goo blog サービス終了のお知らせ 

くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ日野へ![蝦夷新選組として/出発!]

2008年06月04日 | 参陣記
毎年,ゴールデンウィーク明けの土日に、東京都日野市で挙行される「新選組まつり」。
他の時代よりも、深く!熱く!!一心に新選組を愛するファンが、参陣者として,観衆として多く詰め掛けて、大盛り上がりのこのお祭に、今年初めて,“蝦夷新選組士”として、“大野右仲”に任ぜられて参陣してきました。

午前中は、前日来降り続いた雨の為に中止や変更となりましたが、午後からは何とか天候も持ち直してきたので、予定のプログラム通りに決行!となりました。
雨も、正午過ぎまで時折ぱらついていましたが、時が経つにつれて薄日が射すまでなりました。
一般公募の方々には、運営方から番傘が貸与(日野駅過ぎて回収)されていました。カツラを付け、メークもしてますから...。

さて...
正午過ぎ。
全組に対して、集合,待機!の伝令が回り、仁王門から大日堂山門辺りまで、びっしりと“新選組”が集結。
それはもう、圧巻でした。
その中で、各組毎に隊伍を組んで勝鬨などの練習などをしていましたが、我が組みもまた,榎本総裁指揮の下、一般公募で選ばれた「相馬主計」「市村鉄之助」「井上銀之助」の御三方を交え、将官を先頭に四列縦隊に隊伍を編成。

一番手:「榎本総裁」
二番手:「土方副長」「大鳥圭介」「荒井郁之助」(紋次郎。殿)
三番手:“組旗”(尾関泉/哲坊殿
四番手:一般方の「市村鉄之助」「相馬主計」「井上銀之助」
五番手:
 「野村利三郎」(マコ殿)「安富才助」(武茶殿)「相馬主計」(美琴殿)「大野右仲」(私)
六番手:
 「立川主税」(紗霧殿)「玉置良蔵」(蝦夷衆)「市村鉄之助」(ran.殿)「井上銀之助」(吉利殿)
後 詰:「島田魁」「中島登」(いずれも蝦夷衆)
[※ ← 歩道側 / 車道側 →]

これを将官御三役がテキパキと,まるでマニュアルでもあるかの様に指示を出して並べていきましたが、これを見ていた一般方三人衆が感心している様子だったので、その理由を尋ねてみると...
「相馬と大野は、常に行動を共にしていたので、理に適っている並び」だそうです。
さすが将官御三方...と感心するのと合わせて、これに納得していた一般方三人衆にも感心しました。
さすが、応募するだけあって違いますね。

隊伍を組み、勝鬨の打合せなどしてから、出発地の市立第一小学校へ、バスで向かいました。
企業のバスなど、5台程を往復させて輸送していましたが、日曜日の昼間でもあり、少々遅滞気味。。。
その手持ち無沙汰な時間、一般方の御三方とも談笑。ここで意外な接点が...。世間はやっぱり狭いです。

高幡不動尊から北へ約2.2キロの離れた午後の出発地,市立日野第一小学校へ、バスで10分ほど掛けて移動。
ここの校庭で再び隊伍を整え、行軍中の諸法度が念押しで達せられ、全軍で勝鬨を上げて気合を入れて、日野市中へ向けて出発!しました。

<<< 蝦夷新選組,休メ<<<>>>蝦夷新選組,前へー!>>>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ日野へ![蝦夷新選組士として/休メ。]

2008年06月03日 | 参陣記
若干遅参しましたが...
皆さんと同じく身支度が一通り完了後、蝦夷新選組の幹事,榎本武揚総裁より、この日の注意事項と降雨による午前中のプログラム変更が達せられました。
即ち,屋外(土方歳三像前)で挙行される予定だった写真撮影や、近藤局長,土方副長等の法楽、パフォーマンスコンテストは五重塔の下,千体地蔵堂で。
←予定だとこんな感じ。
高幡不動駅周辺の行軍は、中止となりました。
その旨,堂内に集結した参陣衆一同にも達せられましたが、午後からは(何が何でも!)予定通り挙行することも、合わせて達せられました。

この後、組毎の写真撮影し、午後の出発まで自由時間となったので、記念撮影などの為、雨が降り止んだ表に打って出ました。
すると...
祭の諸行事が屋内(千体地蔵堂)となり、観られずに飢えていた人々多数が、我等を見つけるなり一斉に,時々歓声交じりで寄ってきて、忽ち撮影会となりました(^^ゞ
その時,こちらは階段の天辺にいたので、さながら新内閣の集合写真を撮っている様で、結構恥ずかしかったですが、こういっては何ですが,晴れがましくて気持ちもよかったです!

蝦夷新選組内閣誕生(榎本首相,土方官房長官,大鳥防衛相)?!
もっとも,観衆の目線の先は、渋くて格好良い!!「榎本総裁」と「土方副長」と「大鳥奉行」に注がれていたことでしょうが...。

なお、「安富」武茶宣伝部長はこの期を逃さず,総裁から託されたパンフレットを観衆の皆さんに渡して行きました。
普通なら、こうしたモノは受け取ってもらえないのですが、さすがお祭,さすが新選組。
あっという間に捌けていきました!

これでノルマも達成できる・・・と思いきや、祭後,上着のポケットから、残部が束になって出てきまし・・・た。

この後、新選組流山隊と一緒に撮影をし、法楽の為に一時堂内へ戻りましたが、再び外へ打って出、写真を撮ったり撮られたりしてきました。
もっとも,私は慣れている撮り方に専念していましたが、新選組のファンは、他の時代,例えば武者祭系の贔屓よりも最低一度以上熱く一心で、時にはこちらがまごつく事もありましたけど、それもまた、いいもので(笑)

青雨を受け、一段と緑眩しく空気が美味しい境内を、撮影しながら散策して後,一旦寺務所内詰所に戻り、この後の行軍に備えるべく、配給された弁当とお茶を食してから、小雨が降ってきた表に再び打って出て、撮影や散歩,時には祭の案内などをして、その時を待っていました。

特製弁当なんでしょうか,結構美味しかったです。


そして、刻限の正午。
組士一同に「集合!」の伝令が回り、隊伍を整え、いよいよ日野市中へ。
本格的に「ひの新選組祭」は開始します。

それにしても...堂内はとても立派で、高幡不動尊の実力を垣間見た気がします。普段入れるのかは知りませんが、寺社仏閣に興味のある方は、一見の価値ありです。

p.s.
リンク作業中、初めて今回のポスターを見たのですが、左上に“井上源三郎没後140年”って、副題が。。。
知りませんでしたし、特にこのことに触れることって・・・やってましたけ?!(^^ゞ

<<< 蝦夷新選組,駆足!<<<>>>蝦夷新選組,出発!>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ日野へ![蝦夷新選組士として/駆足!!]

2008年06月02日 | 参陣記
やっとのこと辿り着いた詰所(更衣室)では、既に先着の皆さん方が身支度を始めていたので、私も,遅れを取り戻すべく、挨拶もそこそこに身支度を開始。

今回の装いは、黒尽くめの洋装軍服に、陣羽織に鉢巻という和洋折衷。
これに、かつて不夜城衆の目印に用いた晒を腰に,竹光ではない刀を佩びる為、しっかり巻いて、完成!・・・かと思いきや、参陣者全員に役名が!?
提示された三つの役名から、何も考えずに私が選んだのは「大野右仲」。
てっきり私は架空の人物だと思っていたのですが、とんでもない!
蝦夷にて新選組頭取,陸軍奉行並添役として土方副長をよく補佐した実在の人物(1837.1.14~1911.6.11/享年76)でした。
ちなみに、その出自は肥前国(佐賀県唐津城主の小笠原家に仕える武士の家柄で、青年期に幕府官学の昌平黌で学ぶ。
その後、主家世子ながら幕閣を務めた壱岐守長行に随い、西軍東征時には佐幕派諸侯の下を訪れ、長岡では小千谷談判前後にて、河井継之助と共に居たとされています。
新選組にこの途中,仙台で入り、上記の通り,箱館まで転戦するも、降伏。
この後,赦免されて新政府に出仕し、西国や千葉,青森などの要職を歴任して従七位に叙位される一方で、箱館戦争での出来事を後世に遺す(『函館戦記』)ことにも取り組んでいたようです。
残っている写真を見るに・・・怪優・大泉滉に似てる・・・かな。

なおこの時、実は他に2名提示されていたのですが、それは、その場に居合わせた武茶殿が、土方の最期を看取ったとされる「安富才助」江差開陽丸宣伝部長に。

哲坊殿が、大河ドラマ「新選組!」で熊面鯉が演じた名誉ある旗持役で、調役兼監察を務めた新選組古参の「尾関泉(雅次郎)」を務められました。
(ただ、名前が違っていたので、選ぶ時にそれを気が付かず...。)

また,その他に此度参陣されしは...
紆余曲折を経て新選組に入り、蝦夷地では隊長を務めた(奥羽越列藩同盟盟主,輪王寺宮能久親王曰く)器量人の「相馬主計」を、美琴殿が。
[正月時代劇「新選組!!」では、ジャニーズ出の小橋賢児が出演。]
土方の有名な写真などを郷里の多摩に届けた「市村鉄之助」を、秋田から馳せ参じたran.殿。
[正月時代劇「新選組!!」では、「風林火山」で諏訪四郎勝頼を演じた池松壮亮。]
(年少ゆえ)新選組では局長と副長の,蝦夷共和国では総裁付の小姓として仕えた「田村銀之助」に、時代祭系初参陣の吉利殿。
以上の御三方には、公募で選ばれた“本物?!”がおり、我等の隊列に入って、行動を共にしました。
ちなみに全員女性で、何度か参陣したことがあるそうです。
続いて...
戦後仏門に帰依して土方の菩提を弔い、新選組の生き残りとして記録を残し、「立川主税」には、今回の立役者,紗霧殿。
近藤局長付で、板橋での刑死後に赦免された後、相馬主計とともに新選組に再合流し、宮古湾海戦で散った「野村利三郎」には、マコ殿。
「玉置良蔵」には、蝦夷組の御三方と共にやってきた方が,「中島登」と「島田魁」には、蝦夷組と縁のあるお方(いずれも女性)が務められて後詰に付き、“監察”として、我等の行軍に目を光らせておられました。

そして、紋次郎。殿は(仕事で来られなかった方の変わりに)海軍奉行の「荒井郁之助顕徳」に満場一致で推挙され、それまで着ていた衣装から、錦糸のラインが入った軍服にスカーフを巻いて手袋をはめ、平隊士よりも豪華な陣羽織を着し、総長・・・ではなくて、士官らしい装い.
さすが、きまっております!(_ _)

<<< 蝦夷新選組,集合!<<<>>>蝦夷新選組,休メ>>>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ日野へ![蝦夷新選組隊士として/集合!]

2008年06月01日 | 参陣記
それは3月中頃,不夜城主の紋次郎。殿から突然やってきました。

「蝦夷新選組の助太刀として、日野の新選組祭に出るべし!」と。

これは、双方と繋がりのある紗霧殿から、紋次郎。殿を介して召集が掛かったのですが、3年前の石和最後に、時代系祭から遠のいていた紋次郎。殿からの御呼びとあらば否応も無く,いち早く名乗りを上げて、馳せ参じました。

ただ、思えば...
時代系祭にはここ最近,観る側(従軍記者)が専らで、この前出陣したのは・・・そう!一昨年の秋に、陸奥一関唐梅館参じて以来、実に一年半ぶり。

感覚と体,鈍ってますよ、きっと。
また、この日野お祭には見学側として、千葉在住の私が(^^ゞその幹事もしていたので、なんだか不思議な感じでした。

幾度かの準備を踏んで、いざ当日。
朝,家を出ると、とても寒くて冷たい雨が降っていました。
思えばこの祭、安定した天気の下で観た記憶が・・・ありません。
「悪天の特異日なのでは...」と思う程、ついてない天気が多くて心配していたのですが...その通りに。
ただ、天気予報によれば、「午後から回復」するとのことだったので、それを信じて・・・というか、願って!!本陣の高幡不動尊へと向かいました。

参陣者の集合は7時半なので、仲間内ではこの15分前に京王高幡不動駅改札前に集合となりました。
そこで、余裕を持って向かったのですが、思わぬ落とし穴に!
府中本町(武蔵野線)から京王線との乗換え駅である分倍河原へ出るのに、南武線で立川方面のに乗らなければならなのに、逆の川崎方面の電車に駆け込んでしまったのです。。。
その間違いに気が付いたのは、(乗った電車の)発車間際,扉が閉まる瞬間に駆け下り、急いで立川方面のホームへ向かいましたが、電車は既に行った後。。。
しかも、南武線のホームは構内の端と端にあり、特に川崎方面のホームは、改札までの距離が長い長い...。焦って向かって損しました。
ここでのロスが、京王との乗継にも影響して、結果,集合時間に間に合わず...。
分倍河原の駅前には、騎馬武者像が。これは誰かと調べたら・・・新田義貞のようです。
ただ、乗込んだ各停にran殿と乗り合わせたのが、不幸中の幸い・・・だったのですが、高幡不動駅で逸れてしまい、更に代換のケータイに連絡先が入っていなかったので連絡が取れず、見捨てて行ってしまう粗相も。
その後、何とか連絡が着いて合流できましたが(--ゞ
その上、本陣の高幡不動尊寺務所内でも,単純な回廊内を右往左往してしまって詰所が見付からず、美琴殿と紗霧殿に救われてやっとのこと辿り着くなど、幸先と罰の悪い始まりをしてしまいました。

そうえいば...
京王線の高幡不動駅は、以前の趣がある駅舎から一転,どこにでもある近代的な駅ビルに変わっていました。拍子抜けしたのと同時に、とても寂しい感じがしました。

>>> 蝦夷新選組,駆足!>>>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[終ノ太刀×余韻]

2007年08月18日 | 参陣記
殺暑の中で奮闘貫徹した謙信公祭と後夜祭を終えて帰宿したのは23時頃。
ここには、遠方に馳せ参じられた軒猿衆の方々も宿しておられるのですが、その内のお1人が行軍中,暑気中りとなって体調不良を訴えられました。
しかし、御大将を拝命されていた責任感からか,救護士からの専門的な手当てなどは受けずに休憩時(春日山公園)に旗下の兵や軒猿衆が冷やすなどの手当てをされていたのですが...
やはり、無理が祟って結局は救急の手当てを受けることに。
ゆえに、旗下の兵衆や軒猿頭殿などは、入院加療されたお方を身を案じられて夜遅くまで、宿所と搬送先の病院などを往復されたりしていたようです。
私も一応は...
何もしてはいませんが、初陣の折,軒猿衆にも修行の為に名を連ねさせて頂いており、その身を案じておりましたので、宿所の駐車場におられた軒猿頭殿に状況をお聞きし、お見舞いの言葉を託して自分の部屋へと戻りました。

部屋に戻ってからは、一目散に風呂へ,汗だくの身を流すべく入りました。
けど、この宿所の風呂(ユニットバス)は最悪の極み!
幾分細身の私でも、入るのに往生するほどに浴槽が狭く、壁に備え付けられているシャンプーなども出づらく、挙句,給水口に不具合があって、蛇口からとシャワー口からの変換が機能せず。
また、水とお湯の調整が上手く行かず、水か熱湯のどちらかしか出ませんでした。
更に周辺環境も,周囲には飲食店はもとよりコンビにも無く、夜ともなれば真っ暗。
朝の朝食もちんけで侘しいもので、陣所に近くて安いこと意外に良いことは無く,今まで泊まった宿所の中で最悪の極みでした。

その宿舎で一晩休み、侘しい朝食を取って身支度を整え,9時にはチェックアウトをして帰国の途に着きました。

最初は、直江津駅まで電車バスで行こうかと思ったのですが、丁度よい時刻に無く,また昨日の興奮が未だ覚め遣らぬ感だったので、昨日殺暑の中4キロ余も歩いたにも関わらず、この日の朝も直江津駅まで,3キロ弱の道程を歩いて行きました。
陽気は昨日と変わらず,朝から陽が照りつけて、はや茹だる様な暑さではありましたが、1時間ほど掛けて直江津駅まで完歩しました。
この時、ちょうど越後湯沢行きの特急[ はくたか5号 ]が発着する数分前だったのでそのホームに下りてみると、各乗降口には長蛇の列...。
加えて、到着した列車内も満席満員状態だったので乗るのを見送り、次の11時過ぎに発着する[ はくたか7号 ]にすべくこれを見送り、上階の空調の効いている待合室でお土産を買い、高校野球を見ながらその時を待っていました。
そして...
到着の10分くらい前にホームに下りて[ はくたか7号 ]を待っていると、到着した信越線から見覚えの有る御仁・・・三浦介星友殿が!降りてこられました。
聞けば、私が乗るつもりだった[ はくたか7号 ]に乗るべくやってきたとのことなので、折角の機会,途中までご一緒させていただくことに。

しかし...
到着した[ はくたか7号 ]も、見送った先の[ はくたか ]同様満席満員。
実は、以前もそうだったのですが、お盆後のUターンラッシュなのか,通路やデッキまで人で溢れていました。
その中、私と星友さんはドア付近で陣取って,終始立ったままで新幹線との乗換駅たる越後湯沢へ向かいました。

11時に直江津を発車した[ はくたか7号 ]が越後湯沢に到着したのは12時前。
多くの乗客は、10分連絡の新幹線へと急いで向かっていましたが、私と星友さんは[ はくたか ]車内でずっと立ちっぱなしということもあって、越後湯沢発[ たにがわ410号 ]に乗り込んで、新幹線ホーム下の売店で買った駅弁を広げてゆっくりと,


30分ほどですが、歓談しながら列車の旅を楽しんでいました。

私は行きと同じく,栃木の親戚宅へ向かうので、星友さんとは高崎で別れ(下車し)て両毛線ホームへと向かいました。
けど...
乗っていた新幹線が発車する間際,「新幹線から離れてください」という駅員の忠告が聞こえてきました。
それを私は...
「世間知らずの迷惑者が...」
...と見向きもしなかったのですが、その人物は忠告を無視して尚も新幹線に接近していたようで、駅員さんは繰り返し注意喚起をしていました。
しかし、それでもまだ離れなかったようで、駅員さんの堪忍袋の緒も遂に切れて「いい加減に離れろ!」と怒声を浴びせていました。
・・・ホームで危険注意の喚起をするのは日常的に聞いてはいますが、ここまで強く怒鳴っているのは初めて聞きました。
余程の世間知らずの迷惑者・・・と見られますが、それに前日までの疲れの所為か,野次馬根性は生まれずに、そのまま両毛線ホームへと向かいました。

上越新幹線から両毛線への乗り継ぎは20分ほど,13時00分発の小山行きに乗ってのんびりぐっすりと,往きと同じく1時間半程揺られて目的の地まで行きました。
この日の天候は余り安定せず、両毛線に乗っていた1時間半の間に天気が目まぐるしく,雨が降ったり雷鳴が轟いたり、天気雨になったりしていましたが、着いた頃にはイヤになるほどに晴れて暑かった!です。

目的地の駅からまた、伯母宅までの2キロ程を汗ばみながら,雨に降られる前にといそいそと、50分歩程掛けて歩いて帰りました。

上越市春日山を9時に出、栃木の伯母宅に着いたのは15時半頃。
6時間半掛かった旅でしたが、存分に楽しい路でした。

そして、ここに数日滞在して、合戦での疲れなどを癒してから自宅へと帰りました。

<<<<< いざ!十二ノ太刀||いざ!上越への入口へ >>>>>

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×十二ノ太刀:祭の後]

2007年08月17日 | 参陣記
陣所への集合からは10時間余。
直前の練兵からは8時間余。
陣所出立からは6時間余。
春日山神社より行軍を開始してからは4時間余。
決戦の場たる地に参着し、いざ!掛かれぇ!!てから2時間余。
盛夏の頃,殺暑な中で執り行われた81回目の謙信公祭は、落伍者多数を出す惨事に見舞われましたが...
私的にはなんとか,ヘトヘトになりながらも貫徹して陣所へと帰還・・・というより、生還しました(/^^)

今まで、石和含めて8度ほど出陣しましたが、今回ほどきついのは初めて。
陣所出立前,参陣する兵衆を前にして主催者側は、「行軍中の水分補給は万全,十分に摂られる」とのことでしたが、結果,主催者側が用意した給水(休憩)場は一箇所だけ。
この他にも、牛歩な行軍や指揮命令系統と伝令の不備など等...
どうも運営側の丸竹産業と主催の上越市,更には警察なり自衛隊などの関係各所との連携や意思の疎通が上手くいっていなかった...と、思われる節だらけでした,この回は。
仕事柄,余計にその点が見えてしまいまして(^^ゞ
ゆえに、そのとばっちりを食らってしまったのが我々兵衆であり、殺暑の中で倒れて落伍していった兵衆は犠牲者・・・と言っても、過言ではないのかもしれません。
確かに,前年までに比べれば異常な暑さではありましたが、一歩間違えれば、きっと私もそうなったかも知れない・・・など等を考えると、無念にも落伍していった兵衆が余計哀れに感じます...。

その,名実共に過酷だった祭を終えて陣所に戻り、武装を解いた時のあの開放感!は、今までに味わったことの無い,実に気持ちの良い♪ものでした。
ホント,心底“開放された”感じがありましたし、草鞋を脱いだ瞬間などは大袈裟ですが,生き返った感さえありました(苦笑)

発汗の所為で、出陣前とは明らかに色の“濃さ”が違ってます。如何にダイエット効果があるか実感・・・(違?!)
それほどの中,一応無事に帰陣した自分の体力に(返って)感慨と自信を持ちつつ...
支給されたお握り(2個)と麦茶を貪る様にして食らい、

飢えと渇きを一気に解消させてから、撤収の身支度をいそいそとしました。

そして...
祭(一仕事)を終えた後にはやっぱりビール!とばかりに、近くのゲートボール場に設けられた後夜祭会場へ急いで!行きました。
やっぱり,4キロの道程を歩んだ上に、合戦場では敵味方に分かれて雌雄を決した!とはいえ,半日程の長丁場を乗越えた者同士,苦楽を分かち合った者同士で酌み交わす酒食は美味い!!もの。
数多の酒食を頂き、数多の方々と語ったり労ったりして、楽しく交流をさせていただきました。
更に、その終盤には...
ボルテージが異様な方向へと流れて、必ず胴上げが行われるのですが、この回もご多分に漏れず,次々と、いろんな人が宙に舞っていました。


こうして...
21時頃から始まった後夜祭は、約1時間ほどで終了。
とても、それほど短いとは思えぬほどに長く、かつ濃い時間を過し終えた後,各々宿所や帰国の途へと着いていきました。
(私はこの時,御大将であった真下殿のご好意に甘えて、宿所まで車でお送りいただけました。)

ところで,聞くところによると、82回からは無くなるとのこと。
前々から、ドンチャン騒ぎがご近所の迷惑になっていたことは重々承知し、幹事をされている方々もその点,十分に配慮はされていましたが、諸条件も重なって中止になったとか。
ただ、“日本一過酷な祭”の乗り切り、苦楽を共にした同士で労う場くらいはせっかくですから,ご迷惑とならい場にて設けられるといい・・・ですね。

<<<<< 十一ノ太刀||終ノ太刀 >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×十ノ太刀:決戦]

2007年08月16日 | 参陣記
春日山神社より、遠路行程,4.5キロほど。
“決戦の場”である春日山城史跡広場には、暑さも幾分収まった落陽の刻。
出入口には、所狭しと屋台が居並んでいてとても賑々しく、多くの観衆も集まっていました。
ただ、ここまでの行軍中,殺暑の前に残念無念にも落伍する兵衆が続出。
中には、戦力が半減(以下)という隊もあったようです。
しかし、赤備えの“元祖”たる我ら山県昌景隊は(なんとか)全員,打ち揃って入陣することが出来ました。

配置は前日の段取り通り,舞台左側で、御大将含めた全員で御命令あるまで暫し待機。
一方の上杉方は、謙信公を始めとした諸将が舞台上に,兵衆は右下にて、我らと対峙する形で待機していました。
そして、全軍諸将の配置が完了した段階で、いよいよ“本番の鬨”を迎えました。
四方八方から照明にて照らされている合戦場は、周囲の暗闇とは対照的に明るく眩しいので、一種隔絶した雰囲気すら感じられます。
その中で上杉方諸将は、舞台を中心したエリアで出陣の諸儀式を粛々と,合戦準備を着々と進め、その最後は舞台上に前回属した小荷駄奉行で殿を仰せつかった甘糟景持隊が松明を持って舞台に上がって後、終えました。

一方,武田方は侘しく待機陣にて細々と、出陣の儀を執り行いました。。。


舞台上での出陣前の諸儀式が終えた後,合戦場の照明が(一点を残して)消されて、代わりにあちらこちらに発煙筒が置かれ煙幕激しい中,両軍の忍衆による殺陣などが披露され、これに続いていよいよ,両軍各隊の“激突”が開始されます。

そして我らが山県隊も、幾隊かの“激突”を叱咤激励した後に、合戦場へと打って出ました。
此度我らと“激突”する上杉方は本庄繁長隊(揚北衆)で、旗下には飯綱殿を始めとして歴戦の兵が多く属していました。
この中で、各隊との“激突”時は(とりあえず)予め(練兵時に)決めておいた方同士で刃を交えることとなるのですが、私が(今回)刃を交えることとなったのは、(見た目)五十過ぎの兵。
初陣か幾度か参陣されたことがあるのか、今となってはちょい失念してしまいましたが...
やる気は漲って溢れんばかりにあり、とっても気合が入っていたのですが、如何せん,入り過ぎてます。
ゆえに、練兵時にそれをなるたけ押えて、段取り良くて格好良く決まるように打合せて、この方ともう1人,ご一緒に参陣されたご友人と、1対2,もしくは碓氷殿を交えた2対2で殺陣をすることに。

そして、いざ!その鬨となりました。

声優と丸竹と両大将が号令の下,段取りの通りに相対して、時折双方で誘導と動きの確認をしながらも無事にかつそれなりに気持ち良く,御大将の助言などよろしく、機敏に立ち回ることが出来ました。

一戦終えて山県・本庄両隊が退いた後、軒猿衆(中心の)殺陣が披露されました。
上杉方随一の猛将との呼び声高い鬼小島弥太郎(演:やーたろー殿)が、武田方に生け捕られた妻で女武者隊の大将・松江を救うというもの。
その見事な演出と鮮やかな大立ち回りに、観衆他,甲越両軍からの大喝采が上がっていました。
また、舞台上ではこの“川中島の合戦”(第4次)で討死をした武田方軍師の山本勘助晴幸の“その時”も演じられて、こちらも合わせて大喝采を浴びていました。


そしてこの後,我が山県隊には今一度出撃の命が下り、時を同じくして出陣した新発田隊と白兵戦を繰り広げている最中,再び照明が一斉に消え、北側の山裾に待機していた高坂弾正隊がいよいよ下山して参戦。
ここで両軍総懸の号令が下り、遂に全軍入り乱れての大激突!
目当ての主を刃でバッタバッタをなぎ倒し、大立ち回り!!ほどは出来ませんでしたが、それなりに,幾分涼しくなった合戦を縦横無尽に走り回り、最後の“闘い”を大いに楽しんできました。
そして...
全軍諸将が舞台付近に参集整列し、“終戦宣告”をして後に解兵となり、照明で明るかった合戦場から一歩外へ出ると真っ暗闇の春日山を、合戦後の本番への緊張が解けたからか,さながら落武者の様にヘトヘトと歩きながら、陣所(市立春日小学校)へと向かいました。



<<<<< いざ!九ノ太刀へ||いざ!十一ノ太刀へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×九ノ太刀:暑嵐]

2007年08月15日 | 参陣記
平成18年8月16日夕刻,81回目の謙信公祭は、ゆっくりと,春日山神社より始まりました。

一昨年に私が(初陣で)務めた上杉方突撃時の旗印,懸り乱れ龍旗を先頭に押し立てて、上杉方から粛々と行軍。
その殿は、昨年に属した小荷駄奉行の甘糟景持隊。

一方の武田方は、風林火山の御旗を先払いに,信濃先方衆の真田幸隆隊がそれに続いて進軍。

我等が山県三郎兵衛尉昌景隊は、八重が率いる女武者隊に続いて5番手,殿を務める香坂弾正昌信隊の前を進軍していきました。

行軍は三列横隊で道幅一杯に広がって、威儀は正しく勇ましく!
沿道の観衆から得られる掛け声や拍手に有り難味を感じ,時にはこれに応じて勝鬨などを上げながら、夕景の中,意気揚々と春日山を下って行きました。
けど...
それは長続きしませんでした。

春日山神社から下った各隊が、毎回まず最初に勝鬨を上げて意気軒昂を誇る【春日山旅館】前を、今回は静かに,何事も無く通過。
ただ、ここは碓氷殿が宿所だったので、御礼挨拶含めて鬨の声を上げました。
その後も、例年ならば一隊が仕掛ければ次々と,各隊が競って上がる勝鬨や各隊の工夫を凝らしたパフォーマンスなども今回は散発的で、一隊が仕掛けても力強さが無く広がることは余りありませんでした。
これもただただ、この日の暑さの所為か,寂しい限りでした...。

そんな中,我等は士気鼓舞の為に独自の勝鬨を!
それは...
御殿真下殿が、我等が囲み組んだ円陣の中央で回し斬りをすると、それに応じて個々が(斬られて)回転しながら外へ向いて片肘を付く。
そして、御殿が掛け声を上げると起き上がり、抜刀して勝鬨を上げる!
...というもの。
真下殿の発案で行われたことは、所々,行軍が止まった合間などに披露し、観衆の皆々様の受けも上々。
ゆえにか、ビシッと決まった時の充実感や達成感は中々のもの,気持ちが良かったです。
また前を進む山本勘助隊からは、女武者隊から殿の香坂隊まで“一斉勝鬨”を呼掛けがあったので、これを喜んでお受けし、山本勘助殿が上げる鬨の声に呼応して意気軒昂に!
幾度かこれを行いましたが、とっても楽しかったです。
何より、暑さの所為か御館様の勝鬨がか細くて聞き取り辛く、行き成り上がる鬨の声に驚いて呼応する場面が幾度かあったので、身近で上がる勝鬨は有難くて士気も高上します。
山本勘助役殿は、髭を蓄え、野太い声で迫力と威厳もありましたので余計に。

春日山神社を16時過ぎに発った全軍は、30分程掛けて山麓に在る上越市埋蔵文化財センター春日保育園などがある、春日山町交差点手前まで着ました。

ここでは毎回,参陣している諸将兵衆の紹介が為され、出立後,春日山旅館に続いて観衆の多く集まる地なので、兵衆の見せ場でもあります。
しかし、この時点ではや,随分と歩いた感覚と疲労感があり、反応速度も鈍りがち。
何と無く、明後日の方向を見ている気もしました。

そして、ここまで順調だった進軍も、春日山町,春日山城入口を先頭に渋滞気味に。
その原因が何なのか,先方の様子は見えないので判らなかったのですが、ゆっくりと進んでは暫く止まり、漸く動いたかと思うと牛歩の様にゆっくりと進む有様。
如何に陽暮時で湿度が幾分低いとは言え、この日の上越地方は最高気温(予想)は36度。
それに加えて甲冑を身に纏っているので、かなり暑く,体力もみるみるうちに消耗。
日陰に入れば湿度も低いので、涼しくて幾分快適なのですが、日向は...ツライ。
挙句,先陣方の様子と進軍の状況が全く解らず、隊伍を保つべきなのか,はたまた休息をとっていいのか...
全軍がそれぞれ互いに(何と無く)牽制し合い、「誰かが抜ければ自分も...」的な雰囲気が蔓延していました。
その状況が極に達したのが、県道「春日山線」から「山麓線」へと出る手前。
片側2車線のこの道を、今年から行軍することとなったのですが、警察との連携が上手くいかずに交通規制が行われていないのか,それとも別の理由だったのか。。。
長々と停滞する割には、後方の各隊将兵には一向に情報が伝わらない状況に、痺れを切らして続々と,隊伍を崩してスーパーの駐車場に出来た日陰へと、雪崩れ込む様に避難しました。

ここまで、凡そ1時間半程の道程だったでしょうか...。

下知の全く無い,多分にイレギュラーで自発的な休息でしたが、全軍の限界地もここに窮まっていたことでしょう。
そこは、正に地獄に仏。
とっても涼しく、偶に心地好い微風が吹いて、それはもう、生き返った気分!
更には、碓氷殿からジュースを一口頂戴し、九死に一生を得た気分でもありました。

ここで暫く休息した後,全軍出発の下知があったので、再び隊伍を組んで行軍を開始しましたが、ここ一息つけたからか、疲労感は多少解消され、大通りの山麓線に出ると各隊,勝鬨やらパフォーマンスが(漸く)俄かに活気付いてきました。
そこで我々も、横目付的なスタッフさんより了解を得て、先の勝鬨(パフォーマンス)を幾度か行いました。
時には御大将に代わって、碓氷殿や山内殿,それに私へも指名が有ったので、一発鬨の声を上げてみました。
けど...
「山県隊の―」の声を発するところを、誤って後陣の「高坂隊の―」と発して同隊の衆を慌てさせてしまいました(^^ゞ

また一方,先を進む山本隊将兵がなにやら密談を。
それを終えた後、突如後陣の八重率いる女武者隊に斬り込んで行きました!
これに対し、我等は勿論!女武者隊に助太刀をして、山本隊旗下のショウグンを討ち倒し、恐れながら三浦介星友殿の御命を頂戴し...観衆を大いに沸かせていました。
その後、山本殿御自ら、同士討ちの非を認めて謝罪しておられました(笑)

山麓線に出てからは行軍も順調に。

右側を車が頻繁に往来する中、城下大路を進んで漸く,当初より休憩場である春日山公園に入りました。

それが何時だったのか,全く覚えてはいませんが、ただただ,いち早く水分を!
この猛烈な渇きをいち早く癒して解消したく、飲み物を支給しているテントへまっしぐら!!
そこには、お茶など何種類かありましたが、相当発汗しているので塩分も欲していたので、ポカリを一本頂いて一気に,グイっと飲み干しました。
いや~もう,この時が一番強く“生きた心地”を感じた瞬間でした...。

前回までは、ここのそこかしこで記念撮影やら合戦前の鍛錬に励む兵などが見られましたが...

今回は,私が見た限りでは誰一人おらず、諸将兵衆は一様にぐったりと、寝入る兵もいました。
そして、この暑さの中で当然とはいえば当然か...
体調不良を訴える人が続出。
出陣前は、かなり気合の入っていた武将役の方も熱中症に罹ってしまわれたご様子。
しかし、武将(隊長)役としての任務を優先されたか,救護の手は借りず、武装の一部を解除して身軽にし、熱った体を冷やすべく風通しを良くして氷を当てるなどして、現状出来得る限りの手当ては、周囲の諸将兵衆の手助けで受けてはいました。
また、我等が前を進んでいた女武者隊でも、半数近くが体調不良を訴えられて落伍したとか。。。

この他にも,猛烈な殺暑の前に数多の兵共が、合戦場で獅子奮迅の活躍をする事無く、無念にも落伍してゆきました...が、この回の落伍者の多さと自身の疲労感は、今までに体験したことが無いほどに異常と感じました。
特に,この回の暑さは過去2年に比べてもきつく、主催者側もそれを察してか出陣前,陣所にて「給水場が随所に設けてある」と説明し、暑気対策には万全を期している趣旨の発言をしていました。
しかし、いざ行軍をしてみると、休憩や給水が主催者側の用意で出来たのは一箇所,この春日山公園だけ。
あとは、イレギュラー的に行軍が止まったお蔭で各自の判断で,上記の様に、隊伍を乱して日影に避難したり、自費で買ったり慈悲で得た飲み物で渇きを癒していました。
加えて私は、幾許かの睡眠が出来たがそれゆえに、斯程に過酷な状況下で異常変調無く、一先ず無事に
ここまで来れた・・・かと思います。
ただ流石に、日影に腰を下ろして落ち着いた途端にホッとしたというのもあるのでしょう,疲労感がどっと押し寄せてきました。。。
それから暫くは、追加の水分を補給しつつ、昨年は同じ甘糟隊で,今年は武田方真田幸隆隊に属するシンヨー殿と、ま~ったりと休んでいました。
けど、腰を下ろしたアスファルトには、まだ太陽熱が籠っていて、暑いことこの上無でした。(苦笑)

後で知りましたが...進軍は予定通り。
17時頃この公園に入り、30分後,隊伍を組んで出発・・・のようでしたが、ここでの休憩は、随分と長く感じました。。。

落伍した兵の中には、幾人かの友人知人も居られて気掛かりでした・・・が、一方で目的地まではあと一息。
各々各隊、気合入れの勝鬨上げて,いざ!決戦の場へ!!と向かいました。


<<<<< いざ!八ノ太刀へ||いざ!十ノ太刀へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×八ノ太刀:休睡大事]

2007年08月14日 | 参陣記
武装完了後,陣所を出発したのは13時45分頃。
陸上自衛隊東部方面隊第一施設団第五施設群輸送車に揺られること10分ほど。

到着したのは、春日山旅館と行軍の起点である春日山神社の中間地点。
ただ...
以前は門前茶屋(謙信公立像下)まで送っていただけたのに、今回は中途半端な地点での下車命令に私を含めてご一同困惑。
更には、輸送に当たった自衛官も最上部まで行けると思っていたようで、予想外に市側から停車されて、なんだか困惑している雰囲気でした。
尤も,こういうことは毎年毎回聞いているような気がします・・・ね(苦笑)
兎にも角にも,自衛隊車による輸送はここまで・・・ということなので、我等の足元に格納されていた梯子を下ろして自衛官に渡し、しっかりと固定していただいた上で順次下車。
舗装されているとはいえ、急峻な坂道を,寄せ手の気持ちを味わいながら登って春日山神社へと向かいました。


かつて府中長尾家(越後上杉家)が居城とした春日山城址に建立された春日山神社からは、遠く直江津市街地に日本海をも眺望できます。

謙信公や景勝公も、ここから越後府中を眺めたんでしょうか...。
また、山上(山城址)ということもあって、陣所とは違って吹き抜ける風が実に心地良い!
更に、湿度も低かったので杜陰に入ればとっても涼しくて快適!!だったので、昼食後の満腹感から猛烈な睡魔に襲われて...
参道のベンチに身を委ねて,今後の行軍と合戦にも備えるべく、一休みしましたZzz...。
ただ、流石に雑踏の中,敵味方入り乱れ、いつ寝首を掻かれるか,魂を抜かれるか判らず、油断は出来なかったので、熟睡とまでは勿論いきませんが、リハからのここまでの移動で失った体力は何と無く快復出来たかと。
後に振り返って見ると、多分ここでの仮寝が功を奏し、続発するこの後の惨劇を回避できたのかも・・・しれません。
その睡魔も,本殿前で披露された出陣儀式の一つ、米沢藩稲富流砲術隊の砲術披露ですっかり覚めました!(苦笑)
そして、私の眠気を吹き飛ばした轟音に釣られて向かった春日山神社本殿前では、「戦勝祈願」と「謙信公の塩を献上」等々,出陣前の諸儀式を見聞しながら、我等が出陣の時を,今か今かと待っていました。


そしていよいよ,春日山神社で待つこと1時間半程経った15時40分過ぎ。
「全員整列!」の号令一下,先陣より順々に隊伍が組まれ、準備万端相整っていざ!合戦場となる史跡広場への出発が下知されたのはそれから20分後,16時頃のことでした。
ただ...
兵衆への情報伝達は十分ではなく、先陣の状況を確かめようにも距離と人が多くて儘ならず、隊伍を組んでも中々出発しない状況には随分ともどかしい思いをし、出発の時も「あっ、なんか動き出した」程度につられて・・・でした。

出来れば,も少し全軍に響き渡る号令(掛け声)が欲しかった・・・ですね。
そうすれば、雰囲気も出て,士気も一気に高まるので...。


<<<<< いざ!七ノ太刀||いざ!九ノ太刀へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×七ノ太刀:出陣前]

2007年08月13日 | 参陣記
朝から感じる並々ならぬ暑さの中、やっとのことで辿り着いた陣所(上越市立春日小学校)。
独逸からの取材クルーがニッポンの文化を取材している最中...

この体育館の口に設けられた受付で着陣の確認を済ませ、支給されている甲冑前に(とりあえず)腰を下ろして一休み一休み...。
その間にも、兵共が続々と参集,我らが山縣隊も、集合時間にはほぼ全員集合!していました。
その中には、碓氷六三郎殿や宮部宗信殿,祭巧者の山内兵馬殿などが同士として居られることが、何とも心強くて強力な布陣を感じさせられました。

着陣から暫く,出陣前の身支度を終えた兵共は最高気温が36度と予想される炎天下、校庭に出でて出陣直前の練兵を受けました。
但し、着甲したままそれをするのは危険・・・と判断され、普段着のままですることに。
ただ、ここで困ったのは碓氷殿でしょう...。普段通りにキッチリとした装いだったので、一見奇妙な違和感がありました...。

ここでは、前日のリハに参加していない人も居るので、復習を含めて一通り行います。
けど、暑さの所為・・・か、丸竹さん達に精彩が無く、連携と段取りが余りうまく行われずにちょくちょく中断。
陽も南天に上る刻,炎天下で1時間強行われた直練も、全体的な効果は余り・・・な感じが残りました。
ただ一方で、我らは我らでこの時に本番への入念な仕込みを、合戦時に激闘する新発田治長隊との打ち合わせなどに費やして、それに於いは、有意義かつ効果的な時間だったかと思います。

この後、コンビニで買ってきたおにぎり×2とを食らい、買って来た麦茶とここで振舞われた麦茶とを飲んで以後に備えてから、いざ!戦支度(着甲)へ。
これで合戦祭参陣8度目となりますが、中々どうして,覚えられるものではなく、ここはスタッフの方々や碓氷殿,そして、昨年は甘糟隊同士として戦塵に塗れ、今年は(また同じく)武田方真田隊となったシンヨー殿に手助け頂きながら、無事に完了。

「身支度出来た方から順次,春日山神社へ出発」出来るということだったので、いざ!


自衛隊の輸送車に乗って行軍出発の地,春日山神社へと向かいました。


ちなみに。
着付けの手助けをして下さった、とあるスタッフの方がこぼしてました...
「開催時季,変えてくれないですかね。涼しくなった来月くらいだと、ありがたいんですけどねぇ(笑)」
...と、汗だくになりながら仰ってました。

これは、正にこの後(立て続け)に起こる事態の序章か警告だったのかもしれません...。

<<<<< いざ!六ノ太刀へ||いざ!八ノ太刀へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下に×六ノ太刀:予暑]

2007年08月12日 | 参陣記

8月16日(水)の合戦祭当日。
朝6時半頃に目が覚めて、まずはテレビを点けてニュース番組の天気予報をチェック。
部屋のカーテンを開けると、外はもやっていて暑そう。
本番時の天候が、強いて言えば(自分の)生死に関わるので、見られる放送局の(ニュース内)天気予報をよ~っく確認。
事前の予報や、雲影一つ無く,星の煌く昨晩の夜空ならば、この日の天気は推して知ることは容易ではあるでしょうが・・・問題は気温。
湿度が低くても、陽射しがもたらす“暑さ”は前日に身をもって感じていたので心配だったのですが、各局番組内で放送される上越地方の天気(予報)は...

晴時々曇 最高気温36度


この予報が外れるか,夢か誤報で有って欲しい・・・と切に願って各局各番組を繰り返し見てみましたが、当然と言えば当然ですが、どこもかしこも同じ予報でした。げんなり...

一通りニュースと天気予報を見終えてから身支度を整え、1階のカフェで朝食。
去年まで泊っていた直江津駅近くの【ホテルα-1上越】はバイキング形式の朝食,バラエティーに富んでいる訳ではないのですが、太良腹食べられるところが有り難かったのですが、今回泊ったホテルのはパンとハムエッグに付け合せにサラダとジュースが付くくらい。
こんなんで腹が満たされる訳が無く、モノの5分と経たずに完食。
虚しくて悲しく寂しかった・・・です。

そんなんで、早々に食事も終えて、出陣に備えて身支度を整えるべく部屋へ戻りました。

今年から,陣所参集の時が昨年までの正午から1時間半も早まって10時半と成るも昼食は配給されないので、途中コンビニなどへ寄るべく、少し余裕を持って9時50分頃に宿所を出立し、徒歩で陣所へと向かいました。
この直後,マコ殿から「真下殿の車で共に参りましょう」とのお誘いを受けたのですが、はや、陣所近くの住宅街まで来ていたので、徒歩貫徹しました。
ただ、余り土地勘が無いのでコンビニへ立ち寄るにも往生し、右往左往しながらなんとか陣所(上越市立春日小学校)まで行くことが出来ましたが、この間,凡そ1.5キロ。
時間にして20分ほどではありましたが、もうそれだけで汗だくでヘロヘロ。
コンビニの涼しさが“オアシス”と感じるほどの気候に、今後のことを少々懸念しつつ...

過去2年はそれでもなんとかそれなりに(快適な)行軍と合戦が出来たので、何処かに余裕を抱いて向かいました。

けど、それが大いなる間違えであったことは、この後の太刀にてお話を...。

<<<<< いざ!五ノ太刀へ||いざ!七ノ太刀へ >>>>>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×五ノ太刀:練兵]

2007年08月11日 | 参陣記


春日山の宿所にて旅装を解いて後,リハまでの空いた時間に明日の合戦祭の無事を祈願すべく、灼熱の斜陽を真正面に受けながら,春日山林泉寺と春日神社に参詣。
深緑の山野が広がる秀麗な風景と、何処と無くノスタルジックな御社には癒されました...。

リハ会場であり、明日の合戦場でもある春日山城史跡広場に入ったのは17時半頃。
行軍に際しては、自衛隊の輸送(車)で送られたので結構遠く感じたのですが、

林泉寺からは歩いて行ける距離だったことは、意外でちょい拍子抜けな感じでした。

夕闇の迫る中,辿り着いたそこには、翌日の本番に向けて着々と,舞台や櫓が組まれており、声優陣のリハや、この祭を総合プロデュースする鹿児島の丸竹産業の方々,此度部隊長を仰せつかっている衆の入念で熱い打合せが為されていました。

一方,名も無き私の様な一兵卒はその模様を見物していました。
ちなみにその場には、歴戦の兵たる左馬之助殿や飯綱殿が既に居られ、そこへ次々と,此度参陣せし兵達が集ってきましたが・・・ネットを介して繋がった方の多いこと多いこと。
特にここ最近,SNSの最大手“mixi”の影響も大きく、例年以上の率...。
上越市民と勢力を二分するほどの大所帯に発展したことに、少々驚きと感慨を持ちつつ...
その皆様方にご挨拶。
そして、時刻は落陽の刻,18時。
召集の号令が一体に発せられ、リハの場へと意気込んで行きました。

謙信公祭は、より高い完成度を目指してか,毎回前日夕刻から2時間程度のリハーサルを行います。
各部隊,平均10人編成となっているのですが、基本的には個人申込なので、このリハ時が(基本的には)初顔合せ。
1個団として参陣する石和とは違い、(下手をすれば?!)御大将含めて全員見ず知らずゆえ、この初顔合わせはそれなりに大事な時。
これに私は毎回参加はしていますが、参加率は例年然程に良くなく、今年もまた、御大将含めて旗下の将兵が1人も居らず、はや戦う前から全滅という隊もあったりします。。。
参加申込時や決定通知の書類中にも、リハよりの参加が促されているのですが...。
ただ、幸い私が今回属する武田方山縣三郎兵衛昌景隊は、御大将含めて7名ほどが(リハより)参加されました。
ちなみに,今回我らが隊には...。
御大将(山縣三郎兵衛昌景)の真下昌景殿や山内兵馬殿,碓氷六三郎殿など、謙信公祭を含めて数々の歴史祭に参戦したことのある兵が属しておられ、5キロ弱にも及ぶ行軍と、入念なる“作戦”の下に行われるこの合戦祭に於いては大変心強く,頼もしき方々でもありました。
特に、御大将の真下昌景殿は(我らに先んじて行われた)練兵に於いて会得されたものを丹念に,合戦時に対決する上杉方新発田治長隊との段取り等とも合せて、ご用意されたレジュメを配って解説下さいました。
この,実に有難く心強き事この上ないご配慮のお蔭を以って、余裕のある練兵と、明日本戦への心積もりを整わせることが出来ました。

斜陽の時,宵の口から始まった練兵は、予定の2時間を30分程越えて20時半頃まで行っていました。
その後,碓氷殿とマコ殿の3人で,史跡広場から歩いて10分ほど行ったところ,明日の行軍路でもある山麓線沿いにあった【ファミリー居酒屋有頂天】へ。
ここで2時間ほど,今日の疲れと明日への英気を養って、宿所へと帰りました。


雲影が一つも無い満天の星空の下,ひっそりと静まり返った春日山の街中を、心地よい夜風が気持ち良かったです。

<<<<< いざ!四ノ太刀へ||いざ!六ノ太刀へ >>>>>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×四ノ太刀:思ひ出]

2007年08月10日 | 参陣記
昼餉には失敗した私(達)は、反面悉く満杯で放浪を余儀なくされていた飯綱殿と合流。
直江津駅前の【ホテルハイマート】の2階に在るお食事処【多七】に入り、飯綱殿は漸くの昼餉に,私と碓氷殿はジュースなどを喫しながら、暫し歓談...。
ちなみに,この3人が一同に会すのは4ヶ月ぶり,柿崎殿を御大将に押し立てて参陣し、“大崎隊”として,ショウグンはいうに及ばず、信玄公をも脅かした石和の陣以来。
ここで1時間ほど寛いだ後,飯綱殿のご好意で、それぞれの宿所までお送りいただきました。
その途中,春日山城址下に在る【春日山旅館】で碓氷殿を下ろした後、そのまま坂道を上がって春日山神社まで,Uターンの序でに参詣しました。

登って来た坂道も、ここ春日山神社も、翌日に控えた行軍路。
その時は、数多の兵共でごった返す参道や境内も、とてもひっそりとしていました。。。
しかし、そんな中でも一際存在感のあったのが、本殿脇にあった蔵に収まっていた御神輿。
絢爛で荘厳なそれは、明日からの祭事で御城下を練り歩くこととなるのでしょうが、それまでの時を,まるで待っているかのように、静かに佇んでいる・・・感じがしました。

さて,春日山神社を後にして、飯綱殿に宿所に着いたのは15時半過ぎ。
今回は、例年泊まっている直江津駅近くのホテルではなく、本陣まで歩いて行ける上越市役所近くの【上越シティーホテル】を宿所としました。
部屋を案内されて暫し寛ぐも、18時からのリハにはまだ随分と時間が...。
まだ陽も高く,体力的にも余裕があったので、克さんと連絡をとって16時に信越線春日山駅で待ち合わせ、林泉寺へと向かいました。
しかし、時は夕方,これから向かう春日山の向こうに陽が沈み行く頃。
この日の湿度が如何に低くカラッとし、空は抜けるように済んでいて気持ちは良くても、西日をまともに受けてあるくのはしんどかった...です。、
その変り,日陰に入ると一転、と~っても涼しいんですけどね。。。
けど、街中を抜けて深緑の山野が眼前に広がると地にまで来ると、おもいっきり深呼吸したくなる!その秀麗な風景には、一服の清涼感が得られます。

克さんと合流したJR信越線春日山駅から歩くこと30分程,目指していた春日山林泉寺に到着。

閉門の30分前に滑り込んだここは、府中長尾家の菩提寺であり、謙信公祭の出発地でもあります。
この初陣時,出陣に際しては先頭切って惣門から出でたのですが、この日はその脇にある“関所”でしっかりと拝観料(500円)を収めて中へと入りました。

入ってからまず本堂へ詣で、合せて御実城様と成りし克さんの勇姿(写真)を探したのですが、ここでは見つからず。
続いて向かったのは、本堂左脇に在る墓地群。

ここには、不識院殿様始め,かつて上越を治めた上杉家(府中長尾家)を始め,堀、松平、榊原各家当主が眠っており、差し迫る時間の中で可能な限り、ご挨拶をして参りました。


この後に向かったのは、本堂右脇に在る「宝物館」。

閉館時間が刻一刻と迫っていたので、少々忙しなく見て回りました。
規模は然程大きくはないのですが、甲冑や古文書に謙信公画までもあって、中々見応えのある重宝が多く展示されていました。
そして、ここで漸く今回“一番の目当て”であった写真を見つけました。
それは、展示を一巡した最後,出入口辺り置かれていて、一昨年行われた謙信公祭の模様を写した写真が(アルバムにして)納められていました。
そこには、この時先程より触れているように総大将たる謙信公を務められた克さんの勇姿と、初陣ながら全軍を先導する“乱れ龍御旗持”を務めた私の姿も納められていました。

閉門までの僅か30分足らずの時間でしたが、それなりに林泉寺を楽しむことが出来ました。


ただ、ここからリハ会場の春日山城史跡広場までは歩いて5分ほど,しかも、時刻はまだ17時を少し過ぎた頃。
ここから春日山神社へと足を延ばすことも一瞬考慮したのですが、そこまでの時間的余裕は無かったので、一路リハ会場(春日山城史跡広場)へと進みました。
ただその途中,杜の中に見える石段と鳥居に何と無く誘われて...

そこに鎮座します春日神社に参詣をしました。


時間的余裕があって、何と無く立ち寄った御社ではありましたが、鬱蒼とした杜の中に、まっすぐ一本伸びる階段を駆け上がるとそこに本殿が,ひっそりと佇んで在りますが...周囲の旺盛な深緑の木々が、まるで世間から隔絶した雰囲気を醸し出しています。

また更に,淡い西日と蜩の声が、ノスタルジックな世界へと誘ってくれます。


などなどと...
今まで知らなかった上越春日山の一端を観て後、ちょうど時間となったので、リハ会場へと向かいました。

<<<<< いざ!三ノ太刀||いざ!五ノ太刀へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×三ノ太刀:上越食道の下]

2007年08月09日 | 参陣記
直江津へ向かう途中,此度同じ山縣隊所属となった碓氷殿に誘われて、ほくほく線ほくほく大島駅で下車。

ここから南へ,山へ向かって県道を登っていくこと10分ほど。
上越市大島区に在る【日本一うまいトコロテン】を食べてきましたが、これはもう,この日のように強い陽射しが照り付けて暑い!日には持って来いのお品。
とっても美味しくて、ひんやしているお蔭で体の中から涼を得られた“名物”を堪能した後,再び直江津へと向かうべく、来た道を(今度は)下ってほくほく大島駅へと行きました。


鍋立山と深沢という、とても長いトンネルとトンネルとの僅かな谷間に在るほくほく大島駅は、普通と快速のみが停車する駅。
ゆえに、ほくほく線が誇る高速特急[はくたか]が、越後湯沢方面から(鍋立山トンネルを抜けて)直江津へ向けて通過した後には、とってもひんやりとした,なんとも心地よい冷気が駅に向かってどっと流れてきます。

地中の冷気が、列車の走行によって押し出されてくることによって味わえるこれは、空調設備の無い無人駅では実に有難く嬉しい現象。
これは勿論,[はくたか]の通過後だけではなく、2両編成の電車が同じく走ってきても、冷気がどっと駅へ流れ込んで、大変涼し~い思いが出来ます。

但し、時速160km/hの高速運転を行う[はくたか]の通過時にホームに居ると、危険防止の為に緊急停車する場合があるのでそうなので要注意。
また、直江津方向からの通過列車後は、深沢トンネルから駅までの距離が若干あるので、返って熱風がやって来ます。


この冷気の恩恵を、直江津行き電車が到着するまでの時間,碓氷殿と、孫の出迎え為に駅で3時間近くも待っているお爺さんと一緒に受けていました。
そして...
ところてんを食べる為に下車してから1時間。
ほくほく大島を12時35分に発つ電車に乗って、再び直江津へと向かいました。

ほくほく大島より直江津までは25分程,13時頃に到着。
先ほど大島区の山間で日本一うまいトコロテンを食べましたが、それで空腹を満たすことは流石に無理なので、事前に調べて美味しいらしいラーメン屋に,碓氷殿と一緒に行きました。
前年は、直江津駅より北へ5分ほど,軒猿頭殿にお教え頂いた【ニューハルピン】というラーメン屋で食べましたが、店名と店構えがミスマッチするちと不可思議な店でしたが、とっても美味い一杯を頂きました。
【ニューハルピン】については、我が店でもお出し・・・しています。
そして今回は別の店,【ニューハルピン】の近くに在る【ばんらい】というお店が美味いと知って、行ってきました。

直江津駅北口に出て歩いて10分ほど,国道8号線に沿って進み、関川に架かる関川橋の近くに在るそのお店は酒屋が副業として営んでいるとか。
そこへ今回行くことに決めたのは、ガイドブックに載っていた紹介記事と1枚の写真から,見た目、さっぱりなスープに感じられたので是非に行きたくなり、碓氷殿を巻き込んで,13時過ぎに入店しました。

座敷とテーブル,それに厨房に面してあるカウンター席などがあって、結構広くて席数も多のですが、お盆の昼過ぎだからでしょうか,店内にはこの時3名程度の客。
その内の2人は座敷席に掛けていたのですが、私たちと入れ違いに店を出て行きました。
その時、そのテーブルにあったものを、ちらと見てみると...
2人とも結構な量残しているのが見えました。
それに、一抹の不安を覚えながら、写真に載っていたラーメンを注文しました。

店内にあるテレビに映し出されていた高校野球に気を取られつつ、待つこと数分。
注文のお品がやって来ました。
それは、、、

ガイドブックなどに載っていたラーメンとは、ちょっと雰囲気などが違うもの。
何より、スープの透明度が違うのです。
何と無く,入店時に見て抱いた不安が悲しいかな「当たったかぁ...」と確信しつつ、提供されたお品のまずは一口目,スープから頂きました。
そのお味は・・・・・・・・・!!
やってしまいました,久しぶりに好みとは真反対のラーメンに出くわしました。
熱さはまぁまぁなんですが、はっきりとした甘味を感じます,恐らくは煮詰め過ぎかと。
この時点で、私にはもうダメです。
なので次,二口目に麺を頂いても...
更なるドツボにハマってしまいました。
熱さは(また)まぁまぁなのですが、茹で加減がどうも,柔らかすぎます。
ゆえに、小麦粉の発するでんぷん質を、直に感じ取ることできます。
一杯500円もするラーメンなので、とりあえず、平らげなければ勿体無い・・・と、食べ進めましたが、付け合わせなども平々凡々...。
中々上越に来ることは出来ませんが、例え近場でも,もうこの店に行く事は正直,絶対にありませんね。
けど、人の味覚は十人十色,百聞は一見に如かず・・・ですから。

この後、昼餉放浪をしていた飯綱殿と駅前のホテルのレストランで合流。
暫し歓談した後に各々のホテルまで、飯綱殿のご好意に甘えてお送りいただけました。



<<<<< ささっ!二太刀目へ||ささっ!四太刀目へ >>>>>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ!上越[御旗の下へ×二ノ太刀:上越食道の上]

2007年08月08日 | 参陣記
越後湯沢を10時34分に発車したほくほく線経由普通直江津行きは、長い長いトンネルと僅かな谷間や平野を縫うようにして,順調に向かっていました。
私は最初,運転席の直ぐ後ろの通路部に陣取って、迫力のある鉄道の旅を楽しんでいましたが、女子高生を含めた多くの人が、途中の十日町まつだいで下車をしたので、近くの空いた席に着いてゆっくりと,引き続き鉄旅を楽しんでいました。

しかし今回は,まっすぐ直江津へ向かわずに、ほくほく大島駅で途中下車をしました。

その目的とは...
越後湯沢からほくほく線経由で直江津へ向かっている時、同じく上越へ馳せ参じる途中の碓氷六三郎殿から...
「“日本一美味いところてん”という看板を掲げるお店がありますが、どうですか?!」
...というお誘いを受けたが為。
“日本一うまい”という看板を掲げていると聞いては黙っちゃ居られず,取る物も取り敢えずに是非に食べたい!と思い、碓氷殿と連絡をつけて落ち合うべく、その最寄駅,ほくほく大島駅で降りたのです。

ただ...
栃木から電車に乗り込むときに直江津までの切符(乗車券)を買ってしまったので、途中下車は無理か・・・と諦めていました。
しかも、JRの切符は100キロ以上だと乗降り自由らしく、ほくほく線車内でも念の為に(ワンマン運転なので)運転手さんに問い合わせたところ「大丈夫です」とのお墨付きをへ、更に喜び勇んで途中下車して向かいました。

日本一美味いところてんにありつけるお店は、上越市大島区(旧東頸城郡大島村)。
最寄駅のほくほく大島駅には11時半過ぎに到着。
一面しかないホームに繋がる待合所で今回の推薦人(情報提供者)であり、(石和に続いて)此度同じ武田方山縣三郎兵衛昌景隊に属す碓氷六三郎殿と難なく合流。
閑散とした駅を出て左,保倉川に沿って通る県道13号(上越安塚柏崎)線を歩くこと10分ほど。

車も人も滅多に通らず,民家も数軒しか見当たらない道を、盛夏の陽射しで緑眩しい静かな山間部を歩いてい向かったのですが、その店の周りだけは俄かに活気付いていました。


途中,一台も車とすれ違わなかったのに「どうして?!」と思うほどに多くの車が店先に,所狭しと止まっていましたが、そのナンバーを見て更に驚きました。
地元のナンバーは言うに及ばず,中には関東圏から来ている人も居たようです。
しかも、車は引っ切り無しに次々とやってきていました。
閑静な山間部,民家も疎らな地区でこの活気には少々驚きましたが、一方で,期待度はますます急上昇!!
垣根の合間から入って入店し、その自慢の“ところてん”を注文し、空いた席に着いて待つこと暫し...
やって着ました!この店の“看板”たるところてんが!!

御勘定所の側に置かれている水槽の中には、羊羹の様なところてんがたっぷりと入っており、注文を受けて,両手目一杯に広げたくらいの大きさのあるお皿に、焦げ茶色の棒と芥子が添えられてやってきました。

その箸代わりの一本の棒(というよりは、箸の片っぽ)で提供前に掛けられた酢と醤油とをところてんに絡めてから、さて一口目は...!

う,う,美味い...と~っても美味い!!です。

口当たりはと~ってもひんやりとしていて気持ちがよく、暑い中山道を歩いて来た身には大変に有難く、歯応えがまたしっかりとしていて申し分なくいいんです。
そしてまた,喉越しがつるっとしていて気持ちがいいんです。
お味もまた,海草の風味が口の中で上品に広がり、とっ~ても幸せな気分をも味わえました。
酢と醤油は軽く掛けられているだけなので、よりところてん自体の味を確かめることが出来ました。
ちなみに、酢と醤油は卓にも用意されていて、自分の好みに味を調整することが可能で、更には青じそもあって、これを掛ける事によってより風味が引き立って、更に美味しくなります。
ただ、これにも一点だけ弱点が。
それは...
冷たくて咽喉越しもよく美味しいので、あっさりと食べ終わってしまうのです。
そうなると、あっつい夏の昼時,一杯だけでは物足りずに(お互い)もう一杯、ところてんを頂きました。
碓氷殿は更に,職場への土産に・・・と、お持帰り用のところてんを沢山買っておられました。

ところで...
お店の近くからは美味しい清水が湧出していて、ところてんには勿論,お冷にも使われています。

ただ、一杯目は乾いていた咽喉を潤すので精一杯だったので気付かなかったのですが、自由に飲める飲料用の蛇口があったので2杯目は自分で(コップに)入れて飲んでみましたが...
改めて飲んでみると、クセなどは全く無くてとっても飲み易く,美味しかった!です,お水も。
これは勿論,ところてんにも使われていますが、なるほど,美味いのも当然!で、正に“日本一美味いところてん”の店名(看板)通り、とっても美味かったです!

この店は夏季限定の開店で、半ば個人営業のようですが、なるほど,店の造りは屋台を少ししっかりさせた程度。
海の家を何処と無く彷彿とさせられる造りでもありました。


<<<<< いざ!一太刀目||いざ!三太刀目に >>>>>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする