本能寺の変が桶狭間の戦いと似た点が有る事は以前に記事にしましたが、一方で全く異なる点も有ります。
桶狭間の戦いでは今川義元だけでなく多くの指揮官クラス、そして一般兵もかなり落命、負傷したのですが、本能寺の変では落命したのが織田信長、信忠らと、指揮官クラスら少数であり、兵も極僅かに過ぎません。
残った織田家の信孝や信雄、戦闘のノウハウを知りつくしている重臣や指揮官クラス、そして一般兵らも殆んど残っているわけで、本能寺の変で襲撃など起こしても結局最終的に明智方は勝てないのではないか、となるのですが、では何故こうした襲撃事件が発生したのか?を考えて見たいと思います。
実際に本能寺で信長を襲撃したのが斉藤利三を主力とする部隊ですが、これは理解できます。
以前に記事にした通り、信長は斉藤利三に切腹命令を下していたようです。
似た例では徳川家康の祖父である松平清康が家臣の阿部正豊に切りつけられて落命した事件が「森山崩れ(守山崩れと書かれる事も有る)」ですが、家臣は主君が自分を処刑するのではないか?と過敏になって追い詰められる心理になったケースは当時少なくなかったと思われます。
信長から切腹命令を以前に受けた事が有る斉藤利三が「森山崩れ」と同様な事をするのは考えられる事なのではないでしょうか。
実際に信長が直接的に処刑とかをするので無くても、例えば毛利攻めなどに動員させ、危険度の高い戦闘に放り込む、言わば「捨て駒」に使う可能性も主君を恐れる家臣は考える事だってわけです。
また荒木村重が1578年に信長に謀反を起こした件もこのパターンに近いかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
荒木村重
(中略)
謀反
詳細は「有岡城の戦い」を参照
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。
引用終了
多くの家臣らは信長の性格を大体わかっていたのではないでしょうか。
ああ、そしてまたあの中川清秀が出て来ました。
この人、荒木村重に言ったのと同じ事を斉藤利三に言ったのではないでしょうか。
天正8年(1580年)に秀吉と交わした内誓紙が残っている中川清秀が秀吉の指図で斉藤利三を煽った、そんな構図が浮かび上がります。
それでは伊勢貞興が部隊の主力となり織田信忠を二条新殿で襲撃したのは何故なのでしょう。
これも以前に記事にした通りで当時は鞆にいて毛利氏に保護されていた征夷大将軍、足利義昭が密使などを使って直接、間接で伊勢貞興ら旧室町幕府奉公衆らに働きかけていたと見ています。
ただこれだけでは残る織田勢全体を伊勢貞興や斉藤利三ら、そして巻き込まれた明智光秀が殲滅できるはずはないわけで、やがて織田信雄、織田信孝らの跡継ぎ、そして殆んど温存されていた重臣や指揮官クラスや兵がやがて反撃に転じるて明智方が不利となる事は目に見えているのです。
そうであるならば斉藤利三のように切腹命令を受けた事が有るわけでもない伊勢貞興までが言わば自殺行為のような事を何故したのでしょうか。
この点が暫く疑問だったのですが、様々な事象を想定すると辻褄が合うようなロジックが構成されて来ます。
それは征夷大将軍、足利義昭が「毛利氏と協力して上洛する目途が立った」、と思い込んでそれを伊勢貞興らい伝えていたた可能性です。
足利義昭が上洛できれば明智光秀も「足利義昭を追放した信長を討った」と言う大義名分を得られるわけで、これならば細川藤孝、忠興親子、そして筒井順慶らも明智方に与した可能性は高かったと考えられます。
そして毛利氏は秀吉が京都へ戻れないように秀吉方との戦闘を長引かせれば、上杉氏、北条氏、高野衆、伊賀衆、雑賀衆の一部なども明智方になびいて国内は騒乱状態になっていたかも知れません。
毛利氏はそうした偽情報を足利義昭に信じ込ませ、足利義昭は秀吉と毛利氏の共謀関係を知らずに「征夷大将軍として上落できる手はずは出来てるから」と伊勢貞興らに襲撃命令を下していた事は十分想定できます。
ただ既に毛利氏と秀吉の言わば共謀グループは足利義昭を実際には上洛させないようにして明智光秀のハシゴを外した状態にした上で、こうしたプロセスの殆んど全てを把握していた秀吉は「中国おお返し」をして山崎の戦いで大勝出来た、と言う事だと(個人的な見方に過ぎませんが)考えています。
桶狭間の戦いでは今川義元だけでなく多くの指揮官クラス、そして一般兵もかなり落命、負傷したのですが、本能寺の変では落命したのが織田信長、信忠らと、指揮官クラスら少数であり、兵も極僅かに過ぎません。
残った織田家の信孝や信雄、戦闘のノウハウを知りつくしている重臣や指揮官クラス、そして一般兵らも殆んど残っているわけで、本能寺の変で襲撃など起こしても結局最終的に明智方は勝てないのではないか、となるのですが、では何故こうした襲撃事件が発生したのか?を考えて見たいと思います。
実際に本能寺で信長を襲撃したのが斉藤利三を主力とする部隊ですが、これは理解できます。
以前に記事にした通り、信長は斉藤利三に切腹命令を下していたようです。
似た例では徳川家康の祖父である松平清康が家臣の阿部正豊に切りつけられて落命した事件が「森山崩れ(守山崩れと書かれる事も有る)」ですが、家臣は主君が自分を処刑するのではないか?と過敏になって追い詰められる心理になったケースは当時少なくなかったと思われます。
信長から切腹命令を以前に受けた事が有る斉藤利三が「森山崩れ」と同様な事をするのは考えられる事なのではないでしょうか。
実際に信長が直接的に処刑とかをするので無くても、例えば毛利攻めなどに動員させ、危険度の高い戦闘に放り込む、言わば「捨て駒」に使う可能性も主君を恐れる家臣は考える事だってわけです。
また荒木村重が1578年に信長に謀反を起こした件もこのパターンに近いかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
荒木村重
(中略)
謀反
詳細は「有岡城の戦い」を参照
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。
引用終了
多くの家臣らは信長の性格を大体わかっていたのではないでしょうか。
ああ、そしてまたあの中川清秀が出て来ました。
この人、荒木村重に言ったのと同じ事を斉藤利三に言ったのではないでしょうか。
天正8年(1580年)に秀吉と交わした内誓紙が残っている中川清秀が秀吉の指図で斉藤利三を煽った、そんな構図が浮かび上がります。
それでは伊勢貞興が部隊の主力となり織田信忠を二条新殿で襲撃したのは何故なのでしょう。
これも以前に記事にした通りで当時は鞆にいて毛利氏に保護されていた征夷大将軍、足利義昭が密使などを使って直接、間接で伊勢貞興ら旧室町幕府奉公衆らに働きかけていたと見ています。
ただこれだけでは残る織田勢全体を伊勢貞興や斉藤利三ら、そして巻き込まれた明智光秀が殲滅できるはずはないわけで、やがて織田信雄、織田信孝らの跡継ぎ、そして殆んど温存されていた重臣や指揮官クラスや兵がやがて反撃に転じるて明智方が不利となる事は目に見えているのです。
そうであるならば斉藤利三のように切腹命令を受けた事が有るわけでもない伊勢貞興までが言わば自殺行為のような事を何故したのでしょうか。
この点が暫く疑問だったのですが、様々な事象を想定すると辻褄が合うようなロジックが構成されて来ます。
それは征夷大将軍、足利義昭が「毛利氏と協力して上洛する目途が立った」、と思い込んでそれを伊勢貞興らい伝えていたた可能性です。
足利義昭が上洛できれば明智光秀も「足利義昭を追放した信長を討った」と言う大義名分を得られるわけで、これならば細川藤孝、忠興親子、そして筒井順慶らも明智方に与した可能性は高かったと考えられます。
そして毛利氏は秀吉が京都へ戻れないように秀吉方との戦闘を長引かせれば、上杉氏、北条氏、高野衆、伊賀衆、雑賀衆の一部なども明智方になびいて国内は騒乱状態になっていたかも知れません。
毛利氏はそうした偽情報を足利義昭に信じ込ませ、足利義昭は秀吉と毛利氏の共謀関係を知らずに「征夷大将軍として上落できる手はずは出来てるから」と伊勢貞興らに襲撃命令を下していた事は十分想定できます。
ただ既に毛利氏と秀吉の言わば共謀グループは足利義昭を実際には上洛させないようにして明智光秀のハシゴを外した状態にした上で、こうしたプロセスの殆んど全てを把握していた秀吉は「中国おお返し」をして山崎の戦いで大勝出来た、と言う事だと(個人的な見方に過ぎませんが)考えています。