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仕組みとアプローチ -  孟宗竹と竹束 「竹束の補給戦」と「長篠の戦い」

2023-06-30 17:55:54 | 家康
 これまでの記事で書いた通りで、孟宗竹は少なくとも17世紀までは殆ど日本に存在していませんでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%81%E3%82%AF

モウソウチク(孟宗竹)はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。
(中略)
日本国内への移入
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出典検索?: "モウソウチク" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年5月)
日本では北海道から南西諸島まで広く分布する[2]。北限は函館市とされている[1]。

日本への移入時期は1728年、1736年など諸説ある[1]。

801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った、また1228年(安貞2年)に曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説あるが全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると元文元年3月に島津吉貴が、琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入し、元文3年に帰国すると吉貴のいる仙巌園に孟宗竹を献上したという。

引用終了

 と言う事で僅かには国内に有ったのかもしれないものの、竹束に利用する程は殆ど無かったと言う感じもします。
 ですが、もしかしたら戦国武将の中にはこの孟宗竹の銃弾防御機能、特に大鉄砲、大筒などに対する防御機能に目をつけてどこかで繁殖させていた可能性もゼロではありません。
 こんな状況だったわけですが、当時は城攻めや野戦などが頻繁に起きていた状況からすると、竹束の需要はかなり有ったはずと考えられます。
 また当時ならば真竹やハチクなどのタケノコもかなりの食糧だったはずなので、竹束にできるまで生育し固くなったものはそう多くなかった可能性はあるとも思えます。(タケノコと言うと孟宗竹の大きなタケノコをイメージしますが真竹などのタケノコは細いものの採りやすくてしかも結構美味しいんです)。
 武田軍が敵地に侵攻し、ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので、そう言う竹の確保があまり十分ではなく、一方で迎撃する側の織田・徳川勢の方は自分の領地などで多くの竹林の位置や竹の質や量についてのデータが十分にあり、その補給路も確保していたはずで、性能の良い竹束の補給戦ではどう考えても織田・徳川勢の方が有利だったと考えています。
 「竹束の補給戦」と言う観点でも織田・徳川勢の方が有利だったはずなのは言うまでも有りません。

20230630 17:55 追記 一部訂正
 本文にやや言葉足らずの部分が有りました。
 特に常識的に知られている事に過ぎませんが「ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」は正確には「ましてや長篠の戦いでは長篠城周辺の武田軍の砦である鳶ヶ巣山などの各砦と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」に訂正です。



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