くない鑑

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歴史のなかの鉄炮伝来・・・3弾目

2006年11月07日 | 知識補給
総州佐倉の国立歴史民俗博物館にて、3部構成にて開催されていたこの企画展。
その最後,第3部は「幕末の動乱と軍事技術の革新」でした。

18世紀後半から、日本近海へ頻繁に出没するようになった異国船。
時には騒動を巻き起こすこれらに対して幕府は、(当初は)打払い令を発して高圧的な態度で臨む方針を打ち出す。
これによって、俄か海防(国防)意識が高まりだすが、これが、一気に上げ(一時)緊迫せしめたのが、隣国清朝と大英帝国とが戦端を開いたアヘン戦争の勃発。
結果,理不尽な謀略によって開かれた戦端は、南京条約という不平等条約を飲まざるを得なかった清朝の、実質的な敗北に終わるが、これに江戸幕府は衝撃を受けて打払い令を廃し、薪水などを提供する軟化政策に方針が展開する。
その一方で、いざと言う時の為の軍備面に於いても、その危機感が幾許か現れ、天保11年,武州徳丸が原にて秋帆が洋式調練,砲術演習を披露せしめました。
これについては、大学時分,古文書講読の授業で出てきたのですが、企画展に於いても、この模様を描いた絵が展示されていました。
また、第2部の続き的に、和式砲術の“工夫”も見られ、その大砲の切型も展示されていました。
ただ一方で、“2弾目”中,鉄砲の性能よりも装飾に拘る辺りに、今だ現実味を帯びない雰囲気から、危機意識の欠如と、腐っても鯛的な“武士の面子”を感じます。
それゆえに、ペリー来航時以後の混乱を招いてしまった・・・のやもしれません。

ただ、地方にあっては少し趣を異にし、豆州韮山や薩摩,肥前などでは反射炉の築き、大型砲の製造に取り掛かってもいました。
その模様,肥前佐賀鍋島家が築いた“工場”の精巧な絵図面が展示されていました。

また鉄砲に於いても、ペリー来航時は古式ゆかしい火縄銃が主流でしたが、以後,まずは火縄が、起爆剤に燧石,雷汞を用いる銃(ゲベール)へと代わっていきます。
ただ、幕府始め諸藩には今だ数多の火縄銃があり、しかも、長きの年月を経て日本人の体型にあった銃なので、これを、雷管式に改造した銃も多くあったようです。

なお、この頃欧米各国は変動期に真っ只中にあり、クリミア戦争(欧×露:53-56)や普墺戦争(66),米国では南北戦争(61-65)など、各地で衝突が繰り広げられていた。
その副産物として、武器の躍進が顕著となり、それまでの、ゲベール銃のような筒内が滑らかな「滑腔式」から、螺旋状に設えられた「施条式」に、弾込が前装(口込め)式から後装(元込め)式へと変化し、合わせて性能,命中率は飛躍的に向上しました。
展示の中には、とても珍しい(という)大型な“施条製造機”も展示されていました。

こうした波は、勿論,日本にも押し寄せてきて、更に,戦争終結後の余剰銃器も輸入されるようになります。
この流れに早くから乗った薩長などと、出足の遅れた幕府とのその後の成否は、近代への入口,戊辰戦争に於ける薩長連合軍の勝利を以って、結果が示されています。
ちなみにこの折、佐賀藩は虎の子の“アームストロング野戦砲”や四斤山砲を投入して、薩長連合軍と以後の明治新政府を大いに助けるのですが、上野から発掘されたこの“痕跡”が、ここに展示されていました。
杉の木に突き刺さったまま発見されたその“痕跡”は、想像以上に生々しく、また、重苦しいさも感じました。。。

最後に...。
幕末から維新期に掛けて用いられた、短銃含めた多くの銃器が展示されている中、正に、人の一生を左右した銃が一品,展示されていました。
それは、“レミントン二連デリンジャー”という掌サイズの二連発式短銃で、銃把は阿古屋貝が設えてある、この技巧的な銃の持ち主は...
かの大久保利通卿なのです。
卿は、常日頃これを携帯していたそうです。が!石川士族の襲撃を受け、落命してしまった紀尾井坂の変事,生憎、銃は修理にて出していたそうです...。
ゆえに、目の前に展示されているこの銃は、いまもまだ、故障したままだそうです。

運命とは、斯く定まれり・・・と、なんだかぼんやりと思いながら、3部構成を展示を全て見終え、大満足の内に,国友鉄砲会に演武を観に向かいました。

参考:野口武彦『幕府歩兵隊-幕末を駆け抜けた兵士集団-』(中央公論新社)

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大久保利通が所持した拳銃について。 (トト)
2015-11-21 18:44:07
ブログを拝見しましたが、実は、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館において、2015年10月6日~12/6まで開催されている、「大久保利通とその時代」という企画展で、大久保利通が所持していた護身用の拳銃を、初めて拝見しました。ただ、利通が絶えず拳銃を所持し続けた上で、なお且つ、拳銃の弾が2発しか撃てなかったことを考えますと、最終的に、利通を暗殺した、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族から、自分の身を守るのは、難しかったような気がします。それに、一郎らは、初めから、利通が護身用の拳銃を所持しているかもしれないことを踏まえて、暗殺計画を実行したように思えます。さらに、一郎は、西郷隆盛に対して、異常過ぎるほど尊敬していた上に、利通だけでなく、岩倉具視・川路利良らに対して、どうしても我慢できないほどの怒りと憎しみと政治への不満を募らせた上で、牙を剥いたことを忘れてはならないと思います。

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