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三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

2006-02-21 06:54:12 | Weblog
三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

秋田県の北東部鹿角市にある観光施設「マインランド尾去沢(おさりざわ)」は、鉱山の跡地。尾去沢鉱山では、古くは金銀、続いて銅の採掘が行われていた。奈良東大寺の大仏、平泉金色堂に使用された金は、尾去沢鉱山から採掘されたものとされている。また、尾去沢鉱山の歴史をさかのぼると、和銅年間(708~715)にたどり着くという。江戸時代には盛岡藩南部氏の最大の銅山であった。このような長い歴史を誇った尾去沢鉱山は、紆余曲折の末、1887年(明治20年)以降は三菱の経営となった。1978年、鉱量の枯渇から閉山した。1981年から市の手で産業遺跡を保存する観光開発が進められ、現在は「マインランド尾去沢」として観光施設化されている。

1936年(昭和11年)11月20日午前三時頃、秋田県鹿角郡尾去沢町の三菱鉱業株式会社尾去沢鉱山中ノ沢精錬所にある硫化泥沈澱貯水池の堤防(高さ40尺)が、数日来の降雨による増水のため決壊した。泥流は怒涛のごとく下流に流れ、中ノ沢、笹小屋、瓜畑、新堀等付近の集落が泥流に埋没した。泥流に流された建物の多くは鉱夫の長屋住宅。劇場、駐在所や農家も流された。死者、行方不明者計362人を出す大惨事となった。
朝日新聞は、事故当日に「号外」を出した。「尾去沢鉱山の堤防決潰」「奔逸する泥流の怒涛」「死傷一千余名を出す」「凄惨・点々死体流る」といった事故の惨状を伝える見出しが号外に並ぶ。この「号外」には、もうひとつ別のニュース(パリー東京間スピード競争機の佐賀県での墜落事故)も掲載されている。事故の状況は直ちに監督官庁である商工省に報告され、技官が現地に向かった。この年の前々年のこと、同様の事故が住友の吉野鉱山でも発生している。その際、商工省は尾去沢鉱山に対しても警告調査を命じた。当時は「かかる危険なし」との回答であったことが、翌11月21日の東京朝日新聞が報道している。この惨事については、1976年に三菱鉱業セメント株式会社(注)が発行した『三菱鉱業社史』に記載があった。すなわち、同書389ページから393ページにわたり「尾去沢鉱山の変災」として事故発生から復興までについての顛末が記録されている。これによると、死者362人(うち行方不明11人)、被害戸数は293戸となっている。死者の内訳も明示されており、鉱山職員8人、鉱山従業員36人、鉱山職員・鉱山従業員の家族226人、町民92人であった。また、被害戸数の内訳は鉱山社宅159戸、私宅128戸、公共建物6戸とある。会社は、犠牲者の霊を慰めるため尾去沢円通寺に観音堂を建立する。開眼落慶式は、変災1周年法要当日の1937年(昭和12年)11月20日にとりおこなわれた。
(注)三菱鉱業セメント株式会社は、1973年に三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメント3社が合併して設立。更に、1990年になって三菱金属と合併し、三菱マテリアルとなる。