くない鑑

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いざ!石和≪其の拾肆:笛吹までの道㊦≫

2005年11月15日 | 参陣記
江戸幕府は、甲斐を歴史的,地理的に戦略上重要な位置と見ており、豊臣政権下,国主に任ぜられた浅野家を紀伊に転封して後は、将軍家連枝を甲府城に配し、国内にも多くの旗本采地や将軍家御料所(直轄地)を設ける。
こうした将軍家御料所の村方民政を取り扱ったのが、勘定所支配の遠国役人,代官である。

戦国時代には“事務方”として軽んじられ、江戸幕府の機構内に於いても役高150俵と(江戸・駿河代官は役料300俵)、小身旗本が就く御役目であったが、“米”を根幹とした石高封建制(幕府)に於いて、民政の末端にある代官は重要な役であり、幕政の方向性に重要な役割を担っていた。
その、代官が御料所内の主として中核に設けたの拠点が“陣屋”であり、これが、此度我等が陣所とした市立石和南小学校に在ったのである。
ここを陣屋と定めたのは、この時甲斐代官だった平岡勘三郎良辰(武田遺臣の流れ)であるが、その期間は然程長くなく、甲斐国は代官支配地から甲府宰相家と、その後武蔵川越から入封した柳沢流松平家に預けられる。

しかし、幕府財政は元禄期から悪化の一途を辿っており、その再建と基盤強化が8代将軍吉宗主導の幕政改革(享保改革)急務だった。
その一環として、幕府は享保9年,甲斐一国を幕領下し、柳沢(松平)甲斐守吉里を大和郡山に転封した。
これに伴い、甲府(城)には甲府勤番支配(遠国奉行上席,定員2名(大手・山手)役高三千石・役知一千石,芙蓉の間)を設け、配下に勤番士として旗本・御家人中二百名を配して、甲府城番と城下町政を担わせる一方、城下外,村方民政一般に於いては、甲斐国を3分割して(再び)代官を配し、その中核たる甲府(長善寺前)・上飯田(のち市川),そして石和に陣屋を置く。
なお、石和に於いては名代官と誉れ高かった小宮山杢之進昌世を以って“再興”となる。
此れ以後、徳川幕府瓦解までの144年間に石和代官には30名ほどが任ぜられており、多くは中堅クラスの代官に任ぜられた。
その中で、文政末年に着任した大貫次右衛門光証は領民より仁政を讃えられて“大貫霊神碑”を建立される反面、この数年後の天保7年,天災・飢饉への幕府の対応不手際と出張陣屋(支庁)で郡内(都留地方)を管轄した谷村陣屋の腐敗とに怒った領民が蜂起して大規模な一揆(郡内騒動)となり、時の石和代官(西村貞太郎時憲)が罷免される・・・ということもあった。

それから30年。
徳川幕府瓦解後、“叛乱勢力”鎮定の為に編成された東海道鎮撫軍が甲府城を占拠すると、石和は“県”に、代官から“知県事”となるも、その翌年,明治2年7月には甲府県に編入され、鎌倉時代以来500余年に渡って治政の要であった石和の役目は、県都となった甲府へと移り終焉する。

この後の石和は、温泉街として世に知られ、我等が参陣した「川中島合戦」を含めた桃の花まつり,花火大会など、観光地として活況を呈す。
その“石和”も、東八代郡に同じく属す春日居,一宮,御坂,八代,境川の4町1村と合併して平成16年10月に“笛吹市”となり、遂にその名自体が消滅してしまった。

「地方分権強化」や「地方交付税削減」などを大義名分に掲げ、総務省などは(強力に)合併を推進するも、平安時代,“石禾”御厨から続く地名が消えてしまうのは、どこと無く寂しく勿体無い気がします・・・。
けど、まだ所縁ある“笛吹”だけよかったです。

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