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グルメ本に見る一九六〇年代のソバ、うどん ー神戸を中心にー

2006-02-21 07:01:46 | Weblog
グルメ本に見る一九六〇年代のソバ、うどん ー神戸を中心にー

私の本棚には、次のグルメ本が並ぶ。何れも年月を経たもので実用には供し得ない。しかし、歴史的文献としては価値がある。例えば、(3)には、学生時代通ったカレーの「ベンガル」(神戸市灘区)が掲載されている。ところが、(3)の改訂版の(5)には「ベンガル」は出ていない。一九六七年の集中豪雨の被害で廃業したらしい。(3)にはベンガルの店内の写真が出ている。当時を知る私にとっては貴重な写真だ。
(1)創元社編集部編『関西味覚地図 京都 大阪 神戸』一九六〇年、創元社
(2)毎日新聞神戸支局編『神戸うまいもん』一九六〇年、神戸近代社
(3)創元社編集部編『神戸味覚地図』一九六三年、創元社
(4)読売新聞社編『ふるさとの店』一九六七年、読売新聞社
(5)創元社編集部編『神戸味覚地図』一九七〇年、創元社
 (1)は、京阪神三都市が対象。京都では「尾張屋」(中京区、創業は寛政年間)の蕎麦、大阪では「美々卯」(東区横堀)のうどんを紹介する。「美々卯」のうどんすき(450円)は、戦後の大阪名物として広まったとある。神戸では、きしめんの「蔵」(三宮)、ソバの「松涛庵」(福原)が登場。「蔵」では、“百円札一枚ポケットにしのばせただけで入れる”とコメント。百円硬貨と板垣退助の百円札が流通していた時代だ。東京から来たソバ好きの友人を「松涛庵」に連れて行ったところ、好評でザル三杯をおかわりしたと筆者(木村栄次)はベタホメ。(2)は、洒落た本。表紙を川西英の版画が飾る。この本でも「蔵」、「松涛庵」が登場。また、トア・ロード、パウリスタ裏の信州ソバの店「しなの」の“てんぷらソバ150円”が特にお勧めの由。(3)ではソバの「正家(まさや)」(生田区北長狭)、「志奈乃」(三宮)、うどんとソバの店「つるてん」(元町)が登場。「志奈乃」は、地図を見ると(2)で登場の「しなの」と同じ。「つるてん」は、てんぷらが自慢。(4)は、北海道から沖縄(当時は返還前)迄、全国のグルメ情報を満載。例外はあるが、各県に原則五ページが割り当てられ、それぞれ執筆者が異なる。京都の紹介者は臼井喜之助。「尾張屋」とともにソバの「大黒屋」(木屋町)を紹介する。歌人吉井勇は「大黒屋」がひいきだった。大阪の執筆は、作家藤本義一。黒門のうどんの香りにノスタルジーを感じると記す。兵庫県は古林喜樂元神戸大学長が担当。ソバ、うどんの店の紹介は無い。たこ焼きの「蛸の壷」が写真入で紹介されており、目を惹く。(5)は、(3)の新版。(3)に登場の「正家」、「つるてん」が再登場。ただし、「つるてん」は、「つるてん正楽」と店名が変わっていた。



三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

2006-02-21 06:54:12 | Weblog
三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

秋田県の北東部鹿角市にある観光施設「マインランド尾去沢(おさりざわ)」は、鉱山の跡地。尾去沢鉱山では、古くは金銀、続いて銅の採掘が行われていた。奈良東大寺の大仏、平泉金色堂に使用された金は、尾去沢鉱山から採掘されたものとされている。また、尾去沢鉱山の歴史をさかのぼると、和銅年間(708~715)にたどり着くという。江戸時代には盛岡藩南部氏の最大の銅山であった。このような長い歴史を誇った尾去沢鉱山は、紆余曲折の末、1887年(明治20年)以降は三菱の経営となった。1978年、鉱量の枯渇から閉山した。1981年から市の手で産業遺跡を保存する観光開発が進められ、現在は「マインランド尾去沢」として観光施設化されている。

1936年(昭和11年)11月20日午前三時頃、秋田県鹿角郡尾去沢町の三菱鉱業株式会社尾去沢鉱山中ノ沢精錬所にある硫化泥沈澱貯水池の堤防(高さ40尺)が、数日来の降雨による増水のため決壊した。泥流は怒涛のごとく下流に流れ、中ノ沢、笹小屋、瓜畑、新堀等付近の集落が泥流に埋没した。泥流に流された建物の多くは鉱夫の長屋住宅。劇場、駐在所や農家も流された。死者、行方不明者計362人を出す大惨事となった。
朝日新聞は、事故当日に「号外」を出した。「尾去沢鉱山の堤防決潰」「奔逸する泥流の怒涛」「死傷一千余名を出す」「凄惨・点々死体流る」といった事故の惨状を伝える見出しが号外に並ぶ。この「号外」には、もうひとつ別のニュース(パリー東京間スピード競争機の佐賀県での墜落事故)も掲載されている。事故の状況は直ちに監督官庁である商工省に報告され、技官が現地に向かった。この年の前々年のこと、同様の事故が住友の吉野鉱山でも発生している。その際、商工省は尾去沢鉱山に対しても警告調査を命じた。当時は「かかる危険なし」との回答であったことが、翌11月21日の東京朝日新聞が報道している。この惨事については、1976年に三菱鉱業セメント株式会社(注)が発行した『三菱鉱業社史』に記載があった。すなわち、同書389ページから393ページにわたり「尾去沢鉱山の変災」として事故発生から復興までについての顛末が記録されている。これによると、死者362人(うち行方不明11人)、被害戸数は293戸となっている。死者の内訳も明示されており、鉱山職員8人、鉱山従業員36人、鉱山職員・鉱山従業員の家族226人、町民92人であった。また、被害戸数の内訳は鉱山社宅159戸、私宅128戸、公共建物6戸とある。会社は、犠牲者の霊を慰めるため尾去沢円通寺に観音堂を建立する。開眼落慶式は、変災1周年法要当日の1937年(昭和12年)11月20日にとりおこなわれた。
(注)三菱鉱業セメント株式会社は、1973年に三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメント3社が合併して設立。更に、1990年になって三菱金属と合併し、三菱マテリアルとなる。