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五十歳で三井物産を退職、本職の作家になった高任和夫

2006-02-12 08:12:36 | Weblog
五十歳で三井物産を退職、本職の作家になった高任和夫

高任和夫(たかとう・かずお)は一九四六年宮城県の生まれ。高校時代、「法律をやったほうが、あとあとつぶしがきくぞ」という友達のことばもあり、東北大学法学部に進む。後年、そのことを「安易なのである」と本人は述懐している(『依願退職 愉しい自立のすすめ』二〇〇二年・講談社文庫)。一九六九年に東北大学法学部を卒業、大学の学生課で勧められ、商社が何をする会社かを知らずに三井物産に職を得た。当時は、現在と違い就職戦線は売り手市場。その時代を彷彿とさせるエピソードがある。高任和夫は『四十代は男の峠』(一九八九年・講談社)の中で、自動車メーカーのスカウトから特上の鰻をご馳走になったことを回顧している。食後、そのスカウトが鰻屋で領収書をもらうのを目撃し、会社における「接待費」というものの存在を知った(一二二ページ)。ところが、鰻をご馳走になった自動車メーカーは、試験日の都合か何かの理由で受験はしなかった由。

三井物産広報室編『物産マン 地球まるごとレポート』(一九八五年・オーエス出版)という本がある。総合商社三井物産は世界各地に一五九の支店がある。そのうちの約八十店から集めた「世界の素顔」が寄せられている。例えば、上海のページには「共通語は北京語だが、子供をしかるときは上海語」、フランスのページには「ワインの国だけに“飲酒運転”は黙認」といった項目が並ぶ。高任和夫が三井物産で携わったのは、この本に出てくるようなグローバルに活躍する総合商社のイメージとは全く異なる職種。取引先企業の与信審査が仕事だ。法律の素養はもちろん財務・簿記などの知識を必要とする専門職である。目立たないが商社にとって重要なポジションにある。高任和夫は、入社四年後に広島に転勤になった頃から、俄然仕事が面白くなっていく。取引先が倒産しそうだ。日帰りで出張、延々と続く会議・・・・。そんな毎日。どんどん仕事に没入していった。

仕事熱心だった高任和夫。しかし、五十歳で三井物産を退職して本職の作家になる。その契機は前出『依願退職』に出てくる。最初の小説は一九八五年に刊行した『商社審査部25時』(商事法務研究会)。もともとは雑誌「NBL」に連載されたものだった。法律専門雑誌「NBL」の編集長から「商社の与信管理手法について、ウチの雑誌に連載しないか」という依頼が来る。それに応えて出来たのがこの作品。経済小説の形式をとって掲載した。この作品を連載した一年半は苦しみの連続だった。会社では通常の仕事をこなしながら、土日曜日中心に小説を書く。徹夜して気がつくと夜が白々と明ける。そんな経験を何度もした。それでも小説を書き続けられた理由。それは、上司とのソリが悪かったからだ。「サラリーマンが上司に恵まれるのは、一生をつうじて二割か三割だろう」と高任和夫は語る。当時の上司は債券管理などという泥臭い仕事を嫌った。派手で大向こう受けする成果を部下に求める。そんな人物だった。そんな中、高任和夫は地道に債券管理に苦闘する男たちの物語を書いていた。二冊目の本は四十二歳のときに出したエッセイ集『四十代は男の峠』(講談社)。小説を書く苦しみに懲りて、新聞に八〇〇字の字のエッセイを週一回連載したのだった。次に引用するのが、同書第二章「四十歳の峠」の中の「研修」という作品の一部。『四十代は男の峠』の徳間文庫(一九九三年)の「解説」で、江波戸哲也も引用している印象的な部分だ。
                     ○
入社したてのころ、那須高原で合宿研修があった。このとき、新入社員が初めて一堂に会した。
――しまった。間違った。
と、思った。
私はそれまで東北のほかに世間を知らない。ところが、同期入社の男たちは圧倒的に東京の私大が多いのだ。
(中略)
いかにも都会的な男たちを横目で眺めながら、間違ったと思うと同時に、連中、ちょっと軽薄そうで嫌だな、とも感じた。
                      ○
一九九六年、五〇歳を機に会社を辞める。その直後に書いたのが『転職』(一九九八年・講談社)。この本はタイトルを変え『依願解雇』として二〇〇二年に講談社文庫の一冊として出版された。最近、講談社文庫の新刊として発行されたのが『告発倒産』。百貨店を舞台にした総会屋への利益供与事件を扱う。身に覚えのない利益供与の疑いで逮捕された総務部長の倉橋信彦(四十七歳)。身の潔白を訴えても信じてもらえない。「会社も弁護士も変だ」と思っていたが、会社ぐるみの犯罪だったものが、個人の犯罪にと決め付けられていく。会社は、成瀬を突き放したまま。成瀬の罪に対しては、懲役六ヶ月、執行猶予二年の判決が出る。『告発倒産』を読み進んでいくと物語はサスペンスに変じていく。最初の作品『商社審査部25時』の印象が強く残っており、『告発倒産』のサスペンス調が意外に思えた。高任和夫はいつの間にか作品の分野の幅を広げてしまっている。

私が初めて高任和夫に会ったのは一九八七年六月十九日。辛口評論家として知られる佐高信が主宰する勉強会「財界研究会」でのことだ。その日のスピーカーは漫画家の杉浦日向子だった。高任和夫が『商社審査部25時』を出版した翌々年に当たる。場所は、私の勤務先から歩いて五分もかからない神田の新東京ホテル(今はない)の会議室。財界研究会も終わりを告げ、最近は高任和夫と会うことが殆どなくなった。本稿を書くにあたって『四十代は男の峠』を初めて読んだ。面白かった。この本が出た当時、私と高任和夫とは財界研究会の月例会(最終回は一九九二年六月十九日)で何度も会っていたはずだ。ところが、『四十代は男の峠』を読んでいなかった私は、この本をネタにすれば(どちらかというと無口で愛想がない)高任和夫と会話を発展させていけたのに。今になってそう思う。財界研究会では、時々思い出したように「同窓会」のごときものを開く。次回、高任和夫に出会ったときには『四十代は男の峠』をサカナに大いに語り合いたい。

ノンフィクション作家沖藤典子、大学卒業後十五年間日本リサーチセンターに勤務

2006-02-12 08:10:09 | Weblog
ノンフィクション作家沖藤典子、大学卒業後十五年間日本リサーチセンターに勤務

近所の図書館で本を探しているときに、当初の目的とは全く関係のない本を発見し、思わず読みはじめ、そして借り出してしまう。そんな経験がときどきある。先ごろ、『女五十代 第二の人生が始まる』(一九九五年、海竜社)というタイトルの本の背表紙が、チラリと目に付いた。著者は沖藤典子。何気なく手にとって目次をながめていると、「妻へのすりより?それでも嬉しい夫の変化」という活字群が飛び込んでくる。会社員生活三十八年を経て定年退職した身の私にとって、気になることが書いてありそうだ。そんなことを考えながら読み進んでいく。この小文の概要は次のようなものである。すなわち、多くの“夫族”は定年近くなると、妻への“すりより”を始める。これは、ともすると「濡れ落ち葉」といわれている現象にもなりかねない。ところが、総務庁が実施したアンケート調査(「年をとった時に大切なものは何ですか」)の結果によると、妻の方は三十歳代においては「良好な夫婦関係」を重視する傾向にあるが、年齢が上がるにつれてこの数字は低下していく。一方、夫のほうは「定年後は夫婦でゆっくり旅行をしたい」と考える。ところが、妻の考え方は違う。「旅行には行きたいが、夫と一緒にいくのはごめんこうむりたい。行くのなら友達と」といったもの。このような話題はよく耳にする。夫と妻とは、考え方が逆転してしまっているのだ。そこで夫は大いにショックを受ける。その結果、“会社人間”として家庭を殆ど顧みることなく働き続けた永い過去を反省する。このような方向に行けばよい。しかし、夫のほうが「これまで何年食わせてきてやったのだ!」などと怒りの言葉を妻に投げつけてしまうと、取り返しがつかない。泥沼状態に陥ってしまう。挙句の果て、「定年離婚」という生涯最大のイベント(?)を迎えてしまうことになるかもしれない。気をつけよう。沖藤典子の小文は、そんなことを考えさせてくれる貴重な資料でもある。

さて、この『女五十代 第二の人生が始まる』を書いた沖藤典子(おきふじ・のりこ)には、『女が職場を去る日』(一九七九年、新潮社)に始まる多数の著作がある。沖藤典子は一九三八年、北海道室蘭市に生まれた。一九六一年(昭和三十六年)北海道大学文学部哲学科実験心理学教室を卒業した。同年、上京して日本リサーチセンターに入社した。この日本リサーチセンターと言う会社、どこかで聞いたことがある社名だ。そう思って調べてみると、本誌二〇〇二年十月に掲載の「上坂冬子の“サラリーガール”脱出記」で紹介したように、上坂冬子がトヨタ自動車工業を辞めた後勤務していた会社である。ところで、沖藤典子は大学在学中に結婚していた。しかも、長女を出産してから卒業し就職したのだった。新生活を東京でスタートさせるにあたり長女晶子は北海道の両親に預けて上京せざるをえない。この期間は約二年つづく。ちなみに、この長女については後年『ジェット娘が結婚するとき』(一九八九年、主婦と生活社)という作品が生まれている。沖藤典子は日本リサーチセンターに十五年間勤務した。辞める直前は、調査部第二企画調査室長のポスト。この世代の女性としては、活躍の場が与えられた稀有の職場だったといえよう。当時の仕事振りについては『女が職場を去る日』の中で活写されている。主婦業を続けながら気合を入れて仕事をこなしていく。対外折衝、部下の指導、新企画の立案・・・。そんな毎日であったが、一九七六年に、十五年間勤務した日本リサーチ社を辞めざるを得なかった。当時の沖藤家には実父が同居していた。沖藤典子の母が亡くなった後、父は北海道を引き払い相模原にある沖藤典子一家と同居していたのだった。その父親が癌にかかり、介護の負担がずっしりとかかってくる。長女は中学三年で高校進学を控えた年、一時は「高校へ進学しないで就職する」と言い出し両親を困惑させる。父に見てもらっていた次女はまだ小学生で、何かと手がかかる。そして、建設会社に勤務する夫は札幌に転勤しており、単身赴任していて家にはいない。しかも、夫は家を買って北海道に住もうと言い出す。これら事情が複雑にからまり家庭生活が破壊寸前となり、沖藤典子は不本意ながら退職せざるをえなかった。そして、沖藤一家は、北海道に転居する。さいわい、長女は札幌の道立高校に合格した。しかし、永年勤め地位も得た職場を退職する無念さ。これらの体験を踏まえて出来上がったのが、最初の作品『女が職場を去る日』である。この本が刊行されるとちょうど同じ時期。一九七九年三月号の新潮社のPR誌「波」で、澤地久枝、木元教子の対談「女が職場を去る日」を六ページにわたり掲載している。その中の澤地久枝は「この本は、言ってみれば仕事を持った女の、なりふりかまわぬ呻き声みたいなものよね。よくお出しになったなあって感じた」と発言していたのが印象に残った。短い発言ながら『女が職場を去る日』という本のありようを簡明に表現している。
         
『女が職場を去る日』は、一九八五年に新潮文庫に入り、更に一九九五年には現代教養文庫の一冊として刊行され読み継がれていく。『女が職場を去る日』で世に出た沖藤典子は、『女は四十歳からもう一度生きる』、『女は仕事を通して賢く美しくなる』、『銀の園、ちちははの群像』等次々と著作を出しノンフィクション作家としての地位を固めていく。これらの作品の中でユニークなのが『銀の園、ちちははの群像』。特別養護老人ホームでの寮母体験記である。の著作の沖藤典子テーマは「女性と労働」「家族」「高齢者の介護問題」「子供の教育」「末期がんの患者」等々。何れも『女が職場を去る日』で追い求めていた事項である。これらは、二十一世紀初頭の今日極めて重要かつ先端的なテーマである。最近たまたま目にした二〇〇四年二月七日付読売新聞に、「いまこそ夫婦維新、大量定年時代がやってくる」というフォーラムの記事が出ており、そこに沖藤典子の写真がでていた。このフォーラムは同年一月二十四日千葉県市原市でかいされたもの。パネリストとして慶大教授清家篤(著書に『生涯現役社会の条件』)、フリーライター西田小夜子(著書に小説『定年漂流』)、作家藤原智美(著書に『家族を“する”家』)が参加している。二〇〇六年頃から団塊の世代が定年を迎える。大量定年の時代だ。年金、定年延長、夫婦のあり方等様々な問題が取り上げられている。このフォーラムで沖藤典子の役割は司会者。定年後の家庭における夫と妻のありかた、夫が家庭で妻の負担にならないためには具体的にはどうすれば良いか、定年後地域や家庭に溶け込めないような社員を造ってしまった企業は今後変わっていくのであろうか等々貴重な問題提起を行っていた。一九七九年に最初の本『女が職場を去る日』を世に送り出して以来、沖藤典子は一貫して同じテーマを追い求め、深めていっている。



第一生命に一年半勤務した映画字幕翻訳家・戸田奈津子

2006-02-05 10:41:53 | Weblog
第一生命に一年半勤務した映画字幕翻訳家・戸田奈津子

 「E・T」「タイタニック」等多数の洋画の字幕翻訳を担当した戸田奈津子。映画翻訳協会の会長を務めたこともあり、映画字幕翻訳の第一人者である。
 戸田奈津子は一九三六年(昭和十一年)福岡県戸畑市に生まれた。現在の北九州市である。戸畑は銀行員だった父の勤務地。ところが、その父は日華事変で戦死する。戸田奈津子が、まだ生後一年数カ月の時のことだ。母は若くして戦争未亡人となり、一家は東京・世田谷に戻る。生計を立てていくため、母は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)に併設の「戦争未亡人のための教職コース」に通い、教師になるための資格を取ることになった。戦時中は愛媛県西条市に疎開する。ここは亡き父の故郷。西条市には、ただ一軒だけ映画館があり、そこに母とともに入ったのが最初の映画体験だった。
 戦争が終わり、東京へ戻る。戸田奈津子は世田谷の自宅から、大塚にあるお茶の水女子大の附属小・中学校に通う。母は東京府立第八高等女学校(現都立八潮高校)で教鞭を執っていたが、その後会社勤めに職を変える。その母と新宿で待ち合わせては映画を見た。終戦後、堰を切ったように洋画が入ってきた。テレビはまだない時代、映画は第一級の娯楽だった。戸田奈津子は学校の帰りに母と新宿で待ち合わせて、洋画を見た。「キュリー婦人」「カーネギーホール」「石の花」…。当時のことを、戸田奈津子は自著『字幕の中に人生』(一九九四年・白水社)中で次のように回想する。

 このころの映画体験には、闇市のにおいがつきまとっている。放出物資を売っていた屋台のアセチレン・ガスのにおい。おなかがすくので、映画館に買って入った鯨のベーコンや、ピーナッツのにおい。その貧しいにおいの向こうに、翻訳小説の活字でかろうじてイメージしていた外国の世界が、現実の映像となって夢のように広がった。

 高校までお茶の水女子大附属に通い、大学は津田塾大英文科に進む。大学へは新宿に出て中央線に乗り換え、国分寺駅からもう一度西武鉄道に乗り換えなければならない。
戸田奈津子は、通学のため自宅を出ても、新宿や中央線沿線で途中下車して映画を見ることも多かった。その頃見たのが「ローマの休日」「エデンの東」といった作品。
英文科で学んだといっても、昭和三十年前後のこと。会話は重視されていなかった。会話のクラスは五十人。学生の一人ひとりが話すチャンスは極めて少ない。戸田奈津子の場合は、ラジオから流れるポップスの歌詞を聞き取り、ヒヤリングの練習をした。そんな努力が実り、大学時代にニューヨークから来たバレエ団の通訳をしたこともあった。こんな体験が将来につながって行く。
 大学卒業後は映画字幕翻訳者になりたい。そんな考えから、この道の大家の清水俊二(一九〇六~一九八八、『映画字幕五十年』の著者)の事務所を訪ねたこともあった。しかし、
“就職”には結びつかなかった。友人たちは、どんどん進路を固めていく。そんな中、大学の教務課から「第一生命の社長秘書にならないか」という連絡が入る。第一生命の社長・矢野一郎(一八九九~一九九五)が、津田塾大の理事を務めていたことから話が来たのだ。仕事は英文の手紙などの整理。とりあえず、「映画字幕翻訳者志望」は棚上げして、一九五八年(昭和三十三年)第一生命に入社することにした。第一生命の本社建物は、戦後の一時期マッカーサー司令部が置かれていた重厚なビル。後に改装されたものの、お堀端に向かった正面玄関の部分は当時の面影のままであり、二十一世紀初頭の今日でも当時のイメージを残している。
社長室は、マッカーサー元帥が執務していた部屋であった。お堀を見下ろす副官のいた部屋が、英語文書を扱う秘書二名に与えられていた。それ以外に、役員のスケジュール管理をする一般の秘書がいる。社長が社を出るまで帰れない。このことが苦痛だった。また、うわっぱり型の制服を着せられるのが泣きたいほどいやだったという。今から思うと、幼稚園の制服に似ている。女子は補助作業。そんな旧時代の思想の表れかもしれない。
 第一生命に勤務していた時代、清水俊二からスポット的に、ちょっとした仕事が舞い込むようになる。ただし、映画字幕には直接関係はなく、手紙の翻訳やタイプを打つといった仕事だった。
 第一生命で仕事を続けることは、戸田奈津子にとって苦痛になってくる。一年半在籍して辞めてしまった。その後は、自分の食い扶持を稼ぐために翻訳や原稿を書くことにより収入を得た。そのうちに少しずつ、字幕に関連がある仕事に手を染めるようになってきた。初めての字幕作品は一九七〇年、そして字幕のプロとして認められたのが大学卒業後20年後に手掛けた「地獄の黙示録」だった。それまではいわば下積み時代。落ち込んだこともあった。何よりも映画が好きだったから、この長い期間を耐え抜くことができた。
 現在、映画翻訳家協会に所属している会員数は二十名余。かつてと違って洋画の輸入本数は少なく、この世界で生計を立てていくのは極めて難しくなっている。
戸 田奈津子が手掛けた字幕は、映画の本数でいうと、ゆうに千本を超える。最近は、一年に四十本のペース。休みの期間を除くと、ほぼ一週間に一本の字幕を仕上げる計算になる。
 一般に字幕製作に当たっては、映画は三回しか見ることができない。
 一 最初の試写で台本と照らし合わせながら見る。
 二 字幕の原稿チェック。
 三 字幕を入れた後、画面と字幕があっているかをチェック。
 字幕翻訳というのは、一般の翻訳とは違った難しさがある。映画の画面は次々と展開する。次の画面に移る前に、短い字数で「練られたセリフ」を提示しなければならない。正しい日本語で、読みやすく、短く、そして意味を端的に表す。このようなさまざまな制約の下での翻訳なのだ。一連の作業が終わると、まるで「ジグソーパズルが完成する時に似た喜び」があると、戸田奈津子は述懐している(『映画字幕翻訳家戸田奈津子』、アーバンライフ・メトロ、二〇〇三年六月)。
 六十歳を過ぎてからスポーツジムに通い始めたという戸田奈津子。「健康管理はきちっとしているわよ。マシンの上を歩いたり、体操したり。足腰が弱ったら大変だから」と大きく笑う(『映画と歩んだ人生』、定年時代、二〇〇三年六月)。自分一人だけが頼り。そんなプロの道は厳しい。同じ世代のかつてのビジネスマンやOL(一九六〇年代まではBGとよばれていた)のほとんどは、定年を過ぎ第二の人生に入っている。そんな中、戸田奈津子は、現役の字幕翻訳者として多忙な毎日を送っている。