大坂の陣の前半である冬の陣で長距離のガルバリン砲を持っている事で戦闘に望んだと言う事がネタバレした家康が、豊臣がこれを利用しないうちに早急に戦闘の終結を急いだというのが夏の陣の一面と筆者は見るわけですが、ではその家康がどう言う経緯で当時としては高性能な大砲を手に入れたのか? についてもう少し記事にしたいと思います。
イギリスやオランダから射程距離の長いガルバリン砲やせーカー砲を購入した経緯には、確かにウィリアム・アダムス(三浦安針)やヤン・ヨーステン(耶楊子こと)が少なからず関わっていたのは確かなようですが、それだけではない、と筆者は見ています。
オランダがフィリピンを攻撃したのが1610年からというのを調べた事は以前の記事で書きましたが、更によく調べると、それよりもかなり前から攻撃は始まっているのがわかりました。
この件を含むフィリピンの状況は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/timeline.html
1578.03.?? イギリスのフランシス・ドレイク船隊、ガレオン船を襲う。このあと、私掠船による攻撃が相次ぐ。 ZAIDE1,P.336.
1578.06.?? スペイン、ホロ島攻撃。モロ族(ムスリム系マレー人)征服戦争はじまる。 ZAIDE1,P.308.
1581.??.?? マニラに最初の中国人居住区(パリアン)。 ZAIDE1,P.278.
1582.??.?? フェリペ2世の命により、フィリピンからモルッカ諸島征服隊が送られる。オランダとのモルッカ諸島争奪が始まる。 ZAIDE1,P.229.
1584.06.15 王立アウディエンシア(最高司法院)開設。 ZAIDE1,P.166.
1585.??.?? パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱。 ZAIDE1,P.345.
1589.08.09 「奴隷制」廃止の勅令。 ZAIDE1,P.174.
1589.??.?? カガヤン、イロコス地方で貢税制度に対する反乱。 ZAIDE1,P.346.
1592.??.?? フィリピンから秀吉に対する総督使節としてフアン・デ・コボ神父がおくられる。 ZAIDE1,P.225.
1593.??.?? 木版印刷による祈祷書「ドクトリナ・クリスチアーナ」が出版される。 ZAIDE1,P.194.
1596.??.?? スペインによる最初のミンダナオ征服事業。 ZAIDE1,P.308;phelan, p.137.
1597.02.05 秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。 ZAIDE1,P.227.
1599.07.?? モロ族、ヴィサヤ諸島を攻撃。モロ族の反撃が始まる(このあと、1600、1602年)。 ZAIDE1,P.309.
1600.12.04 マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。 ZAIDE1,P.257.
1601.11.?? イゴロト族の反乱。 ZAIDE1,P.347.
1603.??.?? マニラで最初の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.278.
1610.??.?? オランダ、2度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.259.
1611.??.?? サント・トマス大学開校。 ZAIDE2,P.91.
1606.??.?? マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱。 ZAIDE1,P.297.
1610.??.?? 最初のタガログ語文法書。 zaide, p.156.
1614.11.21. 日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。 ZAIDE1,P.300.
1616.??.?? オランダ、3度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.260.
1617.??.?? オランダ、4度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.261.
1621.01.?? イギリス・オランダ連合船隊、マニラ湾を封鎖(-1622.5.)。 ZAIDE1,P.262.
1623.??.?? マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)。 ZAIDE1,P.291.
1620.??.?? スペイン宮廷、財政負担を理由とするフィリピン放棄の提案を却下。 ZAIDE1,P.161.
1621.11.?? カガヤン地方で反乱。 ZAIDE1,P.347.
1622.01.?? ボホール島のタンブロット、レイテ島のバンカウによる反キリスト教反乱。 ZAIDE1,P.348; Phelan, pp.147-148.
1624.08.?? 再び、オランダ・スペイン海戦。 ZAIDE1,P.263.
引用終了
オランダの攻撃が1610年からで大坂の陣まで1回だけであれば、確かに現地人や外国からの滞在者にはわからなかったかも知れませんが、これだけ前から攻撃があれば、その攻撃状況やスペイン側の迎撃状況を目撃したり、間接的に見聞きしていたのはオランダ、スペインの関係者だけでなく現地人、現地に居留している諸外国人達も同様だったはずです。
そしてその中には当然、少なからぬ日本人もいたのではないかと推測されます。
それは何も日本を追放された者だけでなく貿易商、現地で雇われた傭兵など多数いたのではないでしょうか。
このような状況に於いて、徳川方はこうした日本人、或いはそれ以外の国の居留者からオランダの大砲の射程距離や精度んどの性能、そしてそれだけでなくスペインの大砲の射程距離や精度のレベルなどについて情報を有る程度は得ていたのではないか、と考えられるのです。
仮にスペインが射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかったとしたならば、簡単にイギリスやオランダにフィリピンを制圧されていたはずなのですなのが現実にはそうではなかった、と言う事からスペインもそれなりの性能、つまりイギリス、オランダに匹敵するかそれに近い射程距離の大砲を持っていたと容易に推定されます。
そうした状況は現地にいる日本人他諸外国の居留者にもわかるはずなのであれば、家康は当然、表面上は商人や傭兵でありながら実は情報収集活動を主な任務とする諜報員のような者を現地に少なからず配置させていたのではないでしょうか。
そして収集された情報はウィリアム・アダムスかヤン・ヨーステン経由ではわからないはわからないようなものであった事だったと思われます。
家康に情報提供していたこの二人はイギリス人とオランダ人ですから、スペイン側の大砲が実は結構なレベルで射程距離が長く、もしかするとほぼ同等の性能かも知れないと言う事はあまり家康には言わなかった可能性が有ります。
そうした状況を家康も有る程度想定していたとすれば、家康を始めとする徳川方は現地に網を張り直接フィリピンから情報を得て、「考えている以上の高性能な大砲を持っているかも知れないスペイン、ポルトガルが豊臣氏や反徳川、不満分子などに接近しない内に豊臣氏を叩こう」と思い始めたのも大坂の陣に至った一つの要因かと思われます。
では一方、豊臣方ではこうした情報収集をフィリピンで直接行っていたのか?と言うと、どうやらそう言う事は全くと言って良い程に行っていなかったのではないでしょうか。
豊臣氏が旧式で射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかった、或いは徳川方が射程距離が長いガルバリン砲、せーカー砲を持っている事がわからずに篭城戦を選択したと言うがその証です。
また1609年にはスペインとオランダが休戦協定をしますが、その後も東南アジアではフィリピンでスペインとオランダが、インドネシアではイギリスとオランダが覇権争いを行っている状況であり、更にそこに一部の日本人も関係して、その一つが1623年のアンボイナ事件であるのは以前の記事の中で書きました。
引用開始(一部抜粋)
http://coconken.webcrow.jp/DATA/4408netherlands.htm
1,609 4 9 財政難でスペインとネーデルラントが12年間の休戦協定を締結、独立戦争に幕
引用終了
と言う事は、豊臣氏もそのあたりの状況、つまりこれだけ決着がつかないと言う事はスペインとオランダの持つ大砲の性能はそれ程変わらないという事、更に休戦とは言うものの競合関係である事など、更に良く状況把握していれば、或いは日本にいる宣教師やキリシタンと連携して徳川方にもっと対抗できたかたかどうかと言う事になります。
ですが、実際に豊臣氏はそうした動きは全くしていない、或いはせいぜい1612年の徳川方による禁教令強化あたりからやっと国内でスペイン勢の存在価値に気がつき始めたのかどうかと言う程度だったのではないでしょうか。
では何故こう言う事になってしまったのか? と言えば、既に亡き秀吉が伴天連追放令を発してスペイン、ポルトガル、キリシタン達に対立する姿勢を採った以上、秀吉の御威光にすがって権威を維持しようとする遺族や家臣はそれには逆らえない、特に家臣達は亡き秀吉様の意向などとても反故にはできない、と言う立場だったのではないかと考えています。
こうした思考停止、思考硬直性が有ったとしても、仮に秀吉の跡継ぎたる子が十分に成長していれば、父親の意向を覆す政策を敢えて採って海外でスペイン勢と交渉すると言う手もあったのでしょうが、如何せん秀吉の子は秀次が切腹、秀頼はまだ若く殆ど城に篭りっきりで、しかも戦闘や調略、諜報戦などの実践経験があまりにも少ない、と言うか皆無に近く、殆ど家臣が切り盛りしていた、そしてその家臣も次々と死去してノウハウを伝授せずに秀頼が取り残されたと言う実情では、スペイン、ポルトガル、キリシタンの力を背景に徳川方に反撃に転ずるなどと言う芸当のは所詮無理だったのかも知れません。
しかし一方、スペイン勢側は、ガルバリン砲などの高性能な大砲が既に日本で知られているのならば仕方なく同レベルのものは売っても良いとは思っていたかもしれず、更には豊臣氏が従来の伴天連追放政策を止め、逆に伴天連支援の基本政策を採った場合、或いはオランダやイギリスなどの競合国が日本で更に力を増すようなら反オランダ、イギリスの日本陣営側について良いと、或いは考えていたのではないでしょうか。
おそらくスペイン勢がその判断の為の様子見をしているうちに徳川軍が速攻で豊臣方を攻め滅ぼしてしまったように見えます。
ヨーロッパに於ける17世紀の危機の一因には、世界的な寒冷化の他に、銀の産出が減った事も要因の一つであるようですから、豊臣方も銀と言う報酬でいつ逃げられるかわからない兵士を募る位なら、せめてその1/3でも配分して高性能な大砲等でも購入していれば或いばかなりの時間稼ぎは出来たのではないでしょうか。
もう一つの可能性、明朝と連携して徳川方と対抗すると言う手を更に加える手法については、当時の明朝が既に17世紀に寒冷化も一部の要因となって弱体化しつつあり、とても勢力拡大策などの余裕が無かったので無理だったろうと思われます。
豊臣方は情報収集だけを行う程度ならば徳川方と対立するリスクは小さいのにそれをしなかったと言う失策で、柔軟な姿勢をとらず、強便な姿勢のまま徳川方に対抗する選択をするような判断ミスをしてしまった、と言うのも大坂の陣の姿ではないかと思います。
豊臣方が仮にスペイン等外国勢との連携を想定していたならば、大坂の陣の緒戦である木津川口の戦いの敗北の後、あっさり海上輸送ルートを放棄せずに執拗に何度もここを確保しようと攻撃を繰り返したはずではないでしょうか。
この時点で既に外国や外様大名などの水運、水軍の支援が期待出来ない状況であった事を豊臣側自身がわかっていたとしか思えません。
イギリスやオランダから射程距離の長いガルバリン砲やせーカー砲を購入した経緯には、確かにウィリアム・アダムス(三浦安針)やヤン・ヨーステン(耶楊子こと)が少なからず関わっていたのは確かなようですが、それだけではない、と筆者は見ています。
オランダがフィリピンを攻撃したのが1610年からというのを調べた事は以前の記事で書きましたが、更によく調べると、それよりもかなり前から攻撃は始まっているのがわかりました。
この件を含むフィリピンの状況は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/timeline.html
1578.03.?? イギリスのフランシス・ドレイク船隊、ガレオン船を襲う。このあと、私掠船による攻撃が相次ぐ。 ZAIDE1,P.336.
1578.06.?? スペイン、ホロ島攻撃。モロ族(ムスリム系マレー人)征服戦争はじまる。 ZAIDE1,P.308.
1581.??.?? マニラに最初の中国人居住区(パリアン)。 ZAIDE1,P.278.
1582.??.?? フェリペ2世の命により、フィリピンからモルッカ諸島征服隊が送られる。オランダとのモルッカ諸島争奪が始まる。 ZAIDE1,P.229.
1584.06.15 王立アウディエンシア(最高司法院)開設。 ZAIDE1,P.166.
1585.??.?? パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱。 ZAIDE1,P.345.
1589.08.09 「奴隷制」廃止の勅令。 ZAIDE1,P.174.
1589.??.?? カガヤン、イロコス地方で貢税制度に対する反乱。 ZAIDE1,P.346.
1592.??.?? フィリピンから秀吉に対する総督使節としてフアン・デ・コボ神父がおくられる。 ZAIDE1,P.225.
1593.??.?? 木版印刷による祈祷書「ドクトリナ・クリスチアーナ」が出版される。 ZAIDE1,P.194.
1596.??.?? スペインによる最初のミンダナオ征服事業。 ZAIDE1,P.308;phelan, p.137.
1597.02.05 秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。 ZAIDE1,P.227.
1599.07.?? モロ族、ヴィサヤ諸島を攻撃。モロ族の反撃が始まる(このあと、1600、1602年)。 ZAIDE1,P.309.
1600.12.04 マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。 ZAIDE1,P.257.
1601.11.?? イゴロト族の反乱。 ZAIDE1,P.347.
1603.??.?? マニラで最初の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.278.
1610.??.?? オランダ、2度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.259.
1611.??.?? サント・トマス大学開校。 ZAIDE2,P.91.
1606.??.?? マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱。 ZAIDE1,P.297.
1610.??.?? 最初のタガログ語文法書。 zaide, p.156.
1614.11.21. 日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。 ZAIDE1,P.300.
1616.??.?? オランダ、3度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.260.
1617.??.?? オランダ、4度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.261.
1621.01.?? イギリス・オランダ連合船隊、マニラ湾を封鎖(-1622.5.)。 ZAIDE1,P.262.
1623.??.?? マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)。 ZAIDE1,P.291.
1620.??.?? スペイン宮廷、財政負担を理由とするフィリピン放棄の提案を却下。 ZAIDE1,P.161.
1621.11.?? カガヤン地方で反乱。 ZAIDE1,P.347.
1622.01.?? ボホール島のタンブロット、レイテ島のバンカウによる反キリスト教反乱。 ZAIDE1,P.348; Phelan, pp.147-148.
1624.08.?? 再び、オランダ・スペイン海戦。 ZAIDE1,P.263.
引用終了
オランダの攻撃が1610年からで大坂の陣まで1回だけであれば、確かに現地人や外国からの滞在者にはわからなかったかも知れませんが、これだけ前から攻撃があれば、その攻撃状況やスペイン側の迎撃状況を目撃したり、間接的に見聞きしていたのはオランダ、スペインの関係者だけでなく現地人、現地に居留している諸外国人達も同様だったはずです。
そしてその中には当然、少なからぬ日本人もいたのではないかと推測されます。
それは何も日本を追放された者だけでなく貿易商、現地で雇われた傭兵など多数いたのではないでしょうか。
このような状況に於いて、徳川方はこうした日本人、或いはそれ以外の国の居留者からオランダの大砲の射程距離や精度んどの性能、そしてそれだけでなくスペインの大砲の射程距離や精度のレベルなどについて情報を有る程度は得ていたのではないか、と考えられるのです。
仮にスペインが射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかったとしたならば、簡単にイギリスやオランダにフィリピンを制圧されていたはずなのですなのが現実にはそうではなかった、と言う事からスペインもそれなりの性能、つまりイギリス、オランダに匹敵するかそれに近い射程距離の大砲を持っていたと容易に推定されます。
そうした状況は現地にいる日本人他諸外国の居留者にもわかるはずなのであれば、家康は当然、表面上は商人や傭兵でありながら実は情報収集活動を主な任務とする諜報員のような者を現地に少なからず配置させていたのではないでしょうか。
そして収集された情報はウィリアム・アダムスかヤン・ヨーステン経由ではわからないはわからないようなものであった事だったと思われます。
家康に情報提供していたこの二人はイギリス人とオランダ人ですから、スペイン側の大砲が実は結構なレベルで射程距離が長く、もしかするとほぼ同等の性能かも知れないと言う事はあまり家康には言わなかった可能性が有ります。
そうした状況を家康も有る程度想定していたとすれば、家康を始めとする徳川方は現地に網を張り直接フィリピンから情報を得て、「考えている以上の高性能な大砲を持っているかも知れないスペイン、ポルトガルが豊臣氏や反徳川、不満分子などに接近しない内に豊臣氏を叩こう」と思い始めたのも大坂の陣に至った一つの要因かと思われます。
では一方、豊臣方ではこうした情報収集をフィリピンで直接行っていたのか?と言うと、どうやらそう言う事は全くと言って良い程に行っていなかったのではないでしょうか。
豊臣氏が旧式で射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかった、或いは徳川方が射程距離が長いガルバリン砲、せーカー砲を持っている事がわからずに篭城戦を選択したと言うがその証です。
また1609年にはスペインとオランダが休戦協定をしますが、その後も東南アジアではフィリピンでスペインとオランダが、インドネシアではイギリスとオランダが覇権争いを行っている状況であり、更にそこに一部の日本人も関係して、その一つが1623年のアンボイナ事件であるのは以前の記事の中で書きました。
引用開始(一部抜粋)
http://coconken.webcrow.jp/DATA/4408netherlands.htm
1,609 4 9 財政難でスペインとネーデルラントが12年間の休戦協定を締結、独立戦争に幕
引用終了
と言う事は、豊臣氏もそのあたりの状況、つまりこれだけ決着がつかないと言う事はスペインとオランダの持つ大砲の性能はそれ程変わらないという事、更に休戦とは言うものの競合関係である事など、更に良く状況把握していれば、或いは日本にいる宣教師やキリシタンと連携して徳川方にもっと対抗できたかたかどうかと言う事になります。
ですが、実際に豊臣氏はそうした動きは全くしていない、或いはせいぜい1612年の徳川方による禁教令強化あたりからやっと国内でスペイン勢の存在価値に気がつき始めたのかどうかと言う程度だったのではないでしょうか。
では何故こう言う事になってしまったのか? と言えば、既に亡き秀吉が伴天連追放令を発してスペイン、ポルトガル、キリシタン達に対立する姿勢を採った以上、秀吉の御威光にすがって権威を維持しようとする遺族や家臣はそれには逆らえない、特に家臣達は亡き秀吉様の意向などとても反故にはできない、と言う立場だったのではないかと考えています。
こうした思考停止、思考硬直性が有ったとしても、仮に秀吉の跡継ぎたる子が十分に成長していれば、父親の意向を覆す政策を敢えて採って海外でスペイン勢と交渉すると言う手もあったのでしょうが、如何せん秀吉の子は秀次が切腹、秀頼はまだ若く殆ど城に篭りっきりで、しかも戦闘や調略、諜報戦などの実践経験があまりにも少ない、と言うか皆無に近く、殆ど家臣が切り盛りしていた、そしてその家臣も次々と死去してノウハウを伝授せずに秀頼が取り残されたと言う実情では、スペイン、ポルトガル、キリシタンの力を背景に徳川方に反撃に転ずるなどと言う芸当のは所詮無理だったのかも知れません。
しかし一方、スペイン勢側は、ガルバリン砲などの高性能な大砲が既に日本で知られているのならば仕方なく同レベルのものは売っても良いとは思っていたかもしれず、更には豊臣氏が従来の伴天連追放政策を止め、逆に伴天連支援の基本政策を採った場合、或いはオランダやイギリスなどの競合国が日本で更に力を増すようなら反オランダ、イギリスの日本陣営側について良いと、或いは考えていたのではないでしょうか。
おそらくスペイン勢がその判断の為の様子見をしているうちに徳川軍が速攻で豊臣方を攻め滅ぼしてしまったように見えます。
ヨーロッパに於ける17世紀の危機の一因には、世界的な寒冷化の他に、銀の産出が減った事も要因の一つであるようですから、豊臣方も銀と言う報酬でいつ逃げられるかわからない兵士を募る位なら、せめてその1/3でも配分して高性能な大砲等でも購入していれば或いばかなりの時間稼ぎは出来たのではないでしょうか。
もう一つの可能性、明朝と連携して徳川方と対抗すると言う手を更に加える手法については、当時の明朝が既に17世紀に寒冷化も一部の要因となって弱体化しつつあり、とても勢力拡大策などの余裕が無かったので無理だったろうと思われます。
豊臣方は情報収集だけを行う程度ならば徳川方と対立するリスクは小さいのにそれをしなかったと言う失策で、柔軟な姿勢をとらず、強便な姿勢のまま徳川方に対抗する選択をするような判断ミスをしてしまった、と言うのも大坂の陣の姿ではないかと思います。
豊臣方が仮にスペイン等外国勢との連携を想定していたならば、大坂の陣の緒戦である木津川口の戦いの敗北の後、あっさり海上輸送ルートを放棄せずに執拗に何度もここを確保しようと攻撃を繰り返したはずではないでしょうか。
この時点で既に外国や外様大名などの水運、水軍の支援が期待出来ない状況であった事を豊臣側自身がわかっていたとしか思えません。