第一生命に一年半勤務した映画字幕翻訳家・戸田奈津子
「E・T」「タイタニック」等多数の洋画の字幕翻訳を担当した戸田奈津子。映画翻訳協会の会長を務めたこともあり、映画字幕翻訳の第一人者である。
戸田奈津子は一九三六年(昭和十一年)福岡県戸畑市に生まれた。現在の北九州市である。戸畑は銀行員だった父の勤務地。ところが、その父は日華事変で戦死する。戸田奈津子が、まだ生後一年数カ月の時のことだ。母は若くして戦争未亡人となり、一家は東京・世田谷に戻る。生計を立てていくため、母は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)に併設の「戦争未亡人のための教職コース」に通い、教師になるための資格を取ることになった。戦時中は愛媛県西条市に疎開する。ここは亡き父の故郷。西条市には、ただ一軒だけ映画館があり、そこに母とともに入ったのが最初の映画体験だった。
戦争が終わり、東京へ戻る。戸田奈津子は世田谷の自宅から、大塚にあるお茶の水女子大の附属小・中学校に通う。母は東京府立第八高等女学校(現都立八潮高校)で教鞭を執っていたが、その後会社勤めに職を変える。その母と新宿で待ち合わせては映画を見た。終戦後、堰を切ったように洋画が入ってきた。テレビはまだない時代、映画は第一級の娯楽だった。戸田奈津子は学校の帰りに母と新宿で待ち合わせて、洋画を見た。「キュリー婦人」「カーネギーホール」「石の花」…。当時のことを、戸田奈津子は自著『字幕の中に人生』(一九九四年・白水社)中で次のように回想する。
○
このころの映画体験には、闇市のにおいがつきまとっている。放出物資を売っていた屋台のアセチレン・ガスのにおい。おなかがすくので、映画館に買って入った鯨のベーコンや、ピーナッツのにおい。その貧しいにおいの向こうに、翻訳小説の活字でかろうじてイメージしていた外国の世界が、現実の映像となって夢のように広がった。
○
高校までお茶の水女子大附属に通い、大学は津田塾大英文科に進む。大学へは新宿に出て中央線に乗り換え、国分寺駅からもう一度西武鉄道に乗り換えなければならない。
戸田奈津子は、通学のため自宅を出ても、新宿や中央線沿線で途中下車して映画を見ることも多かった。その頃見たのが「ローマの休日」「エデンの東」といった作品。
英文科で学んだといっても、昭和三十年前後のこと。会話は重視されていなかった。会話のクラスは五十人。学生の一人ひとりが話すチャンスは極めて少ない。戸田奈津子の場合は、ラジオから流れるポップスの歌詞を聞き取り、ヒヤリングの練習をした。そんな努力が実り、大学時代にニューヨークから来たバレエ団の通訳をしたこともあった。こんな体験が将来につながって行く。
大学卒業後は映画字幕翻訳者になりたい。そんな考えから、この道の大家の清水俊二(一九〇六~一九八八、『映画字幕五十年』の著者)の事務所を訪ねたこともあった。しかし、
“就職”には結びつかなかった。友人たちは、どんどん進路を固めていく。そんな中、大学の教務課から「第一生命の社長秘書にならないか」という連絡が入る。第一生命の社長・矢野一郎(一八九九~一九九五)が、津田塾大の理事を務めていたことから話が来たのだ。仕事は英文の手紙などの整理。とりあえず、「映画字幕翻訳者志望」は棚上げして、一九五八年(昭和三十三年)第一生命に入社することにした。第一生命の本社建物は、戦後の一時期マッカーサー司令部が置かれていた重厚なビル。後に改装されたものの、お堀端に向かった正面玄関の部分は当時の面影のままであり、二十一世紀初頭の今日でも当時のイメージを残している。
社長室は、マッカーサー元帥が執務していた部屋であった。お堀を見下ろす副官のいた部屋が、英語文書を扱う秘書二名に与えられていた。それ以外に、役員のスケジュール管理をする一般の秘書がいる。社長が社を出るまで帰れない。このことが苦痛だった。また、うわっぱり型の制服を着せられるのが泣きたいほどいやだったという。今から思うと、幼稚園の制服に似ている。女子は補助作業。そんな旧時代の思想の表れかもしれない。
第一生命に勤務していた時代、清水俊二からスポット的に、ちょっとした仕事が舞い込むようになる。ただし、映画字幕には直接関係はなく、手紙の翻訳やタイプを打つといった仕事だった。
第一生命で仕事を続けることは、戸田奈津子にとって苦痛になってくる。一年半在籍して辞めてしまった。その後は、自分の食い扶持を稼ぐために翻訳や原稿を書くことにより収入を得た。そのうちに少しずつ、字幕に関連がある仕事に手を染めるようになってきた。初めての字幕作品は一九七〇年、そして字幕のプロとして認められたのが大学卒業後20年後に手掛けた「地獄の黙示録」だった。それまではいわば下積み時代。落ち込んだこともあった。何よりも映画が好きだったから、この長い期間を耐え抜くことができた。
現在、映画翻訳家協会に所属している会員数は二十名余。かつてと違って洋画の輸入本数は少なく、この世界で生計を立てていくのは極めて難しくなっている。
戸 田奈津子が手掛けた字幕は、映画の本数でいうと、ゆうに千本を超える。最近は、一年に四十本のペース。休みの期間を除くと、ほぼ一週間に一本の字幕を仕上げる計算になる。
一般に字幕製作に当たっては、映画は三回しか見ることができない。
一 最初の試写で台本と照らし合わせながら見る。
二 字幕の原稿チェック。
三 字幕を入れた後、画面と字幕があっているかをチェック。
字幕翻訳というのは、一般の翻訳とは違った難しさがある。映画の画面は次々と展開する。次の画面に移る前に、短い字数で「練られたセリフ」を提示しなければならない。正しい日本語で、読みやすく、短く、そして意味を端的に表す。このようなさまざまな制約の下での翻訳なのだ。一連の作業が終わると、まるで「ジグソーパズルが完成する時に似た喜び」があると、戸田奈津子は述懐している(『映画字幕翻訳家戸田奈津子』、アーバンライフ・メトロ、二〇〇三年六月)。
六十歳を過ぎてからスポーツジムに通い始めたという戸田奈津子。「健康管理はきちっとしているわよ。マシンの上を歩いたり、体操したり。足腰が弱ったら大変だから」と大きく笑う(『映画と歩んだ人生』、定年時代、二〇〇三年六月)。自分一人だけが頼り。そんなプロの道は厳しい。同じ世代のかつてのビジネスマンやOL(一九六〇年代まではBGとよばれていた)のほとんどは、定年を過ぎ第二の人生に入っている。そんな中、戸田奈津子は、現役の字幕翻訳者として多忙な毎日を送っている。
「E・T」「タイタニック」等多数の洋画の字幕翻訳を担当した戸田奈津子。映画翻訳協会の会長を務めたこともあり、映画字幕翻訳の第一人者である。
戸田奈津子は一九三六年(昭和十一年)福岡県戸畑市に生まれた。現在の北九州市である。戸畑は銀行員だった父の勤務地。ところが、その父は日華事変で戦死する。戸田奈津子が、まだ生後一年数カ月の時のことだ。母は若くして戦争未亡人となり、一家は東京・世田谷に戻る。生計を立てていくため、母は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)に併設の「戦争未亡人のための教職コース」に通い、教師になるための資格を取ることになった。戦時中は愛媛県西条市に疎開する。ここは亡き父の故郷。西条市には、ただ一軒だけ映画館があり、そこに母とともに入ったのが最初の映画体験だった。
戦争が終わり、東京へ戻る。戸田奈津子は世田谷の自宅から、大塚にあるお茶の水女子大の附属小・中学校に通う。母は東京府立第八高等女学校(現都立八潮高校)で教鞭を執っていたが、その後会社勤めに職を変える。その母と新宿で待ち合わせては映画を見た。終戦後、堰を切ったように洋画が入ってきた。テレビはまだない時代、映画は第一級の娯楽だった。戸田奈津子は学校の帰りに母と新宿で待ち合わせて、洋画を見た。「キュリー婦人」「カーネギーホール」「石の花」…。当時のことを、戸田奈津子は自著『字幕の中に人生』(一九九四年・白水社)中で次のように回想する。
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このころの映画体験には、闇市のにおいがつきまとっている。放出物資を売っていた屋台のアセチレン・ガスのにおい。おなかがすくので、映画館に買って入った鯨のベーコンや、ピーナッツのにおい。その貧しいにおいの向こうに、翻訳小説の活字でかろうじてイメージしていた外国の世界が、現実の映像となって夢のように広がった。
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高校までお茶の水女子大附属に通い、大学は津田塾大英文科に進む。大学へは新宿に出て中央線に乗り換え、国分寺駅からもう一度西武鉄道に乗り換えなければならない。
戸田奈津子は、通学のため自宅を出ても、新宿や中央線沿線で途中下車して映画を見ることも多かった。その頃見たのが「ローマの休日」「エデンの東」といった作品。
英文科で学んだといっても、昭和三十年前後のこと。会話は重視されていなかった。会話のクラスは五十人。学生の一人ひとりが話すチャンスは極めて少ない。戸田奈津子の場合は、ラジオから流れるポップスの歌詞を聞き取り、ヒヤリングの練習をした。そんな努力が実り、大学時代にニューヨークから来たバレエ団の通訳をしたこともあった。こんな体験が将来につながって行く。
大学卒業後は映画字幕翻訳者になりたい。そんな考えから、この道の大家の清水俊二(一九〇六~一九八八、『映画字幕五十年』の著者)の事務所を訪ねたこともあった。しかし、
“就職”には結びつかなかった。友人たちは、どんどん進路を固めていく。そんな中、大学の教務課から「第一生命の社長秘書にならないか」という連絡が入る。第一生命の社長・矢野一郎(一八九九~一九九五)が、津田塾大の理事を務めていたことから話が来たのだ。仕事は英文の手紙などの整理。とりあえず、「映画字幕翻訳者志望」は棚上げして、一九五八年(昭和三十三年)第一生命に入社することにした。第一生命の本社建物は、戦後の一時期マッカーサー司令部が置かれていた重厚なビル。後に改装されたものの、お堀端に向かった正面玄関の部分は当時の面影のままであり、二十一世紀初頭の今日でも当時のイメージを残している。
社長室は、マッカーサー元帥が執務していた部屋であった。お堀を見下ろす副官のいた部屋が、英語文書を扱う秘書二名に与えられていた。それ以外に、役員のスケジュール管理をする一般の秘書がいる。社長が社を出るまで帰れない。このことが苦痛だった。また、うわっぱり型の制服を着せられるのが泣きたいほどいやだったという。今から思うと、幼稚園の制服に似ている。女子は補助作業。そんな旧時代の思想の表れかもしれない。
第一生命に勤務していた時代、清水俊二からスポット的に、ちょっとした仕事が舞い込むようになる。ただし、映画字幕には直接関係はなく、手紙の翻訳やタイプを打つといった仕事だった。
第一生命で仕事を続けることは、戸田奈津子にとって苦痛になってくる。一年半在籍して辞めてしまった。その後は、自分の食い扶持を稼ぐために翻訳や原稿を書くことにより収入を得た。そのうちに少しずつ、字幕に関連がある仕事に手を染めるようになってきた。初めての字幕作品は一九七〇年、そして字幕のプロとして認められたのが大学卒業後20年後に手掛けた「地獄の黙示録」だった。それまではいわば下積み時代。落ち込んだこともあった。何よりも映画が好きだったから、この長い期間を耐え抜くことができた。
現在、映画翻訳家協会に所属している会員数は二十名余。かつてと違って洋画の輸入本数は少なく、この世界で生計を立てていくのは極めて難しくなっている。
戸 田奈津子が手掛けた字幕は、映画の本数でいうと、ゆうに千本を超える。最近は、一年に四十本のペース。休みの期間を除くと、ほぼ一週間に一本の字幕を仕上げる計算になる。
一般に字幕製作に当たっては、映画は三回しか見ることができない。
一 最初の試写で台本と照らし合わせながら見る。
二 字幕の原稿チェック。
三 字幕を入れた後、画面と字幕があっているかをチェック。
字幕翻訳というのは、一般の翻訳とは違った難しさがある。映画の画面は次々と展開する。次の画面に移る前に、短い字数で「練られたセリフ」を提示しなければならない。正しい日本語で、読みやすく、短く、そして意味を端的に表す。このようなさまざまな制約の下での翻訳なのだ。一連の作業が終わると、まるで「ジグソーパズルが完成する時に似た喜び」があると、戸田奈津子は述懐している(『映画字幕翻訳家戸田奈津子』、アーバンライフ・メトロ、二〇〇三年六月)。
六十歳を過ぎてからスポーツジムに通い始めたという戸田奈津子。「健康管理はきちっとしているわよ。マシンの上を歩いたり、体操したり。足腰が弱ったら大変だから」と大きく笑う(『映画と歩んだ人生』、定年時代、二〇〇三年六月)。自分一人だけが頼り。そんなプロの道は厳しい。同じ世代のかつてのビジネスマンやOL(一九六〇年代まではBGとよばれていた)のほとんどは、定年を過ぎ第二の人生に入っている。そんな中、戸田奈津子は、現役の字幕翻訳者として多忙な毎日を送っている。