百醜千拙草

何とかやっています

人生の目的

2023-04-21 | Weblog
研究室を閉めて、今の職場に移って、約一月半、ストレスフリーの日々を送っております。いろいろ新しいことを覚えたり学んだりする機会も増えて、思いのほか大変ですが楽しい日々です。

アカデミアでの研究という活動は基本的に個人的で孤独な活動で、いろいろ考えて仮説をたててテストするということを繰り返し何らかの新規の知見を得るという作業です。個人的であるゆえに個人の裁量が大きく、それはそれで楽しいのですけど、その自由さには多くの代償が必要でもあります。

一方、今の職場は共通の目的のもとに複数の役割分担した人々が共同で日々の作業にあたるわけで、基本的にチームプレーです。自分の好きなようにはできません。あくまでニーズにあったサービスを提供し対価を受け取るという普通のビジネス活動です。しかし、チームで動くので基本的に自分の役割だけに集中していれば全体として仕事は回っていくし、実務的なことはあとのスタッフが助けてくれるので精神的にラクです。

研究者時代は、研究室運営のためのグラント獲得の競争、カネの計算、人員管理、論文出版プレッシャー、などなど、研究以外の諸々雑多の事柄がとても重荷でした。しかも、それらの失敗の責任は最終的に自分に返ってくるのに自分では何ともしがたい事柄に大きく左右されるのです。

研究活動をするのに必要な研究室運営のための雑用に研究時間の大部分を費やさざるを得なかった生活から解放された今、振り返れば長かった研究生活を離れて寂しく思うよりは、清々しい気持ちの方が優っています。

大学院時代は、恥ずかしいぐらいに野心的でした。日本社会で生きていくのには何らかの組織に属してその一部分として制約の多い中で働きながら、一方で自己実現を目指していかねばなりません。野心的であればあるほど、それは困難に思えました。そして、自分が置かれた社会の枠から自由になるのに研究というのは魅力的な手段に思えました。また、研究活動というものが「わかっていないことを革新的アプローチで解明していく」ことだと思えば、未知の世界を探検する冒険者が抱くと同じワクワク感に満ちているように思えました。実際、チマチマと手を動かして何らかのデータを出してあれこれ考えるということは大変楽しかったです。

しかしながら、現実は厳しく、期待は常に大きすぎ、いつの間にか野心は「保身」程度に小さくなり、夢は見るものではなく忘れるものとなりました。結局、人は現実を直視し、理想と現実の折り合いをつけながら生きていくほかはありません。そう言い聞かせながらのこの五年ほどでした。

いまは野心というのはないわけではありませんけど、とても個人的なものとなったのでそれが実現してもしなくても心が大きく動かされることはなさそうです。今後は現実の方により注意を向けて対処していくことになりそうです。

それで、これから私を待ち受ける現実ですが、間違いなく起こるであろうことははっきりしていて、それは、肉体的、精神的、社会的な衰えです。まもなく、体のあちこちにガタが出始めて、肉体的に苦しいことが増えます。膝や腰が痛み、夜間のトイレが増え、少し歩くと息切れがし、眩暈に立ちくらみ、物忘れが激しくなり、一人で出歩けなくなります。家族も子供はすっかり独立して交流が減り、仕事はいずれできなくなって毎日話をする人もいなくなり、ウチで一人暮らしとなり、そのうち自宅で突発的な病気で死ぬことになるのではないかな、と想像しています。その間に、病気や怪我の二つや三つにあたるかも知れず、病気の本を眺めると、悪性腫瘍に感染症、神経変性疾患に腎不全、糖尿病に動脈硬化、呼吸不全に心不全、免疫疾患に血液病、食中毒に交通事故、と数え切れぬほどの好ましくない状況が述べられていて、それらの状況に自分自身が落ち込まない可能性の方が低いと思わざるを得ません。

それで、まもなくやってくるそうした日々をどう過ごすかということを考え始めました。たまたま家にあった五木寛之氏が20年ほど前に書いた「人生の目的」という本をパラパラしているところです。
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