くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

鷹の祭典←東京ドーム

2012年07月08日 | 観祭記
この間の月曜日。
大学以来の友達に誘われて、久しぶりに野球観戦をしました。
場所も、久しぶりの東京ドームです。

席は3塁側1階で外野席の近く。

内野までの距離はありますが、1階席でもグランドに比較的近かったので、見晴らしはよかったです。

誘いがあったのがこの2日前の土曜日。
私が決断をしたのが翌日曜日の夜だったので会うことできず、チケットの受け渡しは当日ドーム外で。
職場で関係する周囲には「拘束時間が解けたらすぐ帰ります!」と宣言していたので、残業代が付かない範囲内で退勤し、一目散にドームへ。
着いた時には既に試合は3回まで進んでしましたが、ドーム外で落ち合ってチケットをもらい、指定席の近くのゲートから、ゲートチェックを受けていざ!中に入りました。

この日のカードは、ホークス×ライオンズ
・・・そう、どちらも東京ドームとの関係は一見希薄で、どちらかというとライオンズ主催?!と思いますが、然に非ず。
ホークスの主催試合で、“鷹の祭典”と銘打ったイベント試合でもあります。

本拠地の福岡ドームでは毎年開催されているこの祭典も、それ以外では今回のこの東京ドームが初めてとか。
ゆえに・・・か、ドームの外も中も今年のテーマカラーの緑(VVグリーン)で一杯!
ホークスファンの気合を感じました(^^ゞ
ちなみに私も、セリーグはタイガースファンですが、パリーグは一応無党派なので、この試合の入場者全員配布されていた専用レプリカユニフォームとフラッグにケミカルサイトを貰って、俄かホークスファンになりました(笑)

不甲斐無い試合と成績なので、憂さ晴らしにはちょうど良かったです(苦笑)

球場で野球観戦と言えば・・・そう、ビールです!

一番搾り黒ラベルも、ヱビスと同じ800円(汗)ならば・・・はい、もちろんヱビスです!!
何とも言えぬ美味さと、可愛い売り子さんに貢献したい!という思いから、2杯頂きました。

・・・えっ?!いやいや、ちゃんと試合見てましたよ。
売り子さんばっかり見ていたわけではありませんから(--ゞ...


試合も、中盤までは接戦でしたが、終盤になってホークスがを一気に攻略。
ホークスの岩嵜も、あまり調子が良いようには思えませんでしたが、攻守に守られて何とか(8回まで)持ちこたえ、ホークス勝利に終わりました。

細々といた感じのあるライオンズファン。

ドーム全体の1割程度しか居なかったのでは?!と思うほど、この日のドームは緑一色。
ライオンズファンのアウェー度は結構高かったかと。。。

満員御礼、出ました。

しかもホークス史上とか?!

ホークスが勝利して、よかったです。


普通なら、これで帰るところなんですが、、、
この日は鷹の祭典
ここからがすごく、一興だったんです。

試合の始球式は、私は観られませんでしたがトリンドルがしたそうですが、締めは藤井フミヤが登場して鷹の祭典のテーマソング“勝利への空”を熱唱しました。

そう、一曲だけでしたが、藤井フミヤの歌を生で聴けました。
感動モノです。


この他、孫オーナーも来ていたようですが・・・はっきりとは判りませんでした。

そのあと、ドーム内の照明が落ちると...
何と言うことでしょう、とても幻想的な空間に早変わりしたではありませんか!

しかも、花火の演出まで!!

きれいですね。

こんなのは初めて!

だから、余計に感動しました。


正に、祭典に相応しい内容で、大いに楽しみ、大いに盛り上がりました!!!

大満足です。

この後一杯やって帰りたかったんですが、、、
店舗は軒並み22時がラストオーダー。
唯一空いていた【HUB】は当然激混みorz
試合のある日くらい、融通利かせて延長すればいいのに・・・と思いながら、【ジョナサン】を見付けたので、そこに入りました。

この店内も、レプリカユニホームを着た人が大半。
私たちと同じく、適当な店が無くて流れ着いた人々・・・かもしれません。

ここで軽く食事などして、各々帰路に着きました。

久しぶりの野球観戦。
しかも祭典の日だったので、満足も満足、大満足でした!

また機会があれば(^^ゞ
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鬼小十郎まつりを終えて...

2011年10月13日 | 観祭記
奥州白石に来たのは、今回で3回目。
しかし、かの大震災後は初めて。
白石を含めて、激震地を訪れたのも初めてでしたが、、、
白亜の美しい白石城の城壁(漆喰)に、大きなひびが入っているのは、下からでもよく見えました。

玄関脇の小間から外を見ると、その状況が間近に。


また、天守上階では、漆喰が大きく剥落していました。

城内や柱に損傷が見られなかったのは、不幸中の幸い...
・・・かとは思いましたが、漆喰は、ただ剥落したところを修復すればいいというものではなく、全面的に塗り替えなければならない・・・と、聞いたことがあります。

また、まつり後に傑山寺へ行く途中、時宗の白石山常林寺の水路に面した石垣が崩落していました。
その他、道路にも無数のひび割れや陥没がありました。

徐々に復興が進んでいる・・・とはいえ、完全なる修復や復興には、時間と費用が掛かることを、改めて実感しました。

ガソリンも、家の近所では129円/Lですが、白石市内で、高速に乗る前に入れたら145円/Lもしました(汗)
家の近所が安すぎるのか、白石が高値なのか・・・、はたまた、これも震災に影響なのか?!というのは、少し勘繰り過ぎでしょうか。

夜が差し迫る夕刻5時に白石を出、東北道にて一路千葉を目指しましたが、途中、仮眠も兼ねて安達太良SAに立ち寄りました。
中の売店では、復興アクション!として、“福島産”の品々を推していましたので、私は一つ、好物のラーメンが3種類(味噌、醤油、塩)入った商品を買って、家で味わてます。

また、ウルトラマンも応援する復興アクションにも参加しました!

1人1人が、無理せず出来る復興支援を、これからも続けなければ・・・と、白石を訪れて、改めて思いました。
宮城には、多くの友人知人が住んでいます。
今回の鬼小十郎まつりにも、その中の幾人かの人々が携わっています。
ただ、事前に多くの方へご連絡を差し上げなかったので、お会いしたかった皆様方とはお会いできず...。
過日米沢で鉄砲の暴発事故などもあって、余計に。
ただ、偶然にも傑山寺から駐車場へ向かう途中、お会いしたかったお方のお一人に遭遇し、軽くお話しが出来たことは幸いでした。
これも、片倉小十郎公のお導きなのかも(笑)
しかし、残念ながらその人々全員にお会いすることが出来なかったので、今度、白石へ宮城仙台方面へ行く機会があれば、是非ともその方達とお会いして、会えた喜びを感じたく思います。

最後に、、、
来年は、道明寺合戦の募兵に応じようか・・・な、と、思っています。
やはり、観ているだけではつまらないですから(笑)


※画像の一部は、昨年及び一昨年の鬼小十郎まつりの時に撮影したモノも交じっています。あしからず。

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奥州白石のメインと鬼小十郎まつり!!!

2011年10月12日 | 観祭記
今年で4回目を迎えたこの時代祭
これを観る為に、私は白石へ3度来ていますが、その一度も、名物を食らわずに帰っていました。
その名物とは、温麺なるモノです。
かつて、JR東日本CMで吉永小百合さんが美味しそ~に食していたので印象深く、まつり会場で食べられるか?!と、毎度毎度探しているんですが...
見つかったのはお土産用だけ。
しかも、戦国BASARAのパッケージがされた商品のみ。
私には、正直全く興味が向かない商品なので、常々どうしたものか・・・と思っていたんですが、今回は、メインたる道明寺合戦まで時間の余裕があったので、思い切って城下へ、温麺が食せる店を探しに出ました。
しかし...
食べ終わった後、歴史探訪ミュージアムの1階で“温麺マップ”を見付けましたが、城下に出た時は何の情報源もなかったので、食べログで探して、白石駅の目の前に在った【なかじま】というお店に入って温麺を食しました。

注文したのは“とろろ月見温麺”。

この日から10月で、メニューも秋冬モノに入れ替わったとかで“牡蠣温麺”なるモノもありまりましたが、↑のを注文し終わった後で・・・何とも、何とも残念なことをしました。。。

この日は土曜日だったからか、小学生くらいの女の子2人が、お母さんの指導を受けながら、健気にお店の手伝いをしていました。
私が注文した品のも、その女の子をが給仕てくれましたが、大盛りを頼んだので、重かったのか、手元が若干覚束無く、溢して火傷でもしてしまったら一大事!と思って、すぐさま手を添えてお盆を受け取りましたが、その可愛らしさに心癒されました(笑)
・・・して、肝心のお味なのですが・・・

なるほど、胃の腑の病にあった親の食を助けるために考案されたという謂れがある温麺。
生姜の効いたスープがさっぱりしていて、ここ最近、あまり胃の調子がよくなかったので、快調に向かわせるよい効果をもたらすな・・・と感じました。
けど、女将代理に大盛りを勧められましたが、普通盛りでも十分・・・だったと思います(^^ゞ

念願の温麺を食してから、また白石城へ。

道明寺の開戦10分ほど前に戻れたので、いつも陣取っている裏御門近くの木陰から、その時を待ちました。

ただ、、、
城内には多くの人が居るんですが、城外、城下にはあまり人が(--ゞ
温麺も、昼時なので並ぶの覚悟で行ったんですが、すんなり入れて肩透かしを喰らった感が。
また、白石駅と白石城とのちょうど中間辺りに在る壽丸屋敷では、御茶席と琴の披露がされていましたが、人は疎ら、、、。
昨年は、ここで御屋敷の中の立派な設えとよき雰囲気に酔いしれながら、美味しいお菓子とお茶を一服頂戴しましたが、時間がよくなかったのか、正直、寂しかったです。
城下には、これほど魅力的なところがあるのに、、、
もう少し、もう少し城下にも人が広がる様にすればいいのに・・・勿体ない・・・と、往復の道すがらにちょい思いました。
ちなみに、10月の14日(金)から16日(日)まで、“白石城下きものまつり”が開催されるとか。
・・・どちらかというと、こっちに興味が強く向いた・・・というのは、ココだけの話で(爆)

さて、時は昼過ぎの13時。
控えていた裏御門より合戦場へ、赤備の大坂方真田勢が先着し、黒備の伊達家片倉勢は片倉鉄砲隊を先陣、弓隊を二番手に据えて、弐列縦隊で入りました。

合戦は、片倉鉄砲隊が火蓋を切り、真田方がこれに応戦。

両勢鉄砲隊による号砲の後、両勢が2度ほど白兵戦を繰り広げ、この合間に、殺陣や(白石)城天守より(消防隊による)忍衆の加勢、片倉弓隊(弓道部の高校生)の斉射が行われて、合戦は終結。
この後、この道明寺の合戦が再現されるきっかけとなった、真田左兵衛佐が娘・阿梅が片倉家に預けられるの以って、閉幕します。

天守から下へ、梁にしっかりと結ばれた綱から、忍衆が次々と現れます!
この光景は、いまもそうですが、初めて見た時は驚き、度肝を抜かれました。
そして、いい演出・・・と、感心しました(^^ゞ


時刻は13:50。

・・・予定だと、14:30頃まで合戦が展開されるはずだったんですが、あまりに早くこれが終了。
それこそ、何か抜けたのでは?!と、勘ぐってしまうほど、早くに終わりました。。。

うーむ、惜しい、実に惜しいです。

この後、サミットの第弐部まで空いた時間を奥州片倉組が急遽、(第弐部の)忍城甲冑隊伊達武将隊が登場されるまで繋いでおられました。

この間、城内をウロウロとしていたら、裏御門近くで今回の目玉さんである森川さんが帰るところに遭遇。
・・・ですが、私はあまり関心が無かったので、記憶に収めただけでスルーしましたが、これを目敏く見付けたファンが次々と現れて、あっ!と言う間に黒山の人だかり。
牛歩の様に進みながらも、カメラやらサインやら握手やらを求められ、それに応じている森川さん・・・の光景の方が、私は面白かったです。

陽も少し傾き始めた頃、サミットの第弐部も終わり、今回の鬼小十郎まつりの全プログラムも終了。
この後、恒例の“記念撮影大会”に!

白石に参じられた全武将隊との集合写真に続き、各武将隊、そして、武将毎の個撮へと移っていきましたが、相変わらず、熱気と勢いは凄かったです。
それはもう、他の時代祭では、、、
先日、我が街と縁深い大多喜町お城まつりに参じて来ましたが、カメラを、しかも、一眼レフなどの立派なのを持って撮影したりしている多くは、年配の男性。
それに比べて、白石は女性ばかり。

その、伊達家の方々の今も衰えない人気の高さを実感して、白石城を後にしました。

時刻は16時頃。
このまますんなりと帰ってしまうのも勿体ないので、今まで一度も行ったことのない、片倉家の菩提寺へ向かいました。

菩提寺までの途中には、今回はあまり時間が無かったので門前を通過しただけですが、白石城の“時の太鼓”が残されている時宗の白石山常林寺や、真田左兵衛佐が家臣・三井奉膳が開いた法源山清林寺(浄土真宗本願寺派)も在ります。

そして、白石城から歩いて10分ほど。
奥州白石城主片倉家(伊達陸奥守家一家)の菩提寺である常英山傑山寺(臨済宗妙心寺派こんな感じ)に着きます。

寺名は、白石片倉家初代の小十郎景綱公の戒名が由来で、本堂の裏手の山にその墓がありますが、敵に暴かれないように・・・と墓石は設けず、代わりに一本の杉を植えたそうです。
その一本杉は、いまも、鬱蒼と茂る木立の中でも一際立派に、天に向かって真っ直ぐ伸びていました。

そして、次代以降の片倉家当主は、ここから少し離れた墓域に眠っています。
しかし、その墓石は一風変わっていて、お地蔵様でした。
残念ながら、土台の石の表面は劣化していたよく読み取れませんでしたが、それにしても、その成りは初めて見るもので、その経緯に興味がそそられました。

ここ傑山寺には、この他にも蝦夷松前から来て遇され、伊達家に仕えることとなった松前安廣(福山城主松前伊豆守慶廣が子)とその後裔も眠っています。
こちらの墓石は、一般的な墓石によるものですが、私の身の丈以上の、大きなものでした。

まつりが終わってからだったので、少々駆け足でしたが、ここ傑山寺は戊辰戦争の折には武士の詰所だったとか。
本堂も、近年建て替えられたばかりのようですし・・・今度、機会があればゆっくりと来てみたいです。

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奥州片倉組と鬼小十郎まつり!!

2011年10月11日 | 観祭記
今年で4回目を迎えたこの時代祭
観祭は(今回で)3回連続ですが、今回は、祭自体の人気の他に、戦国BASARA片倉小十郎の声をしている声優の森川智之さんが来る・・・という事で、混雑を見越して早めに出発し、白石城(会場)には10時前に到着。
城の北側に車を止め、まずが鎮守様である神明社へ参詣。

そして、大手門より城内へと入りました。

城外も多くの人がいましたが、城内にはそれ以上の人が!
各売店が軒を連ねるところにも多く人がいましたが、祭のメイン会場でもある御成御殿址の芝生広場の周りには、もっと多くの人が(^^ゞ
恐らく、祭の中で行われる武将隊サミットと道明寺合戦を観る為なんでしょうが・・・背丈があまり高くない私には酷な状況なので(爆)
見晴らしのよい、三階櫓(天守)へと昇りました。

ごつごつと大き目な石で組まれた急峻な石段を昇り、玄関にて見付けたのが...

奥羽越列藩同盟旗です。
横行覇道なる薩長勢によって、全くいわれのない、不当な朝敵の汚名を受けた会津松平家と庄内酒井家の赦免嘆願を主目的として、仙台伊達家米沢上杉家などを中心に結成された同盟は、ここ白石で、奥羽11藩の関係者が集って評議と盟約が交わされました。
そして、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奉戴して盟主とし、盟約の地であるここ白石に公議府が置かれ、薩長主導の西軍に抗していました。
ゆえに、佐幕派な私は、この旗を前にして、心強くも儚い思いが込み上げてきて、涙せずにはいられないのです。。。
列藩同盟を含めた徳川(幕府)方は、国に殉じながらも負けてしまったので、九段の靖国神社に奉祀されていません。全く...(以下自粛)

ちょい、少し話が逸れてしまいましたが(^^ゞ

玄関に靴を置き、列藩同盟旗を前に、威儀を正して一礼した後、櫓内へ。
今年も行われていたBASARA大会を横目に上へ。

受付(300円)を済ませ、またも急峻な梯を2回昇って最上階の3階へ行きました。


BASARA大会の後ろ、階段脇の広間には、片倉小十郎の甲冑が飾られていました。


白石城下を一望できる天守上階から、(外廻縁に出て)祭を暫し観ていました。
風が少し強くて肌寒かったんですが、祭の先陣、白石市消防団が魅せた梯子乗りは圧巻でした。

毎春我が街で開催されていた時代祭でも梯子乗りは披露されていましたが、普段見上げるこの巧みな技の連続も、上から見下ろして観るのもまた格別です。

次々と繰り出される巧みな技の数々に、感嘆の声と拍手が鳴り止みませんでした。


この後、“東日本武将隊サミット”なるプログラムになっていたんですが、その準備も、天守の上からよーく見えました(^^ゞ
あとで、その方々が羽州米沢のおきたま愛の武将隊であることを知りましたが、立ち回りや台詞確認などを入念にしているのを見ると、不思議と緊張感が伝わってきます。
その奥では、片倉組も入念な準備をしている姿が見えました。

消防団の巧みな技の数々は、40分程度で無事、拍手喝采の中で終了。
続いて、いよいよ“東日本武将隊サミット”の時間。
この一番手は、勿論、ここ白石が居城の奥州片倉組
その先陣は、“伊達成実”殿、“茂庭綱元”殿、“白石宗実”殿、“留守政景”殿の4人。

残念ながら、スピーカーが天守に向いていなかったので何を言っているのかはよく聞こえませんでしたが、何かコントめいたことをしているのは、伺えました。
そうそう、レッツ・ゴー・3匹の挨拶ネタと、ダチョウ倶楽部の十八番をしていたのは、所作と雰囲気で解りました。

けど...いや私は、もちろん前者も知ってますから。
ええ、これ、好きです。
全般的に、結構(今回は)ウケていた印象がありました。
私の横にいた消防団の男性が、一旦降りて観てきたらしく、残っていた別の方に感想を求められたら「身近なことを取り上げていて、面白かった」とも言ってました。
身近なこと・・・他の武将隊には無い、生活感など・・・と、私なりにこれを解釈しました。

4将の出番が終わった後、片倉組全員による演武を経て、、、

新たなメンバーでとなる“猿飛佐助”が登場。

会場を大いに沸かせていました。↑左端の黒い装束の男性が、それ。
何せ動きが俊敏で、バクテンなんて軽々と熟していました!
いままで、時代祭でも武者衆でも、会ったことのないタイプのツワモノです。
しかも、まだまだまだまだ若い!感じで、何より爽やか(^^ゞ
これ程の人、武者衆には、残念ながらやっぱり心当たりがありません。
ある意味、私が憧れ(=目指していた)タイプのツワモノです。

猿飛佐助の紹介後、他の武将隊が登場してきましたが、私はここで天守を降りて城外へ。
昼時になって腹も減ってきたので、名物の温麺を求めに御城下に向かいました。

あっ、ちなみに森川さんは私が温麺を食べている間に登壇したようです(笑)

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奥州白石の鬼小十郎まつりへ、いざ!

2011年10月10日 | 観祭記
今年で4回目を迎えたこの時代祭
その2回目から引き続いて今回も、観に行って来ました。

家を発ったのは、朝の5時半頃。
列車利用も考えたんですが、ETCを使うと安く収まるので車で向かいました。
今年は、着実に人気を伸ばしている奥州片倉組と、戦国BASARA片倉小十郎の声をしている声優の森川智之さんが来る・・・という事で、混雑を見越してこの時間にしました。
途中、、、
よく行く近所のセルフでガソリンを入れたら、満タン制御が効かずに溢れさせたり(汗)
(ここ最近、忙しくてあまり寝ていなかったので)睡魔に抗しきれず、(常磐道に入って早々、友部SAで)30分程仮眠を取ったり...
磐越道から先では、強い横風にあって(当たる面の広い我が車は)思う様に走れなかったり...
などなどありましたが、まぁ何とか(^^ゞ
足掛け4時間半程掛けて、白石に着きました。

車を、警備の方の誘導に従って、白石城の北側の(臨時)駐車場に止め、大手門へと繋がる厩口門から登城しました。

城内(会場)の本丸御殿址へ向かう前、厩口門を登った先に鎮座まします白石城の守護社、神明社に参詣。

祭の盛況と、我に神の御加護があらんことを強く、強く!強く!!祈念して後...

いよいよ城内へ。

大手門外には、屋台が(数軒)軒を連ねて賑々しくしていましたが、大手門の内はもっと!

特に、記念グッズを売っているテントや米沢牛を取り扱っていたテントは長蛇の列。
記念グッズはともかく(マテ)
米沢牛は、あまりの長蛇で早々に諦めましたが、祭の後半で、既に完売してました。
もう、残念で残念で残業でなりません。。。


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時代祭が好きなみなさーん!

2010年04月05日 | 観祭記
いや・・・佐倉が好きなみなさーん!(^^ゞ
今年もやりますよ!
4月25日(日)に。
祭の後、まずはおまわりさんから剣の手解きを受けてから、(去年は萌え堕ちた)ファミレスへ!!(ぇ)

いや・・・あそこはちょいと手狭だから、禁酒厳守で京成佐倉駅前の魚民辺りか(マテ)

自分の住む街で開催する祭ながら、以前は、毎回馳せ参じていた石和と重なっていたので観にも行けませんでしたが、いつ頃からか(^^ゞ
1週間ずれて4月の第4日曜日となってからは、毎回欠かさず、観に行ってます。
いや・・・自前甲冑だと申込が(事実上)不要で、飛び入り参加大歓迎!なんですが、私、残念ながら持ってないんです
かと言って、一般参加(申込制)だと、市民税をキチンと支払っている私のような極めて善良な市民に対しても、配役に応じた結構値の張る役料を納めねばならないんで(苦笑)
時代祭好きな一市民なのに、出られないもどかしさは多少ありますが(笑)
気楽に、参加くだされた自前甲冑の皆さんの御側御用人を務めるのも、また、楽しいんです!
何せ、佐倉はお客さんと近いから、特にこどもとマダム絡みの、予期せぬ出来事目白押しで、抱腹絶倒しっぱなしです(笑)

ただ...
今の市長は、あまり時代まつりに乗り気ではないようで...
前の市長は、毎回出発地の旧堀田邸に来て(挨拶して)いたのに、今の市長は「他の公務」とかで、確か一度も来てません。
また、我が市も、ご多分に漏れず、勝手向き不如意であることは知ってますが、今の市長になってから、華やかさがなくなってます。。。
公約通り復活させた花火大会の方が儲かるのかな?!
あれも、結構な規模と予算が掛かるはず・・・と思っていたら、直近の広報誌に承認された予算の概要が。
勿論、時代まつりと花火大会の予算も載っていましたが・・・やっぱり、花火大会は時代まつりの10倍の予算です(苦笑)

ただ、今年は佐倉城(鹿島城)の築城400年ということで、それなりに、イベントもあるらしい・・・です。
名前も、“佐倉11万石祭・時代まつり
桜組なる(話題の)双子の忍者アイドルも来るようですし。。。

ここ数年、縮小感が否めなかった時代まつりですが、その代わり、今年は昨年以上に多くの武者衆がご参陣くださるようで、一市民としては、誠にありがたいことです。
今年は大いに盛り上がりそう・・・ですね、きっと。

ちなみに私は、石和と米沢に出陣することが決まりました。
これで、現代の三大川中島全てに出陣することが叶いました。
今から、どちらも楽しみです。
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男女3人伊勢物語-「津まつり」編

2010年01月14日 | 観祭記
国家と身辺の安寧を祈願したく、伊勢神宮へ。
外宮内宮にそれぞれ参拝
払暁より、予てよりの宿願を漸く果たして気が付けば・・・時刻は11時30分頃。
内宮へ着いた時(9時過ぎ)にはガラガラだった人や車も、2時間も経てば・・・もう、いっぱい(^^ゞ
表参道は歩くのがやっとの混雑で、外宮や最寄り駅から来るバスも満員。
駐車場も満車で、道路には入待ちで渋滞が出来ていました。
心底、「早く来てよかった...」と思いながらここを発って県都へ。
もう1つの(一応)目的だった「津まつり」で行われている自前甲冑衆の行列を観に向かいました。
彼の地では、既に現地入りしている楓さんにご協力いただき、いろいろと情報を入れていただいていたのですが...
行列の開始が、事前の調べよりも早まって、12時前に行われるとの情報が!?
しかし、ナビの到達予定時刻は・・・1時間強。
これでは間に合わない・・・と、ちょっと頑張って、ガソリンを惜しまずに伊勢道をかっ飛ばして(笑)
何とか、津には12時頃入り、指定駐車場(三重県庁)に車を止めて会場へ,シャトルバス(200円)で向かいました。

まつりのメイン会場の通りは、ものスゴイ賑わい!
桟敷席まで設けられて、本格的でした!!けど、目当ての行列は・・・一足遅く、終わってました。
是非も無く、お勤めを終えた自前甲冑衆にご挨拶を・・・と、今度はその行方を、楓さんと共に探したんですが・・・み、見付からない。
まつり会場の周辺をグルグル探し回って、漸く、津城址近くで見つけて、何人かにご挨拶できました。
けど、皆さん、何となくお疲れのご様子でした。。。

若干消化不良な面がありましたが、賑々しいまつりの雰囲気は感じられたので(^^ゞ
シャトルバスに乗って駐車場に戻り、津をあとにしました。

次に向かったのは、旧美杉村多気に在る北畠氏館です。
伊勢は中世(~戦国末期)、太平記(鎌倉末期~南北朝)で活躍する北畠親房や陸奥太守顕家で有名な、“源氏の正統”である村上源氏中院流の北畠家が「国司」として治めていました。
そこで、お供の碧雲斎に...

「せっかく伊勢に行くんだから、北畠家関連の史跡に行こう。」

...と、碧雲斎に選定を任せて決めたのが、ここ、北畠氏館でした。
聞けば、そこは北畠家の政庁で、中世の庭園がそのまま残っているとかで、とっても期待に胸膨らませていたんですが、そ
ここへ向かうまで、私には予備知識が全く無く、何の困難も無く行けると思っていたんですが、津まつりに参加していた(三重出身の)ちがいがまさんにこのことを言うと...

「そこ、山の中に在るやつでしょう。行くの結構大変だよ。」

...と、思わぬ答えが返ってきました。
ただ、そのときは笑って「そうなんですか」と応じましたが、これから3時間後に、その意味が漸く解りました。。。


けど、おじゃる丸がどうやってバスの戸袋の中に入ったのかは・・・判りません(笑)


【最終回】・・・→「苦難の北畠家」編・・・→
【前 回】←・・・「伊勢内宮」編←・・・

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10回目の佐倉時代祭

2008年05月10日 | 観祭記
気付けば今年で10回目。
秋の大祭と並んで、我が街「春の風物詩」と誇れる程に定着した感のあるこのお祭を、昨年引き続いて今年も勿論!一市民として,そして、ご参陣される武者衆の記録掛として、(観に)行って来ました(/^^)

時は少し前(^^ゞ
4月最後の日曜日となった27日。
毎年好天に恵まれるこのお祭も、今年は生憎の(朝方)雨模様。
ただ、「回復傾向」との天気予報を信じ、参陣衆の詰所である旧堀田邸へ,途中からあゆみちゃんと時代祭初参加のナカジさんとご一緒に入りました。
ただ...
私は単なる見学兼記録掛なので、支度所などには用が無いので(^^ゞ
旧堀田邸南面に広がる芝生広場(さくら庭園)へ向かうと、そこには、準備万端完全武装の左馬之助殿と鯉狂勘助殿が居られたので、暫し歓談。
加えて、左馬之助殿からは(支給された)お弁当を頂戴し、まったり時々忙しなく,出発までの過していました。

待機中、地元ケーブルテレビ局の取材を受けていました。けど、結構的外れで振興心の無い質問が多々あったようで(^^ゞ...

金脈も水脈も、ここにはありゃしませんよ(笑)

その間,身支度を終えられた参陣衆が続々と庭園にやってきましたが、中でも目を惹くのは、やっぱり自前甲冑衆の皆様方。
それぞれに趣向を凝らした装いは、観ているだけで圧巻!

その見事さに、手作り甲冑隊の方も「今後の参考に」と視察に訪れていましたが、行列中も、詰め掛けた観衆からは一際高い注目度と歓声を受けていました。
それゆえに...
時には好奇心旺盛な子供,特に男の子にとっては武者衆は格好の餌食となって、集まる集まる。
また、好奇心旺盛な子供たちは、少々の脅しには屈する事無く、返って絡んでくる腕白ぶりに、さすがの武者衆もタジタジ気味?!のようで(^^ゞ...
逆に、悪く言えば手加減を知らず,ちょい脱線することも...

鞘から抜いら、アスファルトにガリガリ...!?見ているコッチも、一瞬ヒヤッとしました。けど、幸い大事には至らず。

斯くなる上は、オトナの厳しさも教えねばなりませぬ!
例え子供であろうと容赦せず...で。


今年は特に,一般参加の方を含めて、北は秋田から西は愛知,岐阜から駆けつけられ、時代祭経験者関係は過去最大の参陣数。
皆様それぞれに意匠を凝らした装いは、観ているだけで圧巻!
その見事さに、手作り甲冑隊の方が視察に訪れていましたが、行列中も、一番の注目度と歓声を浴びていました。
その中でも(更に)人気が高かったのが、前田利家のバサラな装いで出陣された克さん。

金色に輝く眩い甲冑(烏帽子兜)にありがたさを見るのか,ご利益(縁起)を求めて触れに来る人が結構いました。

昼過ぎに旧堀田邸(さくら庭園)を出発した行列は、佐倉の鎮守・麻賀多神社手前の新町交差点で折り返し、一旦市立美術館駐車場(印旛支庁跡地)に設けられたイベント会場へ。
ここで小一時間の自由時間を挟んで、再び隊列を組んで出発地の旧堀田邸へと向かって行きました。

昼過ぎから始まったお祭も、4時間程掛けて旧堀田邸(さくら庭園)に帰陣して終了。
恒例の集合写真を門前で撮り、見学に来ていた碧雲斎の若を遣わして席を確保した近くのジョナサンへ,お時間に余裕のある方で打上をしました。
毎度毎度,メンバーが例え違っても、知っている人が2人以上居れば決まって...
一つの話題で大盛り上がり,名言珍話が次々と飛び出して、腹を抱えずにはいられませn。
この、不思議な魅力の話題を中心に、ジョナサンで2時間ほどお茶してから、各々帰路に着いたり食事に出たりしました。

私は、この後克さんをご自宅までお送りしましたが、昨年師走の小栗からの帰り同様,硬派な話題を中心に、昨今思うところを吐露し、主義主張を共鳴し、知的満足度を高めて家路に着けました(笑)

また来年も、佐倉の時代祭はあると思いますので、是非そこでお会いしましょう!
お待ちしています(^^)/~
佐倉は結構いいところですから。
そこではまた、多分記録掛として参るか・・・と。
いやだって、市民なのに参加料とるんだもの(笑)

それにしても...
例年に比べて、行列の規模もイベント会場での催しも、小規模だったような気がします。
事前の、あくまでも噂では、小出義雄佐倉アスリート倶楽部監督の出陣があると聞いていたのですが、行ってみたら姿は無く、堀田正典様はご出陣されましたが、ちょっと...
しかも、今年は佐倉と縁の有るオランダとの修好150年とかで、華々しくやる!とも聞いていたのですが...。
確かに,チューリップ祭は今年もきれいに挙行されたようですが...。
これもやっぱり、行財政改革中の市政を反映しているのか,昨年は、現市長の就任間も無くこのお祭があったので、何も手が出せなかったもかもしれませんが、観衆の盛り上がりと、遠方より遥々駆けつけてくださった方が居る中で、この縮小は、ちと物悲しくなりました。
佐倉をアピールする、格好の機会かと思うのですが...公約で復活させた花火大会同様、このお祭にも、もう少し力を注いで欲しい・・・と、感じました。
ただ...
どんなことがあっても、佐倉の七福神だけは、しぶとく出続けているのが、不思議です(笑)

奇妙なお囃子の歌い手は、貧乏神なんですよね...。
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小栗判官観祭記(下)

2008年04月22日 | 観祭記
昼から始まったお祭は、市中を行軍し、舞台上から舞台上から爆弾!・・・じゃなくて餅撒きをして、凡そ4時間ほどで終了。
季節は師走初旬。
冬至前だからか日は短く、はや16時半を過ぎた頃には西の空がすっかりと茜色に染まっていました。

この後、後夜祭が企画されていたので、下館市街地(筑西)へ移動。

予約されていた下館駅前のお店には、17時の開店と同時に突入し、それからおよそ4時間程。
ここで改めて、ご参集の皆々様とご挨拶をし、様々な話題を通して意気投合,思わず杯を重ねた・・・かったのですが、如何せん,遠方より来ていますので、帰りのことを考えて自重はしましたが、それでも結構テンション上げ上げで。

大盛り上がりの内に終宴し、別れを惜しみ、再びお会いできることを約して、帰路に着きました。

千葉までの帰りは、ローカルな関東鉄道(→守谷)と、新線のつくばエクスプレス((TX)→ 南流山),中途半端なJR武蔵野線(→西船橋)とを乗継、3時間ほど掛けて帰りました。

北側のホームには、真岡鐵道の、かなりカラフルな気動車が停車中。下館は、意外とターミナル駅でした。
その途中,TX流山おおたかの森までは、後夜祭からご参加の克さんとご一緒させて頂きましたが、お互いのベクトルは同じ方向なのか?!
歴史学から、政治社会にこの国のかたちと行く末にまで,初めて乗る関東鉄道のローカルな旅もそこそこに、帰路の時間が返って短い!と思う程、濃深でアツイ会話に没頭し、とても貴重で有意義な時間を過ごせました。

今回、初めて観に行った小栗判官。
参陣された方のお話やレポなどを拝見するに,総大将の小栗判官には芸能人を据え、数多の勇ましく武者共と、美々しい侍女衆が市中を行軍し、それはそれは、とても賑々しい・・・かと思ったのですが、今年は随分抑え目で。
一緒に周ったまつ殿は、このお祭の参陣経験者でもあるのですが、規模の縮小は顕著に見られ、人員削減が随分と成されていたようで、ちょい寂しいものを感じました。
けど、旧協和町の頃ならば、例え苦しい中でもなんとか、予算も人員も,商工会などと組んで出来たでしょうが、諸般の事情とは言え,周辺市町村と合併をしてしまったら、「協和だけ」という訳にはいかないでしょうから...。
市町村合併と財政難の波を受けて、(時代)祭の廃止も少なくないと聞いています。
こうした中で、如何にして町の名を知らしめることが出来るか、活性化させるかを、なんだか垣間見る事が出来た様な気がします。
また、だからこそ、地元の,ここぞ!とばかりの気合が感じられ、(地元の)人々と触れ合え、名産物を知り、舌鼓も打てて、活気があって温か味のある、いいお祭でした。
来年以降も、是非とも継続して欲しい・・・と、思います。

これも毎年恒例?!クラシックカーも大集合!!です。


最後に,乗物好きな私から、もう一つ。
先に触れましたが、下館から自宅までの帰り,守谷までは関東鉄道を利用しました。

今回、関東鉄道に乗るのは初めてだったのですが、かねがね噂では...
「遅くて時間が掛かる」
...と、聞いていたのですが、案外そんなでもなかったです。
尤も,話し込んでいたというのもあるでしょうが(^^ゞ
車両も、水海道まではディーゼル車(一両)でしたが、真新しい感じの車両は乗り心地もよく、ディーゼルの力強いエンジン音も、「ローカル線に乗ってるんだ...」という旅情気分を味わえて、とても良かったです。
ただ、惜しむらくは夜だったので、車窓の景色を楽しめなかったこと。
特に、非電化区間の下館→水海道は周囲に何にも無いようで、真っ暗でした(^^ゞ
なので、今度は昼間に乗ってみたいと思います(/^^)
なお、下館から水海道,そして守谷まで、通して乗車したのは、私たちだけでした(笑)

それと...
TXにも初めて乗りましたが、噂通り(結構)速い!のに静かで揺れず,乗り心地は実に快適でした。
成田新高速鉄道の建設にあたって、難色を示す付近住民の合意を得るのに案内したら、たちどころに翻意した・・・と聞きましたが、納得です。
機会あれば、秋葉原からつくばまで乗車します(/^^)

なお,この次からは暫し、今祭の主役である小栗判官とその家について、ちょいと興味がありましたので、調べた得たことを、(例の如く性懲りも無く(^^ゞ)ご報告させて頂きます<m(_ _)m>

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小栗判官観祭記(中)

2008年04月21日 | 観祭記
平成19年12月2日(日)12時。
校庭内に設えた舞台に参陣した諸将諸役が上がり、出陣式等の諸式が始まりました。

この時は、私とまつ殿は記録係として、あっつあつのコロッケを頬張りながら、テント内の敬老席に紛れ込み、その様子をデジカメで撮影。

この後,御大将小栗判官役の江藤潤が号令一下、壇上を降りて出陣致しました。

しかし、私は、まつ殿と待ち合わせていた○昴○様と(初めてお会いして)一緒に、武者行列などそっちのけで、校庭内を巡ったり談笑して、大いに楽しんでいました。

そんなんで、すっかり武者達と逸れて見失ってしまったのですが、さすがに,一応見学者としては、何も撮らず,何も見ずして帰るわけにも行かず(^^ゞ
まつ殿と○昴○様の記憶を頼りに、筑西市協和支所(旧協和町役場)南面の広場で休息中の武者達を発見し、暫し(休息中の武者達と)談笑やら撮影会に興じていました。

侍女方の足元に寄りかかってへばって居るは...!?


それから程無くして、一同に号令が掛かり、陣所へと縦列行軍して行きましたが、私たちは私たちで,あくせく追い駆けることなくゆっくりと、陣所へ向かいました。

入陣前,待機中に襲われるショウグン様の図,やっぱりこの人はこうでなくちゃ?!
門前の寅さん,ここに現る?!(笑)


入陣をした諸将諸役は、再び壇上へ。

着到の儀などの諸式が執り行われましたが、その最後,御大将や照姫様始め諸将諸役が一斉に、壇上から群集の観客目掛けて縁起物としてか,“餅撒き”を行うのです。
これは、節分会に寺社仏閣で執り行われる“豆撒き”の光景と全く同じかとは思うのですが、いざその渦中に身を置くと、実に恐ろしい!!

あっ、左馬之助殿に見付かった!狙われてる...?!
さながら「飢えた池の鯉に餌を撒く」が如く、“勢い”がスゴイ!

観客の皆さんは、何をそこまで・・・と思う程しゃかりきに、餅を取らん!と大声を発し、両手を広げてジャンプします。
一方,壇上の諸将諸役の皆さんも、これを楽しんでいるかの如く餅を撒いていましたが、周囲の余りの熱気に反比例して冷めていた上、投げられたモノを取るのが苦手な私にとっては、ただただ恐ろしいだけで(^^ゞ

爆弾の如く投下される餅に当たらぬ様に・・・と、注視するのが精一杯でした。

それも、およそ10分程度か,装弾尽きて終わると、観客の皆さんは引潮の如く、会場を後にしました。
そして、漸く落ち着きを取り戻した会場の舞台へ近寄って見ると...
お婆さんに握手とし、優しく頬を撫でられている美琴殿が居ました。

なんでも、ヘルパーさんに連れられて来たお婆さんへ、手元に残っていたお餅を直に渡したところ、こういう状態になったとか。
お婆さんにとっては、この若者の優しい心遣いがえらく感謝感激されたようで、涙を流しながら、握った手をいつまでも離そうとはしませんでした。
しかし、これにたじろぎ謙遜する美琴殿...

この見慣れぬ光景は、微笑ましくもあり、ちょい不思議にも感じました。

そんなこんなで、時は16時過ぎ。
冬の日暮れは早いもので、空はすっかり茜色になっていました。

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小栗判官観祭記(上)

2008年04月20日 | 観祭記
昨年師走の初め。
茨城県協和町新治地区(筑西市)にて執り行われた、「小栗判官まつり」を観に行って来ました。

自宅からこの地までは、真っ直ぐ北へ向かって北上すればよいのですが、この時は所用があって武蔵野方面へ出張っていたので、このタビはこれに参陣する破天間武茶殿が運転する車に同乗し、同じく美琴殿,まつ殿と一緒に、埼西の私鉄駅を朝7時過ぎに出発しました。
その車内の会話は、とてもとてもここではお伝えできない内容で大盛り上がりでした(笑)が、その為にか(^^ゞ
外環道から常磐道への入口を見落として終点まで行ったり、目指していたJR水戸線新治駅へと繋がる道の口が判らず、気付けば隣市にまで行っていたり・・・と、思い起こせば結構な珍道中の末、何とか,およそ2時間ほど掛けて陣所(市立新治小学校)到着しました。
そうえいば...
常磐道谷和原ICで降りて国道294号線を北上中,下妻の辺りを走行中だったか、田圃の中の一本道だったのですが、辺り一面を濃い灰色の霧(らしきもの)が覆っている、何とも不気味で不可思議な光景に遭遇しました。
始めは、どこかで野焼きでもしているのかな?!とも思ったのですが、その濃さと量は尋常ではなく、大規模な火災であったとしても、後日そんな報道は無く、ましてや一面何も無い田園地帯だったので、根源が全く想像付かず,考えれば考えるほど、奇っ怪至極な光景でした。
(霧にてしても、時刻は9時前でしたから...。)

時代祭に参陣する武茶殿と美琴殿は、支度所の体育館で受付を済ませて、身支度をすべく兵共の中へと消えて行きましたが、単なる見学で来た私とまつ殿は、出陣まで何もすることが無かったので、致し方なく校地内を散策していました。
ここは、祭の「第1会場」でもあったので、露店などが所狭しと軒を連ね、それはもう、大変に賑々しかったです。
(本物の白バイあり,衝突衝撃実験車で擬似事故を体験出来たりも出来ましたが、ちょっと・・・これはは迫力に欠けます。)

参陣者には、地元のご婦人方が作られた豚汁が振舞われていました。
実に美味そう・・・食べたかった・・・けど、当然食べられなかったので、校庭を巡っている時、一際行列の出来ている大人気?!な露店を発見!

足利の【栃木屋】というコロッケ屋さんで、なんでも、全国コンクール(食肉産業展コロッケコンクール)で銀賞を受賞したことがあるとか。
私の前にいた人は、とても大量に買って行っていたので、どれどれ・・・と思って一個買って食べてみたら・・・・・・・・・!
出来立てで熱々だったといこともあるかもしれませんが、不思議とモチモチしていて美味かった!!です。


あっ、そろそろ祭が始まりそうなので、舞台付近に展開します(/^^)

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佐倉時代まつり

2007年05月27日 | 観祭記
我が街の晩春の風物詩となったこの祭も、今年で9回目。
その初めの頃は「なんだこれ?!」と思ったものですが((笑))、気付けば4年ほど続けて観に行っています。
それも、初めの頃は中旬,“石和”と同じ日に執り行われていたので観ることが出来なかったのですが、いつの間にか最後の日曜日に移動していたのでそれも可能になりました。
ただ、今年は2月からJR東日本千葉県各市町村とが組んで展開する観光プレゼン「ちばデスティネーションキャンペーン」の為に、旧みどりの日の振替休日となった30日(月)に,このトリを務めるべく開かれました!
そしてまた,今年も遠方より兵友が参陣すると言うこともあって観に行ってきました。

参陣の衆が拠点としている旧堀田邸に着いたのは11時半頃。
印旛支庁の駐車場に関係者を装って止め、市道を正攻法で行くのには遠回りなので、裏手の獣道から登って行きました。
その着いた先は旧堀田邸の裏手にあたる「さくら庭園」という、芝生敷きの伸びやかな日本庭園。
そこには、様々な(時代)装束を身に纏った人々が大勢集まっていました。
その中から...
久方ぶりにお会いする織部正殿や鯉狂殿,七夕的な再開の虎之助殿とご挨拶を交わしました。
そして、ここ佐倉で毎年総大将を務められる克殿にご挨拶をすべく探していると・・・!
煌びやかな立烏帽子兜に鎧,陣羽織という、前田利家張りの伊達な井出達の克殿を発見しました。

う~む、なんだか不思議な光景です...(笑)

金仕立なので眩く目立つので......。
しかし、そのお隣には見たことのある甲冑を身に纏った御仁が・・・・・・?!
もう少し近付いて見ると、疑問は確信へと変りました!!
内々の話ではありますが一瞥以来の鈴木繁友殿,その方だったのです!
もう、びつくりしました。まさか・・・・・・でしたから。
しかも、更に聞いてびつくり!!
甲冑のまま電車(京成)に乗ってやってきたそうです...。
むかし、日野の新選組祭ではよく、ダンダラや浪人姿で巡覧する方々に着いてご一緒したことはありますが、それでも街全体が“お祭”なので違和感は無かったのですが...。
全く関係の無い地から着甲して来る繁友殿には、さずがに脱帽級でした。

そんなこんなしているうちに、参陣の御一同に対して集合駈足!の号令が。
時刻ははや12時半頃,全軍出発の30分前となっていました。
まず、出発に際して庭園にご一同を会して出発式が執り行われました。
商人に扮した商工会長や、2年ぶりに御殿を務められる小出義雄佐倉アスリート倶楽部現場監督のご挨拶を得てから、堀田家御当主や市議などに見送られ、小出御殿の勝鬨の後,諸軍整列して出発!しました。

ただ・・・この式典にて一点,我慢なら無かったのが市長
五月晴れで陽射しが強かったこの日に、長々と,巻物風に用意した挨拶文を延々と朗読しだして...。
如何に新市長で慣れぬ場所,緊張もしていたとは言え、斯程に場の空気が読めぬ御仁だったとは。。。
ままっ,そんな愚痴はこの辺までにして...
全軍は馬上の人となった小出義雄御殿を先頭に賑々しく,旧堀田邸より市中へと進軍して行きました。
今年は、恒例の鎧武者や新選組と官軍,町娘などに加えて、ちばDC関係でか南房総から手作り甲冑隊が参加。
更には、幕末に活躍した“佐倉の三太郎”なる三人衆に、なぜか韓国(李氏朝鮮)の衆も参加していました。

見事な装束には目を奪われたのですが、一体全体どんな関係があって参じたのかは・・・不明でした。
さて、市中沿道には今年も多くの人が,十重二十重と詰め掛けていて、それはそれは大変な賑わい!
後日の広報誌によると、約7万人ほどの観衆があったそうです。

ただ、毎年市立美術館麻賀多社手前の新町交差点との間は、行軍すらも覚束無いほどに人が詰め掛けているのですが、今年は意外とすっきりと,滞り無く進めました。
そんな中を、私は(今年も)専属従軍カメラマンとして、時折沿道の観客から怪訝に思われながらも(笑)、皆様からお預かりしたビデオやカメラを携えて参りました。

旧堀田邸を13時頃に出発した行列は、途中,佐倉の鎮守様麻賀多社へと向かう稚児行列を合わせて、勇壮な太鼓や大勢の観衆に迎えられて、それに克殿の号令一下,鎧武者衆の勝鬨!と鉄砲隊の号砲が応えながら、一時間半ほど掛けて旧印旛支庁跡(市立駐車場)のイベント会場へと入りました。
ここで一時間ほどまったりと...鳶衆の巧技に感嘆したり、新選組と官軍との寸劇を遠くから何と無く眺めつつ、我々はここを抜け出して屋台でカキ氷など買って食べていました。
今のカキ氷って、シロップかけ放題!なんですよ。だから、メロンとレモンとコーラを、思いっきしかき氷に投入してきました。そんなに違和感無くて美味しかったですよ,ホントに。

イベント会場での諸式が終わった後、例年ですとここで解散してバラバラと陣所の旧堀田邸へと御一同向かうのですが、今年はまたここから復路の行軍が!

陽射しは強かったですが、湿度が低くカラッとした気持ちの良い天気ではありましたが、諸士の足取りは幾分重く、覇気が無かったように・・・・・・感じられました。

皆さん,しっかり!(爆)


さくら庭園にて解散式を終えて後、旧堀田邸玄関にて鎧武者衆で記念撮影をし、(身支度を整えられた後)印旛支庁の直ぐ近くのジョナサンへ,皆様方と討ち入りました(笑)

そして・・・気付けばここで2時間半ほど大いに語らって、終始抱腹絶倒していました。
いやもう、その内容をここで語ることが出来ませんが...兎に角、久しぶりに腹の底から笑いました!!

他のお客さんに白い目で見られないように呪文を掛けています(爆)

ジョナサンを出たのは19時半近く,織部正殿と鯉狂殿はそれぞれ東関道方面へと向かわれて帰路に着かれ、私は克殿と繁友殿をお乗せして,まずは繁友殿を隣市の勝田台駅まで、克殿をご自宅までお送りして私は帰路に着きました。

久方ぶりにお会いできた兵友な皆様のお蔭で、存分楽しき一日でした!!
またの機会に是非!そしてまた来年も、我が街佐倉へ!!

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佐倉時代まつり((外伝))

2006年04月30日 | 観祭記
佐倉時代まつりが終わり、御参陣になられた皆々様が家路に着いたのは、17時過ぎ。
私も帰ろうとしたのですが、此度(も)大将役であった克殿に誘われ、遠く愛知より(克殿に誘われて)参陣した河村殿と、船橋で一献酌み交わすことに。

此度、河村殿が宿と定めた船橋のビジネスホテルにその荷を降ろしてから、駅前ビルFACEの地下にある【月の雫】に腰を落ち着け、足掛け3時間ほど,美味し酒食を舌鼓を打ちながら、大いに盛り上がりました。

・・・が、私の体を、徐々に“副作用”が蝕んでいったようで・・・

この日は、中ジョッキ1に、「会津中将」「景虎」をそれぞれ1杯づつ飲み干したのですが、それがまずかったのか、次第に、脳が浮き上がる間隔に。
そして、会計を済ませ、屋外に出た途端,街を汚してしまいました。

克殿と、折角遠方より来た河村殿にご迷惑を掛けたまま、私は目の前の京成駅から自宅最寄駅へ下って行きました。・・・が、気付けば、再び(出発地)京成佐倉に!
慌てて降りて、ここからタクシーにて自宅最寄駅まで戻りました(--ゞ
けど、既に深夜料金の時間。
メーターは、加速度的に料金を刻んで行き、正直,瀧汗状態でした。
ただ、(途中から)運転手さんと話をしたいたのですが、強者は、佐倉から横浜や春日部なども居るとか。
そんなんに比べれば、まだまだ序の口,救われた方・・・だな、と自分に納得させて、自宅最寄駅よりは自転車で帰りました。

(ただ)降り際に運転手さんから「寝過しに注意してください」との、お優しきお言葉を頂きました。
正に、ご尤も至極。
いい教訓となりました(^^ゞ
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佐倉時代まつり(下)

2006年04月30日 | 観祭記
今年で8回目を迎えるこの祭の、昨年までの出陣地は、此度、目出度く国の重要指定文化財に答申された「旧堀田邸」より、市立美術館駐車場(印旛支庁跡)まで行軍するものでしたが、今年はその逆。
よって、去年は着到後に行われていた諸行事は、全て出陣前に。
人ごみの中央で行われた鳶衆の巧技な梯子乗りも、ちょい長すぎの感じが。
しかも、梯子乗りはこの後,行軍時も繰り返し為され、行軍遅滞をもたらしていました。

ここは正直、来年時は改善して欲しいところ・・・であります。

鳶衆巧技の後、佐倉藩砲術衆による演武,続いて、甲冑衆組頭並の克殿が、景気好く青竹を斬って後、いよいよ御一同,旧堀田邸へ向けて出陣を始めました。

その先、新町通り(旧国道296号線)は大群衆で、更に両脇に的屋が所狭しと軒を連ねていて、行軍も、また追っかける私と織部正殿も、にっちもさっちも行かない有様。
私たちは、何とか人ごみを掻き分け掻き分けて、通りの一本裏側に出て、隙を見つけては、通りに戻って、ご一同の勇姿を確かめました。
・・・ただ、これは後ほど知ったことなのですが、毎度着到後,華々しく行われる“新選組と官軍との戦い”が、御一同出陣後、閑散とし始めた出発地にて行われたとか。
また、行軍時も遥か後方だったので、この御一同の勇姿を確認することが出来なかったので、(またまた)残念な思いでした。
今年は、土方役の方が凛々しかったので、期待をしていたので。

出陣地より、一旦新町交差点まで出、その後、反転して旧堀田邸を目指したのですが、大混雑は、主にこの往復区間で、後は、沿道に多く人がいるも、的屋は無く、(今回)一般人に紛れ込んだ我々が、機動的に動けるほど。
こうした状況下で、組頭並たる克殿の号令一下,武者衆の勝ち鬨や、大砲の発射,左馬之助殿や惟新殿らの、観衆への奇襲・・・などを敢行するなど、大いに湧かせ、見所をふんだんにちりばめながら、去年までよりも遅々とした行軍で、旧堀田邸にご到着為されました。

行軍中,惟新殿が突然観衆の女の子よりサインを求められる!?
その子曰く「ジャニーズなどに会うよりも感激した」とか。
何時何処で、誰が見ているか判らない・・・と、まざまざと知らしめた瞬間(?!)でした。
またこの子、旧堀田邸にてツーショットをも撮りましたが、やはり、かなり感激している風でした。


到着後、此度国の重要指定文化財に答申された旧堀田邸玄関前で、御一同会して写真を撮っていると、現堀田家御当主正典様が来られて、「是非ご一緒に」ということで、堀田様の含め、勇ましき御一同と共に、写真に収めました。


今年はまつりは、去年までに比べて、何処と無く規模も小さく、段取りなども、イマイチだったのでは・・・と、感じました。
我が街佐倉は、ご多分に洩れず財政難とかで、去年,日本屈指の規模を誇っていた夏の風物詩「佐倉・国際印旛沼花火大会」が中止となったばかり。
ゆえに、一市民(納税者)として、また、歴史祭を愛する者として、来年は、是非にこの轍を踏まぬよう、糧として、活かして欲しいです。
それと、市民は参加料割引とかにも、して欲しいです。
それが不可なら、ボランティア(で)参加・・・ということか。
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佐倉時代まつり(上)

2006年04月30日 | 観祭記
今年で8回目を数えるこの祭。
以前は、石和参陣時と重なっていた為、自分の体を割かない限り、無理だったのですが、3,4年前に、ゴールデンウィーク中の日曜日に移動してきて、漸く、観に行ける様になりました。

そして今年。
歴史祭の“先駆者”克殿と左馬之助殿,立烏帽子兜の虎之助殿のほか、ほにゃじ殿,鈴木繁友殿,サプライズで河村真就殿,そして、総州へ転居為された惟新殿が、此度御参陣為られました。
※ほにゃじ殿は、非公式参加です。

半月前の石和と違って、地元で、しかも私は参陣せずに従軍するだけなので、伸びきった髪をさっぱり切って、今年は電車で向かいました。

京成佐倉に着いたのは、12時過ぎ。
今年は、行列出発地が去年と逆転して、市立美術館駐車場(印旛支庁跡地)から旧堀田邸へと向かうもので、時間も13時と聞いていたので、まずは、この時期に秘宝を公開する、佐倉の総鎮守・麻賀多神社へ行ってきました。
すると、(予想通り)今年は、祭礼時,御城下を引廻した“日本武尊”の山車が展示されていました。
これは、嘉永3年,ペリーが来航する3年前の作られ、昭和11年まで活躍したものとか。
なんだか、なんだかのっぺりとした面持ちが、奇妙に恐怖心を湧かせるのですが...。
そう思うのは、私だけ・・・かもしれませんね(^^ゞ

麻賀多神社の秘宝を見た後、“屯所”へ向かおうとするも、はや12時半頃だったのでそれを取り止め、特設茶屋にてお抹茶(菓子付き)を頂いてから、出発地にて、皆さんが来られるのを暫し待っておりました。
すると、何処からとも無く、安岡力也と、奥さんと義母らしき人が旧堀田邸方面へ歩いていきました。
力也は、まるで的屋の元締めみたいで、ただ単におっかないだけ。
奥さんらしき人は、力也と同じくらいの背丈でしたが、スタイルは良かったです。

すると、甲冑を身に纏った皆さんが、ぞくぞくとやって参りました。
・・・が、このとき織部正様から入電が!
もしや、飛び入り参加されたのか?!と、ドキドキして電話に出てみると、なんと!「観覧に来たけど、会場が判らない・・・」とのことで、独り普段着だった私が、お迎えにあがりました。

会場へ繋がる道の入口で踊り狂うソーラン節(に群がる人)を掻き分け掻き分け、途中、これを視察に向かう左馬之助殿にご挨拶をしてから、出陣地へと向かいました。
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