現場力(げんばりょく)

理科は感動だ!を実践する感動サイエンスteacher。
つながりを活かして社会貢献活動する地域に飛び出す小学校教師。

宿題への考察

2012-06-24 | 教材・授業の研究

月に一回サークルを開いている。

6月29日(金)19:30~ 一時間半程度。

大津町近辺の小・中・特別支援学校から来られる先生たちと

一緒に学んでいる。もう14年続いている。

新しい先生も加わって、楽しいひとときになっている。

 

さて、今回のテーマは、「宿題」


宿題は、出せば出すほど首を絞める。
プリントは、最たるもの。
手書き風のプリントを増し刷りして使っているが、最悪だ。

前にいらっしゃった先生が使っていたと思われるプリントを使っているが、
ただ出せばいいと思っている。

宿題で力をつけようと考えてもダメ。
宿題を出すことで次の悪い点がある。

1)チェックをしないといけない。
※チェックする時間がもったいない。子どもと触れ合えない。

2)しからないといけなくなる。
※持ってきていない子をしかる。やはり持ってこない。
 レッテルを貼る。だから、自己肯定感が少なくなる。

3)間違いを覚える可能性がある。
※漢字はその典型。

4)宿題を出して安心する。
※親も教師も宿題さえさせておけばの考え。

5)子どもの負担増。

6)特別支援の子どもへの対策

7)その他

だけど、宿題は存在する。

宿題とは


しゅくだい【宿題】

学校の正規の授業時間以外に,
主として家庭で行うように,
教師によって生徒に課される学習および作業。

宿題はもともと即題,席題の反対の概念で,
前もって与えておく問題,
解決されずに残された課題という意味である。
俳諧,連歌などの用例が,学校教育に転用されたのであろう。

当初,宿題という用語は一般的でなく,
復習,予習の指示として始まった。
1900年前後に,各地の師範学校付属小学校で
〈復習心得〉〈復習要項〉が生徒に配布され,
10年代には各教科ごとの夏休み宿題帳が作られるようになった。・・・
(世界大百科事典 第2版)



1900年というと、
日清から日露の時代。

宿題は、復習、予習の指示だった。
という。


しゅくだい【宿題】

① 学校における学習の補足・定着・準備などを目的として,
児童・生徒に課す家庭学習・家庭作業。

② 未解決・未決定のまま持ち越された問題。
(大辞林 第三版)



ここに、現在の『親学』の視点が追加される。

http://www.kaisei-group.co.jp/sv2blog/index.php/2010/06/651

親学ブログという塾がやっているブログ。
親向けに平易に書かれている。

こちらは、
NPO法人オアシスの会
http://www.npooasis.jp/oyagakurinri.html


宿題と言えば、私も苦労した。

保護者からは、必ずといっていいほど、宿題を出して下さい。

と言われる。

社会のニーズとも言える。

しかし、その子、家によって、状況が違っていて当然だと思っていた。

何をするにも時間がかかる子もいれば
家で宿題をする状況にない子もいる。
しかってもしょうがない。

ある子とは、宿題の量を相談して決めることにした。


そして、最初の取りかかりだけを一緒にする。

これで、だいぶできるようになっていった。

家庭で一定時間、勉強(読書でもいい)をする力は、必要だと思っている。
それは、意図的に計画的に身につけさせる必要がある。

その意味において、宿題の意義は生きてくる。

向山氏も次のように述べる。


(自学のことに関して)
自分で学んでいく力を、学習の方法を学ぶという視点で「構造」「方法」「転移」の三つから主張したのはブルーナーであった。
1960年代のことであり、日本の教育も大きな影響を受けた。


(中略)
第二は、学校以外の時間に、学校は安易に介入すべきではないということである。
粗く言えば、学校での活動は子どもの仕事であり、
それ以外は「休息」「遊び」ということになろう。
子どもの「休息権」「遊び権」は「学習権」と同様に重要である。
(ちなみに私は、授業時間が休み時間に30秒でもくい込むことは、年に1,2回しかない。
それほど「遊び」「休息」の権利を大切に思っている)

その時間に、何をしようと子どもの勝手である。
仕事をしないで当然なのだ。
もし大人が、家に帰ってまでも「仕事」を設置されたら、音をあげるだろう。
むろん「テレビ・ゲームづけ」になるのは、ある意味で好ましくない。
しかし、それは「仕事」をもって代置すべきではなく、「遊び」をもって代置べきなのだ。
『教え方のプロ・向山洋一全集38子どもの可能性を信じて引き出す』


また、家庭学習の原則を次のように述べている。
(抜粋する)


「家庭では勉強しなくていい。学校で勉強すればいい」
これは大切な原則である。しかし、これだけでは不十分な面があったり、
ぬけおちる面があることも経験上かなり知られていることである。

そこで、原則は認めた上で「家庭学習は必要である」という前提を設ける。
その時に、どういう考えで、何をしたらいいのかが問題になる。

『教え方のプロ・向山洋一全集42先生に会えてよかった!向山流親とのつきあい方』


向山氏が5つの考えを列挙し、そのそれぞれに回答している。

最後の哲学的な考えに深く納得した。


宿題一つとっても深い哲学の上で、論理を構築していきたい。





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