岩切天平の甍

親愛なる友へ

選挙

2007年07月21日 | Weblog

想田和弘の映画“選挙(CAMPAIGN)”の試写会へ。
川崎市議の補欠選挙に自民党公認候補として出馬した山内和彦氏のドキュメンタリー映画だ。
監督のブログ(http://documentary-campaign.blogspot.com/)にある自身の在外投票体験談が興味深い。
感想のメールを送った。

想田さん、
試写会に誘ってくれてありがとう。

映写の環境がよくなかったのはとても残念でしたが、それについてもいろいろ思いめぐらすきっかけにもなりました。
アスペクトのことをとても気にしてらしたけど、観客は、そんな事はまったく気にしないだろうとも思いました。(上映を)中断された事の方がつらかった。

僕は撮影を職業にしているので、そういった事がとても気になるのだけど、一般の観客はまた違うでしょう。映画の力と撮影の質といったことについても考えてしまいます。

何よりも印象深かったのは、おそらく僕がそれから逃げて来た、最も日本らしい日本をしばらくぶりに目の前につきつけられた思いがしたことです。
あの、民主主義を逆手に取るようなニッポン人の根深い性質に、暗澹たる無力感を感じずにはいられませんでした。
更に考えると、それは日本人のみに留まらず、人間に普遍的なさまであり、民主主義と言えばどこでも結局ああいったことになるのかもしれません。
そして、あの開票結果、男達の暗い表情と上映後に聞いた山内氏の後日談、そしてHPにある想田さんの在外投票の経験談に真の改革のきざしを期待しもします。
山内氏のその後が面白そうですね。
続編か、あるいは完結編にも期待して。

岩切天平

UAW

2007年07月20日 | Weblog

五時半起きで工場労働者のインタビュー。労使交渉の開始、双方の記者会見、記者のリポートとナレーション収録。十二時半、駐車場に呼んであった中継車からニューヨークの支局に衛星伝送して、ニューヨークで編集。さらに東京に伝送して夕方(日本の朝)のニュースで放送。

組合は無くては困るけど、強すぎても困る。
給料を上げて会社がつぶれても仕方が無い。
これは右翼と左翼の拮抗にも似ている。
どちらに偏りすぎても困る。
大きすぎる政府でも小さすぎる政府でも困る。
日本はそれを実にうまくやって来たと思うのだけど。
なんだかこの頃「民営化」ばやりで大丈夫かしら…。
どうして二つがいつも“敵”でなくてはいけないのだろう?

空港へ向かう途中で昨日キャンセルしたアナリストのインタビューを撮り、空港のバーで今し方放送されたニュースをラップトップで見ながら乾杯。と、そこまでは良かったが…滑走路へ向かう飛行機が…なんだか調子が悪いとかで引き返す。機内で二時間待った挙げ句、「このフライトはキャンセルになりました。今後の手続きは四十一番ゲートにて…。」と言ったとたんに観客全員猛ダッシュ…。
一時間で飛ぶところを五時間。
「飛んでりゃ今頃ロンドンだ。」

デトロイト・ロック・シティ

2007年07月19日 | Weblog

 全米自動車労働組合(UAW)とクライスラーの交渉開始を取材にデトロイトのクライスラー本社へ。

高校生の頃、米沢和幸のバンドでデトロイト・ロック・シティって曲をやったっけな。緑郎がドラムで俺はベースだった。ケンジもいたかなー?。
でーどでーどでーどでーど、でででででででっ、じゃっじゃーん…
なつかしいけど、何でデトロイトがロックシティだったんだろう。
歌詞を覚えてないなー、と言うより英語の意味が解らんかったな。
あれはダンスパーティーの仕事だったけどあの曲で踊れるわけないよなー。
演奏して初めてお金を貰った。五千円。思えばあれが間違いの元だったなー。

 デトロイトに降りる筈の飛行機が強風で降りられず、隣の州のクリーブランドに降りる。そこで天候の回復を待つこと数時間、やっと飛ぶ事になり、滑走路へ向かう。いざ離陸と言うときにアナウンス、「デトロイトの天候は回復しましたが、空港が込み過ぎて、飛来の許可が降りません。」ゲートへ引き返す。更に数時間。
一時間で飛ぶところを九時間かかった。
「飛んでりゃあ今頃ハワイだぜ!」

24時間戦えますか?

2007年07月18日 | Weblog

 ある大食品メーカーの米国への新製品の売り込みに同行取材。
未開拓の分野に切り込むのに不安は無いときっぱり言う。
「何にしても、とにかくやってみなきゃあ、始まりませんからねぇ。」
けだし名言。
長年かけた着実な準備。それを見守り、支える大企業の余裕。
その最先鋒を走る男達はりりしく、まぶしい。
それに高そうなスーツを着ている。関係ないか。
うーん、仕事とはこうありたいものだ。
このタイトル、古すぎ?

劇団情

2007年07月17日 | Weblog

 数年前、今は東京でシアター・コネクテッドを主催している坂牧正隆がまだニューヨークにいた頃、二人で劇団をやっていた事があった。
いや、二人でと言うのは間違い、数えきれないほどの友人達に助けてもらっていた。

 シアター・JYOU(情)。落語の、主に人情話を英語舞台用に脚色して、学校で子供達に見せて回っていた。大道具、小道具のほとんどを二人で作って、衣装用の着物を買い集めた。日本へ行って浅草で小物を漁った。
若旦那が身を投げる川を徹夜で大布に描いた夜もなつかしい。
三味線の小泉聖一朗に音楽を付けてもらい、それにあわせて太鼓や鼓、拍子木、つけ板を鳴らした。稽古場を借り、道具用の倉庫を借り、芝居当日はレンタカーを借りて、借金だらけになった。

“芝浜”や“唐茄子屋政談”を見てハーレムの子供達もまた笑うところで笑い、泣き場でしんみりとする。はっぴをはだけて見えをきる魚屋に拍手喝采、“子はかすがい”の酔いどれ親父にブーイングで抗議する。彼らが書いてくれた感想文は今も僕の宝ものだ。

 演劇を志す友人達が集まって芝居を作っては小さな劇場を借り、必死で縁故知人達に切符を買ってもらい、ほめてもらうという繰り返しを脱すべく始めた学校回り、演劇の素人だった僕は役者修行を走り続けていた坂牧に頼りながら手探りで「演劇って何だ?」と考え続けていた。ごく限られた人間にしか見られることのない芝居。社会的な影響力は圧倒的に低い…。
やっているうちにある時、「ああ、わかった。」と思うことが確かにあったけど、今また何だったのか思い出せない。書いとけば良かった。

実にさまざまな友人達が助けてくれて、思い出は尽きず、幸福感は絶えないのだけれど、結局劇団は三年くらいしか持たなかった。

 僕はそれ以前もその後も有名無名かなりの数の芝居を観ていた。
超有名キャストによるチェーホフも蜷川マクベスも見終わったあとにかつての僕らの役者達に「どうだった?」と訊かれて、「ああ、俺たちの芝居のほうが良かったよ。」と答える。そう言われて彼らは笑うのだけれど、
僕は本気で言っていたんだ。みすぼらしい貧乏劇団の素人演出家は、何も解らず世間知らずだっただけにただひたすら「心」を目指していた。それしか頼る基準がなかったからなんだけど。今振り返ってみると本当に良かったと思う。
きっと坂牧はわかっていたんだろう。「ライフワークにしたい。」と言ったことがあった。もう少し辛抱すれば良かったとすまなくも思う。

 あるときカーネギーホールでヨーヨー・マの“シルクロード・コンサート”を観ていて「ああ、これが芸術家としての対テロ戦争なんだな。」と思ったことがあった。そして僕たちの芝居を思い出した。いつかあの子供達が大人になってどこかの国に「ミサイルを打ち込もうや。」という話になった時、
「ちょっと待てよ、そういえば、いつかどこかの国のおかしなやつらがおかしな芝居をやってたっけな、ちょっと話してみようか。」と思ってくれたらどんなにいいだろう…
僕らは絶望的に違う人種なのかもしれないけど、やはり同じ様に笑い、泣くのだ。
芸術が共通語になればいいと思う。

またやりたいと常々思っているんだけど、時は飛ぶように過ぎ去って行き、誰もが齢をとる。あそこに戻ることはできないけど。もしやれるなら今度は多少確信を持って「心」を目指せるかもしれない。

平成中村座

2007年07月16日 | Weblog

 中村勘三郎率いる平成中村座がニューヨークにやって来た。
先日ドナウを聴いたリンカーンセンターで中村親子による連獅子を観る。
拍子木、鼓、能管、囃子方の完璧な間に観客が水を打ったように息を詰める。
歌舞伎はむろん素晴らしいもので、僕がどうこう言うことでもないけど、
この完璧な演出に翻弄される自分が今か今かと役者が出てくるのを待って、
ワァーっと出て来てバシンと見えを決めたとたんに興奮のあまりチビリそうになるのはどうも乗せられすぎと言うか、なんだかアブナいような気がする。
そういえば野球場で松どんが投げている時、盛り上がる観客の歓声に「おー、何だかすげー、どーしよー。」と興奮しちゃうのも何だかアブナいなぁ。
これって…

Les Paul

2007年07月15日 | Weblog

遅い朝食を食べていると猛獣の様な戦闘機の音が何度も通り過ぎた。

いやーな胸騒ぎがして(たいがい杞憂にすぎないのだけど)何かあったのかとテレビをつけてみると、PBSでギタリストのレス・ポールのドキュメンタリーをやっていた。彼は九十歳を過ぎた今でも毎週月曜日の夜、タイムズスクエアのクラブで演奏している。

ミリオンセラーを連発する若き日のレス・ポール、
ある日マイルスがやって来て聞いた。「どんなことをしてもいいからヒットが欲しいんだよ。教えてくれ、どうやったら売れるのか。」
「メロディーを吹くんだよ、マイルス。人々の為に演奏しなきゃいけないよ。」

ご飯も戦闘機も忘れて、最後まで見入ってしまった。
タイトルは“Les Paul-Chasing Sound”
DVDになっているらしい。

ダンとブライアン

2007年07月14日 | Weblog


 五月十九日頃にイリノイ州で取材した番組が先週放映された。

盲目のダン(向かって左)とブライアン。
舌を打ち鳴らし、その音が物に当たって反射してくるのを聞いて
そこに何があるのかを知り、あたかも目が見えるかのように生きる。
エコーロケーションと呼ばれる技能の指導員だ。
盲人協会の派遣でエコーロケーションを教え、世界中を旅している。

実際、バットマンというあだ名が示す通り、彼らはコウモリのように耳で見る。助手のブライアンはバスケットボールも上手いし、舌を鳴らしながら風景画さえ描いてみせる。横からダンが「やらしい絵を描くなよ。」とちゃかす。

今回は盲目の少年、十歳のコービン君に伝授すべく、小さな田舎町にやって来た。
なかなか心を開かない多感な少年に、粘り強く取り組む二人は朗らかで、よく喋る。「日本に行った事ある?」「まだ無いんだよ。日本語でフードの事を何て言うんだい?」「“たべもの”って言うんだよ。」「たべものか。おなかが空いたら『たべもの、たべもの』って言ってれば、フードが来るんだな、もう大丈夫。」ブライアンが「ビアーの事なんて言うの?」「ビールだよ」「じゃ、俺はビール、ビールって言おう。」 コービン君、にやにや笑って聞いている。

ブライアンは十五歳で盲目になった。笑顔がどんなものだったか覚えている。人が怒っているか笑っているか声で解る。白人、黒人、アジア人、アクセントはあるけど、区別するのは無意味。人にはただそれぞれの個性だけがあると言う。

Tシャツ一枚のブライアンにマイクロホンを着けるためにシャツの内側に手を突っ込む。
ブ:「イヒヒ、これが一日で一番の楽しみだ。」
僕:「俺もだよ。」
ブ:「お前が女の子だったらなぁ。」
僕:「俺もだよ。」
ブ: 爆笑。

マイクロホンの音量を調節していると、二人が映画の話をしているのが聞こえる。
「ちょっと待って、キミタチ映画に行くの?」
「行くよ。」「好きだよ。」当たり前のように答える。
「コップを置く音、風の音…いい映画はいい音だね。」
彼らは映画を聴きに行き、耳で見る。
音声マンのSの顔が浮かぶ。「おい、S、世の中にはこんなやつもいるぞ。」

ダンのインタビュー。
「物を見た事の無いあなたは、音を聴いて頭の中にどんなイメージを見ているのですか?」
「イメージと言うものは色々な要素があって、決して単純なものではないよね。見た目だけではない、経験全ての構成物、想像、思想… その中で、外見というのはそれほど大きな要素ではないんじゃないかな。たとえば、好きな人の事を思い浮かべてみてごらん。色々なイメージがある中から外見を外してみる。そこにどんなものが残る? 声、匂い、ぬくもり、やさしさ… 僕もやっぱり君と同じように見ているんだと思うよ。」

コービン君のお母さんは、
「訓練して、やりたい事は何でもやれて、行きたかったら大学へも行って、制限の無い自由な生き方をしてほしい。そしてブライアンやダンの様に人の役に立てるといいわね。」と微笑む。

取材を終えておいとまする頃には、コービン君は自転車を乗り回していた。

七月十二日

2007年07月13日 | Weblog

七月十二日は母の命日だった…らしい…。
故郷に住む姉と電話で話していて確認した。
「あれあれ。」とあきれ声。

母が他界したのは2000年の夏、梅雨のさなかだった。
危篤の連絡を受けて、駆けつけては持ち直し、駆けつけては持ち直し、
立て続けに鹿児島ーニューヨーク間を三往復した。
むろん「大変だった。」なんて思ってもいないけど。

日本に向かう機中で、東京でお茶屋を営む初老の御夫婦と並んで座った。
あれこれと世間話をしているうちに、尋ねてみた。
「親御さんがお亡くなりになった時の事、覚えていますか?」
旦那さんが 遠くを見るような目で、
「ええ、(少し間があって)父親の時はそうでもなかったんですけど、母が亡くなった時は… やさしかったですからねぇ…。」

 不義理の限りを尽くしてきた親不幸息子に、の人達のなつかしく、そしていくらか齢をとった顔々はにこにこと、地元の風習に則った葬儀を執り行ってくれた。父の死後、二十年も会っていなかった叔父たちの叱責はいたしかたなかろうと覚悟していた僕に、一人はいたわりの手を差し伸べ、一人は注がれた焼酎にも手をつけず、ただ悄然と、母(義妹)の遺影を見つめていた。

あれからみんなそれぞれの暮らしを生きてきたんだ。
誰も僕を叱ってくれない代わりに、取り戻す事の出来ない時の流れを見た。
おとしまえはそれぞれ自分でつけなさいと言う事だ。

 葬儀に続いて四十九日の法要も済ませ、火葬場へ。着火スイッチを押すのは父の時も母の時も長男の僕の役目だった。こんな息子でも親を焼くのは今更のように指が震える。

近所のおばちゃんに借りた軽トラを運転して、親父の眠る共同墓地の前を通りかかったとき、助手席に置いた骨壷に左手を置いて「母ちゃん、これでやっとまた父ちゃんと一緒になれるなぁ。」とつぶやいたら、初めて涙があふれ出た。

親孝行、したい時には親はなし。
さればとて、墓に布団も着せられず。

すべてが終わり、夜、姉の家の台所で麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、扉の卵入れにサランラップでぐるぐる巻きにされた奇妙な物がある。
「姉ちゃん、何これ?。」
「ん?、ああ、電池よ。長持ちするかと思って。」
「・・・・。」

Then, life goes on…