コンサルタントのネタモト帳+(プラス)

ビジネスにも料理にも役立つ“ネタ”が満載!社労士・診断士のコンサルタント立石智工による経営&料理ヒント集

ドラゴンズ:ありがとう、『完全試合』での日本一達成!!

2007-11-02 | マネジメント
あえてカテゴリーはマネジメントで・・・。

まずは
祝・日本一!!!
祝・完全試合達成!!!
ありがとう、ドラゴンズ!!!

ということで、昨日は名古屋人として感謝・感激・感動の一日となりました(^-^)

53年振りの日本一が、「完全試合」のオマケ付きで味わうことができるとは夢にも思っていませんでした。

なにやら世間では「完全試合ではない」との誤解があるようですが、昨日の試合はれっきとした「完全試合」です。なぜなら、「9人全員が完璧な試合をしなければ、完全試合は達成できない」から。完全試合は「チームの成績」として評価されるべきと感じます。

しかし、8回終了時点の落合監督の胸の内はどれほどのプレッシャーだったのでしょうか?

あの試合がもしシーズン中であれば、あるいは今シリーズの4戦目までの試合だったとしたら、きっと「続投」だったのではないかと思います。

また、昨日の試合で「2点差以上」だったら、やはり「続投」だっと思います。

しかし、文字通り「日本一」がかかった試合。それも1点差という極度に張り詰めたあの場面、一中日ファンとしてあの場面をTV中継で見ていた私の脳裏の中には「続投だと、負けるかもしれない」という底しえない不安がありました。なぜなら「ソロ1発で同点」に追いつくあの場面、もし打たれるとすれば「ホームラン」しかありえないだろうと言う雰囲気を感じたからです。

そして、あの場面でホームランを打たれれば、全ての糸が切れてしまう・・・・中日に二度と日本一はやってこないだろうという思いも感じました。

『二兎を追う者は一兎をも得ず』ということわざが有りますが、あの交代によってまさに「日本一」のみを取りに行ったからこそ、チームとしての完全試合達成での日本一が実現されたのだと私は感じます。

その意味では、完全試合という“余禄”がついたためにかえって難しい局面にあった中で、「日本一達成」という本来の目標一本に絞って、もう一度「今やるべきこと」に集中させた落合采配は、マネジメントの采配としては最高の判断の一つであったと私は感じます。

「パーフェクトペースの山井のピッチング」があり、
「パーフェクトペースの後をなお任せられる岩瀬の存在」があり、
さらには「1点に抑えたダルビッシュの好投」があったからこそ、
あのような展開になったのです。


各所でアンケートが行われていますが・・・

「山井の完全試合を見たかった?」 → 当然、見たかった。
「あなたが監督だったら?」→きっと日和って続投・・・というか判断不能?(^^;;
「落合采配を支持する?」→ 100%支持!!

これが私の本音です。

マスコミも野球評論家(特に中日OBの某)も采配を批判するヒマがあったら、
両チームの選手をもっともっと称えて欲しいです!

昨日の一戦は「野球」というゲームの面白さ・醍醐味の全てが詰まった
本当に素晴らしい好ゲームでした!

もう一度・・・・

ありがとう、ドラゴンズ!!!

指定取消:「コンプライアンス・リスク」か「行政リスク」か?

2007-06-07 | マネジメント
コムスンの介護事業所指定取消し問題については、一夜明けても様々な報道が続いていますが、全国的に影響が大きな問題であるにも関わらずやや「腰が引けた」報道が多いのが気になります。

そんな中、昨日のエントリでも追記させていただきましたが、グッドウィルグループとしては、「グループ内での営業譲渡」という形で指定取消しを乗り切ろうという判断を行ったとのことです。これについては、asahi.comの記事にもあるとおり、厚労省側も認めざるを得ないようです。

コムスンの全事業「グループ子会社へ」 処分骨抜きに(asahi.com)


(前略)
GWG広報IR部は「グループ内での事業譲渡でも法人は変わるので、今回の処分の対象にはならないと考える。利用者へのサービス継続のため決断した。厚生労働省の理解も得ており、問題はないはずだ」としている。

 これに対し、同省老健局の古都賢一振興課長は「コムスン側から連絡はない」としたうえで、「譲渡先がグループ会社であっても法的には問題ない。譲渡先が新規指定の申請をすれば、都道府県が審査することになるが、コムスンの役員が入るなどしなければ欠格事由とはならない」と、事実上容認する姿勢を示した。連結子会社など資本のつながりは法令上、欠格事由の判断材料とはならず、利用者保護の観点から新規申請した法人がサービスをきちんと提供できるかどうかを点検するという。
(以下略)


さて、今回の問題については、「法令遵守がなっとらん!!」という報道が多いようですが、よくよく考えてみると、遵守すべき「法令」と「介護業界の実態」がかみ合っているかどうかというのは、十分な検証が必要と感じます。

Yahoo!ニュースで紹介されていた毎日新聞の報道では、厚労省側は
「ルール違反をしたら退場していただく。そういうことです」。
「訪問介護サービスには多様な事業者が参入しているが、全体の質を上げていかないといけない。法令順守は大前提」
と行っていますが、一方では介護保険財政の逼迫によって、法改正を含めた「給付費抑制」が行われているという介護業界の現状があります。これにより、特に訪問介護事業者などは「介護保険があるから、サービスが提供できない」へという矛盾を孕む状態にもなっているとのことです。先ほどの毎日新聞の報道では、介護業界の現状を次のように語っています。
国は介護保険制度をスタートさせた当初、利用者に一定のサービス量を確保するため、民間の介護事業者の参入を強く促した。訪問介護事業者数が増える一方で、必要がない利用者に車椅子を貸し出すなど事業者による過剰なサービス提供の実態が次々発覚した。
 このため、厚労省は06年の介護保険法改正で、介護の必要度の認定区分を細かく分け、軽度の人を中心にヘルパーが身の回りの世話をする「生活援助」の利用を制限するなど、給付費抑制に乗り出した。これが事業者の経営環境を厳しくした。
 「成長分野と期待して参入した。でも最近は飽和状態。そのうえ介護報酬が低く、努力しても売り上げが上がらない」。東京都八王子市の訪問介護事業者は打ち明ける。「業界のイメージが悪くなり、同じように見られると困る」。いつまで続けられるか不安という。東京都杉並区の女性ケアマネジャーは「法改正で利用者が大幅に減り、つぶれた事業所をいくつも見てきた。訪問介護は人件費の負担が大きく、採算を度外視しないとやっていけない」と語る。
 業界紙「シルバー新報」の川名佐貴子編集長は「規模を広げ、上前をできるだけはねる経営をしなければもうからないのも業界の現実」と指摘。さらに「訪問介護の時間が規定に1分足りないだけで業者に返金を求めるなど、自治体の行政指導は厳格すぎる。もっと柔軟になり、サービスの質で業者が競える土俵をつくらなければ、『そもそも介護に企業を入れたのが悪い』という話になり、制度が後退する恐れがある」と懸念する。


今回の問題について見方を変えると、「保険給付の名の下に行われる介護サービス内容の画一化」が根っこにあるような気がしてなりません。医療以上に個別のケースに即した「多様なサービス」が求められる介護の場面では、事業者の創意と工夫によって柔軟にサービスを提供することができるようにすることが本筋の対応であるのではないかと、私は考えます。

私はコムスンに知り合いがいるわけでも有りませんし、肩入れするわけでもありません。業界内での様々な「評判」についても知らないわけではありません。それでも、実際にコムスンには6万5千人の利用者が存在していることを考えると、「改善すべき点は多々あるかもしれないが、評価すべき点もまた多々ある」と考えるのが妥当ではないかと感じます。

今回の問題は「コンプライアンス」に関する問題ではなく、むしろ「許認可業界における行政リスク」といった方が適切であると私は考えます。

クレド:「クレド」は「行動指針」ではない・・・・では、何?

2007-05-21 | マネジメント
先週の土曜日は「007名古屋商法アカデミー」へ参加。しっかりと“仕入”を行ってまいりました。

今回のテーマは「クレドの作り方」。リッツ・カールトンのクレドに関する書籍がベストセラーとなるなど、マネジメントの世界で注目を集めているクレドですが、今回改めて「クレドの本質はどこにあるのか?」を学ぼうと、アカデミーへ参加いたしました。

アカデミーでは、グループ討議を交えながら「クレドとは何か?」「世の中の“クレドっぽいもの”とリッツカールトンのクレドの違いはどこにあるのか?」「どのようにクレドを作っていくとうまくいくのか?」等について一つずつ考えていくことが出来ました。

講師を務めた酒井氏は、クレドについて「自分で考え、自分で行動する為の道具」と定義しています。企業の中で働く人たちに対して「価値観」を与え、「大切にすべきことの優先順位」を共通のモノサシで考えられるようにするものが「クレド」であるということです。

私は、今回のアカデミーを通じて、この定義にぜひ「自分で自分の仕事に誇りを持つために、・・・・」という言葉を付け加えたいと感じました。組織の考えとベクトルを合わせた上で従業員の自発的行動を促すものが「クレド」であれば、「何のために仕事をしているのか=誰に対して喜びや満足を与えているのか?」を従業員一人ひとりが理解できるものでなければなりません。この「根っこ」をクレドに込めていくことが、クレド作りでの重要なポイントになると私は感じました。

とはいえ、クレド作り自体は決して難しいものではありません。クレド作りで大切なことは「視点の持ち方」です。クレドに沿って判断し、クレドに沿った行動を取ることが、自然と自分たちの「誇り」を保つ判断や行動となるような「視点」でクレドを作ることが重要であると私は考えます。

安全確認:「基準」なき行政こそが問題では?

2007-05-08 | マネジメント
GW中に起こってしまったコースター事故。大変痛ましい出来事ではありますが、その後の行政対応に関して、非常に疑問を感じる内容の報道がありました。

コースター事故 風神雷神II事実上の廃止へ 運行再開を吹田市認めず(Yahoo!ニュース-産経新聞)


 エキスポランドのジェットコースター「風神雷神II」の事故を受けて吹田市は8日、エキスポランド社から風神雷神IIの検査報告書が提出されても運行再開を認めない方針を固めた。事実上、風神雷神IIは廃止される。また、他の遊戯施設についても、これまで同社独自で行ってきた検査方法では再開を認めず、第三者機関の審査を課す。同社は「6月1日をめどに営業再開したい」としているが、検査結果によってはさらに先になる可能性もある。

 吹田市都市整備部によると、風神雷神IIについては今後、エキスポ側が検査報告書を提出しても受け付けない。エキスポ側も、運行再開の要請を出す考えはないとみられ、風神雷神IIが再開する可能性はなくなった。

 また、他のジェットコースターを含む28の遊戯施設については、これまで検査報告書の内容を信用して受理してきたが、今後は第三者機関の審査を課す方針。
(以下省略)


この報道について、2つの点において疑問を感じました。まず一つ目は「『風神雷神IIについては今後、検査報告書を提出しても受け付けない』という判断が行政権の行使として認められることなのか」という点です。確かに重大な事故が起こった以上、安全性に対して厳しい目が向けられるのはやむを得ないことではあります。しかし、仮に客観的かつ合理的な基準で十分な安全確保措置がとられた場合においても「行政力による自由への制限」を行うとなれば、これは「越権行為」と取られてかねないのではないかと感じます。(もちろん、お客様がこのコースターに乗りたいと感じるかどうかは別の問題です。)

また、二つ目の疑問は「エキスポランドの施設にのみ、行政裁量で審査要件を加重することは可能なのか?」ということです。従来よりこのようなコースターについては検査報告を受けることとなっているようですが、先の報道によれば、今回の事故を受けて「エキスポランドについては要件を加重」するという措置がとられるとのことです。

しかし、現時点では法律も政省令も変更はありませんので、「法令より委任された権限の範囲」は変わらないはずです。特に、今回行おうとしている「要件加重」は特定の者に対する「営業の自由」への強い制約をもたらすものであり、「行政の裁量」として片付けてよい話しでは済まないと感じます。

結局のところ、これらのいずれについても、法令により委任された権限を行使する機関である行政自身が、判断の基準を「法令」には置かずに「場当たり的対応」に終始してしまっていることを如実に表してしまっているものであると感じざるを得ません。行政が民間の行為にどこまで介入すべきかについては議論すべき点ではありますが、今のような「場当たり的な基準なき行政」は行政が本来果たすべき機能すら果たすことはできないのではないかと私は考えます。

労働と報酬:プログラマーが出来高払いにできない別の理由

2007-02-20 | マネジメント
pal氏のFIFTH EDITION弾氏の404 Blog Not Foundの各エントリについて、さらに尻馬に乗ってみます。

ますはpal氏の主張から。エントリ中では、プログラマーの労働と対価の関係について以下のような問題提起を行っています。
一方で、プログラマーのような職種は、そういった賃労働には向いていないように見える。

理由は、最初に述べたとおり、プログラマーという職種は、家内制手工業、つまり、生産者が、生産に必要な資本を直接所有している工業システムに近いからだ。

なぜなら、プログラマーは、プログラムを作る工場を自分の中に持っているようなモンだからだ。

そして、その工場の生産性は、そのプログラマーの優秀さに比例している。

こういう場所では、出来高給賃金のほうが、やはり合っているのではないかと思う。

これに対して、弾氏からは「プログラマーが出来高払いにできない」理由として、以下のように指摘しています。
結論から言うと、「まだ職業として確立された期間が短いから」ということになる。

プログラマーという職種は、まだ成立しうるようになってからまだ60年ちょっとしか経っていないし、プロ^2グラマーともなるとその半分かもしれない。これに対して、芸人にはすでに数千年の歴史があるし、漫画家だって少なく見積もっても江戸時代からある(i.e. 葛飾北斎)。だから「漫画家の人生ってこんな感じ」というイメージも、漫画家も「非」漫画家もすでに持っている。

プログラマーは、まだそこまで行っていない。プログラマーさえ、そのイメージをまだ確立していない。今の自分、せいぜい5年後程度の自分となるとある程度おぼろげな絵も描けるが、10年後となると霧の中だ。黎明期のプログラマーの中には、すでに天寿を全うして鬼籍に入った人もいるけれども(i.e. グレース・ホッパー)、こういった人たちは「巨匠」すぎて、アイドルにはなれてもロールモデルにはなりがたい。


このやり取りの視点で興味深いのは「プログラマーをどの職種と比較し、例えているか?」ということ。pal氏は「工場などでの生産要員」との比較として捕らえていますし、弾氏は「漫画家・芸術家」といった職業との類似性から議論を進めています。

しかしながら、以前に「渡り職人的プログラマ・SE」としてどっぷりと比較していた私としては、これらの比較の対象として選定されているものはしっくりとこない部分を否めません。

pal氏が比較対象としている「生産要員」に求められる成果とは、「指定した同種同一のものを多数製造する」ことです。一定の規格に従って一定の品質のものであれば、それは全て「1個」という形でカウントされて、成果を測定できます。だからこそ今でも内職などの分野では「出来高」での報酬払いが可能となるわけですし、「単位時間当たりの生産量」といった形で生産性の測定が可能となります。

しかし、プログラミングという仕事は「要求(指示)を満たす一点ものの機械装置(またはその部品)を生産する」という作業です。そこで生産されるものがそれぞれが独立した「1点」であり、その中身は1点ごとに異なります。つまり生産されるものは「一つずつ違うもの」ですので、個数のような足し算によるカウントが難しいという性格を持ちます。この点において、「プログラマ」と「工場での生産要員」をそのまま比較するのはやや難があると感じます。

一方、「漫画家・芸術家」という仕事については、プログラマ同様「一点もの」を生産(製作)するのが主な仕事といえます。しかしながら、漫画家や芸術家は、「製作物の内容そのもの」がおおむね自らの思想発想に基づくものであり、品質レベルについても、自らのコントロール下に置かれます(もちろん出版社や読者の影響はのこりますが)。
一方、プログラマの製作物としてのプログラムには、工業的な品質要求、すなわち「要求仕様を満たすこと」という厳然とした基準が存在します。これは、漫画家や芸術家の製作物の発想とは相容れないものであり、この点において「期待成果」が大きく異なる要因となっていると私は考えます。

では、プログラマの仕事に類するものは何かといえば、私の過去の経験から言えば「建造物の築造を行う人」であったり「工場内において機械設備装置のラインを構築する人」がもっとも近いのではないかと思います。こういったものは、大小の規模の差はあっても「一つの案件」としての個別対応が求められます。それぞれの作業において「経験や知恵に基づく仕事の精度や早さ」といったものは求められつつも、これらは「(自らのコントロール外にある)現場ごとに異なる要求仕様」を満たすようすることが大前提となります。

このような仕事の場合、期待される成果とは「指示された仕事(≒作業)を完了させることそのもの」になります。同一の仕事を反復的に行う場合であれば「仕事量」の測定もできるかもしれませんが、現実には一つずつの作業内容は異なります。仮に「一つずつ異なる作業」に応じて単価設定を細かくできればよいかもしれませんが、大規模な案件になればなるほどその複雑さは計り知れないものとなり、現実的ではありません。したがって、これらの作業を細かくは峻別せず、包括的に「労働力」として調達する工夫が必要とされてくるのです。

歴史を紐解くと、太古の時代からこのような考え方はあったと考えられます。大昔のピラミッドなどでは「現場作業」にあたっている人に対しては、同じような作業(たとえば石引きなど)に当たっていた人に対しては、同じような「報酬(食料とビール)」が分け与えられています。おそらく仕事の進め方や成果についてはその日ごと・その人ごとにバラつきは生じていたでしょうが、「一定の時間一定の作業に従事する」ということに対して、「一定の報酬」を与えられていたと考えられます。つまり、「多人数で共同して行う作業に従事する人々」とは、それが経験や知識・能力に多少の差があったとして、「一定の労働に対して一定の報酬を支払う」というのが古来から続けられてきた考え方ではないかと思われます。

つまり、(雇用されている)プログラマーが出来高払いにできないのは「仕事の内容として似つかわしくない」という点が大きいのではないかというのが私の意見です。もちろん、先のエントリでも再三指摘しているとおり、プログラマの中にも様々な「期待成果」があるでしょうし、また、建設をはじめとした他の「請負系業種」と同じように様々な「働き方」があるとは思います。しかしながら、システムが大規模になればなるほど「分業化」が必要となり、実際の“生産活動”を担う「作業者」が必ず求められます。プログラマーの本質的な役割はこの「作業者」であり、あとは「作業の完成を約束する」という請負としての働き方を選ぶのか、それとも「作業の時間を提供する(≒作業の完成は依頼者の指示次第)」という労働的な働き方を選ぶのかという、他の業種でもごく普通に見られる問題に帰結するということになると私は考えます。

あえて弾氏のたとえを借りるとすれば、「漫画家」であるプロ^プログラマーは確かに存在するものの、多くのプログラマーは「漫画家についているアシスタント」と同じポジションにあると私は感じます。しかし、アシスタント的プログラマーもまたプロ^プログラマーであると思います、特に大規模プロジェクトが多いシステム開発の世界にとっては、「優秀なアシスタント」をいかに確保するかが実は大事な点であると私は感じます。

プログラマーの労働時間・労働環境の課題については、まず「プログラマーが個人の創造力に基づく特別な仕事である」という幻想から離れ、建設業界をはじめとした様々な業種の仕事の進め方を参考にしながら「生産者としての労働時間の適切な管理」を進めることからはじめる必要があると私は考えます。

人月神話:「プログラマー」は労働者?芸術家?

2007-02-17 | マネジメント
弾氏のブログ404 Blog Not Foundから。

プログラマーって本当に労働者なのか?(一部抜粋)


確かに、労働者を「労働に対して対価を受け取る人」と定義するなら、アスリートもプログラマーも立派な労働者なのだけど、「その労力に比例して対価を支払う」という狭義の労働者モデルをあてはめるには、労力と生産の関係があまりに非線形なのだ。


この議論の端緒は分裂勘違い君劇場のこちらのエントリ。

プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです


過酷な労働条件を受け入れるプログラマというのは、ダンピングをしています。
つまり、労働力の不当な安売りです。
本来、プログラマは、サービス残業を強要されたら、それを拒否すべきです。
あらかじめ無理なスケジュールだとわかっているプロジェクトも、拒否すべきです。
安い賃金で働くことも拒否すべきです。
それらを拒否せずに、受け入れるプログラマが多いから、他のプログラマまでそれらを受け入れなければならなくなるのです。
(中略)
結局、サービス残業や無理なスケジュールのプロジェクトを受け入れてしまうプログラマは、「抜け駆け」をしているのです。ズルして、会社や上司にこびを売っているようなものです。
これはダンピングです。不正競争です。(以下続く・・・)


このテーマについては、ホワイトカラー・エグゼンプションの議論に関連して以前のエントリでも触れておりますが、この問題を考える際のポイントは
「プログラマー」を一くくりにはできない
であると私は考えます。

先のエントリでのあかさたさんとの意見交換でも話題としてあがりましたが、一口に「プログラマー」といっても、例えばまるで数学の証明問題を解くかのような創造的な仕事を行う開発型プログラマーもいれば、それほど複雑でないコードを部品を組み合わせるように大量に生み出す生産型プログラマーもあります。また、「作る」仕事に携わるプログラマーだけではなく、既存のプログラム(システム)をお手入れするためにコードを修正し続ける運用保守をメインとしたプログラマーもいます。

弾氏がエントリ中で指摘している
5割増の残業手当を出されても書けない時には書けないものだし、逆に1日仕事が5分で終わってしまうこともある。それがプログラミングの世界だ。
というのは、「開発型」のプログラマー(エンジニア)が念頭に置かれていると考えれば、彼らへの期待成果は「今目の前にある課題を解決すること」であり、時間と生産性の結びつきが弱い分野とすれば、まさに仰るとおりであると感じます。

一方、分裂勘違い君劇場の中で指摘されている
結局、サービス残業や無理なスケジュールのプロジェクトを受け入れてしまうプログラマは、「抜け駆け」をしているのです。ズルして、会社や上司にこびを売っているようなものです。
というのは、「生産型」や「運用保守型」のプログラマーが念頭に置かれていると解釈すれば、これも仰るとおりと言うことになります。彼らに期待される成果は時間との結びつきが強い「一定の生産量」であり、独創的な解決策とは異なります。

以前のエントリの繰り返しになりますが、今の状況を見ていると「プログラマ・SEだから、個人の創造性で仕事をしているはずで、時間では成果が測定できない」という安易な意見がまかり通ってしまっているように感じます。その意味では、弾氏が指摘する
ことプログラマーに関しては、例のホワイトカラーエクゼンプションを適用するべきだと思う
という話しをあらゆるプログラマーに当てはめて考えるのは危険であると感じます。こと「単品製作のシステム開発」という多くのプログラマーが携わる分野においては、彼らに求められているのが主として「生産量」の部分であるという現実を考えますと、やはり「労働者」として考えるが自然であると私は考えます。

報道より:『行政処分』は何のために行うか?

2007-02-16 | マネジメント
昨日のエントリでも触れましたが、金融庁から東京三菱UFJ銀行へ一部業務停止命令を含む行政処分が行われました。また、この他にも様々な「事件・事故」に関連して数限りない行政処分が行われており、さらには「あるある」捏造問題に端を発する放送法見直し等をはじめとして、「行政処分の強化」の動きも数多く見られます。

ただ、これらの「行政処分」に関する報道を見ていると「何のための行政処分なのか?」ということが曖昧なままでの運用や強化が行われているのではないかと危惧を感じる部分があるのではないかと私は思っています。

まず、行政処分の意味づけを考えてみますと、現在の行政処分の運用では概ね次の3種類に分類できるのではないかと考えています。
●緊急避難的処置としての行政処分
現状を放置しておくとさらなる被害の拡大がある場合において、これを阻止するために行う処置。典型的な例としては「鶏インフルエンザ発生地域からの鶏及び鶏肉の移動禁止」など。

●再発防止処置としての行政処分
ある事件・事故が発生した場合において、再度同種の事件・事故が発生しないよう対策を講じさせる処置。業務改善命令が典型。

●懲戒的要素を持つ行政処分
ある事件・事故が発生した場合において、制裁として何らかの不利益を与える処置。制裁・不利益を設けることで、間接的に義務の履行を促すことが本来の目的。

さて、これらの「処分」が行われる場面では「処分を求める者(≒処分の必要性を考える者)」「処分を受ける者」「処分を決める者」が登場します。通常の裁判の場面では、例えば民事裁判であれば「原告-被告-裁判所」、刑事裁判であれば「検察官-被告人-裁判所」という形で明確に分かれています。このように役割を分けることにより、「双方の意見を尊重しての客観的な検証に基づく処分」が担保される仕組みになっています。

しかし、行政処分の場合には「処分を求める者」と「処分を決める者」が同じ「行政」となります。このような状況では、そもそも仕組みの問題として中立的な判断というものが存在できません(野球で例えれば「一方のチームだけがストライク・ボール・ヒット・アウト等の判定を行っている」状況と同じです。) したがって、「行政処分」とは本質的に「処分を求める者の意思のみで不利益を与えられる性質」を有しています。

そうすると、「行政処分」を行うには「単独者による一方的な意思表示」だけでも処分の実行について合理性を失わないだけの理由が必要となると考えられます。この観点から考えれば、「目の前の被害拡大を阻止する」である緊急避難としての行政処分は、「意見のぶつけ合いを待っている余裕がない」と考えられますので適切な運用が行われていれば十分に妥当であると考えられます。

しかしながら、再発防止目的の行政処分については、少々事情が異なります。例えば「一般には禁止されており、免許や許認可に基づいて実施しうる行為」については、「行政によるコントロールが必要」と法律(=国民の意思)にて認められているわけですから、行政によるコントロールの一環としての「改善命令」を含めた行政処分は可能でしょうし、最終的には「当該免許等の剥奪(=再発しえない状況の構築)」ということもありうると思います。しかし、そのような許認可に基づく行為でないとすれば、そもそも「行政によるコントロールを必要とするか否か」といった部分から議論を始めなければならず、この部分まで「単独者による一方的な意思表示」である行政処分で対応すべきとは一概には言えないと考えられます。

さらに、懲戒的な行政処分においては、「単独者による一方的な意思表示」によって制裁を加える合理性は基本的にはありません。「求める者」「受ける者」それぞれの言い分を第三者である「決める者」が聴いた上で、冷静なジャッジを下すことが「懲らしめ」のためには必要であると考えられます。

したがって、行政処分は本質的には「目の前の切迫した状況を抑止するための、緊急避難的な措置」として行われるのが本筋であり、「行政によるコントロールが明示的に必要とされる範囲内」において行われるべきものであると私は考えます。ただ、こう考えてしまうと、再発防止の処分や間接強制となる懲戒的処分が行いにくくなるのではないかと考えられますが、これらについては「処分を求める者-受ける者-決める者」の分立を要する問題であり、例えば「原告を行政とする民事裁判類似の裁判手続き(≠行政機関による聴聞等)」にて対応するのが筋道であると考えられます。

この「行政処分」に関する問題は、企業マネジメントにおいても重要な示唆を与えていると感じます。特にリスクマネジメントの分野では、「現にリスクの発生や拡大が生じようとしている」場面では、トップによる迅速な意思決定と、強制的な指示命令を含めたトップダウンによるコントロールが求められるでしょう。しかしながら、一度起きてしまったことに対する再発防止の場面や、減給・解雇を含む懲戒処分等においては、相互に納得できる合意形成を行うことが基本であり、少なくともきちんと時間を設けて話し合う場が求められるでしょう。(ISO系のマネジメントシステムでの内部監査において、『不適合』に対する合意形成が求められるのはこの理由によります。)

安易に「処分範囲の拡大や処分の強化」を求めることは、「コントロールを委ねる範囲の拡大」に繋がります。例えば現在放送事業者に対する処分の強化が検討されていますが、これは『放送事業者のコントロールを行政に委ねるか否か』という点が本質的な論点であると考えられます。委ねる範囲を広げるということは、「国民が国家に権限を与える=権力の拡大を認める」ということであり、これが国家のあり方と望ましい姿であるかどうかという点についてしっかり見据えていかないと、表面上の課題にとらわれて思わぬ方向に「国」が進んでいってしまう可能性があると私は考えます。

長くなりましたが今日はここまで。ご意見を頂ければ幸いです。

労働法制:ホワイトカラー・エグゼンプションは見送られても・・・

2007-02-13 | マネジメント
ホワイトカラー・エグゼンプションが見送られたたために、すっかり話題に上らなくなってしまった労働法制の改正ですが、たとえホワイトカラー・エグゼンプションが無くても、今国会では「歴史的な法整備」が行われる予定となっています。

今回国会で審議される予定の労働関係法案は次の通りです。

【1】労働契約法案(新設)


新設法案。労働契約の成立・変更・終了に関する事項や、労働契約と就業規則の関係についての規定が盛り込まれる予定です。「労働契約」においてこれまで不明確であった部分が一気に明確化されるだけでなく、労働契約の書面化や条件変更、出向・転籍、有期労働契約に関する細目など、労働実務に幅広い影響を与える内容が盛り込まれる予定となっています。

【2】労働基準法改正法案


主に労働時間に関する制限についての改正法案です。ホワイトカラー・エグゼンプションの規定はなくなりましたが、長時間労働者に対する時間外割増率の引き上げは今回の改正で盛り込まれる見通しとなっています。 一方、一定の条件下では時間単位での有給付与を認めるなど、これも労働実務に大きな影響を与える項目が多々含まれています。

【3】パートタイム労働法改正案


パートタイム労働法の改正については「通常の労働者と同視すべきパート労働者に対する差別的取り扱いの禁止」が目玉となっています。これは、「同一労働同一賃金の原則」により踏み込んでいく内容であり、また、賃金差別があった場合には「過料」を課すような法改正の予定ともなっています。また、パートタイム向けの労働条件の文書交付義務が新たに課されるなど、現実の労働状況について改善を求められる場面が出てくる可能性があります。

【4】雇用対策法・地域雇用開発促進法改正案


若年者の雇用機会確保が中心となっていますが、労働実務的には「外国人雇用状況届の義務化」が新たな注意点として上げられます。

【5】最低賃金法改正案


生活保護と最低賃金の整合性に配慮する内容が中心ですが、労働実務の面では[最低賃金の『強制』効力(最低賃金未満は、強制的に最低賃金が適用される=未払い賃金請求の可能性)」や「罰則の強化(罰金50万円以下への引き上げ)」が注意点となるでしょう。

【6】雇用保険法改正案


これまで「短時間以外」と「短時間」で別れていた被保険者資格を一本化するとともに、基本手当の受給資格要件を「過去2年間で12ヶ月以上」を原則とするように改正予定です。また、育児休業給付を休業前賃金の50%に引き上げることも盛り込まれる予定です。


このように、今年は労働関係の法改正が目白押しです。特に「労働契約法」についてはこれまでの「労働実務の慣例」とは異なる対応を迫られるケースもあることから、出来るだけ早期の対策が求められます。

本ブログでも、継続的にウォッチしていきたいと思います。

事業計画:伸びる会社は『技術』を売らない

2007-02-01 | マネジメント
中小機構での仕事をはじめとして、様々な形でお客様の事業計画作りをご支援させていただいていますが、その中ではやはり「このまま伸びていくな」と感じる企業と、「もう一段の“煮込み”が必要だな」と感じてしまう企業があります。

昨年1年間だけでも50社以上の企業の皆様とお会いさせていただいておりますが、そのほとんどの企業は、何らかの「独自性を持った技術・ノウハウ」を持っています。技術分野や開発の進捗状況はありますが、そこには大きな差はありません。

しかし、事業プランについて様々なお話しをお伺いしていくと、そこには「このまま伸びる」「まだ煮込みが必要」という印象のギャップが必ず生まれます。ただし、「技術の難易度」や「独創性」といったものはほとんど関係ありません。この要因としてまず第一に挙げられるのが「何を売っているのか?」という説明にあります。そして、「伸びる」会社は『技術』を売ってはいないという共通の特徴があると私は考えます。

企業の利益は、お客様から頂く「売上高」からもたらされます。そして、お客様から「売上高」を頂くためには、当然具体的な「商品」か「サービス」を提供しなければなりません。裏を返せば、お客様は「商品」か「サービス」を購入することで、はじめて対価としての「代金=売上高」を支払うということです。

ここで注目すべきは「なぜお客様は『商品・サービス』を購入するのか?」ということです。この理由について、既に多くのマーケティング関連の書籍で紹介されている通り、『お客様自身が持っている○○したいという欲求を満たすため』という1点に尽きます。そして、この「○○したい」という欲求の部分ですらも
○自身の「困った」を解決したい
○自身が楽しみたい
というたった2つの分類で全てを網羅できてしまいます。

そして、お客様が実際の購買行動に移すには、商品やサービスの提供を受けることで「困ったが解決できる(かも)/楽しめる(かも)」という気持ちとなることが必要となります。すなわち、販売する具体的な「商品・サービス」自身がこれらの気持ちにこたえていかなければ、決して売れることはないのです。

もちろん、よりお客様の気持ちにこたえられる「商品・サービス」を生み出すには、「技術」が必要となることが多いでしょう。しかしながら、「技術」そのものは商品・サービスを生産するための「手段」に過ぎません。たとえ簡単な技術から生み出されるものであっても、お客様が「これでよい」と感じれば「簡単な技術から生まれる商品・サービス」の方を購入することも十分に考えられます。(むしろ「入手の容易さ」を考えると、簡単な技術で求めることを解決した方がお客様にとって喜ばしいことになる可能性すらあります。)

「伸びる」会社となるためには、より多くのお客様からより多くの支持を得る必要があります。そのために売り出すべきものは『欲求を満たすための道具として、お客様が手に入れられるもの=商品・サービス』に他なりません。即ち「伸びる」会社になるためには、(たとえ「受託生産サービス」であったとしても)「私たちはいったい何を売っているのか?」ということをしっかりと認識することが不可欠であると私は考えます。

群集の智慧:「会社に群れないまま属す」という選択

2007-01-08 | マネジメント
NikkeiPB ITProに寄せられていた小飼弾氏の新年コラムが秀逸。ほんのわずかだけ引用させて頂きます。

【Watcherが展望する2007年】The Wisdom Not to Crowd


(前略)
なぜ世界で一番豊かで強くて賢い群衆は、最も愚かな戦争に走ったのか。

逆説的ですが、それは彼らが9.11をきっかけに「群れて」しまったからです。

実は、「群衆の叡智」が発揮されるためには、「群衆」は群れてはいけないのです。
(後略)


本コラムを読んで、昨年末に米タイム誌が1年間で最も影響力があった人物である「今年の人」に「あなた」を認定したことをふと思い出しました。弾氏によれば、「「群衆の叡智」は、あくまで群衆の中の人々が付和雷同しない時にはじめて発揮され」、「Webが成し遂げた最大の成果が、この『群れないまま属す』という状態を可能にしたこと」であるという指摘は、慧眼と感じます。

そこで、弾氏が問いかけている
今年が「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年となるかは、「こちら側」、すなわち「リアル」の世界にも「群れないまま属す」がもたらされるかどうかにかかっている
についてふと考えると、少なくとも「会社という群れ」については2つの側面から「群れないまま属す」という選択肢は既に許容され始めていると私は考えます。

何を持って「群れ」というかは難しいのですが、とりあえずここでは「集団と集団に属する各個人が、集団を保持し、そこから抜け出せないと感じる程度に相互に強く依存している状態」と仮に定義します。そうすると、かつての日本における「正社員という集団」は「年功序列・終身雇用であり、転職は生涯賃金においてマイナスに作用することが多い」という状況において、「群れ」であるといえるのではないかと考えられます。

しかし、現在では、会社における「正社員」ではない人々が増加しています。まず、会社を動かすための「ルーチンワーク(生産でも事務でも)」のサイドで言えば、「パート・アルバイト」や「派遣社員」が担うようになってきています。特に派遣社員については、派遣社員自身が「複数の派遣会社に登録する」というオプションを持っており、条件や勤務内容に不満が合えば「比較的少ないリスクで、派遣会社を渡り歩ける」という状況を実現しており、「群れずに属する」ことを可能しています。

一方、会社の方向を定める「経営幹部」についても、今後「群れずに属する」ことが可能となっていくことが考えられます。既に「IC(Indipendent Constractor=独立請負人)」という働き方が徐々に認知されている上、現在議論が行われている「ホワイトカラー・エグゼンプション」が実現すれば、「経営サイド」においても「群れずに属する」ことが可能とされる仕掛けはさらに整うことでしょう。ただし、この場合には「ホワイトカラー・エグゼンプション」だけでは足りず、彼らが容易に転職し得るような労働市場の整備(今で言えば、人材紹介会社やヘッドハンティング会社の発展系でしょうか?)というものも必要となると考えられます。

もちろん、「群れずに、属する」という選択を行うことは、「群れには支えられない」というリスクを負っています。「群れ」の基本的な機能は「群れに所属する構成員を、群れ全体で支える」ということに他なりません。どのような単位であれ「群れない」という選択をする以上、一つの「支え」を失うことになるわけですから、何かあったときの「支え」というものは自ら用意するのが原則となります。

そこで、弾氏のコラムを読んで気になったのがこのパートです。
イラク戦争を始めたかの国が、GoogleやYouTubeを生み出した理由がまさにそこにあります。これらの起業は、連邦政府が国家プロジェクトとして発足させたわけではありません。好事家の若者たちが、好き勝手にはじめて、その好き勝手が大きくなるまで誰も咎めず放置されていたからです。日本においてこれらの好事家の若者たちが、誰も咎めずに放置しておいてもらえるでしょうか?

日本においては「群れること」に対して「群れないこと」への許容度が低いように感じます。これは一面では「群れられない人たちを排除する(≠放置する)」という方向でも見られますし、他方では「群れにくい人たちも、群れに囲い込む」という方向でも見られます。「格差の拡大が問題だ!」という言葉の向こうには、こういう「群れ意識」というものが強く働いているのではないかと、つい感じてしまいます。

少し話しが横道にそれましたが、弾氏の問いかけである
「リアル」の世界にも「群れないまま属す」がもたらされるかどうか
については、少なくとも「会社と言うリアルの世界の群れ」についてはブレイクポイントが近づいていると私は感じます。そして、その大きな起爆剤となりうるのが「ホワイトカラー・エグゼンプション」であり、これを「国民の声」として実現させるか否かが、「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年となるかどうかの重要なキーを握っていると私は考えます。

なお、「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」」については、弾氏の引用にもあるWeb進化論の著者梅崎氏のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」も、ぜひ合わせてお読み頂きたいと思います。