「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

手島堵庵に学ぶ⑧「先生平生朝夕神聖仏師先祖考妣を拝し給ふこと一日も怠り給ふことなし。若旅行に趣き給へば、京師の方を向ひて拝し給ふ。」

2021-11-24 20:54:31 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第八十回(令和3年11月23日)
手島堵庵に学ぶ⑧
「先生平生朝夕神聖仏師先祖考妣を拝し給ふこと一日も怠り給ふことなし。若旅行に趣き給へば、京師の方を向ひて拝し給ふ。」
 (『手島堵庵先生事蹟』)

 手島堵庵は、天明五年(1785)七月の末から浮腫(むくみ)の病が起こり、翌年正月中旬に至り日々重症化し、終に二月九日夜十時頃に亡くなった。享年六十九歳だった。師である石田梅岩のお墓がある鳥辺野の丘の上に葬られた(現在は、京都市東山区五条橋東六丁目にある延年寺旧跡墓地〈鳥辺山墓地〉)。

 『手島堵庵先生事蹟』には、逝去の記録の後に次の様に記されてある。

「先生は日頃から朝夕に、我が国の神々、孔子様を始めとする聖人、仏様、師である石田梅岩先生、御祖先、おばあ様に対し、拝礼する事を一日たりと怠られる事は無かった。もし旅行に赴いている時には、京都の方角に向かって拝礼をされた。病に伏しておられる時でも、朝夕には必ず手水して、病床のままで拝礼をされる事は、亡くなられる日の夕方まで決して怠られる事は無かった。」

 石門心学は、何よりも日本の神道を重んじ、次に儒学、仏教と、人間の本性を目覚めさせ、善導する教えに対して敬意を払っていた。更には、身近な存在であり自らの命の根源でもある父母・祖先を大切にする事を説いた。堵庵は、十三歳で父を亡くし、十八歳で母を亡くした。その後堵庵を温かく見守り育てたのは祖母だった。その祖母も堵庵が二十七歳の時に亡くなっている。堵庵は、祖母の恩を心に刻み、晋の李密(父は早く亡くなり、母は他家に嫁ぎ、祖母に養われた為、祖母への孝行で有名)が武帝に奉った、一身上の事や志を述べた文書『陳情表』を読む度に、涙を流して祖母の事を偲んだと言う。

 明和六年、堵庵五十二歳の時、夏の旱で、かつて祖母が自ら植えた松の木が枯れてしまった。堵庵は、その事を甚だ悲しみ、その松の幹を杖に作り変えて「思恩杖」と名付け、更にその記(文章)を作った。それは、其の木が後世失われる事を恐れての事である。又、松の木の根を使って「出山の釈迦(山に入り修行し悟りを開き出山した。)」の像を彫刻させた。それは祖母が艱難の中で育て上げてくれた事を子孫に示す為であった。

 「死して後已む」と言う言葉があるが、死ぬまで為し続ける行為こそ、その人物の本質が写し出されているのだと思う。堵庵は、神と聖人と釈迦と師、祖先・祖母という、自らを自らたらしめている聖なる存在を一日たりとも忘れる事は無かった。私は、毎朝の神棚拝礼・明治天皇御製拝誦・仏壇礼拝、就寝前の三夜行(修養素読行・二哲(吉田松陰・西郷南洲)敬仰行・秀歌拝誦行)は、日々三百六十五日続けている。三夜行は開始して今年で十年になる。だが、堵庵の様に、旅に出ては、京都に向かって拝礼し、病に伏しても決して止めないという切実なる志迄には至っていない。息が止む時まで、朝夕拝礼を続けた堵庵の一途な姿に粛然とさせられる。


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