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仕組みとアプローチ -  不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」

2023-06-18 19:15:12 | 家康
 「長篠の戦い」についは諸説ありまして当ブログでは「鉄砲の三段撃ちは有った」とする見解です。
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あたりなのですがその後、更に長篠の戦いについて知れべていると驚くべき事実がわかりました。
 それは「竹束に関する事」なのですが、竹束って実は武田信玄の家臣が発明したもののようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%80%89%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%AE%88

米倉 丹後守(よねくら たんごのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。米倉重継とも。甲斐武田氏の家臣で足軽大将[1]。
略歴
『甲陽軍鑑』によれば、丹後守は土豪の出身で、初めは二十人衆頭(旗本)の一人であったという[2]。平山優は『甲陽軍鑑』に登場し、確実な史料で実在を確認できる武田家の足軽大将のうち、丹後守は甲斐出身者の甲斐衆のなかで最も身分の低い人物であったと推定している[3]。

丹後守は武田家譜代家老の甘利虎泰・昌忠(信忠)の同心として活躍し[2]、「武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』によれば、永禄10年(1567年)に甘利信忠が死去した際に、信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めたという[1]。『甲陽軍鑑』によれば、丹後守は城攻めに際して竹束を束ねて敵方の鉄砲から身を隠し、城際まで攻め入る戦術を考案したとする逸話を記している[1]。
]
『寛永伝』によれば、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで死去する[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長篠の戦いでは武田側の布陣のうち左翼の山県昌景隊に甘利信頼と推定される「あまり衆」が属しており、同心として武川衆のうち米倉氏らが付属している[4]。
(中略)
『寛永伝』によれば、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで死去する[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長篠の戦いでは武田側の布陣のうち左翼の山県昌景隊に甘利信頼と推定される「あまり衆」が属しており、同心として武川衆のうち米倉氏らが付属している[4]。

引用終了

 火縄銃からの銃弾から防御できる竹束を発明したのは実は武田信玄の家臣である米倉 丹後守と言う事なですが、その米倉 丹後守が竹束も活用せずに長篠の戦いで戦死、しかもそうした武田軍が長篠の戦いで竹束もろくに使わずに無謀な騎馬軍団による突撃なんてするはずはありません。
 ところがです、長篠の戦の合戦絵図、合戦図屏風には竹束が書かれているものが有りません。
 つまり「これらの合戦絵図には真実が書かれていない」、と言う事になります。
 なのでこれらの合戦絵図は「不可解」なんです。
 考えられるのは、これの合戦絵図は徳川幕府による「軍事機密に関する情報統制」が敷かれていたせいではないか、と言う事です。


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