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くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ!石和≪其の拾壱:御大将の淵源≫

2005年11月11日 | 参陣記
謀反者討伐の“その時”を記す前に、此度の御大将,真田源太左衛門尉信綱様について、ちょこっと。

源太左衛門信綱の家,真田家は元々海野という姓を名乗っていました。
その祖は、江戸後期に幕府によって編集された「寛政重修諸家譜」(総裁;下野佐野城主,若年寄堀田摂津守正敦)滋野氏項にある真田氏系図によると、海野小太郎幸恒なる者であり、その出自は清和院皇子貞秀親王となっています。
しかし、その貞秀親王なる皇子は、実在はしないのです。
ゆえにか、寛政譜の典拠となった「寛永諸家系図傳」(奉行;三河西尾城主,若年寄太田備中守資宗)と今回改めて真田家より提出された資料を比べて見ると、その祖傳に違いが見られたので、編者らはこの不審を「寛政譜」の真田家傳冒頭に書き記しています。
しからば、真田家は何処から着たのか・・・というと、「寛政譜」内に記されている「寛永譜」の記述によると、信濃国海野白取大明神を初祖,滋野氏を祖、もしくは清和院第五皇子三品式部卿貞保親王の子,善淵王より滋野姓を賜った、とあります。

また別伝によると、滋野宿禰は魂命(かみむすびのみこと)五世の孫,天道根命(あまのみちねのみこと)より出たとされ、これによれば滋野氏,延いては真田氏は皇胤ではないということになるのです。
こうした指摘は、江戸中期,正徳の治の政策ブレーンとして有名な新井白石が編集した「藩翰譜」にても為されています。
ならば、真田家は何処から着たのか・・・と、また振り出しに戻ってしまいましたが、平安期には真田家祖,本家と目される滋野(海野)氏が東信一帯に勢力を張っていたのは確かなようです。
一説には、この地方に多く点在した朝廷の牧場,御牧に携わっていた・・・とも。

寛政譜中より、小太郎幸恒より6代胤,小太郎幸親が平安末期、保元の乱に於いて源左馬助義朝に従って高名を挙げ、子の彌平四郎幸廣は源平合戦時に木曾左馬頭義仲の下,備中水島合戦にて侍大将となって討死した、という記録もあります。
その後、海野氏(もしくは真田氏)の動向が確認できるのは200年後の室町中期,応永7年、信濃守護小笠原長秀の強権に対し、北信の国人村上満信が反発。これを中心に結成された一揆(国人同盟)に“実田”なるものが与力したことが見え、これが(一応)真田氏の初見とされています。
ちなみに、世に“大塔合戦”と呼ばれる両勢力の争いは、応永7年9月,篠ノ井・川中島で両軍が激突。一揆勢が守護勢を駆逐,小笠原長秀は守護職を解任されます。

その後、真田氏の動向が確実になるのは更に150年後の室町後期,戦国時代に入ってから。
信濃国内でも大塔合戦や永享の乱,応仁の乱以後、度重なる戦乱の中にあり、天文10年には武田諏訪,村上等によって海野氏は東信小県より追放(海野平の合戦)されてしまう。
しかし、この現状を打開したのが源太左衛門尉信綱の父,弾正忠幸隆(幸綱)である。
彼は、自分等一族を追った敵である武田家,大膳大夫晴信に出仕し、めきめきと頭角を現してゆく。
なお、「寛政譜」によると、この幸綱が信濃国小県郡真田荘に入り、ここを“名字の地”としたとある。が、実は父,右馬允頼昌を祖である、いう見方もあり、大塔合戦時の“実田”との兼ね合いもあって、一概ではない。

この下で、此度の御大将,源太左衛門尉信綱も活躍したかと思われるが、如何せん、父と活躍時期が同じゆえに、文献(史料)中、父と混同されることが多く、青年期までの動向が今一つ判然としないのです。
それが漸く明らかになるのは、永禄5年,26歳の時。
小県郡四阿山白山神社(山家神社)奥宮へ奉納した扉銘に、父と連署で「信綱」とあるのが初見で、ここからは、信綱が真田家嫡子と目されていることが推測されるという

この後、信綱の名は頻繁に見られるようになり、戦場に於いては三尺三寸の陣太刀を扱う“信濃随一の武将”と賞され、信濃,上野,駿河などへ出陣しては、着実な戦果を挙げ、上信の合戦場では、時に謙信公と対峙したこともあり、また、武田二十四将の一人にも選ばれている。
こうした働きぶりにより、信濃先方衆の旗頭とし、二百騎を束ねる将にまで昇格するのです。
この頃,永禄10年に真田家当主となったとされるが、名実共に当主となったのは天正2年,父の死去によってである。
これ(領地相続)に伴って、領内山家神社へ安堵状を発給している。

正に名実共に真田家当主となった翌3年、武田家当主四郎勝頼は徳川方へ寝返った三河長篠城主奥平信昌を討つべく、1万5千もの大軍をもって進攻。源太左衛門尉信綱も、弟・兵部丞昌輝とともに出陣する。
一方、急を聞いた徳川家康は織田信長に援軍を乞い、総勢3万5千もの大軍をもってこれを防ぐべく、長篠城西方,設楽が原付近にて出張、両勢が対峙する。
世に有名な“長篠の合戦”に於いては、武田勢の兵力は半分以下,しかも遠征に加えて城攻めにて疲弊しており、ある意味、この段階で(真偽は別にして)“鉄砲三千挺”など不要だったかもしれません。

合戦の結果は、教科書等で周知の如く、武田勢の大敗北でした。
総大将たる武田勝頼にして、僅か700余騎に護られて甲斐へ逃れたと言われるほどの有様であったこの合戦に於いて、真田勢(信濃先方衆)もご多分に漏れず、当主たる信綱以下,弟・兵部丞昌輝や一族,郎党,与力などの多くが犠牲となりました。
源太左衛門尉信綱の享年は39歳でした。

ここ長篠,設楽が原には、武藤家を継いだ弟・喜兵衛昌幸も勝頼の旗本として参陣していのですが、戦死した2人の兄や一族郎党とは異なり、旗本(近習)として本陣に付いていて難を逃れ、帰国後は、跡目(実子)が居なかった源太左衛門尉信綱より、信濃海津城主高坂弾正虎綱(高坂昌信)の推挙もあって、天正3年,真田家当主となる。
以後の“活躍”もまた、周知の如く、権謀術数を以って世の中を巧い具合に渡りきり、家名を存続せしめて信濃松代真田家の礎を築き、後々の世までその命脈を保っているのです。

ただ、この結果を知った上で、もし、源太左衛門尉信綱が生きていれば真田家はどうなっていたのかなぁ...と、ふと想像したくもなります。

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いざ!石和≪其の拾:敵は川中島にあり!≫

2005年11月10日 | 参陣記
合戦場への進軍に際して、我ら不夜城衆真田源太左衛門尉信綱隊の陣容は...
紋次郎。殿=御大将:真田源太左衛門尉信綱
文亞殿=副将
マコ殿=六文銭旗持
・格さん=武田菱流幟
大蛇丸殿
・沼田面松斎殿
・teru殿
上杉播磨守貞景殿
(碧雲斎)
飯綱武蔵守法達殿
・たんぽぽ殿
・大魔王殿
如月雪改め雪魔王殿
そして、御大将(真田源太左衛門尉)旗持役たるこのくないの、総勢13名の兵が此度参集しました。

陣所(石和南小)を出陣した武田勢は、途中遮る者無く順調に、歩きなれた道を進んで合戦場へと到着しました。

笛吹川上、川岸(中洲)と合戦場を繋ぐ仮橋を渡ると、御大将旗持役の私は、殿と共に本隊を離れて信玄公の後ろに控え、越後勢と正面から対峙しました。

両勢布陣完了後、関係者の挨拶などがあり、引き続いて上杉方よりの献塩の儀,武田勢出陣に際しての三献の儀とを執り行い、一方上杉方も出陣に際しての武示帝式を、合間、古式武道奉納「太刀」や米沢稲富流砲術隊による「火縄銃」の演武を挟んで執り行われていました。

・・・が、その間私は...練兵と総軍演習の疲れが出たか、それとも昼食後の昼寝の時間に入ったのか、極度の睡魔に襲われて、恐れ多くも武将旗を杖に、舟を漕いでいました(- -ゞ...しかし、北東方向から時折風が強く吹いてきて、遮るものが無い河川敷でこれを正面からまともに食らい、不覚を取ることも・・・ままありました。時には隣の人にも起こされたりして...。

両陣営が合戦に備えるべく陣容を整えていると、合戦場には黒装束の忍者が多数現れ、両陣との中間に満遍なく煙幕を張り、キャンプファイヤーでも出来そうなくらい燃え盛る篝火を焚いて演出効果高めると、眠気も幾分覚めて次第に緊張感が。
その最中、戦奉行の指示の下、信玄公の背後に陣形が組まれると、対陣,上杉方より法螺貝や太鼓,ドラがけたたましく鳴らされ、一斉に時の声が上がり、遂に!上杉勢全軍,車懸りの陣形にて押し寄せてきました。
それに対して我が方(武田陣営)は、モーゼ十戒の如く、中央を分けて軍勢を通過させました。
去年までは、ここを全速力で駆け、時折武田方兵共と刃を交わしていたのですが今年は逆,しかし、そこより離れたところに陣形の一角を為していたので、暫し傍観。。。
だが、このとき確と、討つべき者のこの日の“備え”を記憶いたしました。


上杉勢の、武田本陣への車懸りの突撃にて乱れた陣形を立て直す号令が(戦奉行を通して)御屋形様から為され、それを援護すべく、我が陣と敵陣双方から鉄砲隊による応酬(撃合い)が行われる。

しかしこの間、“混乱”した武田本陣へ、上杉輝虎公御自ら陣中深く斬り込み、我が御屋形様を襲ったのです!
かの有名な伝説“三太刀七太刀”の再現は、昨年までの遠い上杉陣営からではち~さく見え、一体何が起こっているのか解らなかったですが、今回は、殿と共に信玄公の直ぐ後ろに控えていたのでありがたや!実に大迫力でこれを見ることできました。

けど、ちと居眠りしていたので周りの目が気になったのと、各大将に控える老副将共が微妙に邪魔をして、残念ながら一部始終を確と見、撮影することは無念にも叶いませんでしたが、その大迫力の戦いに、息を呑む思いでした。

単騎にて本陣深く攻め入った輝虎公が去った後、観客席に近い仮橋付近では殺陣部隊が、続いて両陣営半ばでは、両家の名高い騎馬武者共が、それぞれ激戦を繰り広げていました。
日々厳しく練兵された集団による殺陣(合戦)は見応え抜群で、観客席からは、特に川落ちの時に大きな歓声が上がっていました。
なお、この日は、昨年同様,陽が良く照り暑かったので、笛吹川は実に気持ちが良かったと!とことです。
これも、遠く上杉の陣営からは小さく見えるの、仮橋にも近い武田本陣からは、その模様がつぶさに検分できました!

これら前哨戦が終わった後、いよいよ我らが待ち望んでいた時が訪れるのです!!

ターゲット、ロックオン!

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いざ!石和≪其の玖:日々是鍛錬!≫

2005年11月09日 | 参陣記
遅参の上、謀叛騒ぎで身支度が遅れ、10時を過ぎても陣所内に残っていたのは我が衆くらい...大急ぎで赤い兵共でごった返す校庭へ出、写真撮影のお呼びが掛かるまで、暫し軍議と演習を繰返し、来るべき合戦に備えていました。

それから30分ほどしてか、我が衆へお呼びが掛かったので出向くと、なんの因果か...御屋形様武田信玄公を挟んで、御舎弟様一条右衛門大夫信龍隊と合同で記念撮影。
昨年上杉方では、各隊毎で御実城様上杉輝虎公,護持僧安養院様を囲んでの撮影だったのですが、、、これは両陣営とも同じなのか、それとも通例なのか、はたまた武田方だけなのか...後日、仕上がった写真を見れば大変豪華なのですが、余りにも大所帯になっていて、誰が誰だか判別がつき辛くなってますf(- -;)
さながら修学旅行での記念撮影よう...ですが、“欠席者”の組込みはありませんので悪しからず。

武田方全ての衆の撮影が終わってから、いよいよ総軍議と総合演習(練兵)の開始。
初陣(上杉方)の折、出陣前に総懸りの練兵を行った以外、久しくしていなかったのですが、それは実は上杉方だけなのか、、、此度は軍議の後、戦奉行の号令一下、練兵と演習が繰り返し行われました。

この日は晴天、しかも陽射しが強く、春とは余り思えぬ陽気ゆえ、合戦前にへばりそうでした。
しかし、これも勝ち戦を確実にする為、致し方なし・・・けど、ちと息も絶え絶えになってしまった。

この練兵は50分ほど行われ、正午を前にして昼餉の号令。
私などがダンボールに用意された昼餉を取りに出向いたのですが、飲み物=お茶の配給が紙コップであったので、その輸送は困難を極めました。
なんせ、我が衆は配給所から一番遠い場所の木陰で休息していましたから。。。
しかも、今年の行厨は比較的豪華で結構な量なので、ちょいと運ぶのに苦労しました。
去年なんか、握り飯2つか3つくらいしかなかったのになぁ...けど、そっちの方が適量なんですけどね。
合戦を控えて、そう多く食せませんが、朝方大人しかった大魔王殿の食欲は活発的で、(確か)自身の行厨をぺろりと平らげた上、余った行厨にも触手を伸ばしていました。
しかし、これで満足して他への注意力が散漫になったか、それとも元々か...背中に旗指物があることに気付かず鉄棒へ敢行したので、見事にそれを折ってしまいました。
さすがは大魔王殿!
謀反続きで沈み、かつ合戦前に緊張感を吹き飛ばす笑いを提供してくれるとは!(違

けど、通例では幸先悪いのですから、大魔王殿もそれほどのお覚悟・・・は皆無のようです。

休息すること凡そ1時間,12:50。
武田方総武者共に呼集があり、いよいよ合戦場となる笛吹川河川敷へと進軍を開始しました。

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いざ!石和≪其の捌:ブ,ブルータス!お前もかっ?!≫

2005年11月08日 | 参陣記
此度も、陣所は本陣から徒歩10分ほどの、市立石和南小学校
ゆえに、今年もまた上杉方・・・にはあらず!
今年はなんと!初の武田方,真田源太左衛門尉信綱(隊)を仰せつかったのです。
これも昨年の合戦前夜、本陣女将へのおねだり働き掛けが功を奏したのか、、、国許衆以外は滅多に任ぜられないと聞いていた陣営,御役目に任ぜられたのです。
上杉贔屓の私を含め、謙信公祭に続いて赤となった上杉殿マコ殿にも、少々残念無念ではあったかと思いますが、この石和での合戦は、武田家の御恩を偲ぶものでもあり、初めて勝ちに乗じれる又と無い機会!

合戦場でもまた、違った角度から楽しめましたが、その折の話はまた後ほどに譲り...

石和南小体育館入口に設けられた受付に、まず着到報告を行うと、世話役より意外な一言が発せられました。
「くない(仮称)さんは“武将旗持”です。」
ん?!なんじゃそりゃ!と思っている間も無く、手渡された紙きれには、紛れも無く私の名前と“武将旗”の文字・・・。
謙信公祭にて、名誉ある突撃時の幟旗“乱龍旗持役”以来、再びの旗持役

一体私は、如何なる星の下に今あるのか?!...と、疑問を感じつつ、緊張の面持ちでその幟旗を確認すると、これがまた、結構大きかったです。
けど、身が引き締まる思いでもありました!大蛇丸殿の目線が厳しかったので(^^ゞ

上杉方から参陣に際しては、毎度陣所まで出向かなければその御役目は判らず、時には右往左往することもありましたが、此度ははや承知していたので、我らに用意されている備えの数々も、容易に見つけることできました。

また、そこにははや、上杉播磨殿の仲介にて参じられた文亞殿が、我らの到着を首を長くして待っておられたようです。
毎度の事ながら、遅くなって申し訳ありません...。
けど、もう一人、合戦当日に参じる予定であった昨春の御大将,のぶたつ殿のお姿が見えず...
はてさてどうしたのか、、、と思い、殿が電話をしてみると、、、これがモーニングコールだったようです、のぶたつ殿には!
なんということでしょう・・・前日の佐助何某に続く御謀反にござります。

実は前日、先の謀反発覚後、当日入りだったのぶたつ殿を急遽呼び寄せるべく電話をしたのですが、一足遅く、神宮球場での野球観戦(vs)が決まっていて、試合終了後に駆けつけることも叶わず、予定通りの参陣を期していたのですが、、、
殿に於かれては、本陣出立に際してメールなどしてコンタクトを取っていたようですが、それには一切返信無く、少々不審に思っていたそうです、それは不幸な確信となってしまいました。

時刻は9時半ごろ。
早急なる石和入りを促すも、最早間に合わない・・・ということで、参陣断念という、前代未聞の事態と相成りました。
御殿最後の合戦なのに、斯くも謀反が発生するとは、、、余り幸先はよくありませんが、、、気持ち(モチベーション)を素早く宿敵討伐専心に切り替え、武装を整え、我が衆の証たる“白襷”を巻いて、いざ!万全の出陣と合戦と為すべく、校庭で行われる“全軍軍議”へと赴きました。
不穏分子は背後にも!?

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いざ!石和≪其の漆:秀忠気分≫

2005年11月07日 | 参陣記
4月17日,合戦当日,天気晴朗ニシテ風ナシ
朝6時15分に起床して、朝湯も兼ねて前夜は入れなかった新露天“オーロラの湯”に行きました。
旅行の、特に温泉旅館宿泊の最大の楽しみ,至福の時ですね。
ここは、既存の露天よりとても広々としていて、奥には滝湯の備えも。
また、洗い場には一人用のスチームサウナもあって、一汗掻いて一っ風呂ってのも出来ます。
ただ、結構むせたりして苦しかったですけど・・・。

この湯を40分くらい堪能した後、軽く身支度を整えて7時半からの朝食を摂りに階上へ行きました。
この日の今後のことを考えて、ここで一日分の栄養を摂るべく、駆け付け3膳いただいたのですが、他の皆様は、、、未だ覚醒半ばといった感じで、あまりお膳は進んでいなかったようです。
その中で特に悪かったのが、信じられないことに大魔王殿。
前夜の通り、人一倍お膳が進む人が・・・
今年はキチンとご自身に割り当てられた場所で、温かい布団に包まって寝ることが出来たはずなのに、今までに見たことの無いほどの低テンション。
これはやはり迫り来る竹友の最期を慮ってのことか、、、それともどこか具合でも悪いのか、、、もしや!本当の悪しき物の怪にでもとり憑かれたのか?!・・・そういえば前夜、額から黒い汗(汁?!)を流していましたが、それが何かの兆候だったのかも知れません...恐ろしや、恐ろしや。

朝湯に浸かって好調の私は、サクサクと朝食を(8時前に)済ませ、8時半と定められた集合,精算開始までの間、最終的な身支度と荷造りすすめ、それを10分前までに整えて、一晩お世話になった部屋をあとにしました。

精算に際しては、数字の苦手な(^^ゞ私が勘定奉行を仰せつかり、たんぽぽ殿などの与力を得て、本陣経費をきっちりと、耳を揃えて支払ってから、いざ!陣所へと向いました。

けど、時は既に陣所参集時間の9時を、15分ほど過ぎていました。
まっ、いつものことなので、慌てない慌てない...不夜城時間でOK牧場!(マテ

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いざ!石和≪其の陸:浮沈≫

2005年11月06日 | 参陣記
18:30
こたつ夫婦殿との密会を終えられて殿ご一行が戻られたのは、夕食(19時)の30分前。
それを確認してから、殿は慌てて湯に浸かりに行き、我等は其の前に頂いたので余裕を持って食事処へ移動して、皆様のご到着をお待ちしていました。が、皆様中々現れず...殿も湯に浸かりに行ったままで間に合うのかな?!と心配していると、金髪が鮮やかになり、恰幅がとても良くなって戻ってきました。・・・って、暗がりだったのでよく判らなかった(爆)のですが、それは影武者と化した上杉殿でした。それはまるで...え~っと、f(_ _;)プロレスラーみたいでした。
飯綱殿は、出会った瞬間5歩以上後退しましたから、この破壊力は相当でしょう・・・。
但し、これはホンの挨拶程度にて、上杉殿の変化はこれだけに止まらず!
ある意味真骨頂は、当にこれから始まりだったのです。

19時過ぎ,漸く一同会して1次会の開始!
富士野屋夕亭の食事は、地元の名物,ほろほろ鳥をメインにしたもので、ささみの刺身ポン酢和え,一筋縄では行かない卵を使う私は苦手なすき焼きなどで、そのいすれもが美味にござります。

←ほろほろ鳥の卵,皿が負けそうです。
道中の疲労と、湯上りであれば箸も進んでビールもまた美味いんです。けど、直ぐに膨満感になってしまうので、程ほどに・・・

宴も酣の頃、、、上座にお座りの上杉殿が俄かに変身!
先の紋次郎。殿の影武者から、今度は怪しい韓流の先駆者,ペ・ポンジュンなどに次々変化してゆきました。
更には、酔いとハイテンションの成せる業かこれを同席の男性陣に伝播していったが為、私を含め次々と怪しく変化して行きました。
特に...というかやっぱり、大魔王殿の変化は際立っており、それも正に怪しきインドネシア人に、飯綱殿はマフィアの頭目・・・の様に変化していました。もう、、、この笑撃には堪えられず、お腹痛かったです!
そのお陰...いや、燃費の悪い所為か...自分のお膳を平らげたのに、ちと小腹が空いたので、未だ手付かずに残っていたお膳より(ほか同じく腹に余裕のある、特に大魔王殿と共に)数品,ポン酢の絡みがなんと言えず美味い!ささみ肉のポン酢和えなどを頂きました。が、、、これは、関西から参陣予定だった佐助何某なる者が、この日の昼過ぎに起こしたドタキャンテロの犯した所為。
しかし、この事実を知ったのは夕方近く,本陣に着き宿帳を納めた後ゆえ、種々の手続が間に合わず...ゆえに、お膳が一つ余ったというわけ。
ちなみに、このテロ行為により、1人当たり宿賃1000円増という被害も受けました。やんぬるかな...。けど、私は2人前頂いたのでf(_ _;)・・・
←ポン酢+鶏肉好きにはたまりません!

宴(1次会)は爆笑続きだったので、気付けば2時間近く,もう21時なっていました。
ここで多くの皆さんは(再び)一っ風呂浴びに、私やなどは部屋で静かにのんびりと過ごしていました...が、その静寂を破る者,米屋繁霞氏が来陣してきました。

今年もまた、上杉,徳川贔屓の私には些か解らぬ濃い~武田話などを展開していくのか・・・と、(この時訪陣されていた左馬之助殿共々)恐れていたのですが、何かの拍子で不夜城の“核爆弾”が炸裂した途端、シーンと静かに,魂抜け状態になり、何時の間にやら帰ってゆきました。
相当堪えたんでしょうね、この爆弾は。
でもこのネタモト、以前から城内にあったのですが...不夜城はそれだけ奥深い!ということでしょう・・・。(だから私は知っていました。けど、本人に会ったら驚きました。)

そんな最中、ケータイに見覚えの無い番号から着信!恐る恐る出てみると、それは聞いたことの無い主から。
はてさて一体何者だ?!と聞き続けていると、、、それが漸く因幡君だと知れました。ゴメン!f^^;
なんでも、所属するゆるり甲冑隊が諸陣表敬の宿周りをしている最中、我が本陣,富士野屋夕亭を通った際、“不夜城ご一行”の表札を見かけてご挨拶に参られたのです。因幡君はその先触れ。
まずは私が物見に出ると、因幡君と碓氷殿を先頭に総勢10名以上の方々が一気に押し寄せ、為す術も無く、部屋まで手引きをしてしまいましたが、斯程の人数では収まるはずも無く(- -ゞ...一旦皆様を我が衆総出でロビーまで押し戻し、ここで正式会談と相成りました。
ただ、、、皆様結構お酒を召されていたようで、いや、これが関西流と気質なのか、我等が太刀打ちできぬほどのハイテンション...凄い!の一言です。

そんなこんなで合戦前夜は暮れて行き、、、十分な英気を養うべく、但し魂画像を撮られぬ様警戒しながら床に就きました。

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いざ!石和≪其の伍:あと一歩・・・≫

2005年11月05日 | 参陣記
必勝祈願を行った武田神社から笛吹市(旧石和町)の本陣,富士野屋夕亭までは、中央本線北側,国道140号線(笛吹ライン)を走り、途中石和温泉駅近くの松本交差点を右に入っていくのがスタンダードで判り易いルート...なのですが、先行する松風はそこを通過してどんどんと東進、遂には笛吹市域を越して山梨市に入ってしまいました。
それより更に進めば塩山市,信玄公の菩提寺である恵林寺に辿り着きます、、、確かに「恵林寺へも行きたい」という意見はありましたが、紋次郎。殿にはこたつ殿との密会する前に「本陣の湯に浸かりたい!」って言っていたいしなぁ・・・と思い電話をしていみると、ただ道を間違えただけ・・・でした。

慌てて軌道修正し、見事に花が咲き誇る桃畑や春日居の温泉街を抜けて本陣入りをしたのは16時頃でした。
関西より馳せ参じられた前の副長,大蛇丸殿は、我等に先立って本陣入されておられました。

仲居さんの案内で通された部屋は、2階北向きの広い部屋。
ここまでの移動の疲れも手伝ってか、部屋に着いたら妙に落ち着いてしまい、仲居さん出されたお茶とお茶請けを頂き、まったりとしてしまいました。。。
なお、この部屋に階下には“オーロラの湯”という露天が新たに造られたので、覗き見防止の為に窓には一面ほとんど隙無く簾に覆われていました。いろんな意味で残念です!ね、殿
ちなみにこの露天、夜はきれいにライトアップされるがゆえに、そう名付けられたようです。多分。

本陣の部屋でまったりし過ぎ、気付けは時刻は既に17時前。
“密会”の時刻が迫っていた紋次郎。殿は、上杉殿,大蛇丸殿,沼田殿,飯綱殿と共に出立為され、私はマコ殿,若等と共に大魔王殿の運転で、2次会の為の買出しをすべく、駅前のSATYへと向いました。
この途中、大蛇丸殿より教わったワイン工場へ向ったのですが、17時までの営業時間に一足遅く間に合わず、、、僅か5分ほどしか過ぎていなかったのですが、早々と従業員が帰宅する光景を目の当たりにして、商売っ気が無さを感じました。。。

ビールやポン酒,無念のワインにおつまみなどを買い込んで本陣へと向ったのですが、その途中に“宿敵”の本陣があるとの若の言から、その動向を偵察すべく、立ち寄ってきました。
今思えば、正々堂々と威力偵察にでも出ればよかったのですが、(其の時は)下準備が整っていなかったので、屋外からの密かな偵察に終始。
本陣懸札に正々堂々と“幕府軍”に抱腹しつつ、装備などを確認して引き上げました。

帰陣後、夕食の時間までには暫しの時間があったので、ダンダラ羽織を着た若“番頭”のマッサージによるお持て成しや、残念ながら殿も満足に味わえなかった温泉に先んじて入ったりしてこの日の疲れと汗を流し、明日への英気を養うべく、の~びりと過ごしました。

大魔王号に同乗した格さんも、ぐったりの様子・・・

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いざ!石和≪其の肆:両雄必勝!祈願≫

2005年11月04日 | 参陣記
甲武境の山間部,談合坂S.A.を出発して1時間ほどすると、眼前に多少開けた甲府盆地に入ってきました。
その両側,盆地に迫る山裾に至るまでの一面には、淡くピンクの桃の花が、まるで絨毯のようにびっしりと、鮮やかに咲き乱れていました。
それが、武田神社へ向うべく、中央道を甲府南I.C.で降りて一般道へ移ると、高所から低地に、桃の花が目線の高さに見え、より鮮やかに、また見事に、感動するくらいきれいに咲き乱れているのがよく判りました。

甲府市街地に入ったのは13時過ぎ。
ここらで昼食を取るべく、ファミレスに立ち寄って(禁煙,喫煙に分かれて)1時間ほど小休止し、武田神社へは14時過ぎに到着しました。

大魔王号は、昨年に引き続き武田社脇,武田氏館遺構の看板がある駐車場に停めるも、松風は素早く鳥居近くに空いているスペースを見定めて駐車。けど、始め我らはそれを知らず、、、捜している過程で出会った次第で。

松風が鳥居近くに駐車したお蔭で、今年は正面(鳥居)より境内へ向うと、石段の頂点,鳥居下に見慣れた甲冑武者が独り、安宅関ばりに威風堂々と待ち構えておりました。
その武者とは、誰あろう、上杉播磨殿でした。

ちなみに、武装は甲府駅にて行ったそうですが、初陣のたんぽぽ殿は、実際に着た甲冑を見るのは初めてとのことで、まるで穴が開くほど熱心に見ておられました。なんだか、上杉殿も恥かしげ...
そんな上杉殿を、やはり世間は放っておきません。

たんぽぽ殿に引き続き、偶々参詣に来ていたご老人方の守護神ばりに、一緒にカメラに収まっておりました。
結構な関心ぶりで、さりげなく石和の宣伝も出来たかに思います。
我らもこれに便乗し、東日本勢勢揃いということで、石段の頂点にて記念撮影を撮りました。

撮影終了後、参詣するに当たっては神式に則り、まずは手,口を清めるべく御手水場へ。
事件はここで発生しました!!
何者かが放った刺客=一匹の蜂が密かにいや、実は虎視眈々と、狙っていたのです!
不幸にも、首に黒いタオルを巻いていたことが、蜂へ格好のサインとなってしまったのです。
そして!狙いを定めた蜂は、ターゲットたる我が殿の首元へ襲撃して来たのです。
しかし、殿は危険を察知してこれを難とか払いのけるも、その際に親指を負傷。
その痕跡,親指に刺さったままの針が痛々しかったです。お労しや...。
あの執拗さからいって、差金は...(以下自粛)


刺客騒動を落ち着かせてから、参拝すべく本殿へ向いました。
災厄が降りかかったばかりなのでまずは厄除け、ついで明日の必勝などを、此度は正真正銘,我らが守護神(祭神)であり御屋形様でもあられる武田信玄公へ篤く祈願して参りました。僅かな賽銭で(^^ゞ
ちなみに、武田神社とは・・・については、昨年の「いざ!石和」の中で記しておりますので、どうぞコチラからご覧ください。

必勝祈願および厄除け参拝後、昨年に引き続き本殿右脇の宝物殿に入館し、展示されている“御旗”や武田家,信玄公所縁の重宝にも明日の必勝を更に誓って出ると、そこでばったり同じく参詣に訪れていた在野武将殿と景虎むすめ様,宮部宗信様と出会いました。
謙信公祭以来の交流で、マコ殿や若にも多少なりとも馴染み有るので、同じく挨拶を交わしたのですが、気付けば殿にはご紹介せず、小声で「誰じゃ?」と聞かれるまで、ほったらかしていました(--ゞ外交担当として面目ござりません...
ご紹介と歓談にて明日の合戦を前に激励しあって別れた後、祈願所兼土産所に立ち寄って目ぼしい物を物色した後帰り途中の参道にて山内兵馬殿にもお会いしました。
この後もまた、何人かの方が参詣に訪れたとお聞きし、なお以って皆さん考えることは同じなんだ...と思いました。

武田神社境内には、本殿,宝物館のほかに、本殿左脇,社務所近くには祭礼に備えてか、武田菱のテントの中には見事な神輿があり、またその反対,鳥居より西側には能舞台らしきものありました。

これらを見た帰り、参道までの途中に綺麗な音が聞こえてくるのに気付き、その鳴る方へ行ってみると、そこには“武田水琴窟”なるものがありました。新めでしたが、いい音を奏でていました。
またその向かいには、“姫の井戸の水(茶の湯の井戸)”と呼ばれる井戸がありました。

その場所は、かつて“躑躅が崎館”が在った時分、ここが中奥か大奥=プライベート空間であろうとされており、言い伝えでは、ここで産湯を用意したとか、勝頼が茶を発てる際に使った、などと言われております。けど、実際は・・・。
この井戸の周りには、チャボらしき鳥が木枝に止まっていたのですが...



必勝を祈念した参詣を終え、門前の土産物屋にてソフトクリームやら種々の品々を物色して後、今年は雪魔王殿の面目躍如な写真を撮ったくらいで、ここで何事も無く、石和での我等が本陣へ向けて出発しました。
なお、上杉殿は残念ながら松風,大魔王号共に定員オーバーに達している為、甲冑を着したままバス電車を乗り継いで、本陣へ向われました。
バスに乗る甲冑武者・・・あれは、実に不思議な光景でした。

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いざ!石和≪其の参:カルチャーショック≫

2005年11月03日 | 参陣記
ナビ設定のお陰で、無事甲斐までのルートに乗ったのですが、その走行中,燃料計が“E”(EMPTY)=空っぽを指していることに気付きました。
確か来る前に...「ガソリン満タンにし、しかもそこで竹友・相模守太郎浪人に出会った」と聞いはず...と思い、其のことを大魔王殿に訊ねてみると、あっさりと「壊れてるんだよ」って...
え?!何ですと!!
信じられないほどにあっさりと、しかも即答だったので思わず普通に疑問に思ったこと、「修理はしないんですか?」と聞くと、なにやら特殊な仕様だそうで、「直すのに数万も掛かるからね。」とのこと。
そんなんでいいのんか?と思い、続け様「それじゃあ、ガソリン入れるタイミングが読めないじゃないですか?」と聞くと、「走行距離で大体計算するよ。それに、いざって時にはトランクのガソリンを入れればいいことだから」って...そういえば、トランクに荷物を入れる時、赤いポリタンクのようなものがあったのを見付けて、気にはなっていたのですが...(- -;)

あとで確かめたら鉄製のようなので、一応は安心,大丈夫なのでしょうが、もし万が一,トラックなんかにオカマほられた時にはひょっとしたら...うむ、大魔王殿との心中は、御免被ります!!!

そんな一抹の恐怖心を抱きつつも、ナビを設定したお陰もあって、なんとか無事に中央道談合坂S.A.に到着。
ここで、逸れてしまった“松風”の皆さんと無事合流し、風光明媚なこの地にて一時休憩した後、今度は最初っからしっかりと行き先,武田神社を設定して、1年ぶりの彼の地へ出発しました。

その車中...
戦国合戦祭に臨むに当り、参陣者の知識,学力などを考査すべく、歴史系問題から一般教養まで種々の問題を出し合いました。
それら問題を、難なくこなす一同の中に於いてただ1人,一問も正解できなかったの者がいます。
其の者とは...誰あろう、大魔王運転手です!
答えのその一つ一つが頓珍漢で意味不明、中にはそれゆえに撃沈させられることありましたが、ホントにこれで石和5年連続皆勤者なのか?!と懐疑的になります・・・そのホンの数例をコチラ(↓)にて。

例えば...
ペリーが最初に上陸した地は何処か?
正 解)神奈川県(相模国,現・横須賀市浦賀
大魔王)下田(・・・)

孫呉に於ける諸葛忠武侯のライバルだった軍師2人を上げよ!
正 解)周瑜公謹陸遜伯言
大魔王)創作武将(シバキ?!)
などなど...
特に三国志問題の不正解は悔しかったのか、それとも三国志に詳しい親愛なる同属・雪魔王殿と話す切欠が欲しかったのか、(その答えを聞き出して)武田神社境内にていつものようにニコニコしながら私に寄ってきて、「司馬懿仲達」と解答してきました。けど当然「不正解」を告げると、大魔王殿と入れ知恵をした雪魔王殿が共に驚き、狼狽した其の時の表情などは、今思い出しても可笑し過ぎます。さすがは同属。
大魔王殿もキチンと説明をしないから...。

更に、地理の問題。
四国4県を上げよ。
正 解)香川県徳島県高知県愛媛県
大魔王)最初は「土佐」など旧国名を答え、それを総否定すると、ぎこちなく3県まで上げ、最後に「佐賀県」と回答。それは何故かと訊ねたら...「ナニワが歌ってるじゃん!」とキッパリ。
ナニワとは、勿論(?!)「はなわ」のことで、単なる言い間違え。しかも二重,三重に。
もう、意味が全く解らないのですが、この笑撃には耐えられなかったです。

そんな大魔王殿は、1問も回答できなかった屈辱を胸に、得意分野なのか、我々に反撃をすべく、出題をしてきました。其の問題とは...
太平洋戦争の戦端を開いた日本軍による真珠湾攻撃の、機動部隊の指揮官は誰か?
・・・と言うもの。
余程自信ある問題だったのか、それとも・・・なのか、いつものよりもニコニコしながら出題してきましたが、それをいとも簡単にと答えたのは、でした。それも瞬時に。
きっと、大魔王殿には「誰も答えられないだろう・・・」という自信があったのでしょうが、その自信と野望を一気に打ち砕かれてか、私に「正解」と言う時の声は、とても悲しげで寂しそうでした。

ちなみに、この答えは「帝国海軍中将南雲忠一(※)」です。
※南雲忠一(1887~1944)
山形県米沢出身。(旧米沢上杉家家臣の次男)
海軍兵学校卒業(第36期生)後海軍省に入省。
23歳で海軍少尉に任ぜられ、装甲巡洋艦「浅間」に乗船後、砲術,水雷での技量を磨きながら戦艦分隊長,戦隊参謀,駆逐艦艦長,軍令部参謀,軽巡・重巡艦長などを歴任。
専門技量面では、砲艦艦長,水雷学校長,海軍大学校長へと昇進し、その道のスペシャリストとして、また艦隊派として軍縮反対,対米英開戦論者という面から、(同志の)信望を集めていた。
その主張は、昭和16年,遂に現実化してしまう。
南雲はこれに先立って、海軍大学校長から新設の帝国海軍第一航空艦隊司令長官に任ぜられる。
しかし、この役には同隊の創設に尽力した小沢治三郎中将が任ぜられると目されていたが、全く対極の“大艦巨砲主義”であった南雲が、“畑違い”な一AF指令に着いたのは、海軍内の、如何ともし難い、年功序列な人事配置の産物であり、これがこの後、南雲と、延いては日本国にとって重大な惨劇を生むこととなります。
1AF指令となった南雲中将は、その緒戦,クイズにあった真珠湾攻撃に於いて上々の戦果を挙げます。
しかしこの半年後、北太平洋上の環礁・ミッドウェー諸島を巡る米軍との激戦,大戦の分水嶺とされる、いわゆるミッドウェー海戦に於いて、南雲は致命的戦略ミスなどを行った結果、空母4隻を含む多大な犠牲と敗北を喫してします。
この雪辱は、この後(第三艦隊指令として)南太平洋戦線にて辛くも果たし、以後は本土へ戻り、佐世保,呉の鎮守府司令長官に着く。
しかし、昭和18年に第一艦隊司令長官として再び第一線の出、翌年には中部太平洋方面艦隊司令長官に着いてサイパン島に赴任するも、既に優勢な米軍の進攻は防ぎきれず、同島に於いて米軍への反撃作戦,万歳突撃を敢行させ、自らは同じく現地指令だった斉藤義次陸軍中将と共に自決する。享年57歳。死後、海軍大将に特進し、国葬として送られる。
なお、南雲最期の地,サイパン島が陥落したことによって、日本本土が米軍の爆撃可能圏内となってしまったのです。


閑話休題...
こうして、甲州道中における大魔王殿の極めて激しきショウゲキは、腹筋を鍛えるのには十分で...我々の、その場凌ぎの付け焼刃な矯正では如何ともし難いものでした。。。

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いざ!石和≪其の弐:出陣≫

2005年11月02日 | 参陣記
4月16日(土)
天気晴朗にして気温高く,風は無し。
昨年に引き続き、今年も合戦前,入府するこの日、仕事を休みとすることが出来たので、皆さんとご一緒に向うべく、集合場所である東京駅八重洲側地下にある駐車場へと向いました。

10時と定められた集合時間に間に合せるべく、8時過ぎに家を出、いつもの通勤時のように、乗換乗換えで最寄駅の地下鉄東西線大手町駅まで出ました。
ここより集合地までは凡そ10分ほど。
何人か棲家となっている地下道を通って(直結している)東京駅名店街へと進み、その一角,大丸東京店地階より東側にある【平野屋】というレストランの傍に、そこへの“専用階段”が在ります。

天井には案内看板があるのですが、一見逃すと迷ってしまいそうな、ひっそりと目立たないこの階段を下りた直ぐのところ,出入口(精算所)付近に、ここより出発される“松風”の紋次郎。殿と格さん以外の皆さんが、既にお集まりになっていました。と言っても、私は勿論遅刻などしていませんので(^^ゞ
その松風は遅参との連絡が入ったので、ここ出入口の向いにあった待合所にて、その到着を暫し待つことに。

それから30分ほどして到着した松風と、先着の大魔王号とで乗車組分けを行い、私は格さん,マコ殿とともに大魔王号に、松風には沼田殿,飯綱殿如月雪殿,たんぽぽ殿が乗車して、甲斐へと出発しました。

両車は地下駐車場を出て、直結の首都高八重洲線から民間有料道の東京高速道路を介して首都高都心環状線へ入り、4号新宿線経由で中央道に乗り入れて甲州へと向う・・・はずなのですが、大魔王号は松風と逸れた後、1号羽田線11号台場線レインボーブリッジ方面へと向い始めたので、これは鴨川シーワールド)の再現か・・・と危惧し、慌てて一致団結し、大魔王運転手に対して「ドライブする気はありません!」と固い決意を表明するも行き先不安だったので、更にナビ設定を強く勧めるも、大魔王運転手はこれを拒否したので、我らが守護神マコ殿が有無も言わさずこれを捩じ伏せて、休憩所とした中央道談合坂S.A.に設定して漸く、というか何とか(とりあえず)安心して中央道,甲州路へと進みだしました。

マコ殿は大原にて、(一同共通の願い)大魔王殿の首,見事満面の笑みで刎ね申した。

しかし...その安心が一瞬にして崩壊してしまう事実を発見!
それは、次に。

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いざ!石和≪其の壱:夜明け前≫

2005年11月01日 | 参陣記
山梨中部,東八代郡石和町に於いて、特産である桃花が見事に咲き誇る4月中旬,これを祝って行われる“桃の花まつり”の一環として、戦国の世,甲州太守であった武田信玄公の武徳と、その好敵手,上杉謙信公と雌雄を決すべく激突した川中島合戦を偲び、彼の地を流れる笛吹川河川敷にて盛大に挙行される“石和川中島戦国絵巻
この“合戦祭”は今春,実に30回目を迎え、更には昨年10月中旬,石和町は近隣の御坂,一宮,八代,境川,春日居の6町村が合併して“笛吹市”となった、その最初という記念すべき折、今年もまた私は不夜城衆として、紋次郎。殿が旗下に参じました。

思い越せば4年前...
この石和が、私の合戦祭の初陣でしたが、この時は、何のボタンの掛け違いか・・・松永弾正氏旗下にて参じました。
しかし、合戦前夕に本陣にて行われた“参陣全隊一同挨拶”の場に於いて、上総介おめぐ殿および今の御殿,紋次郎。殿に見出され、はや弾正氏と袂を分つ覚悟を決め、これより後、弾正氏一派に交わること殆ど無く、おめぐ隊(当時)の皆さんと帯同していました。

激闘の合戦から2ヵ月後、大原に於いて開かれたおめぐ隊(当時)慰労宴に“客将”として招かれたことにより、遂に弾正氏一派からおめぐ隊へ、完全移籍を果たせました。

しかし、その当初は“裏切り者”の誹りと疑念の目を向けられること多く、人知れず肩身の狭き思いもしたのですが、翌年の石和合戦に於いては、おめぐ殿の禅譲を受けて出陣した紋次郎。殿(不夜城衆)旗下から晴れて参陣し、一時の主,弾正氏旗下の一部を調略して我が隊に気脈を通じさ、また合戦場に於いては白刃を奮ってこれを(返り)討ちに取り、天下晴れて不夜城衆一員と認められ(たはず...)ました。

そして昨年前年に弾正氏一派から引き入れたのぶたつ殿を御大将に擁して臨んだ石和合戦に於いては、御大将の宿敵でもある弾正氏は言うに及ばず、おめぐ隊を継承した不夜城衆より脱退して“征夷大将軍”を僭称する相模守太郎氏をも、竹友・大魔王殿を教唆して、共々見事!討ち取って参り、殿より過分のお褒めのお言葉を賜りました。

そして今年。
我が殿,紋次郎。殿は、多年に渡る(隊としての)勝利を得たにも関わらず、寄る年並みには勝てず...残念ながら、此度この記念すべき節目の合戦を以って引退することを表明。
ゆえに、これに応じて参じた我等一同は、更なる気概を持って、“紋次郎。衆最後の戦い”を華々しく、また後の語り草となる武勲を示さん!と意気軒昂。
更には此度、上杉播磨守定景様飯綱武蔵守法達様そして若等の頼もしき兵共の合力を得、我の目的が果たせる!と。またもう一つの目的たる、宿敵の“三撃全殺”は確実!と、出陣前から不夜城衆の士気は天をも突かんばかりに昂らかでした。

紋次郎。殿、三顧の礼を尽くして上杉殿と同盟締結!


ここから合計16編,順々にお楽しみください。
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上越から退却

2005年08月17日 | 参陣記
8月16日(火)に新潟県の西方,上越市にて行われていた謙信公祭
今年で記念すべき区切りの80回目を迎えたこの祭に、既報通り今年も参陣しておりましたが、本日(17日)22時半頃に帰って参りました・・・といっても千葉の自宅ではなく、昨年同様栃木の親戚宅にて一旦休んでおります。

そのお陰で、同じ方向ののりび!殿の御車にて飯綱殿とご一緒させていただき、大変に有難く、また楽し過ぎました!
機会ありましたら、また良しなにお願いいたします。

また......
今年も様々な出会いや楽しみがあり、大変有意義で貴重な時間を過ごせたことが何よりも嬉しかったです。
また機会あれば、来年も参陣したいと思います。気候がよければ...


追伸;
上越から栃木までの途中、先の中越地震にて被害大きかった十日町などを通ったのですが、その山の至る所で崩れたあとを見、復旧工事(作業)に出くわして初めて、その被害の大きさを実感しました。
やはり、その場,現場に居なければ判らない事は多いですね...。
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通達!

2005年08月09日 | 参陣記
いまは夏。
世間一般お休みモードなので、この日私は仕事を休みました(爆)。
そんな日の昼下がり、最近ハマってしまった三国志Ⅷ王朗景興)を攻略していると、いま渦中郵便局から速達便がやってきました。
送り主は...上越市
更に表書きには「第80回謙信公祭出陣行列参加のご案内」と謙信公祭協賛会の印(字)。
これこそ、待ちに待った謙信公祭の“召集令状”。
早速、テーピングされた封口を切り明け、封入されていた“出陣行列キャスティング表”を出して見てみると...そこには役名の一覧のみ。
昨年まで、役名に対してそれを配した人の名,性別も明記されているのですが、今回その欄は全て空欄。
一部、裏方の丸竹産業が担当する御役目のみ、それが明記されているくらい。
流石は法令を遵守しなければならない行政機関(上越市)、本年4月に施行された個人情報の保護に関する法律に配慮してのことでしょう。。。
今回参陣を表明されている方々が、どのような御役目を拝されているのか、大いに気になるところですが...。
ちなみに、私に課せられた御役目は“実施案内”の右上にナンバリングされていました。
その私の御役目は、「No.100 甘粕景持隊士②」でした。
昨年の“No.1 乱龍旗持役”からは降格しましたが、いまはただ、念願の上杉勢にて参陣出来て良かったです!

鈍り切った体に鞭打って、体調万全でその日が来るのを楽しみにしています。

目指すは武田勢の駆逐!
我の栄達と我が殿の武勲、そして御屋形様の勝利!!!ですね。
コメント (4)
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いざ!龍毘の旗下〔其の拾壱:あとがきと“入口”〕

2005年07月11日 | 参陣記
昨夏の謙信公祭“初陣”からはや1年近くが経とうとしています。。。
其の時、その場は非常に楽しいのですが、こうしたことは兎角あっ!と言う間に過ぎ去ってしまうもの...その時の思い出を何時までも反芻出来る様に...と思い、つれづれと記し始めて拾余箇月。
一度は自分のミスから失ってしまったデータも、拙い海馬をフル回転させて漸くここまで漕ぎ着ける事が出来ました。
これも偏に、この折上越へ参じられた皆様のお蔭にて、ここに厚く御礼申し上げます。
その中で特に“御屋形様”の御役目を見事こなされた克殿からの貴重な情報、海馬フル回転の原動力ともなったレポなどが無ければ、今回この「合戦記」完結はありえませんでした。
ここに改めて、御礼申し上げます。

今夏、80回目を迎える上越謙信公祭。
私は早速、この募兵に応じ、また上越へ馳せ参じます。
またここで、新しき出逢い,思い出が創られることに胸膨らませ、その日その時が来ることを楽しみにしています。

今夏上越へ参じる皆様、その節は何卒良しなにお願い申し上げます<m(_ _)m>

 ところで...
 “いざ!龍毘の旗下へ”はここブログにてお送りしておりますので、
 その特色上、ご覧頂く際に何かとご不便をお掛けするかと思います
 ので、ここに「目次」を追加いたします。
 どうぞ、ご興味のお有りなところから攻めてください。
 なお、各日各欄下に「次への入口」を設けておりますので、そちらも
 ご利用ください_(_ _)_

 「いざ!龍毘の旗下へ」其の壱から拾まで・・・
 ≫ 其の壱;“濃緑の上越路

 ≫ 其の弐;“意外...

 ≫ 其の参;“予熱

 ≫ 其の肆;“荒奮る日本海

 ≫ 其の伍;“とらんす

 ≫ 其の陸;“開門!

 ≫ 其の漆;“行軍開始!

 ≫ 其の捌;“雌雄を決せよ!

 ≫ 其の玖;“両軍無壁

 ≫ 其の拾;“越山


各編とも稚拙で的外れな論点と、誤字脱字の宝庫かと思いますが、もしそれらお気付きの点ありましたら、この記主くないまでご遠慮無く仰せ下さい。
ご無礼の段も、不躾ながら重ねてお願い申し上げます。

なお、これら全ての文責はこの記主くないに属しますので、恐れながら無断にて一部なりとも複製(コピー)の上使用されることはご遠慮下さい
ただ、リンクは大いに、喜んで!
コメント (3)
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いざ!龍毘の旗下へ〔其の拾;越山〕

2005年07月10日 | 参陣記
興奮の謙信公祭から一夜明けて...8月17日。
朝食を済ませて後、同宿の人々と挨拶を交わしながら、今後の予定を決めあぐねていると、空からは雨が...予報通り降り始めました。
心中では、高田城下などを散策したかったのですが、雨の備えも無く、降雨と確認した途端にちと前日の疲れが沸いてきて、急遽帰郷することに。
幸い、直江津発10時08分発越後湯沢行き特急「はくたか5号」に間に合う時間だったので、未だ雨が小降りのうちに駅へ向かい、ここで若と明智君と別れて着発ホームへ降り立つと、それぞれの乗降口レーンには早多くの人が列を成していました。
まさか座れないのでは・・・という予感は、見事的中。
自由席車内は既に満員状態で、車内販売のワゴンの往来も滞るほど。
それもそのはず・・・始発駅は福井、しかもお盆明けときたら。。。

行きとは違い、直江津から越後湯沢までノンストップで1時間とはいえ、少々苦痛で残念でした。
越後湯沢から今度は高崎まで、再び新幹線(11時10分発「Maxとき314号」東京行き自由席)に乗り込むも、再び満席で、今度はデッキにて待機。さすがはお盆休み中か...ちと、疲れました(_ _ゞ
高崎からは再び両毛線に乗り、栃木県岩舟駅まで向かうのですが、時は昼時。何にしようか・・・などと考えているうちに電車は行ってしまい、次の電車まで1時間,急に襲われた睡魔と闘いながら、待合室でまどろみながら、高校野球を見て時間を潰していました。
結局昼餉は・・・駅弁だったと記憶しています。
高崎12時56分発両毛線小山行きに乗り込んで、揺られる事1時間半、降り立った無人駅の岩舟は、ほくほく線より見た光景と似て、とても長閑で静かなところでした。


おしまい<m(_ _)m>

   ≪≪≪いざ!其の玖“両軍無壁”へ/いざ!“あとがきと入口”へ≫≫≫
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