くない鑑

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いざ!石和≪其の拾壱:御大将の淵源≫

2005年11月11日 | 参陣記
謀反者討伐の“その時”を記す前に、此度の御大将,真田源太左衛門尉信綱様について、ちょこっと。

源太左衛門信綱の家,真田家は元々海野という姓を名乗っていました。
その祖は、江戸後期に幕府によって編集された「寛政重修諸家譜」(総裁;下野佐野城主,若年寄堀田摂津守正敦)滋野氏項にある真田氏系図によると、海野小太郎幸恒なる者であり、その出自は清和院皇子貞秀親王となっています。
しかし、その貞秀親王なる皇子は、実在はしないのです。
ゆえにか、寛政譜の典拠となった「寛永諸家系図傳」(奉行;三河西尾城主,若年寄太田備中守資宗)と今回改めて真田家より提出された資料を比べて見ると、その祖傳に違いが見られたので、編者らはこの不審を「寛政譜」の真田家傳冒頭に書き記しています。
しからば、真田家は何処から着たのか・・・というと、「寛政譜」内に記されている「寛永譜」の記述によると、信濃国海野白取大明神を初祖,滋野氏を祖、もしくは清和院第五皇子三品式部卿貞保親王の子,善淵王より滋野姓を賜った、とあります。

また別伝によると、滋野宿禰は魂命(かみむすびのみこと)五世の孫,天道根命(あまのみちねのみこと)より出たとされ、これによれば滋野氏,延いては真田氏は皇胤ではないということになるのです。
こうした指摘は、江戸中期,正徳の治の政策ブレーンとして有名な新井白石が編集した「藩翰譜」にても為されています。
ならば、真田家は何処から着たのか・・・と、また振り出しに戻ってしまいましたが、平安期には真田家祖,本家と目される滋野(海野)氏が東信一帯に勢力を張っていたのは確かなようです。
一説には、この地方に多く点在した朝廷の牧場,御牧に携わっていた・・・とも。

寛政譜中より、小太郎幸恒より6代胤,小太郎幸親が平安末期、保元の乱に於いて源左馬助義朝に従って高名を挙げ、子の彌平四郎幸廣は源平合戦時に木曾左馬頭義仲の下,備中水島合戦にて侍大将となって討死した、という記録もあります。
その後、海野氏(もしくは真田氏)の動向が確認できるのは200年後の室町中期,応永7年、信濃守護小笠原長秀の強権に対し、北信の国人村上満信が反発。これを中心に結成された一揆(国人同盟)に“実田”なるものが与力したことが見え、これが(一応)真田氏の初見とされています。
ちなみに、世に“大塔合戦”と呼ばれる両勢力の争いは、応永7年9月,篠ノ井・川中島で両軍が激突。一揆勢が守護勢を駆逐,小笠原長秀は守護職を解任されます。

その後、真田氏の動向が確実になるのは更に150年後の室町後期,戦国時代に入ってから。
信濃国内でも大塔合戦や永享の乱,応仁の乱以後、度重なる戦乱の中にあり、天文10年には武田諏訪,村上等によって海野氏は東信小県より追放(海野平の合戦)されてしまう。
しかし、この現状を打開したのが源太左衛門尉信綱の父,弾正忠幸隆(幸綱)である。
彼は、自分等一族を追った敵である武田家,大膳大夫晴信に出仕し、めきめきと頭角を現してゆく。
なお、「寛政譜」によると、この幸綱が信濃国小県郡真田荘に入り、ここを“名字の地”としたとある。が、実は父,右馬允頼昌を祖である、いう見方もあり、大塔合戦時の“実田”との兼ね合いもあって、一概ではない。

この下で、此度の御大将,源太左衛門尉信綱も活躍したかと思われるが、如何せん、父と活躍時期が同じゆえに、文献(史料)中、父と混同されることが多く、青年期までの動向が今一つ判然としないのです。
それが漸く明らかになるのは、永禄5年,26歳の時。
小県郡四阿山白山神社(山家神社)奥宮へ奉納した扉銘に、父と連署で「信綱」とあるのが初見で、ここからは、信綱が真田家嫡子と目されていることが推測されるという

この後、信綱の名は頻繁に見られるようになり、戦場に於いては三尺三寸の陣太刀を扱う“信濃随一の武将”と賞され、信濃,上野,駿河などへ出陣しては、着実な戦果を挙げ、上信の合戦場では、時に謙信公と対峙したこともあり、また、武田二十四将の一人にも選ばれている。
こうした働きぶりにより、信濃先方衆の旗頭とし、二百騎を束ねる将にまで昇格するのです。
この頃,永禄10年に真田家当主となったとされるが、名実共に当主となったのは天正2年,父の死去によってである。
これ(領地相続)に伴って、領内山家神社へ安堵状を発給している。

正に名実共に真田家当主となった翌3年、武田家当主四郎勝頼は徳川方へ寝返った三河長篠城主奥平信昌を討つべく、1万5千もの大軍をもって進攻。源太左衛門尉信綱も、弟・兵部丞昌輝とともに出陣する。
一方、急を聞いた徳川家康は織田信長に援軍を乞い、総勢3万5千もの大軍をもってこれを防ぐべく、長篠城西方,設楽が原付近にて出張、両勢が対峙する。
世に有名な“長篠の合戦”に於いては、武田勢の兵力は半分以下,しかも遠征に加えて城攻めにて疲弊しており、ある意味、この段階で(真偽は別にして)“鉄砲三千挺”など不要だったかもしれません。

合戦の結果は、教科書等で周知の如く、武田勢の大敗北でした。
総大将たる武田勝頼にして、僅か700余騎に護られて甲斐へ逃れたと言われるほどの有様であったこの合戦に於いて、真田勢(信濃先方衆)もご多分に漏れず、当主たる信綱以下,弟・兵部丞昌輝や一族,郎党,与力などの多くが犠牲となりました。
源太左衛門尉信綱の享年は39歳でした。

ここ長篠,設楽が原には、武藤家を継いだ弟・喜兵衛昌幸も勝頼の旗本として参陣していのですが、戦死した2人の兄や一族郎党とは異なり、旗本(近習)として本陣に付いていて難を逃れ、帰国後は、跡目(実子)が居なかった源太左衛門尉信綱より、信濃海津城主高坂弾正虎綱(高坂昌信)の推挙もあって、天正3年,真田家当主となる。
以後の“活躍”もまた、周知の如く、権謀術数を以って世の中を巧い具合に渡りきり、家名を存続せしめて信濃松代真田家の礎を築き、後々の世までその命脈を保っているのです。

ただ、この結果を知った上で、もし、源太左衛門尉信綱が生きていれば真田家はどうなっていたのかなぁ...と、ふと想像したくもなります。

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