」
と快諾したものの、応接間のみ取り付けを許し、
自分の部屋に取り付けることは拒み”
“ペン一本も、文字が擦れるまで使っても
「まだ使える、まだ書ける」と言って
捨てようとなさりませんでした”
感動します。
それはナゼかと考えてみると、土光さんが“無私”ということを本当に日々実践された方だから。
感動します。
それはナゼかと考えてみると、
土光さんご自身にとって、“無私”こそが、本来の自然な姿だったから。
ご自分では、“無私の人”だとは思ってもいらっしゃらなかったのではないでしょうか。
感動します。
それはナゼかと考えてみると、
贅沢したくても、出来なくなるときが実際に来るのではないか、という予感があるから。
それはそんなに遠い時ではないのではないか・・・。
きっと、そんな時に、土光さんの生き方を思い出すのだろう・・・。
土光さんは、贅沢な暮らしが普通に出来る時に、この生き方を選んだのだと。