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意見:「適正であること」より大切なこと

2006-04-04 | マネジメント
47th氏のふぉーりん・あとにーの憂鬱のエントリにて、個人情報保護法に関する記事が紹介されていました。以下、元記事を引用します。

個人情報保護法1年、識者から「法改正必要」の指摘も
個人情報保護法が全面施行されて1日で丸1年。

 法制定にかかわった国会議員や政府の検討部会などの委員を務めた識者らに、読売新聞がアンケート調査したところ、回答者の多くが、相次ぐ過剰反応や公益情報の非開示を懸念し、運用見直しだけでなく法改正の必要性を感じていた。

■過剰反応に直面

 回答者(38人)の中には、自ら過剰反応を体験した人もいた。国民新党の亀井久興衆院議員は、「海外出張先から予定と違う飛行機で帰国した時、当初予定していた便に搭乗しているか秘書が航空会社に聞いたが、個人情報保護を理由に回答を拒否された」。民主党の高橋千秋、内藤正光両参院議員も、「友人やその身内の葬儀について葬祭業者に問い合わせたところ、拒まれた」という。

■出し渋る公務員情報

 取材に対し、公明党の漆原良夫衆院議員は「法の悪用で、情報開示のレベルは統一すべきだ」と指摘。民主党の枝野幸男衆院議員は、人事院の最高幹部である人事官(3人)の場合、同じ大学の同学部の出身者が同時期に務められないと法律で定められている例を挙げ、「幹部公務員の学歴は公益情報ということ。学閥などがないかどうかを監視する意味で、公開が当然だ」と省庁の対応を批判した。


 回答者のうち、「保護法の運用は適正」としたのはゼロ。混乱や不適切な運用が、「一部」または「かなりある」が30人、「そもそも法に欠陥がある」が5人だった。

 必要な対策(複数回答)については、「法の趣旨や必要な情報提供への理解を求める啓発」「明確な解釈指針」が各16人、「実態調査」「省庁の指針見直し」が各14人だった。

 33人は何らかの法改正が必要と指摘。「行政機関個人情報保護法に、情報の有効利用、公益情報提供についての規定を盛り込む」「公益情報を共有可能にするため、個人情報の保護の範囲などを見直す」は、いずれもその半数を超えた。

 過剰反応や不適切な運用の原因では、「個人情報を悪用した犯罪など治安悪化を背景に、住所や氏名も明かしたくないという意識が広がっている」が24人と最多。国や自治体のPRや研修不足で、「法の趣旨が理解されていない」が22人、「法や条例の適用範囲や解釈に混乱がある」が18人に上った。
(06.04.01 読売新聞、一部略)


この記事を見て、「適正であること」を求めるよりも大切なことがあるのではないかと感じました。

適正であるということは、「望む人にとって望む状態に保たれる」ということであるといえると思います。しかし、前述の例のように、個人情報保護の場面では「情報を求める側」と「情報を提供する側」では当然「望む状態」は異なります。(公務員の情報開示などは典型的な例といえるでしょう。)したがって、「適正である」ということを重視して考えると、それぞれの立場で「何が適正か?」という判断基準にズレが生じることになってしまい、「適正である」という方向に向かいにくいということになってしまいます。

このような状況の中では、自分は「適正」と判断しても、他の人は「適正でない」と判断するかもしれないという「自らが予期しにくい状況」の中での判断を迫られることになります。すると、その結果として「過剰反応」といった、全体最適とは程遠い不経済な状態が生じやすくなることに繋がることになると考えられます。

私は、このような状況から「適正」という方向に向けて前向きな力を引き出すためには、「適正であること」よりも「フェアであること」を大切にすることが必要であると考えます。すなわち、「双方が十分な納得できるルールの中でそれぞれの判断が行われる」ことにより、結果として「同じ判断基準の中」で判断を行うことが出来るようになります。そうすれば、各人は「自ら予期できる範囲内での判断」をすればよいということになり、自らのしっかりした意思で妥当な判断を行えるようになります。

では、どのようにして「フェアであること」を作り上げていくのでしょうか?私は、「フェアである」要件として少なくとも次の4点は押さえなければならないと考えます。

【1】判断に十分な情報が提供されること
【2】双方の合意による合理的で明確なルールが存在すること
【3】常に合意されたルールに基づいて判断が行われること


重要なことは、当事者の双方が「フェアであること」により、初めて前向きの力として働くということです。たとえ仮に自分にとって不利益な出来事が起こったとしても、これが「フェア」な状況の上で発生しているのであれば、自らも「フェアな判断」を行うことが求められるのです。

この「フェアである」ということは、個人情報保護に限らず、あらゆる面でのマネジメントを機能させるために不可欠な前提条件であると言えると、私は考えます。そして、最近マネジメントの分野でよく耳にする「アカウンタビリティ」「コンセンサス」「コミットメント」「コンプライアンス」といったものは、この「フェアであること」を形作るための行動といえるでしょう。

そもそも、様々な内的・外的要因が複雑に絡み合って生じる「ある出来事の結果」というものは、特定の集団や個人の努力だけでどうにかできるものではないのかも知れません。しかし「常にフェアであること」については、意思の力で行うことができます。一人ひとりの「フェアであること」が土台となっていれば、たとえ互いの利害が相反する場合であっても、「お互いが納得の上で合意できる点」を見出すことが出来ると、私は考えます。

(その意味では、どうも日本の立法プロセスを見ていると、とても「フェア」に進められているとは思えないのですが・・・・このあたりが「『運用は適正』としたのはゼロ」という部分に繋がっている気がしてなりません。)


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