goo blog サービス終了のお知らせ 

くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ!上越[御旗の下に×一ノ太刀:上越への道]

2007年08月07日 | 参陣記
平成18年8月15日,朝。
天気晴朗なれども、靄が掛かっていて、湿気が多くて蒸す陽気。
これからの天候,陽気を推して知ると、なんだか先が思いやられますが...。

出発の地は、3年続けて2日前から滞在している栃木南部に在る慈覚大師出生の町。
“関東の高野山”と称される山寺の麓にある駅から直江津へ,まずは高崎から上越新幹線に乗換えるべく、ローカル線に揺られて向いました。
ちなみにこの“山”,良質の石が採れる事で有名なのですが、そこが、(特撮)ドラマの格好なロケーションとかで、数多の戦いが繰り広げられているようです。
乗り込んだのは、前2年と同じ時間帯の電車。

関東平野の北端を、鈍行電車に揺られて高崎まで,1時間ほど掛けて向かいました。

途中駅の国定駅は、幕末の任侠として有名な国定忠治こと長岡忠次郎の故郷。

墓もここにあるそうですが、そこまではかなりの距離があるようです。



ただ、途中の新前橋にて同駅止まりの車両を切離すのに5分停車する間に、渋川から高崎に向かう上越線普通電車が隣ホームから先発するので、それに乗換えて向かいました。

高崎は、関東より直江津(上越)へ向うルートの分岐点。
一つは、長野経由の信越線ルート。
もう一つは、越後湯沢(もしくは長岡)経由の上越線ルートで、とことん安く上げるならば、下段。
全てJRで繋がっているので、基本運賃のみで行け,“青春18きっぷ”も勿論使えるので、一度ならず考えたのですが...水上と越後湯沢の間は一日に6本程度しか走っていないので、乗継を読み誤るとちと大変なことになってしまいます。
一方の信越ルートだと、小諸上田長野(松代・善光寺平)など、途中下車したくなる街が多く、長野から先,直江津までも、鈍行のみで1時間半も掛かりますが、1時間に1本程度はあるので比較的安心できます。
ゆえに、このルートも考えました...
ただ、惜しむらくは長野新幹線の為に横川軽井沢との間が廃止されてしまったこと。
以前は、このルートで直江津まで特急電車が走っていましたが...。
今回もまた一番無難に,時間と費用が然程に掛からない越後湯沢で北越急行鉄道(ほくほく線)に乗って上越(直江津)へと向かいました。

高崎より,接続10分の上越新幹線[Maxとき311号](新潟行き/後8両は越後湯沢止まり)に乗って2つ先,越後の玄関口である越後湯沢へ向いました。

栃木を発ってほぼ2時間。
上越への近道口たるここ,越後湯沢に着いたのは10時半の少し前。
ここから先は、北越急行(ほくほく線)を利用するのが、一番早くて勝手が良いのですが、普通(快速)で行くか特急[はくたか]を利用するかで迷ったので、調べてみると...
昨夏までは特急「はくたか6号」が越後湯沢を10時31分に出発していたので、乗継もよかったのですが、その後にダイヤ改正をしたのか,この列車が無くなっていて、20分も後の発車となっていました。
なのでその前,10時34分発の普通(上越線内六日町まで通過)にて行く事としました。
但し、これは2両編成の全席自由車なので、座席確保の為に新幹線の扉が開いた瞬間,ダッシュダッシュで階下のほくほく線ホームへと向いました。
これが功を奏したか、ホームには一番乗りを果し、座席確保も確実!かと思いきや、その先には、信じられない光景が。
ななななんと!既に座席は女子高生に占拠されており、車内も満員状態,乗るのも一苦労するほどでした。
そんな中でもまだ,運転席の直ぐ後ろ(出入口扉付近)が何人にも占拠されていなかったのでいち早く,災い転じて福と為す...か、垂涎のポジションを確保することが出来ました。
ちなみに、一車両全席を陣取っていた女子高生は、地元千葉の女子高の生徒でした。
首都圏のラッシュ時並に混雑する電車は定刻通り,10時36分に越後湯沢駅を発車していざ!直江津駅とへ向かい始めました。

ちなみに...
乗車した電車は、長いトンネルでも楽しめるイベント車両で、それに差し掛かると車内の電気が消え、音楽に合わせて星空の映像が投影され、とってもきれいで面白いです。


また、先頭にいたのでトンネル内で特急列車の待合わせを迫力満点に見ることが出来ました。
なお、この日の外は茹だるような暑さでしたが、トンネル内はひんやりとしているようで、特急[はくたか]が高速で通過し後には、霧が猛然と舞い立ち込めていました。



<<<<< いざ!未ノ太刀ヘ||いざ!二ノ太刀へ >>>>>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×未太刀:合戦準備]

2007年08月06日 | 参陣記
合戦祭に参じるようになって、彼是5年...。
その初陣は、毎春,甲州石和の笛吹川岸にて行われている“川中島合戦”。
一個団として参陣するこれには、以後,5年連続馳せ参じ,第4次以外は、上杉贔屓としては有難くも、上杉方よりの出陣でした。(なお、本年を以って隠居(謹慎?!)
但し、ここは甲州(山梨)。
中世,甲斐源氏武田家が守護せし地なれば、如何なることがあろうとも、決して勝つことが出来ない上杉勢。

しかし、上杉贔屓な私としては、その(無念)憤懣が、上杉家御膝元での合戦祭へと駆り立てた・・・のかも知れません。

上杉家御膝元は、羽州米沢(近世居城)と越州上越(中世居城)とがありますが、そのいずれにても、“勇壮”と、全国的に呼び声高き祭が催されております。
ただ、前者,米沢への参陣は、中々に狭き門,難関多きとの聞いたので、観戦のみ一度参りました。

一方後者,上越の謙信公祭は広く一般への募兵を行っていると聞き、また、参陣されし皆々様より、称賛の声を聞き、今から3年前,初めて参陣しました。
その折は、光栄にも、上杉勢突撃時の御旗,乱れ龍御旗持の大役を仰せつかる。
しかも、恐れ多くも先陣に、上杉勢のみならず、全軍の先頭きって行軍する栄誉に預かりました。
この時、特に感激したのは行軍始めの林泉寺にて。
普段は、貝の様に閉じられた同寺惣門が特別に開かれ、そこを、一番手に進んだ時。
感慨は一入でした。

そして去年
再び募兵に応じ、上杉勢甘糟景持隊の一兵卒に配属されました。
同役には、戦巧者の惟新殿やシンヨー殿が居られ、大変に心強く,また、楽しむこと出来ました。

甘糟隊は合戦時,上杉勢の小荷駄奉行を務め、殿(しんがり)を申し出るほどの兵。
それに際しては御屋形様より、武田勢を欺く為,また、意気盛んなる所を見せる為に、多くの松明を焚かせるよう命ぜられるので、我等一同,実際に火の点いた松明を持って、舞台へ上がりました。

これもまた、初体験なことなので、緊張しつつも貴重な経験で、大変楽しめました。

ちなみに、“御殿”は謙信公祭へ30余年連続で参陣されている、とっても有名(名物)な方。合戦後の懇親会では、必ず胴上げを受けるのですが・・・。
ゆえに、難なく御役目を相務め、楽しさ更に倍!でした。

そして今年。
81回目を迎えたこの祭。
その募兵は、今年も例年通り,7月初旬から始まりました。
今回もまた、上杉勢からの参陣を願い、その旨を、申込書に記して上越市へ、電子メールにて提出しました。
それから待つこと一月余。。。
結果は、合戦への出陣直前,8月上旬も終り頃、手元に届きました。
ワクワクドキドキしながら封書を開け、番号と配役表とを照し合せてみると...

山縣昌景隊①でした。。。

(当初の)参陣動機だと、宿願叶わず残念無念!なのですが、これも天命。
苦手な赤,一抹の不似合いさを抱えながらも、反面,合戦(祭)にて一旗上げるべく、いざ!上越,春日山へ。
今年もまた、終戦記念日の朝,栃木より“出陣”しました。

<<<<< 陣触れ!||いざ!一ノ太刀ヘ>>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越への陣触れ

2007年08月05日 | 参陣記
唐突ではありますが...
昨夏,残暑厳しき中で執り行われた“謙信公祭”の参陣記をまとめました。
日本一過酷な祭にふさわしく、大暑乱だった本番含め,相変わらずの長編記とはなりました。
けど、今年は中々骨太で見応えのあるNHKの大河ドラマ「風林火山」で謙信公(長尾景虎)を演じるGacktが参陣するとか!?
なぜ承けたのか?!
暑さに耐えられるのか?!
祭の趣旨を理解して楽しめるのか?!
劇中いつも何故狩衣なのか?!
...などなどの(一部余計な)疑問が浮かびますが、いろんな意味で,盛り上がるのは間違いなさそうです。

一方,此度初陣を飾る方もおられるかと。
そうした方々の参考ともなれば幸甚です。

備えが有れば憂いは要りませんから。

ではでは。
これより暫く,上越への参陣記をお楽しみください。



<<<<< いざ!上越への入口||いざ!未太刀へ >>>>>


ちなみに...
トップの画像にある左側の信玄公を演じているのは、千葉の人なら知っている?!
7300の火曜DJ,アリコンこと有村昆です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石和隠居から1年...

2007年04月15日 | 参陣記
毎春この時季,甲斐が名物の桃花で一面彩られる頃、国中の石和ではこれを祝って“桃の花まつり”が開催されます。

その一行事として、ここを流れる笛吹川岸にて執り行われるのが、今から540年余前の激闘!川中島の合戦を再現した“石和川中島合戦絵巻”。
祭中,一大イベントであり、多くの友人知人と出会えたこれに、私は平成13年から昨年までの5年間,連続して出陣していました。

参加に際しては前日より,甲斐国内の名所旧跡を巡って石和本陣に入り、ほろほろ鶏の食事に飲めや!飲めや!!の大宴会
合戦本番は朝から,屯所の出向いて武装を整え、午前中は調練に。
そして午後,昼餉を済ませた後にいざ!合戦場へと出立します。

合戦場である笛吹川岸は、広々とした砂地,ここを、上杉・武田両勢に分かれて俄か武者共が3度以上激突!
それは13時半頃から,戦祭巧者な殺陣部隊の見事な戦いぶりや、諸儀式を織り交ぜながら2時間半に渡って観られます。
但し、参加に“団体戦”で10人以上を1組として申込まなければなりません。
それが、この祭の最大の特徴でもあり面白いところでもあります。
その結果,上杉武田両勢<に扮した人々が>合わせて1000人余にも集う壮大なものになります。
ただ、毎回この募兵がやっかいであり苦慮するところでもあるのです...
昨年,紋次郎。殿の隠居した後を引継ぎ、新たな大将に柿崎景家殿を迎えた黒鱒衆<旧不夜城衆>での募兵は苦慮しました...。
けど、集まればこれはもう上記の通り,名所旧跡を巡って石和温泉に浸かってのんびりと...
さながら修学旅行気分♪で、実に楽しかったです。

ただやはり...
ご主君!としてお仕えした紋次郎。殿一昨年に隠居したことによって、私の中での石和熱も急速に冷め、半ば殉じて石和は隠居・・・のつもりでした。
けど、昨年はこれを引継いだ柿崎殿と紋次郎。殿に乞われてその参謀<幹事>に就き、最後のご奉公と気合を入れ直し、黒鱒衆をお支え申しました。

そしてこの日。
今年も笛吹市石和町の笛吹川岸では、午後から“合戦”が催されています。
その前夜までは観に行く気満点だったのですが、翌朝,即ちこの日の朝に翻意して、結局行きませんでした。
それは、昼頃まで行われている新宿駅大改造工事の余波からか、この日に限って適当な時間に着く速達列車が無かったのも、判断の一つですが...。

私と、多くの友人知人と知り合う切欠となった,ある意味大切な地。
その中,5年の歳月の内では複数複雑な離合集散を繰り広げてきました。
ただ、その切欠となった地に行かず,祭にも関わらない...
それがもう、ずっとか・・・と思うと、なんだか妙に寂しくなってきます・・・ね(苦笑)

唯一の吉報は、今年もまたかのショーグンが討ち取られた!ということでしょうか(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みちのく二人旅

2006年09月22日 | 参陣記
明日,草木も眠る丑三時。
武者祭巧者の惟新殿と二人で、奥州は一関,唐梅館祭に参陣すべく、向かいます。

これは、天正19年。
豊臣政権による奥州征伐を題材にした祭で、定番の武者行列は勿論ありますが、メインはこれにあらず,“戦評定”なのです。
それは、豊臣勢の奥州進攻に際して、小田原評定よろしく,和戦両論争った故事を題材にしたからなのです。

この、聞くとなんだか地味な祭と、近くの平泉へ詣でる話に触発されて、この度参陣とあいなりまして。

その全行程,一般道という、未だ経験の無い長距離運転。
ある意味無謀奥州行…ですが、先日(再び)読破した杉浦兵庫の日記を偲び、みちゆく各地と、未踏の地・岩手を堪能して参ります。

ではまた。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼には及ばず(^^ゞ...

2006年09月02日 | 参陣記
今年はいろいろ“アツカッタ”!謙信公祭から、はや半年...。
この日、この主催者たる上越市(謙信公祭協賛会)から、参陣への御礼状が届きました。
とりあえず、作成日は30日でしたが、例年、祭後2週間ほど,遅くとも8月中には届いていたので、今年は経費削減の対象となって来ない物とばかり思っていました。

文面,内容は、昨年来同じものでしたが、今年はその書中にある、「幸い天候にも恵まれ」や、「大変暑い中、武具・衣装を身にまとい、長時間お努めいただいたこと・・・」などなどに一々頷き、それは、一入感慨深かったです。
けど、「謙信公の御遺徳を顕彰する」祭の本意に共鳴し、好んで馳せ参じているので、それもまた、いい思い出です。。。

そして、その思い出をいま、つらつらと認めております。
振り返れば、単なる旅日記か食日記になっていて、肝心の祭は・・・・・・。
いま、(漸く)“合戦”に突入しましたので、よくよく練って、仕上げを。

ゆえに、いま暫くのご猶予をm(_ _)m

ちなみに、一昨年の参陣記は「コチラ」から。
また、石和参陣記もよろしければ「コチラ」から。
ほかも、「合戦記」に収めておりますので(_ _)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上越(謙信公祭)のあとの祭

2006年08月18日 | 参陣記
今年も、盛夏真っ只中に行われた、新潟上越での謙信公祭より、この日,帰宅しました。
・・・というのも、今年もまた、一旦栃木へ落ち、一息ついてからとしたものゆえ。

今年で、3年連続3回目出陣と相成りましたが、その中では群を抜いて,良きにつけ、悪しきに付け、過去最暑!だった祭。
合戦後の疲労度,発汗量は、並大抵のものではなかったですが、幸い,一度もバテる事無く、(なんとか)終始成し遂げることが出来てよかったです。

そして、この日の夕方。
親戚宅の最寄駅から(ローカル線から幹線へと)列車を乗り継いで、凡そ5日ぶりに、首都圏へと帰って来ました。

その車窓の、長閑な田園風景から、次第に南,都市部へ入るにつけて増えてくる、民家や商業施設などの建造物,高層のビル群...


そして、行き交う数多の人々を見るに付け、僅か1時間,見慣れた街の風景なのですが、一気に多くの情報が入り込み、そこに現実への復帰を感じ取った瞬間、妙に虚無感が湧いてきました。


また、あの風光明媚な、長閑な時の流れとは、暫くあえないのか・・・と思うと。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上越市よりのお達し

2006年08月10日 | 参陣記
新潟県上越市にて毎年8月中旬,新盆の頃行われる「謙信公祭」。
郷土の英雄,上杉謙信公の威徳を偲び、その宿敵だった甲信太守・武田信玄公と雌雄を決した(と言われる)川中島合戦を再現する、この時代祭。
この募兵に、今年もまた3年連続で応じました。
(今回もまた)申込書式をDLし、メールで送ったのですが、中々通知が来ず、内心,キチンと処理されているのか、かなり不安だったのですが...
今日,仕事から帰って来たら、待ちに待った上越市からの封書が届いていました。

早速開封し、私に与えられた御役目を、「ご案内」右上にある番号と、配役表とを照らし合わせながら確認すると...

      山 縣 隊(1)

               ...でした。

これには一瞬,我が目を疑いました。
何せ、申込時にしっかりと、上杉勢希望に○をしたので...orz

敬愛する不識院殿様,元徳院殿様には大変に面目無く,申し訳ないことですが、、、
これも天命!

赤の似合わぬこの私が、とうとう、赤ヘル軍団に属することとなりましたが、精一杯,参じられた皆様と共に、大いに楽しみたいと思います。
我が、阪神タイガースにとって、今の最大の敵は“”でもありますし(笑)

その前に、今年もまた、鈍りきった体に鞭打ちまくり、体調万全にして、その日,その時が来るのを楽しみにしています。

そして、赤の似合う男になってきます(笑)

いざ!諏訪大明神様の御加護あれ!!

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石和への景気付け!

2006年04月08日 | 参陣記
毎春,桃花咲き誇る頃、甲州石和(の笛吹川河川敷)にて“開戦”される、川中島戦国絵巻
これに、5年前にから4年間,弐君に見えて参陣していたのですが、昨春を以って、我が主としていた紋次郎。殿が隠居をしたので、それに殉じて、私も石和は隠居したのです。
・・・が、その後を黒鱒城主の柿崎和泉守景家殿が継がれ、石和への出陣を表明されたのですが、新大将,石和はもとより、合戦場への出陣も無いとのことにて、一応,いつの間にか石和最古参となったこの私が、新大将補佐を、両将より促されたゆえ、名誉なこと・・・だけど、此度最後!と意を決して、参陣を、しかも、紋次郎。殿が石和参陣の折勤められた「幹事職」を、仰せつかったのです。

それから数ヶ月,なんだか他で妙に忙しく、ついつい経過を書きそびれてしまったのですが、何とか(^^ゞ 石和表へ、上杉方大崎筑前守高清隊として参陣することとなり、その戦支度と壮行会を、毎度お馴染み浅草で催しました。

けど、肝心の幹事であった私がこの日,当番出で、どうしても出勤しなければならなかったので、雪魔王殿に幹事職を託し、仕事を終えて直ぐ、押っ取り刀で馳せ参じました。


私が着いた19時半過ぎ,東武浅草駅前の“いつものところ”(だけど、店は【酔虎伝】からホルモン専門居酒屋へ変化,けど、内装はそのままで)集まっていたのは、幹事と私他,紋次郎。殿,太郎丸殿,マコ殿

昼間は、忍的動きのきちざがひょっこりと現れるも、直ぐに消え、新大将他客将2人も未だ到着せず・・・。
その前に、空腹を満たすべく、ホルモンどんどん食べては呑んでました。

その後暫くして、新大将とその後輩たる客将2人が参着されました。

書類上ではしっていても、実際にお会いするのは始めて。
・・・さすが、新大将の後輩,やんちゃな気がぷんぷんしました。


そんなこんなで、あっという間に終電際の時間まで来た,23時ごろにお開きに。

新大将と2客将とは、同じ京成沿線なので、都営浅草駅から帰りました。

その途中,京成線青砥で乗換えた京成線各停の車内で、(同じく)ほろ酔い加減でご機嫌なジサマに、新大将が、隣に座っていた女性を巻き込んで“絡まれて”いました。
けど、ずっとその女の子は無視をしてましたけど。。。
これに、新大将も調子良く応じていましたが、私(達)は勿論、他人を装って、別離する江戸川まで、抱腹でいました。
一番の被害者は、隣に座っていた女性ですが、ずっと無視を貫いていたので、私(達)も、それを見守って、敢えて何もしませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪あとがきと拾伍篇への入口≫

2005年11月17日 | 参陣記
初陣より4年連続で参陣した石和。
悲喜交々・・・ありましたが、何れに於いても最良の兵共に出会え、存分楽しめたことが何よりも嬉しく、またありがたかったです。
石和は、御殿と同じく引退(するつもりです)が、またどこぞの戦場にて見かけましたら、是非是非お手合わせの程、宜しくお願いいたします。

また、石和での出会いは一期一会とするには余りにも勿体無いこと!
以後も引き続き、良しなにお願い申し上げます。

来年の石和に向けて、はや募兵が始まっております。
よもや居られぬとは思いますが...これをご覧頂き、興味が沸かれた方、今から最低10名の同士を募って、いざ!石和へ向われよ!!
そこでは、一生涯付き合える友と、何者にも変え難い、価値ある経験がありますから、是非に!

さてさて...
此度も、斯くの如き長編連載と相成り申しましたが、この完成に当たりまして、画像や私の海馬の解放に手助けいただきました御殿,紋次郎。様を初め、大蛇丸殿,マコ殿,若,在野武将殿には、この場を借りまして、厚く御礼申し上げます。
私のつれづれ載せました「戦記」ゆえ、一応校正してはおりますが、尚もあちらこちらに誤字脱字が転がっているかと思いますので、どうか発見された方は、恐れ入りますが、記主くないまでご注進ください。
また、これに託けて様々なものを疎かにしてしまった・・・ような気がします。
そうした被害に遭われた方にも、深くお詫び申し上げます<m(_ _;)m>

各篇へはコチラ↓↓↓から。
 其 の 壱:夜明け前

 其 の 弐:出陣

 其 の 参:カルチャーショック

 其 の 肆:両雄必勝!祈願

 其 の 伍:あと一歩・・・

 其 の 陸:浮沈

 其 の 漆:秀忠気分

 其 の 捌:ブ,ブルータス!お前もかっ?!

 其 の 玖:日々是鍛錬!

 其 の 拾:敵は川中島にあり!

 其の拾壱:御大将の淵源

 其の拾弐:信玄公の御加護

 其の拾参:はなみち

 其の拾肆:笛吹への道()と()

 其の拾伍:さらば石和・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪其の拾伍:さらば石和・・・≫

2005年11月16日 | 参陣記
武装を完全に解除した後は、朝来た道であり、行軍路であった道より本陣,富士野屋夕亭へ。
この途中,石和南小と甲州街道との間にある公園に、昨年(突如)設けられた足湯に殿や雪魔王殿は老いの疲れを癒すべく小休止しながら戻りました。

去年は合戦後、中央線北側の笛吹ライン沿いに在る石和健康ランドにて合戦にて疲弊し、殺生をして穢れた体を癒して行きましたが、今年は、殿が本陣と事前に交渉して下さったお蔭で、ここの素晴らしき湯に浸かり、食事をして帰る手筈となっていました。

本陣到着後、食事処への全員集合!と一同申し合わせ、男女に分かれて湯に浸かりに行きました。
ここでの話は、もっぱら合戦場での武勇譚
今までの石和行の中で、一番面白く爽快痛快な湯でした。

エレベーター前に飾ってありました。4年間泊まり続けて初めて知りました。友達の義父のサインもあります。
もう、来ることが無い(かもしれない)富士野屋の湯を存分に堪能した後、食事処にてほうとうを食したかったのですが、(暑かったので)ざるそばを食しました。
そのお味は・・・何の変哲も無いものでした。

ほうとう組の面々は濃いなぁ...
その最中、沼田殿は東京発の夜行バスに乗車すべく、一足お先に本陣を出立し、石和温泉駅から特急列車にて都内へ向われました。
我らは、それから遅れる事30分ほど後,19時近くに2日間、いや4年連続でお世話になった富士野屋夕亭を出発しました。

甲府から夜行バスにて(畿内へ)帰国される大蛇丸殿とは、年末,忘年会にてお会いする約定を取り付けて、石和温泉駅にて暫しのお別れ(^^)/~

ここから先、松風と大魔王号は進路を東に,東京へと向かいました。

復路は、降車場所の都合上,私は松風に、格さん,飯綱殿雪魔王殿達と共に乗り込みました。が!ここではもう、世にも恐ろしき、仰天同地の会話が交わされておりました。
しかも、その発信源が常に雪魔王殿だったことに空恐ろしさを覚え、一時睡魔に託けて現実逃避していました。。。その内容は、とてもここではご紹介できないので、差し控えさせていただきます(_ _;)

街頭の無い、暗黒の中央道では、多少流れが悪いところありましたが、大規模な渋滞も無く、往路と同じく談合坂S.A.にて小休止した後、ここで神奈川,多摩方面へ向う大魔王号と別離。

尚も続く、ここでは決して語ることの出来ない核爆級の会話に終始翻弄されながら、いつしか松風は中央道から首都高4号線へと入り、東京都心へ突入。
時計の針はこの時22時頃を指しており、自分の帰路も幾分心配ではありましたが、それよりももっと深刻だったのは飯綱殿。
東京駅発東北新幹線の最終へのタイムリミットが刻々と迫る中、東京駅へ向う予定を急遽変更し、混雑する4号線を外苑出口から脱出して、向ったのは中央線四ッ谷駅

時刻は22時20分ごろ。
平日ならば、今だ賑わいのあるであろうこの街も、かなり閑散として寂しい中、中央快速線ホームへ全速力で駆け、幸いにも、乗換に十分余裕ある時間の東京行き電車に乗ること出来ました。

飯綱殿は途中御茶ノ水駅で別れ、向かいの総武緩行線にて船橋へ出、そこから京成に乗換えて、何とか強力な眠気に耐え、乗り過ごす事無く、無事帰宅しました。

<<< 其の拾へ||あとがきへ >>>

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪其の拾肆:笛吹までの道㊦≫

2005年11月15日 | 参陣記
江戸幕府は、甲斐を歴史的,地理的に戦略上重要な位置と見ており、豊臣政権下,国主に任ぜられた浅野家を紀伊に転封して後は、将軍家連枝を甲府城に配し、国内にも多くの旗本采地や将軍家御料所(直轄地)を設ける。
こうした将軍家御料所の村方民政を取り扱ったのが、勘定所支配の遠国役人,代官である。

戦国時代には“事務方”として軽んじられ、江戸幕府の機構内に於いても役高150俵と(江戸・駿河代官は役料300俵)、小身旗本が就く御役目であったが、“米”を根幹とした石高封建制(幕府)に於いて、民政の末端にある代官は重要な役であり、幕政の方向性に重要な役割を担っていた。
その、代官が御料所内の主として中核に設けたの拠点が“陣屋”であり、これが、此度我等が陣所とした市立石和南小学校に在ったのである。
ここを陣屋と定めたのは、この時甲斐代官だった平岡勘三郎良辰(武田遺臣の流れ)であるが、その期間は然程長くなく、甲斐国は代官支配地から甲府宰相家と、その後武蔵川越から入封した柳沢流松平家に預けられる。

しかし、幕府財政は元禄期から悪化の一途を辿っており、その再建と基盤強化が8代将軍吉宗主導の幕政改革(享保改革)急務だった。
その一環として、幕府は享保9年,甲斐一国を幕領下し、柳沢(松平)甲斐守吉里を大和郡山に転封した。
これに伴い、甲府(城)には甲府勤番支配(遠国奉行上席,定員2名(大手・山手)役高三千石・役知一千石,芙蓉の間)を設け、配下に勤番士として旗本・御家人中二百名を配して、甲府城番と城下町政を担わせる一方、城下外,村方民政一般に於いては、甲斐国を3分割して(再び)代官を配し、その中核たる甲府(長善寺前)・上飯田(のち市川),そして石和に陣屋を置く。
なお、石和に於いては名代官と誉れ高かった小宮山杢之進昌世を以って“再興”となる。
此れ以後、徳川幕府瓦解までの144年間に石和代官には30名ほどが任ぜられており、多くは中堅クラスの代官に任ぜられた。
その中で、文政末年に着任した大貫次右衛門光証は領民より仁政を讃えられて“大貫霊神碑”を建立される反面、この数年後の天保7年,天災・飢饉への幕府の対応不手際と出張陣屋(支庁)で郡内(都留地方)を管轄した谷村陣屋の腐敗とに怒った領民が蜂起して大規模な一揆(郡内騒動)となり、時の石和代官(西村貞太郎時憲)が罷免される・・・ということもあった。

それから30年。
徳川幕府瓦解後、“叛乱勢力”鎮定の為に編成された東海道鎮撫軍が甲府城を占拠すると、石和は“県”に、代官から“知県事”となるも、その翌年,明治2年7月には甲府県に編入され、鎌倉時代以来500余年に渡って治政の要であった石和の役目は、県都となった甲府へと移り終焉する。

この後の石和は、温泉街として世に知られ、我等が参陣した「川中島合戦」を含めた桃の花まつり,花火大会など、観光地として活況を呈す。
その“石和”も、東八代郡に同じく属す春日居,一宮,御坂,八代,境川の4町1村と合併して平成16年10月に“笛吹市”となり、遂にその名自体が消滅してしまった。

「地方分権強化」や「地方交付税削減」などを大義名分に掲げ、総務省などは(強力に)合併を推進するも、平安時代,“石禾”御厨から続く地名が消えてしまうのは、どこと無く寂しく勿体無い気がします・・・。
けど、まだ所縁ある“笛吹”だけよかったです。

(笛吹への道㊤へ戻る

<<< 其の拾四へ|TP|其の拾伍へ >>>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪其の拾肆:笛吹までの道㊤≫

2005年11月14日 | 参陣記
東山道甲斐国山梨郡石和
平安時代、「石禾御厨」として甲斐国唯一伊勢神宮外宮の神領(御厨)だったこの地には、末期になると、常陸国那珂郡武田郷より国人勢力と対立して追われて甲斐国へ流れ着いた武田氏が、同国市河荘司より徐々に勢力を扶植,伸張し、やがては豪族(在庁官人)三枝氏に変わって甲斐一国を掌握する勢力となる。
こうした中で、武田氏3代目太郎信義の子,五郎信光が石和に館を構えて名字の地とし、石和五郎信光を名乗る。
甲斐国(市河荘)と武田氏の繋がりは、太郎信義の曽祖父,新羅三郎義光が甲斐守として補任されたことに始まる。

石和五郎信光が父,太郎信義は治承4年、高倉宮以仁王の令旨に応じて挙兵し、近隣の平氏与党を駆逐、鎌倉を拠点とした左兵衛督源頼朝(鎌倉殿)に合力するも、新羅三郎義光を祖とする源氏の名門で、甲斐国を拠点とした実力勢力ゆえに疎んぜられ、やがてはその勢力を削ぐべく、鎌倉方より種々の嫌疑を掛けられ、太郎信義を初め、子や一族が次々と失脚していく。
太郎信義には謀叛の嫌疑を掛け、子の一条次郎忠頼は謀殺,武田兵衛尉有義は梶原景時の乱に与力した嫌疑で追放,板垣三郎兼信は失領,遠江守護で太郎信義の弟・安田義定とその子義資は斬首・・・など。
こうした、鎌倉方から武田氏へ逆風が吹く中で、石和五郎信光(と小笠原家祖・加賀美遠光)は鎌倉殿の覚え目出度く、この虎口から逃れて武田家惣領と甲斐守護(のちには安芸守護)に就き、拠点とした「石和館」が事実上の守護所となる。
ちなみに、鎌倉方の覚え目出度い五郎信光は、承久の乱の折、東山道大将軍として鎌倉方武士を率いて京へ攻め上っている。

石和は予てより甲斐の交通の要衝で、特に中世に入り(関東の)武府鎌倉とを結ぶ往還道(鎌倉街道)の起点(宿場)として栄え、更には“甲斐国都”として政治・経済のみならず、文化の中心,結節点としても賑わいを見せる。

中世の、特に鎌倉幕府崩壊後の甲斐は、他国同様戦乱の渦中にあり、その過程(中先代の乱,上杉禅秀の乱など)で武田惣領家の威信と実行支配力は著しく低下する。
しかし、こうした状況を打開し、再び武田惣領家(甲斐守護)主導で甲斐国の実効支配を為したのは、16代当主左京大夫信虎である。
敵対する一族や国人勢力を(武力を以って)抑え、これを傘下に組み込んで(事実上)国内統一すると、その威信の象徴として、長年甲斐国都であった石和(川田館)より西方に大永16年,新たに「甲府」という(城下)町を開き、その中核に「躑躅が崎館」を普請し、ここを守護所として移徙をする。(詳細はココへ⇒

これによって、石和五郎信光(武田伊豆守)以来の甲斐国都「石和」の役目は、遂に終焉する。

この後、武田氏は2代後,四郎勝頼にて滅亡し、織田氏,徳川氏,豊臣(羽柴)氏と、甲斐を巡る情勢は短時日の内に目まぐるしく変化する。
しかし、その中心は何れも「甲府」(躑躅が崎館)であり、かつて国都であった石和は、街道筋の宿場町として、治政の要からは埒外に置かれる存在となる。

しかし、この状況に変化が訪れたのは、躑躅が崎館移徙から凡そ140年後,江戸幕府開府から58年後の寛文元年(1661)のことです。

笛吹までの道㊦に続く

<<< 其の拾参へ|TP|其の拾四㊦へ >>>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪其の拾参:はなみち≫

2005年11月13日 | 参陣記
武田勢に合力し、快勝を得て合戦場から仮橋を渡って対岸に渡ると、そこには多くの出店が大変賑々しい軒を連ねており、多くの人でごった返す中、また(持ち合わせが無かったので)出店から漂ってくる美味そ~うな匂いをかき消し、空腹に耐えながら、何とかまずここを脱して土手道の向へ渡りました。
この土手道の街路樹は桜なのですが、季節がちと遅すぎて、はや葉桜としていたのが残念です...

土手道を渡ったそこには、石和町役場改め昨秋より笛吹市役所あり、ここの駐車場では毎年、錦鯉の品評会が行われています。
所狭しと並べられた円柱形のプールには、見事な体躯と模様をした錦鯉たちが、優雅に泳いでいました。
其の中には、この産地としても有名だった中越地方より、被災した錦鯉もいました。
友人知人も被災地に居てこれに遭遇しており、未だ何かと多くの苦労を耳にしているので、一日も早い復興を!と願いつつ、陣所へと向いました。

市役所(品評会会場)を抜けて、この脇の坂を下った正面には自販機があるのですが、そこにははや、多くの(特に)赤備の兵共が我先に水分補給を!と群がっていました。
それはさながら、砂糖に群がる蟻の如く・・・で、余りの多さに無常にも、次々と“売切”ランプが点灯していく中、(持ち合わせが無かった私は確か・・・)無事に水分を獲得した方より、有難くもお恵みを頂きました。
水分を欲していた体にそれが注ぎ込まれた時の爽快感,生きた心地の感激度はもう、一入です。
ある意味、一仕事終えた感じします。
ここから更にとぼとぼと、用水路を勢いよく流れる水で清涼感を味わいながら、陣所へと向いました。

陣所へ辿り着くと、一同校庭の日陰にて暫しまったりと、勝利の余韻に浸り・・・体育館にて武装解除をしました。

この時、飯綱殿は武装解除を完了していました。いつの間に?!

もう、石和には4度目なのですが、この時の爽快感,開放感が堪らないんですよね^^;
しかし一方で、もうこれで終わりか・・・と虚無感みたいなのも(トランスから解放されて現実世界に戻ってきた・・・という感じが)あって、この瞬間ってのは、実に複雑な時でもあります。。。
今年は、特に御殿隠居とあって、更に感慨深いものでした...。

身支度を整えて、諸将兵共へ名残惜しくも(暫しの)別れを告げて、一同打ち揃って本陣へ戻るべく、陣所,笛吹市立石和南小学校を後にしました。

その折、正門脇には「石和陣屋跡(町指定史跡)」の看板と「史跡石和陣屋跡」という石柱。
そういえば・・・4年間ここへ入陣し、一度もこれを丹念に振り返ったことが無かった・・・と気付いたので、石和出陣最後にして、ちょこっと石和について記します・・・

<<< 其の拾弐へ|TP|其の拾肆()へ >>>
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!石和≪其の拾弐:信玄公の御加護!≫

2005年11月12日 | 参陣記
話は合戦場に戻って...
上杉勢の車懸り戦法による武田本陣への強襲が為された最中、上杉勢の背後を突くべく高坂弾正隊は仮橋より渡河して“観客席”の前に暫し待機...
しかし、武田勢は副将格たる御舎弟,左馬助信繁様や軍師,山本勘助晴幸などが討死し、殺陣や騎馬,鉄砲部隊が奮戦するも、もはや劣勢は疑うべくも無く、武田勢は崩壊直前の危機的状況。

そうした中、ついに“観客席”前に控えていた高坂弾正隊十余名が仮橋より再び渡河して合戦場に到着、この機に乗じ、形勢逆転を狙って遂に!戦奉行を介して御屋形様より「全軍突撃!」の御下知がありました!
また、時を同じくして上杉方よりも、戦奉行を介して御実城様より「全軍突撃!」の御下知があり、両勢全軍入り乱れての大混戦となりました。
ただ、我らの目的は1人,ショウグン太郎氏を討取ること。
我が殿より“叱咤激励”を受けて、勇躍して混戦の中へ突入しました。

まず、第一次突撃時は全員散開してショウグン様を捜しましたが、私は大切なる御旗持役なので容易に駆け回る事が出来ず、、、聞けばこの折、上杉殿が遭遇して一太刀浴びせたそうです。

そして第二次攻撃。
この折も、無念なるかな...発見することは出来ず、昂る思いと裏腹に、容易に討てない悔しさが、殿を始めとして、未だ遭遇していない方々に満ち満ちてきた・・・その時、若より重要なる注進あり!それは...

「ショウグン様は、正面向って右(幔幕側)より現れるはず。そこに待ち伏せをしては!」

・・・というもの。
これは、敵情を良く探った若の的確な意見ゆえに即採用され、殿より隊士一同へ・・・
「突撃の号令一下、右(幔幕)へ向って進軍すべし」との下知あり!
そして、遂に運命の其の時,第三次突撃=石和川中島を駆ける最後の号令が、両陣営の戦奉行より為されました!
ここで、なんと再び謀反発生!
雪魔王殿が、何を血迷うたか我ら(号令)とは反対,左へ向って走り出したのです。
まさか、よきオトナが左右判らず違えて...などは考えられないので、恐らくは、噂に聞こえるショウグン様に恐れをなしてのこと...と理解し、去るものは追わず、素早く伏兵・・・すると、正に!飛んで火にいる夏物虫・・・とでも申しましょうか、若の読み通りに現れました!ショウグン様が。
しかも、幕府軍総帥なのに単騎で。
もう、又とない機会,斯くなる上は容赦無し!!と、ショウグン様の前に勇躍して(その進路に)立ち塞がり、殿が後より羽交い絞めにて押さえ込み、そこへマコ殿,若,格さんなどが一斉に攻めかかって、さながら桶狭間の今川義元が如く、見事!討取りましてございます!!
大蛇丸殿が激写した決定的瞬間はこれだ!!

殿とマコ殿が必死の形相!と思いきや、笑顔だ・・・これに賭ける執念を感じます・・・

ちなみに、私はその最中、大事な大事な御大将幟を持ちながらでは容易に抜刀出来ないので、御役目を最大限に活かすべく、我が衆一党に「ショウグン様はここにあり!」と知らしめるべく、御大将幟を大きく振り回していました。けど、、、誰が気付いたのかは、定かではありません...(^^ゞ
その最中、ショウグン様が虎口を脱して私の方へ迫ってきました!が、私は抜刀出来ずに半ば無防備でしたが、とっさの判断で御大将幟を、さながら闘牛士の様に払い除けてました。
間一髪でした(^^;)
一方、袋叩きにあってショウグン様は、終始本人が狙いを定めていたらしい「山県隊が・・・」と、まるでうわ言の様に言い続けていました。

武士の情けで解放されたショウグン様は、もはや魂抜け・・・
此度の宿願だった「謀反人ショウグン太郎浪人氏討伐」は、こうして晴れて成し遂げられたのです!!

最後に、生き残りし両陣の兵共による鎮魂が為された後、両軍とも陣所へと退いて行きました。

激戦を終えて両陣営へ引き上げる兵共と“終戦と鎮魂”の鏑矢

自分の体に、何かもう一人が纏わり着いているような疲労感はありましたが、私も含めて皆々様、達成感に満ちていて、それはもう、実に爽快でした!

<<< 其の拾壱へ|TP|其の拾参へ >>>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする