大阪の陣の背景の一部です。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は違えど、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。
引用終了
大阪の陣ではどう見ても大阪近辺エリアでしか豊臣方は反撃できないわけで、危なそうなら徳川方は無理せずに一度引いてから囲い込んで兵力にものを言わせて時間をかけて叩いてしまえば良いのですが、時間をかけて自軍の犠牲を少なくするこう言う戦闘方法を採らず、短時間で大阪城を落としにかかっている点が気になります。
徳川方にも少なからず戦死者が出たようで、上位クラスの武士である本多忠朝(本多忠勝の子)他が戦死したりもするような無理をする急ぎ方をするのですが、一体何故なのか、について考察して見ました。
理由は多々考えられるのですが、一つはやはり家康の高齢ではないでしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは、武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において死亡した。享年75。家康は当時としては長寿の部類で、徳川歴代将軍の中でも15代・慶喜に次いで長命であった。
『東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世の句として詠んでいる。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは[注釈 24]、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている[45][46]。
引用終了
家康の死因は胃がんとの説が多いのですが、高齢者の胃がんならばその数年前から既に自覚症状はあった可能性が高く、家康自身もそう長くない事に気が付いていたと思われます。
既に大阪の陣の時、病状の程度によらず、大阪周辺には家康はいなかったと筆者は考えています。
理由は単純で、「何も危険な大阪周辺になどいる必要はない。遠くに居ても豊臣方が離れた所まで攻めて来る事は無い。戦後処理等の必要な交渉などの時だけ行けば良い」。ただそれだけです。
大阪周辺で指揮を取るのは当然影武者で、「家康の墓がいろんな場所にあるのも家康には影武者が大勢いたから」、と考えています。
では家康は何故生きているうちに豊臣氏との間に決着をつけたかったのか?
要因はいくつかあるのですが、一つは家康の死後、豊臣秀頼が復権する可能性がゼロではなかったと言う事です。
徳川内部の跡目争いで豊臣方につけ込まれたり、旧豊臣の外様大名、浪人等の不満分子、復讐心のある者がまだ多かった以上、そうした勢力が何かのきっかけで合流し、一斉蜂起されるリスクがまだあったと思われます。
更には家康の布教禁止開始は1612年だったのですが 再度キリスト教に戻りたい元キリシタン大名、商人、他は豊臣方がキリシタン容認に転ずればそちらに付く可能性があったはずです。
家康は本格的なキリスト教禁止を進める前に豊臣氏、その他不満分子の一掃をしておきたかったのではないでしょうか。
実際に1616年から秀忠がキリスト教禁止強化をしています。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
慶長の禁教令
江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。
(中略)
鎖国令と島原の乱
詳細は「鎖国」および「島原の乱」を参照
元和2年(1616年)に幕府(秀忠)は最初の鎖国令(厳密には鎖国令ではない)「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。以後、鎖国体制が構築されていくが、それは宣教師の潜入を防ぐ、海外渡航した日本人がキリシタンになるのを防ぐという側面を持っていた(ただし、鎖国自体の目的はキリスト教の弾圧ではない)。鎖国を完成させた家光は鎖国令の中でキリスト教の弾圧を直接指示したことはなかったが、長崎奉行への大綱の中でキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。
また、鎖国令が構築されていく中で起こった島原の乱は参加した農民がキリスト教を拠り所にしていたという点で幕府に大きな衝撃を与えた。
引用終了
もう一つ、これは自然災害と関係しますが、1600年にワイナプチナが巨大噴火した後に世界が寒冷化してる状況が、家康にも少しわかっていたのではないか?と思えるのです。
引用開始(一部抜粋)
http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2014/03/blog-post_16.html
中国・明末の寒冷化
中国・明末は、地球規模の寒冷化が見られた「小氷期」および「マウンダー最小期」にあたりますが、実際にこの時期に中国でも寒冷化がみられたのでしょうか?
このことを確認する上で重要となるのは、自然科学的な研究以外には、文献的史料です。
実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。
雲南(1601年と1610年)
雲南は四季を通じて気候温暖で、例年は冬でも雪が降らない土地といわれていましたが、17世紀に入り夏(6月)や晩秋(9月)にも大雪が降ったとされています。
『雲南通志』「明神宗万暦二十九年(1601年)九月、雲南大雨雪」
『雲南通志』「明神宗万暦三十八年(1610年)四月壬寅、貴州暴雪、形如土砖、居民片瓦無存者」
『明史記載』「夏六月、雲南臨安大風甚寒、民多有凍死死者、取り雀亦多凍死。」
引用終了
流石にロシアでの飢饉までもが家康の耳に届いていたかはわかりませんが、明朝の状況あたりは貿易商経由で有る程度はわかっていたのではないか?
更には関ヶ原の戦いの1600年から後に大地震が連発します。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
17世紀
江戸時代(1603年頃 - 1868年頃)
17世紀前半・・津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM 8.6クラスの地震が発生したと推定されている。1611年または1635年説あり[69]。
1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(南海トラフ連動型地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) - M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
1608年12月30日(慶長13年11月23日)仙台で地震 - 津波で50人死亡[70][注 11]。
1611年
9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M 8.1(Mw >8.5)。十勝・根室沖のM 9クラスとする説がある。一方、東北地方太平洋側[注 12]で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補ともされる[43][注 13][71]。伊達領で大津波による死者約2,000〜5,000人。
1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震 - M 7.7。震源は直江津沖。震域は会津、伊豆、紀伊、山城、松山諸国まで及んだ。越後高田藩では地震と津波により死者多数とする記録もあるが疑わしい[72]、京都で寺社・民家が多数壊れ[注 14]死者も出たことから、震源が京都沖の局所的な地震とする見解もある[73]。同日に、伊豆と小田原と広い範囲で有感。津波が発生し千葉県銚子市の飯沼観音の境内まで到達したとの記録がある[注 15]。池上本門寺五重塔が傾く[注 16]。
1615年6月26日(慶長20年6月1日) 相模・江戸で地震 - M 6 1⁄4〜3⁄4、小田原、江戸で被害。
引用終了
そして以前にも書きましたが、1583年から1584年の三河の水害、凶作で苦労した経験、秀吉から攻め込まれるところを1585年の天正地震で救われた、別の言い方をすれば秀吉と言う支配者に対して負けきらずに済み、やがて逆転に結びつき大阪の陣となっている、と言う事が強く頭の中に有り、「自然災害によっていつ政権がひっくり返されるかわからない以上、少しでも支配体制を強化しておくべき」と考えたのではないでしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は違えど、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。
引用終了
大阪の陣ではどう見ても大阪近辺エリアでしか豊臣方は反撃できないわけで、危なそうなら徳川方は無理せずに一度引いてから囲い込んで兵力にものを言わせて時間をかけて叩いてしまえば良いのですが、時間をかけて自軍の犠牲を少なくするこう言う戦闘方法を採らず、短時間で大阪城を落としにかかっている点が気になります。
徳川方にも少なからず戦死者が出たようで、上位クラスの武士である本多忠朝(本多忠勝の子)他が戦死したりもするような無理をする急ぎ方をするのですが、一体何故なのか、について考察して見ました。
理由は多々考えられるのですが、一つはやはり家康の高齢ではないでしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは、武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において死亡した。享年75。家康は当時としては長寿の部類で、徳川歴代将軍の中でも15代・慶喜に次いで長命であった。
『東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世の句として詠んでいる。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは[注釈 24]、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている[45][46]。
引用終了
家康の死因は胃がんとの説が多いのですが、高齢者の胃がんならばその数年前から既に自覚症状はあった可能性が高く、家康自身もそう長くない事に気が付いていたと思われます。
既に大阪の陣の時、病状の程度によらず、大阪周辺には家康はいなかったと筆者は考えています。
理由は単純で、「何も危険な大阪周辺になどいる必要はない。遠くに居ても豊臣方が離れた所まで攻めて来る事は無い。戦後処理等の必要な交渉などの時だけ行けば良い」。ただそれだけです。
大阪周辺で指揮を取るのは当然影武者で、「家康の墓がいろんな場所にあるのも家康には影武者が大勢いたから」、と考えています。
では家康は何故生きているうちに豊臣氏との間に決着をつけたかったのか?
要因はいくつかあるのですが、一つは家康の死後、豊臣秀頼が復権する可能性がゼロではなかったと言う事です。
徳川内部の跡目争いで豊臣方につけ込まれたり、旧豊臣の外様大名、浪人等の不満分子、復讐心のある者がまだ多かった以上、そうした勢力が何かのきっかけで合流し、一斉蜂起されるリスクがまだあったと思われます。
更には家康の布教禁止開始は1612年だったのですが 再度キリスト教に戻りたい元キリシタン大名、商人、他は豊臣方がキリシタン容認に転ずればそちらに付く可能性があったはずです。
家康は本格的なキリスト教禁止を進める前に豊臣氏、その他不満分子の一掃をしておきたかったのではないでしょうか。
実際に1616年から秀忠がキリスト教禁止強化をしています。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
慶長の禁教令
江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。
(中略)
鎖国令と島原の乱
詳細は「鎖国」および「島原の乱」を参照
元和2年(1616年)に幕府(秀忠)は最初の鎖国令(厳密には鎖国令ではない)「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。以後、鎖国体制が構築されていくが、それは宣教師の潜入を防ぐ、海外渡航した日本人がキリシタンになるのを防ぐという側面を持っていた(ただし、鎖国自体の目的はキリスト教の弾圧ではない)。鎖国を完成させた家光は鎖国令の中でキリスト教の弾圧を直接指示したことはなかったが、長崎奉行への大綱の中でキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。
また、鎖国令が構築されていく中で起こった島原の乱は参加した農民がキリスト教を拠り所にしていたという点で幕府に大きな衝撃を与えた。
引用終了
もう一つ、これは自然災害と関係しますが、1600年にワイナプチナが巨大噴火した後に世界が寒冷化してる状況が、家康にも少しわかっていたのではないか?と思えるのです。
引用開始(一部抜粋)
http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2014/03/blog-post_16.html
中国・明末の寒冷化
中国・明末は、地球規模の寒冷化が見られた「小氷期」および「マウンダー最小期」にあたりますが、実際にこの時期に中国でも寒冷化がみられたのでしょうか?
このことを確認する上で重要となるのは、自然科学的な研究以外には、文献的史料です。
実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。
雲南(1601年と1610年)
雲南は四季を通じて気候温暖で、例年は冬でも雪が降らない土地といわれていましたが、17世紀に入り夏(6月)や晩秋(9月)にも大雪が降ったとされています。
『雲南通志』「明神宗万暦二十九年(1601年)九月、雲南大雨雪」
『雲南通志』「明神宗万暦三十八年(1610年)四月壬寅、貴州暴雪、形如土砖、居民片瓦無存者」
『明史記載』「夏六月、雲南臨安大風甚寒、民多有凍死死者、取り雀亦多凍死。」
引用終了
流石にロシアでの飢饉までもが家康の耳に届いていたかはわかりませんが、明朝の状況あたりは貿易商経由で有る程度はわかっていたのではないか?
更には関ヶ原の戦いの1600年から後に大地震が連発します。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
17世紀
江戸時代(1603年頃 - 1868年頃)
17世紀前半・・津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM 8.6クラスの地震が発生したと推定されている。1611年または1635年説あり[69]。
1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(南海トラフ連動型地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) - M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
1608年12月30日(慶長13年11月23日)仙台で地震 - 津波で50人死亡[70][注 11]。
1611年
9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M 8.1(Mw >8.5)。十勝・根室沖のM 9クラスとする説がある。一方、東北地方太平洋側[注 12]で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補ともされる[43][注 13][71]。伊達領で大津波による死者約2,000〜5,000人。
1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震 - M 7.7。震源は直江津沖。震域は会津、伊豆、紀伊、山城、松山諸国まで及んだ。越後高田藩では地震と津波により死者多数とする記録もあるが疑わしい[72]、京都で寺社・民家が多数壊れ[注 14]死者も出たことから、震源が京都沖の局所的な地震とする見解もある[73]。同日に、伊豆と小田原と広い範囲で有感。津波が発生し千葉県銚子市の飯沼観音の境内まで到達したとの記録がある[注 15]。池上本門寺五重塔が傾く[注 16]。
1615年6月26日(慶長20年6月1日) 相模・江戸で地震 - M 6 1⁄4〜3⁄4、小田原、江戸で被害。
引用終了
そして以前にも書きましたが、1583年から1584年の三河の水害、凶作で苦労した経験、秀吉から攻め込まれるところを1585年の天正地震で救われた、別の言い方をすれば秀吉と言う支配者に対して負けきらずに済み、やがて逆転に結びつき大阪の陣となっている、と言う事が強く頭の中に有り、「自然災害によっていつ政権がひっくり返されるかわからない以上、少しでも支配体制を強化しておくべき」と考えたのではないでしょうか。