くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

歴史に「絵」を遺す

2012年02月20日 | 知識補給
私は、歴史(中でも日本史)が好きです。
このモチベーションで、大学(日本近世史を専攻)まで進みました(笑)
そういえば、この間まで歴史が結構なブームになって盛り上がっていましたが、、、
「好き」の対象にもいろいろあると思います。
ある時代(世界観)が好きな人。
特定の人物に関心がある人。
武具・装束に執着する人。
私は、この何れも該当しますが(笑)
もう一つ、注目しているのがあります。
それは、「肖像画」です。
そんな私の為に(違)
水戸に在る茨城県立歴史館で「肖像画が魅力」という特別展が開催されたので、観に行ってきました。
けど、ただ特別展を観るだけでは勿体ないので(笑)
期間中、何度か開かれるミニ講座の一つ「徳川斉昭と三明君‐真田幸貫・松浦静山・大関増業‐」に、せっかくなので合わせて行きました。

家を発ったのは朝の7時頃。
普段、講座(講演)の開始は午後からなんだそうですが、一週間ずれて開始する近くの偕楽園の梅まつりの(駐車場等の)混雑を考慮して、今回の各講座(講演)の開始は10時。
ゆえに、これに間に合うようするために、朝早くに発ったのです。

往路は一般道をひた走り、到着は開館(9時半)の10分程前。
意外に早く(ナビ予想の1時間前に)着きました。
お陰で、講演会の整理券を難無く貰って拝聴できました。
この講座の講演者は、永井博学芸課長。
内容は・・・目新しいことは、期待していたほど多くは聞けませんでした(^^ゞ
特に、大関増業については一昨年の初冬に大満足の企画展を観てしまったので。。。
ただ、この講座を聞いて、“松平定信”の存在がキーパソンであり、如何に重要でカリスマ的であるかに気が付きました。
・・・真田幸貫は定信の子
・・・松浦静山とは深い交友があり寛政の遺老・松平信明とは義兄弟
・・・大関増業は甥(兄の伊予大洲城主加藤遠江守泰武の娘の夫が定信)であり、隠居時の証人の一人。)
この他にも、江戸後期の政治史を紐解けば、松平定信の影は随所に見られます。
恐るべし、守国公!です。。。
それともう一つ、いまや後世(江戸後期)の創作として名高い「慶安の御触書」 のが、黒羽領から発した「百姓身持教訓」というのが興味深かったです。
なお、これ(ら)を「慶安の御触書」としたのは、化政期の林大学頭家当主・述斎とか。
もちろん、大関増業との繋がりはあり、特に述斎近侍の門弟・佐藤一斎(佐久間象山、横井小楠などの師)との交流は頻繁であったようです。

さて、講演は1時間で終了し、いよいよこの後に特別展を観ました。
内容は・・・ええ、よかったです(*^-')b
欲を言えば、もっともっと多くの肖像画を観たかったです。

展示資料の殆どは、副題にあるとおり茨城に所縁のある画。
中には、武田晴信(高野山蔵/那珂郡武田郷が名字の地)や、佐竹義宣、山本勘助の有名な画もありましたが、後者2点が後世に制作されていたというのが意外でした。
(義宣の顔が面頬で隠されているのは、顔が解らなかったからだとか(汗))
他、頂相(高僧の肖像画)の用途や徳川将軍家、石田治部の画等があり、興味深かったです。
また、大塩平八郎に関連して、有名な肖像画と、乱後の人相書きも展示されていました。
陽明学者らしい威厳と堅物さを感じる肖像画と違って人相書きは、本人の実態を反映している・・・と言われているとはいえ、描かれているのは単なるオジサンにしか見えなかったのは不思議です。

これら資料の中で、一番多く展示(紹介)されていたのが、水戸徳川家です。
家臣に書き手の妙手がいた烈公斉昭の時代は、当主斉昭は勿論、(斉昭主導で)家臣の肖像画も多く描かれていました。
写真(機)が魂を吸い取る・・・という都市伝説に似て、肖像画も描かれると早死にする・・・という迷信があったようです。
(だから写真の都市伝説が生まれたか?!)
そういう時代にして描かせるのは、比較的珍しいようです。
これも、カリスマ的存在であった烈公ゆえに為せしことだったかと。

肖像画は、像主を忠実に描くことが求められていました。
それは、9代将軍家重公や12代将軍家慶公の肖像画が、発掘調査で判明した顔の骨格と類似していることで知られています。
これに加えて、近世中期以降はより写実的に描く技法がオランダから伝わりました。
その技法(カラクリ)‐カメラ・オブスキュラ‐も、この展示の中で実際に体験出来るように紹介されていました。

近年、肖像画を巡る調査、研究が活発になっているような気がします。
そのお蔭か、かつて教科書に載っていた肖像画の像主が、近年次々と改まっています。
例えば、敗軍の将の様な武将画が、かつては足利尊氏公だとされていましたが、いまは騎馬武者画に。
また、京高雄の神護寺伝わる源頼朝の画も伝が付され、それが足利直義か?!とされている。
そして、武田信玄として有名だった僧体の画も、いまでは能登守護畠山左兵衛佐義続とされています。
この他にも、まだまだある肖像画を巡る動きと研究成果を、今度是非、どこかで見てみたいです。

さて、この後は、せっかく水戸までやって来たので、この近くに在る偕楽園に立ち寄ってみました。
そのことは、また別に。
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あなたはだーれ?!

2011年05月24日 | 知識補給
ここ最近、毎日残業可能時間ギリギリまで仕事をしているので、家に帰ってくるのは・・・23時過ぎ。
帰りの電車の中では、例え立っていても、途中の記憶はありません(笑)
図書館で、せっかく興味深い歴史系の教養書を借りてきて読んでいるのに、気が付けば、止まってます。
どこまで読んでいたのかも、判りません(笑)
そんな中、ここ最近、家に帰って楽しみなのが、4年前の大河ドラマ「風林火山」を観ること。
ただ、帰ってきた時間には勿論やっておらず。
今から2年ほど前。
当時のBSハイビジョンで再放送していたのをおよそ半分、ブルーレイ導入時からほぼ全話録り貯めていたので、観返しています。
改めて観ると、うん、やっぱいいです。
観応えあります。
今年放送している大河が、よりつまらなく見えてきます(苦笑)
尤も、もう、今年のはほとんど見ていませんが...。

さて、この風林火山。
録り始めから順・・・と言うわけではなく、いきなり最終回近く、川中島の前哨戦辺りから観始めたのですが、そこでふと、あること、いや、ある疑問点に気が付きました。
それは、武田左馬助信繁と観て...

真田幸村は、なぜ、“幸村”と言われるのか?!と。

伝承の域は出ないでしょうが、幸村の本当の名たる“信繁”は、武田左馬助信繁にあやかって名付けられた・・・と、聞いています。
それなのに、何故に“幸村”の名が“本当の名”の如く扱われているのか・・・特に、左馬助信繁公が立派な最期を遂げられたのを観て、特に気になりました。

そもそも、真田幸村・・・あ、いや、左兵衛佐信繁公の生涯において、今や本名と思われがちな“幸村”と名乗った記録がない?!とか。
それを聞けば、ますます気になります。

“幸村”名乗りの伝承は、諸説紛々あるようですが、今現在判っている初見は、江戸中期。
4代家綱公の御世に刊行された『難波戦記』なる軍記物だとか。
国立国会図書館や秋田県立図書館でも閲覧が可能らしいこの本の中で、左兵衛佐信繁を“幸村”として描いているそうです。
して、その名の謂れは...
“幸”の字は、真田家や、主筋と伝わる海野家の通名として知られており、父祖も用いていたので、まぁ、判ります。
問題は、“村”がどこから来たのか。
一説には、姉の村松殿から取ったとか。
はたまた、仙台真田家の主家、伊達家の時の当主の陸奥守綱村公から取ったとか・・・言われていますが、前者はともかく、後者、即ち陸奥守綱村公から取ったの言うのは、ちと無理があるかと。
確かに、「難波戦記」が刊行された折には、まだ、“綱村”と名乗っていなかったこともあります。
しかし、それ以上に、近世以前の“名前”の考え方からして、難しいかと。。。

近世以前の日本では、実名(諱)を敬避する習俗が存在しました。
これは、名前には“目には見えない力がある!”とされており、相手を効果的に支配下に置くのに都合がよいと、従来考えられていたからです。
この典型的な例が、一字与える“偏諱”です。
偏諱のやり取りによって、主従が成り立つのです。
特に近世では、儒教的な思想や序列の概念(忠義や年功序列)が強くなり、その中核である「家」や「領主本家」の権威上昇を画す観点からか“禁字法令”まで散見されます。
伊達家でも、18世紀後半から、武家は勿論、庶民領民にまで適用されるようになります。
話題の「村」も、伊達宗家(当主)よりの拝領者が名乗っているのに過ぎないので、他者が名乗る、または用いるのは、仙台住作者ならば大いに憚られたことと推察します。
刊行当時の伊達宗家当主が「村」を名乗っていなくても、「村」を名乗りだすのはその5年後。
また、陸奥守綱村公は結構やり手で「名君の誉れ」も受けましたが、強制隠居させられた父君の影響もあるのか、幾分専制的なところがあったようです。
そうした治世下ならばなおのこと、修正の指示などが考えられます。。。

そうすると、「村」はどっから出てきたのか。
ますます判らなくなってきました(^^ゞ...
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Let's 「江」 to 江戸博特別展

2011年03月01日 | 知識補給
巷で散々こき下ろされている今年の大河
のだめ”と遜色ない上野樹里の演技が、火に油を注いでいる感じ。
のだめからの脱却などを目論んだ・・・のかもしれませんが、それが返って逆効果に...。
女優としての株価値が大暴落の様相です(汗)

先日は、読売朝刊の中面にある“モニター”という記事で(読売編集委員に)“ご都合主義に違和感”とバッサリ。ザンネン!!
演出と脚本(家)の“所業”が列挙されていました(苦笑)
そして、この記事が載った日の大河を、たまたま家に居たのでリアルタイムで見たんですが...
この日の中心は、かの有名な清州会議でしたが、ここでもた~っくさん、余すところなく“ご都合主義”が発揮されていました。

まぁ、清州城内で羽柴一家と会う・・・までは良しとしましょう。
この他にも、ツッコミどころは多々ありましたが、まぁ、良しとしましょう。
しかし、清州会議を襖越しに(傍耳立てて)聞いていたのは・・・噴飯特盛級です。
記事を借りて言えば、どう考えてもあり得ない絵空事です。
ここまでするなら、番組の最後に“この物語はフィクションです。”と付けてほしいです。
尤も...
今回の脚本家が以前に担当した「篤姫」でもそうでしたが、ウラのビフォーアフターの「何ということでしょう...」が聞こえてくるくらい、閉口する場面が多々。
この時でもう、十二分に辟易としましたが、やはり今回も...。
脚本家が発表となった時に抱いた疑念と憂いがそのまま、面白いように出てきてます。

・・・ええ、何にもうれしくないです

本能寺の変当時10歳だったお江与を、法的な成人である上野樹里が演じることが、既に(あるニュースを借りて言えば)“ファンタジーの世界”です。

ただ、唯一の救いは脇役陣が重厚なこと。
・・・いや、確かに、権現様が信長の直臣が如き扱いを受けていたのには大いに不満!でしたが、何年か前に直江山城を主軸に取り上げたナントカという、稀に見る最ッ低な大河よりは、まだ救いな気が・・・とりあえずします。

そんな哀れな評価の尽きない今年の大河と連動して、江戸東京博物館では真面目に(笑)
「江~姫たちの戦国~」という、大河のタイトルそのまんまの特別展が開かれていたので見てきました。

いま、何かと話題な相撲のお膝元である両国。
駅と江戸博とを結ぶ通路の壁向こうが“国技館”ですが、とっても静かでした(苦笑)

常設展は、非常時には飛んでいく・・・とか言う都市伝説のある吹き抜けの上ですが、特別展示室があるのは吹き抜けの下の土台部分(笑)
自動改札擬きのカウンターで係員さんにチケットを呈示して、いざ展内へ!

さすがは戦国展・・・結構な人出で(^^ゞ
特に入り口付近は混み合うのが常で・・・趣旨説明などはパパッと読んで先へ先へ。

今回は、高校で英語を教えている大学以来の友達と見てきました。
高校教師
いい響きです・・・と、いうのは置いておいて(マテ)
さすがは本職。
流暢な英語と的確な英訳と解説は秀逸でした。
以前から、キャプションの英訳にも注目していたのと、いま、職場のネイティブから英語を徐々に徐々に教わっている最中なのでとてもいい勉強にもなり、いつもの3倍以上楽しめました。
しかし、我々共通の本業であった史学面,特に古文書は・・・よ、読めません(爆)。
この特別展では、数多くの文書類が展示されていましたが、中でも多かったのがかなの文書。
コンセプトが“姫たちの戦国”とあって、女性宛や女性同士の消息文書がありましたが、もう、とにかく読めません。
友達と一緒に、大学では中近世の文書類を取り扱った授業(古文書講読)を受けましたが・・・もう、読めぬモノは読めないのです。
勿論、史学出の人間として読み解く努力は十二分にしましたが・・・結局は、訳文のお世話になりました(^^ゞ
これなんだっけ?!っていうくずし字も中にはありましたが、かな文書・・・難しいです。
授業でも、いつも戦国史や古文書の研究会連中に後れを取っていましたから・・・仕方ありません(マテ)

文書類では、この他に多かったのが竹生島を巡るモノ。
浅井家は、琵琶湖に浮かぶこの島を篤く庇護していたので、浅井家は勿論、その没後に入った信長や秀吉の文書も多くありました。
しかし、裏を返せばこれほど多くの文書類があるということは、如何に強い権力、武力を擁していても、寺社の力は無視出来ず、侮りがたい存在であったか・・・ということかと思います。

今回の特別展は、戦国時代を取り上げてはいますが、甲冑などの武具類は少なく、その分、文書類や什器が多くありました。
文書類・・・に関連付けていえば、絵や肖像画もまた、今回結構多く展示されていました。
信長や秀吉、家康公、秀忠公、家光公は勿論ですが、教科書などでは見たことのある浅井長政、朝倉義景、お江与の方、春日局に、滅多に見られないであろう柴田勝家や京極高次まで。
肖像画好きには溜まりませんでした。
それと、歴博が有する重文の「江戸図屏風」も今回展示されていましたが・・・これは、何度見ても素晴らしいです。
方や同じ絵画でも、とても印象的だったのが一点。
史料名は確か・・・「瑞泉寺縁起絵巻」なる、木屋町通三条(中京区)の慈舟山瑞泉寺に伝わる絵巻物。
そこに描かれていたのは、関白秀次の縁者である女子供が処刑されている“現場”。
首一つとなった関白秀次の前で次々と執行される無情な処罰に、居合わせた執行役人ですら涙を流しているのが描かれていました。
これは、今まで見た絵や巻物の中で、一番ショッキングで、また、強烈な印象を残しました。
この事件の特異性と、残忍さ、無情さが感じられる絵巻物です。
ちなみに、この絵巻物が伝わっている瑞泉寺は、非業の死を遂げた関白秀次一族を弔うために、江戸初期に京商人の角倉了以が建立したお寺です。

また、戦国と言えば“城”ですが、これに関する展示史料として...
安土大坂伏見、北ノ庄などの城址から出土した瓦や什器、または城下町などの絵図面がありました。
・・・が、この類で一番関心を寄せたのは浅井家の拠点であった小谷城の絵図面。
いまだ現地に行ったことがないのが残念ですが、織田と浅井の攻防戦を、この絵図面から暫し想像することができました(笑)

この他にも、数多の史料が展示されていて、非常に見応えのあった特別展でした。
その中で、今回2つ、初めて知ったことが。
その1つ目は...
お江与の方の初婚の相手、佐治一成の出自。
織田一門だということを、今回初めて知りました。
正直、どこの馬の骨だか全く知りませんでしたが、まさか、母親が信長の妹の犬(佐治信方→細川昭元)で、お江与の方とはいとこ同士だったとは。。。
これが一番最初に紹介されていて、初手から面喰いました。
また、これは特別展中盤だったんですが、若狭美浜の龍澤寺に眠る「くす」という女性に関する展示(史料)が複数ありました・・・が、この「くす」なる女性、秀吉側室の松の丸殿の乳母であり、実は、浅井長政の妾腹の“娘”らしいんです。
そして、この「くす」が「そうしんさま」なる人物に手紙を送っているんですが、その人物は女性で、どうやら母、即ち浅井長政の側室?!らしいそうです。

お江与や市、初に淀などは、時の権力者、有力者と縁を結んだからこそ今にも知られていますが、「くす」と「そうしん」の様な女性は、とてもたくさんいるような気が・・・します。

今年の大河、もう、食傷気味・・・ですが(笑)
大河で注目されると、いろいろな“発見”があります。
この特別展の最後、正に“メイン”としてあったのが、つい先日話題となった目黒の明顕山祐天寺に有る崇源院宮殿(―くでん)。
お江与を祀る厨子が、非業の最期を遂げた駿河大納言忠長卿が、領地の駿府に建てた母の霊屋に納めたものだと判ったとか。
新聞でこの経緯を知っていたので、その感慨も一入でしたが、実に立派で綺麗でした。
多少デフォルメありますが、忠長卿の、実母への一途な思いの深さを感じられた・・・気がします。

この特別展は、この後福井と長浜の博物館でも開かれるとか。
お近くの方は、是非是非。
先に挙げたナントカっていう大河と連動してミッドタウンサントリー美術館で開かれた特別展同様、とても真面目で見応えのある内容ですから。

ちなみに...
この後、遅い昼餉を取るために東京駅に移動して、エキナカの【利休】で牛タンを堪能しました。
久しぶりの牛タン定食、美味かった。。。
そして、ビールによく合う!
もう、サイッコーです!!(笑)

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セイジの世界

2011年02月20日 | 知識補給
いま、すくすくと伸びている業平橋東京スカイツリー
この事業主体社たる東武鉄道を築き上げた初代の根津嘉一郎
東武以外にも、旧東京地下鉄南海電鉄の経営にも参画し、「鉄道王」の異名をとる甲州出身のこの方の私邸と利用し、収集された数多くの美術・工芸品の公開(展示)がされているのが、表参道の【根津美術館】。
以前から、名前と存在だけは知っていたここで昨秋、“南宋の青磁”を集めた企画展が開かれていると知って、行ってきました。

さて...
皆さんは青磁をご覧になったことはありますか?!
青磁、お好きですか?!

私は、大好物・・・あっ、いや、大好きです
どこが?!と問われたら、まず一言。
柔和な感じがいいんです。
もちろん、展示されている全てが完成されたモノではなく、中には、恐らく作り始めの頃と思われるモノには、出来上がりに粗雑感があります。
ただ、私が見るのは作りではなく色合いで、全般的にどぎつくなく、柔らかく包み込むような風合い(色合いや光沢)あり、じっと見ていても全く飽きず、不思議と癒されます(笑)
しかし、“青磁”と一言で言ってもいろいろとあります。
大好き!だからといって、青磁に造詣も目利きもありませんが(^^ゞ
“青磁”というくらいですから、もちろん青もありますが、他にも、白やエメラルドグリーンもあります。
そして今回、この企画展で初めて見たのが、南宋の官窯で作られたという“米色”の青磁です。
繰り返しになりますが、“青磁”というくらいですから、青はもちろん、他にも白やエメラルドグリーンなどは見たことがあります。
けど、“米色”と言うか“飴色”の青磁器は初めて見ました。
もう、3か月も前のことなので、確とは覚えていませんが...
キャプションには、作為的=つまり計算と計画性を持って作られた・・・と書いてあったと記憶しています。
けど、いままで数多くの青磁器を見てきましたが、うん、初めて見ました。
それだけ、技術的に高度で希少だった・・・ということなんでしょうか。
いままで見た青磁器の中で、この青磁器は抜群の魅力がありました。
思わず、展示ケースに砂被り状態で、じーっと見てしまいました。
また、大切で貴重な青磁器なので、二度と言わず三度四度と見ました。

いくら好きだからといっても、展示されている青磁器を手に入れようとするには相当の金額か、犯罪に手を染めないといけない(マテ)と思うので...
いつか、機会があればこれに近い、ファイヤーキングの食器類(耐熱ガラス)を手に入れようと思います。
こっちは真っ当に働いていれば買えるので(爆)
いい感じなんですよ、これが♪
けど、もう私が生まれた頃に製造を終えてしまったので、骨董市などに行かなければ手に入りません(^^ゞ
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大関家の保存の賜物

2010年12月07日 | 知識補給
先月の21日(日)。
栃木県都の宇都宮に在る栃木県立博物館で同月23日まで開かれていた企画展「改革と学問に生きた殿様-黒羽藩主大関増業-」の招待券が手に入ったので、武者友さんお誘いして行って来ました。

武者友さんとは12時に現地待ち合わせとして、県立博物館にも近い東武宇都宮に出るべく、朝の6:30に起きて向かう計画を立てていました。
けど、起きたのは8:00過ぎ...。
完全に出遅れてしまい計画は断念。
急いで身支度を整えて家を出るも、待ち合わせ時間に間に合うかどうかすら覚束なくなったので、上野から新幹線に乗って行きました。
お蔭で宇都宮駅には11:30過ぎに到着。
完全に遅刻する在来線より50分近く時間を縮めて着けました。
事前に調べた行き方だと、ここからバスなんですが・・・複雑すぎて見付からず(^^ゞ
ならば歩きだ!と、てくてき歩いて向かいました。
距離としておよそ3kmほど。
この程度の距離ならなんてことはありません。
日頃の運動不足解消も兼ねて行くと、途中、バス停を探して彷徨っていた武者友さんにバッタリ出くわし、供に歩いて向かいました。

繁華街から住宅街の道に逸れて進むこと数十分。
結果的には、待ち合わせの時間よりも30分近く遅く到着しましたが...
初めてのそこは、広々とした公園の奥にあります。
途中、公園内の池の畔にある小屋で一息つきましたが、晩秋の日曜日の昼下がり。
穏やかな陽の下、聞こえて来るのは百舌の鳴き声くらいです。
実に休日らしい、のんびりとした光景と時間を過ごしました。。。

さて。
一息終えた後、ここから直ぐの博物館へ。
受付で招待券を提示して中へ進み、真直ぐ企画展へ・・・でもよかったんですが、それでは勿体無いので、常設展も見て周りました。
ここは、各時代史だけではなく、自然科学史の展示もあり、観応えあって面白かったです。
中でも地層については、栃木と私的に縁があるので興味深かったです。

常設展を一巡して、いよいよメインの企画展に。

大関家には前々から、特に今回の主人公たる土佐守増業公の4代後の肥後守増裕が幕政に参与して陸軍創設に尽力したことから関心があり、この企画展のことを知ってわざわざ来て観て見たのですが...
端的に、観に来てとてもよかったです。
始めは、展示内容の下調べもせず、マイナーな人物の企画展だからさほど史料もないだろう直ぐ観終わるだろう・・・と高を括っていたのが大間違いでした。
これほど充実した企画展は、久しぶりでした。
中でも圧巻だったのが文献史料の多さ。
展示の多くは甲冑や什器などですが、大関家は有史以来様々な文献書籍を遺していて、特にこの土佐守増業公は自らも大関家の歴史(『創垂可継』)を始めとして多くの著書と史料保存に腐心した成果として、今回の展示はそれら史料文献群が多数を占めていました。
お蔭で、史料一点一点読みながら観てしまったので、予想外に時間と労力と体力を要してしまいました(^^ゞ

この企画展の主人公たる土佐守増業公は、予州大洲城主加藤加賀守泰ミチ(行の間に令)公の末子として誕生。
養子に入るまでは舎人と称し、藩政にも参与していましたが、財政事情が破綻しかけていた大関家当主の美作守増陽が事態の打開に持参金目当ての養子縁組することと決め、迎えられた・・・という、苦しい事情がありました。
ゆえに増業公は自活の道を拓くべく藩政改革に尽力し、多くの政策を打ち出すも、家臣団がそれに付いて行かず、次第に家臣団との間に溝が開き、遂には当主の座を養父の実子に譲って隠居せざるを得なくなります。
正に、家臣からのクーデターに遭って、志半ばで表舞台から去らざるを得ず、その後も藩政はおろか学問も慎み、交際外出も制限され、養君の補導にも関与することが禁じられ、半ば家臣に軟禁されてしまいます。
これらの軌跡を展示の史料で追いながら見ましたが、良きにつけ悪しきにつけ、藩政改革に尽力すればするほど家臣団から見放され、溝が深まり孤立をし、遂には志半ばで失脚してしまった増業公の姿を思うと、胸詰まり、涙の込み上げて来るものがありました。

江戸の、特に中期以降はどこの御家も財政難に喘いでいました。
そこで、その窮状を打破すべく藩政改革に尽力しています。
しかし、成功を遂げることが出来たのは我が敬慕する上杉治憲公や肥後熊本の細川重賢公などの数例。
例え当主が改革を率先して行っても、多くは保守的な家臣、特に上層部の妨害に遭って頓挫することが多く、中には阿波国主蜂須賀重喜公の様に、主君が家臣に押込めるなどのクーデター的実力阻止行動をも何例かあります。
上杉治憲公も、一度は重臣層の反発を受けて改革が頓挫しかけたことがあります(七家騒動)が、与党が居たお蔭でその危機を乗り越えました。
しかし、増業公にはそうした家臣は居なかったのか、執政を務めた瀧田家の日記には、主たる増業公への批難(不満)が書き連ねてありました。
改革が如何に大変か、今の時代にも通じるところがあるのでは・・・とも感じました。

隠居後の殿様は学問に専心することが多く、増業公もまた、様々な分野に探究心を旺盛にしていました。
中でも熱中したのが兵学と“甲冑作り”で、総皮製の甲冑まで作る入れ込みようだったようです。

増業公は幅広い交友関係があり、それに関連した文献や肖像画も多数展示されていました。
特に私は肖像画が大好きで(笑)
今回、増業公を始め、松平定信公、堀田正敦公、真田幸貫公、松浦静山公などの肖像画が見られたことが、実に嬉しかったです。

この、あまりに充実した企画展に敬意を表し、館内のミュージアムショップで図録を買いましたが...

その隣に、大関家の史料を研究した本が、定価の半額で販売されていたので、思わず買ってしまいました。

それを時折読んでいますが、様々な史料を読み下し付きで解説されていて、とても読みやすくて面白いです。
ただ、買い物はコレだけに止まらず。
何気なく店内を巡っていたら、私的には看過できない図録が!
それがこれ...

光格天皇と幻の将軍
...です。
これは平成13年に同館で開かれた企画展の図録なのですが、私の研究分野にドストライクな内容で、将軍家嫡子で唯一将軍になれなかった大納言家基公を取り扱った展示など、今まで一度も出会ったことがないので、この図録の前で、または手にとって買おうかどうか考えあぐねていたら、店員さんが一言。

「それが最後の一冊です。」

これがグサリと心に刺さり、財布の紐を見事に開けてしまいました。
財政的にはキツく、図録同等ずっしりと来ましたが、買わずして後悔もう、大満足であることに違いはありません。
ちなみに、私が名乗っている「くないきょう“家基”」は、この大納言家基公(孝恭院殿様)より取っておりますことを、ここに付言しておきます。

以外にも充実しすぎていた栃木県立博物館を後にして、併設の公園を一巡りしてから市内をブラり。
往時の一部を近代的に復元された宇都宮城に登り...
戊辰戦争で徳川軍と官軍が激闘を繰り広げて焼き落ちてしまい、復元された部分以外はすっかりと住宅街に埋もれてしまっています。
“宇都宮”の名と縁ある二荒山神社に詣で...
この地の名物である“餃子”に舌鼓を打ち...

評判のお店なので、30分ほど並びました。

↑焼きと揚に↓水餃子、この3点のほかにご飯とビールしかありません。
駅前でこれに感謝をして帰路に着きました。


とても充実した企画展を行った栃木県立博物館に、これかも要注目です!

最後に、この企画展の主人公たる大関家について。
大関家の歴史は、正に謀略に始まって謀略に終わる・・・と言っても過言ではないかと。
即ち...
出自はかの常陸平氏大掾流小栗家より分派した一族とされ、北下野の那須郡に蟠距した那須家の与党(那須七党)として在った。
しかし、戦国の世真っ只中の天文年間にライバル関係にあった大田原家当主の備前守資清によって時の大関家当主の宗増の嫡子(弥五郎増次)が謀殺され、程なく宗増も死去し、結果、養子に入った資清の子・熊満高増が大関家当主となって事実上大関家を乗っ取ってしまいます。

今回の企画展の主人公である土佐守増業公は、非業の死を遂げた弥五郎増次公を篤く祀り、最期の地である石井沢に在る墓域の修繕を行っています。
平氏大関家最後の人である弥五郎増次を、どういう思いで修繕したのか・・・ちょい、興味のあるところです。

さて、その後、平氏から丹治氏に代わった大関家初代当主となった美作守高増は実家の大田原家などと連携して激動する関東の動乱と2大天下人の間を巧みに渡り歩いて近世大名として徳川時代下も中世以来の領知である那須郡内他で一万八千石余を領し、黒羽城主として明治の版籍奉還を迎えます。
ちなみにこの最後の段に至って、大関家は謀略によって幕を閉じます。
大関家は嫡子に恵まれずに他家より立て続けに養子を迎えることになり、文久元年、家臣団と対立した能登守増徳(丹波篠山城主青山忠良が五男・鉚之助)が押込隠居となり、代わって遠江横須賀城主西尾忠善の孫・忠徳を迎えられ、名を増裕と改めて肥後守に叙されます。
西尾家より養子を迎えたことによって、大関家は一外様の小大名(柳之間詰)から譜代格となり、加えて肥後守増裕自身の優れた見識もあって、幕政に参与することとなり、講武所奉行、陸軍奉行に就いて幕府の軍制改革を推進して幕府陸軍の創設に尽力。
一旦は病と称して幕政から離れるが、後年再び登用されて若年寄に補されます。
しかし、慶応3年12月9日。
朝廷から天下に王政復古の大号令が発せられたその日。
帰国して領内の金丸八幡宮(いまの那須神社)付近で遊猟中に不慮の死を遂げてしまいます。
死因は増裕が持っていた十三発込め銃の暴発(左耳の脇から右耳の上に貫通)とされていますが、不自然な点が多く、暗殺された・・・とも言われています。
享年は、この日に満三十を迎えたばかりでした。
結果、急遽水戸徳川家連枝の松平泰次郎(常陸府中城主左京大夫頼縄の甥)を迎えて(最後の)当主となして、版籍奉還を迎えます。
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宮城谷三国志の「罠」

2010年11月04日 | 知識補給
嵌ってしまいました。
久々に「これは!」と思う本に出会って(買って)しまいました。
基本、本は(図書館で)借りて読む主義なので、買うなんて・・・よっぽどのことです(笑)

そもそも、歴史小説は敬遠がちでした。
なまじ歴史を学問として修得してしまうと、余計な粗捜しや事実確認をしたくなってしまって前に進まなくなってしまうので(^^ゞ
・・・えーっと、去年でしたっけ?!
直江山城を題材にした大河をやっていたのは。
あれなんてもう・・・話になりません(苦笑)
放送前に書店で見かけてパラパラと見てみましたが・・・乾いた笑いしかでませんでした。
映像化されてからも、初回以降は全く観ずに、気が付けば終わってました。
阿部「謙信」公も、格好よかったのは初回だけ。
あとはもう、上杉贔屓としては、悲嘆に暮れる外ありませんorz
如何にドラマとはいえ、割り切って・・・とはいえ、許せるもの許せないものがあります。
一番滑稽だったのは、毘沙門堂が「洞」になっていました・・・製作者は、漢字の意味すら判らないようで(苦笑)
書くなら、映像化するなら、もっと責任持って調べてからにしろ!って、何十度思ったことか。。。

そんなこんなで、『漆の実の稔る国』や『義民が駈ける』(藤沢周平)、『剣豪将軍足利義輝』(宮本昌孝)などなど、「これは!」と思った本を読むようにしています。
ただ、買ったからには何度も何度も繰り返して読み耽ります。
江戸中期の羽州米沢城主で名君の誉れ高い上杉弾正大弼治憲公を題材にした『漆の実の稔る国』など、もう、数え切れないくらい読んでます。
藤沢周平さんの遺作となったこの本。
結末が中途半端な感を受け、読み終える度に、藤沢さんの無念を思い、惜しみ、空しくなります...。

そんな私が、出会ってしまいました、この(タイトルの)本に。
ただ、『文藝春秋』で連載されているのは知っていました。
以前、連載開始の頃は毎月毎号(図書館で)読んでいましたが、一旦読まなくなると、それ以降は全く、時間を割いて読まなくなりました・・・けど、どこまで話が進んだかは気になるので、書店などでパラパラと見て確認することは、毎月毎号怠りませんでした。
そんな中...
いま、読売朝刊で宮城谷さんが世祖光武帝劉秀を題材にした小説を連載しています。
それを毎日欠かさず読み出してから、ふと、三国志のことを思い出したら、折りよくその下に「三国志の新刊発売」の広告が!
ここで一気に火がついて、この間の土曜日に、まずは1巻を買ってしまいました。

けど、あっ!と言う間に読んでしまいました(^^ゞ
月曜日には、早くも2巻を買いました。
もう、面白くて面白くて堪りません!
何が面白いって、いままでほとんど触れられてこなかった三国志以前の時代が取り上げられていることです。

人によっては「そんなの三国志じゃない!」って言う方も居られるかと思います。
私も、確かにそう思いますが、歴史とは、人が織り成し紡ぐもの。
突然「三国時代」になった訳ではなく、川の流れの様に、三国時代に至るまでの様々な人や事象が流れの中で生まれた時代なのです。
だから、三国時代以前に何があり、どうなって三国時代に至ったか?!というのは、とても重要なこと(と思うの)です。

また叙述の方法も、熱すぎず冷たすぎず、人物などの注釈を差し挟みながら淡々と事象が綴られているので余計に引き込まれます。
人の世の禍福は糾える縄の如し...
凡庸な皇帝の一挙手一投足に扼腕し、外戚の閻氏一族や跋扈将軍梁冀の一族に悪辣な宦官などの奸佞の徒の横暴に怒りを覚え、これに阿諛迎合する官人の不甲斐無さを嘆き、澱んだ空気(世上)を変えようと奮闘する賢勇義烈の人の生き様や活躍に一喜一憂し、善に循う者が大きな戮辱を受けている不条理さに悲憤慷慨しています。

蜀漢の諸葛武侯は「小人ヲ親シミ賢臣ヲ遠ザクル、コレ後漢ノ傾頽スル所以ナリ」と言ったと言われていますが、なるほど、『三国志』で奸佞と賢勇の攻防を読んで改めて「滅亡するお手本」を見ているかの様です。

あまりに加速度的に読んでいるので、直ぐに追いついて続巻の発売を渇望する事が無い様、いまはゆっくりじっくりと、急かし読むのを抑えて(読み)進むようにしています。

けど、結構ぎっしりしている本なので、一度読んだだけでは(^^ゞ
なので、1巻を2度3度と読まなければ読み解けないかもしれません。
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南部宗家の「証」の流転

2010年10月19日 | 知識補給
先日、文化財の偉い先生とワタリをしている方と酒席をご一緒しました。
お二方とも日々大変お世話になっていて、その道で昇りつめた方々なので、何かと興味深いお話を聞けましたが、確か、結婚に纏わる話題になった時だったと思います。
私もよい歳なので(笑)
先生方のお子さんのことや、同僚同輩方の近況などなど。
例えば、兵庫の松平家(具体的には不明)には織田信長家の裔が家老として仕えていたそうで、そこのお嬢さん方がもうよいお年頃(40前後?!)らしいんですが、結ばれるお相手は、いまでもやはりそれなりの家の格がなければならないらしく、いまだ独り身だとか。
それでも生きていけるのは、それなりの経済力があるから・・・だそうです。

その流れの中で、タイトルの南部家の話題に。
なぜ?!の疑問には最後でお答えします。
さて...
私はいままで、南部の宗家は盛岡藩主家だと思っていました。
しかし、実は違うらしいんです。
盛岡藩主家=三戸南部家は元々分家筋で、宗家は藩主家の下で代々重職(家老職)を務めて遠野を領した遠野南部家=根城(八戸)南部家だというんです。

これには正直驚いて、先生に何度も聞き返してしまいました(笑)

立場がいつ逆転したか?!については、いま一つよく解っていないようですが、恐らくは南北朝以後の室町時代かと見られています。
しかし、なぜ遠野南部家が宗家と言えるのか?!
それは、先生曰く「家祖伝来の「鎌倉文書」なる文書類を保管していることが宗家たる所以と証」なんだそうです。
ただ、もうこの時は多少のアルコールが入っていたので、記憶が若干曖昧です(^^ゞ
それゆえ、今まで何度と無く危険に晒されようでしていたでしょうが、今に知られる危機は大正時代。

そう、20世紀の大正時代です。

相手は盛岡出身の第19代内閣総理大臣の原敬です。

そう、無爵の者として初めて内閣総理大臣に就いて“平民宰相”として呼ばれたあの原敬です。

なぜ?!と思われた方も居られるかと思いますが、原の家は盛岡藩士。
そう、即ち分家筋に仕えた家柄で、原が首相となった機に、国権を労して遠野南部家から文書類を接収して盛岡(三戸)南部家に譲渡しよう・・・と画策したのです。
しかし、この陰謀を阻止したのが当時の遠野駅長なんです。

そう、遠野の駅長さんです。
なぜ?!かというと、この駅長さんは南部家の本貫地であった山梨県出身だったんです。
事前にこの陰謀を察知した遠野南部家は遠野駅長さんの協力を得て、山ほどある文書類を貨車に乗せて南部家とは縁が深い身延の日蓮宗総本山久遠寺に運びました。
南部家と日蓮宗は、宗祖日蓮上人が法難に遭った時に庇護した縁で結びつきがあり、久遠寺の副山主を代々務めていることから、貴重な文書類が運び込まれたのです。
こうして難を逃れた貴重な文書類は、暫く久遠寺に保管された後、遠野南部家が住職を務める府中の聖将山東郷寺に運ばれ、今に伝わっているそうです。

ちなみにこの東郷寺は多磨霊園近くにある広大なお寺さんで、かの連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎元帥を弔うお寺さんです・・・が、なぜここに遠野南部家が居るのかは、聞いたかもしれませんが、覚えてません(^^ゞ

あっ、そうそう。
なぜ遠野南部家の話になったかと言うと、ここにもはやりご令嬢が居られたそうなんですが、家柄に見合う男性が巡り合えなかったようで、ついぞ...。

いまの世にも、そういう慣わしは残っているようです。

そう!だから私は・・・・・・いえ、何でもありませんorz
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すり鉢のラーメンと戦国遺産

2010年01月09日 | 知識補給
話は、遡る事一年近く前の,寒い寒ーい正月晦日のこと。
加賀前田家の重臣だった成瀬家に伝わる武具甲冑と、大坂の陣に関する史料が船橋市郷土資料館に寄贈され、期間限定で展示されている・・・との記事を、とある日の新聞M(地域版)に掲載されていたので、観に行ってきました。
しかし、その前に...
腹が減っては満足に観られませんので(笑)
この辺りに土地勘のある方から教わったお店で、まずはお昼を取りました。

その店は、資料館からちょっと離れた、北習志野駅近くに在る【泰山】です。
駅から東へ真直ぐ延びる目抜き通りを一本入った住宅街の一画に在るこの店は、年季の入った店構え。

店内は広くなく、カウンターと畳敷きの座敷がある程度で、15人も入れば満席になる・・・と、思います。
ここの売りは、自家製の餃子だそうで、厨房にはてんこ盛りの具材があり、お店に入った時には、ビールの肴として食べている人もいました。
ただ、この日の目当てはもちろんラーメンです。
また、車を運転して来ているので、ビールなどは以ての外!なので(^^ゞ
せめて、自転車・・・でも、はい、一応ダメですけど...。

やっぱり、とっても惹かれたんですが・・・グッと堪えて(笑)
この日は、ラーメン(中華そば)のみを頂きました。
そして、注文から暫くして出てきたそれは...
ドデカイすり鉢の様などんぶりに入って出てきました。

添えられていた蓮華も、鍋などに付いてくるおたまです(^^ゞ
その大きさにちょっとタジロギながら、湯気と共に、食欲のそそるい~い香りが!
その一口目,まずはスープから...
醤油ベースに魚介ダシが加わり、旨味満点!
熱さに多少たじろぎましたが、ついつい惹かれて手を出してしまいます。
ダシのベースは豚骨らしいですが、さっぱりしているので、それは感じませでした。
次、二口目の麺は、黄味がかった縮れ麺。

どことなく懐かしく感じるこれは、スープとよく絡んで旨味倍増。
茹で加減も程好く、美味しかったです。
三口目のチャーシューは、この店の特製らしく、柔らか仕上げで旨かったです。

昼間っから餃子をつまみに一杯飲んでる人がいたり、女子高生らしきかわいい女の子たちがバイトしてたり(笑)
そこには、土曜の昼下がりの、緩くていいい感じの時が流れていました。。。
大盛でも同じ値段なので、熱々のラーメンをガッツリ頂いて、いよいよ、目当ての郷土資料館まで,腹ごなしの意味も込めて歩いて行きました。

成田街道沿いの、陸自の精鋭,中央即応集団(CRF)第一空挺団が駐屯する習志野駐屯地の近くに在る、船橋市立郷土資料館。
高校の時、帰りのバスでここの前を通っていたので、存在は知ってましたが、市外者ですし、行く機会が無く、今回初めて来ました。
SLの在る公園の一画に、如何にも「公共機関の建造物」といった具合の、古びた鉄筋コンクリートの小ぢんまりとした資料館は、中も、昔からある病院か学校のような感じ。
若干、ノスタルジックな雰囲気を感じながら、入館料は要らないので、目のあった事務所の方に軽く会釈をして中へ入りました。

さて、この企画展の主役である成瀬家とは...
三河以来の譜代家臣で、特に、尾張徳川家の御附家老で、現在は国宝の犬山城主(別名:白帝城)を務めた成瀬隼人正家が有名ですが、この他にも、いくつかの家が立ってます。
その内の一家が、今回、船橋市に貴重な史料を提供された、成瀬掃部家(の胤)です。
成瀬掃部家は、内蔵助吉正(吉右衛門正一の子/犬山城主隼人正正成の弟:1576~1644)を祖とし、加賀前田家に仕え(8,000石)、人持組という、執政にも登用される上級家臣にありました。

↑これは、兄で犬山城主の隼人正正成公。
この展示では、家祖の内蔵助吉正が大坂の陣で実際に着したという「南蛮胴具足」がありました。
また、他にも、鎧櫃や戦道具の数々に、普段用いられていた道具、古文書等々ありましたが、中には、あまり保存状態が良好ではなく、縅鎧は、今にも崩れそうで(^^ゞ
何とかこの時は観られましたが、中には、修復を要するものもあって展示を断念せざるを得ないなど、世辞にも綺麗とは言えない部分もありました。
しかし、それが反って「時の証言者」としての真実味と迫力さを感じられ、小さな展示スペースでしたが、大いに満たされる内容でした。

ちなみに、船橋の西部,今の西船橋や中山辺りは、かつて成瀬家の知行地があり、一族の眠るお寺(宝成寺)も在るなど、実は浅からぬ縁があった・・・ようです。

なお、この時、この郷土資料館では今に至る船橋の「軌跡」が写真と地図で紹介されていて、合わせて観て来ましたが、もう、いまでは想像すらつかない情景ばかりが映し出されている写真や地図ばかりで驚くことが一杯。
最も、近隣民ならではの驚きばかりなんですが(^^ゞ

古びて寂しい資料館でしたが、それなりに、充実と満足が出来ました。

帰り際、事務所前には他館のチラシがラックに収まっていましたが、1つ、気になるものを発見。

これは現場の入口です。

舎弟の碧雲斎から、「ありますよ。」とは聞いていて、興味があったんですが・・・パンフに割引券が付いていたので、後日、行ってきました。
そのレポは、いつか・・・(^^ゞ
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尊皇佐幕の意思確認【佐幕方】

2009年12月30日 | 知識補給
皇居東御苑で、即位礼に関する展示を観て萌えた後、次に向かったのは大森。
この近くに在る、品川区品川歴史館で開かれている特別展「品川を愛した将軍徳川家光-品川御殿と東海寺-」を観に行ってきました。
いままで、蒲田には何度も行ってるんですが、大森は・・・初めて降りました。
正直、降りるまでは大したことない、しがない小さな駅だと思ってましたが...
ドデカイ駅ビルとかが併設されていて、賑やかだった事に驚きました(^^ゞ

目指す歴史館は、このドデカイ駅ビルとは反対側の口より出て、池上通りを品川方面へ進むと在ります。
その途中、ウワサには聞いていた大森貝塚跡を見つけました。

大森駅のホームにも記柱碑がありました。

せっかくなので、ちょっと行って見ると...

線路沿いに石碑がたってました。

階段下には、説明板もありましたが、ちょっと・・・寂しかったです。

気を取り直して、目当ての歴史館へ,途中寄り道したので、駅を出て20分ほどで辿り着きました。

小ぢんまりとした館内に入り、受付で観覧料を払って展示室へ向かうと、ちょうど、学芸員による展示解説が始まっていたので、それに帯同して観てきました。

徳川家の「別荘」は、小菅や浜などに在るのは知っていましたが、品川は・・・この展示を見聞きするまで、知りませんでした。
しかも、家光公の在職16年中、180回余も御成をしています。
時には、伊達家大崎屋敷に立ち寄って政宗公を見舞ってから向かう・・・という事もあったようです。
ここでは、度々茶会などが催され、小堀遠州(遠江守政一)や、外様では唯一主人を務め、家光公から信認されていた長州長府藩主毛利秀元がその時使った茶道具や文書が展示されていました。
そして、家光公の御成を証明する史料として展示されていたのが、姫路市立城郭研究室所蔵の『江戸幕府日記』。
どうやら、姫路城主酒井左衛門尉家に伝わった史料のようですが、かの『徳川実記』(御実記)は、これを原資料として編纂されたそうで、若干脚色や事実と異なる記載がまま見られる『御実記』よりも、この『江戸幕府日記』(正しくは、「寛永拾三年丙子年日記夏」など)を用いる研究者は、少なからずいるそうです。
近世史家として、この存在を知ってはいましたが、観るのは今回が初めてだったので、正直、(内心では)大変興奮しました(笑)

もう、これだけで「来て良かった!」と、思いました。

けど、展示はまだまだ。
品川御殿に関する展示の次は、澤庵和尚と東海寺について。

たくあん漬けと結びついて、ちょっと有名な澤庵和尚は、家光公からの篤い親交を受けて、品川御殿の南麓に建てられた東海寺の開山し、家光公や諸大名の帰依を受けて、品川屈指の大寺院となったようです。
家光公亡き後、寺勢は一時鈍りますが、綱吉公が将軍職に就くと、その母で家光公の側室だった桂昌院が東海寺に帰依し、復興の助力をしたようで、その時の大きな棟札や、梵鐘なども展示されていました。
しかし、江戸幕府が瓦解すると、一気に寺勢は衰退し、かつては広大な寺域はいまや、本堂周辺を残すのみ...。
私も、東海寺という名前は幾度となく聞いていましたが、てっきりもう、廃寺になったか?!とばかり思ってましたが、まだ、在ります。
往時と現在とを合わせた地図が床面に張られていましたが、かつての寺勢どこへやら...
いまは、僅かに本堂を残すばかりで、寂しい限りです。
往時には、本堂裏に方丈庭園があったようですが、いま、それがあった上には学校の校庭があったり・・・という、現状です。
この急速な衰退は、徳川家の縁と、廃仏毀釈が影響している・・・と、いうことらしいです。

ちなみに、場所は現在の御殿山一帯で、山手線の品川←→大崎の間のカーブの辺り・・・と言えば、判り易いでしょうか。
前々から、「何で御殿山って言うんだろう」と疑問に思っていたんですが、その謂れの一端がこの日、漸く解けて嬉しかったです。
他にも、太田道灌に関する由来もあるようです。
いまでは、埋め立てが進んで、内海まで遠くなってしまいましたが、江戸時代がすぐ近くまで海岸線が来ていたので、さぞかし、景色はよかったことでしょうね。。。

しかし、家光公以後、すっかりと廃れて、綱吉公の頃には一之谷同様、すっかりと無くなって畑と化してたとか。
なんだか、ちょい、勿体無い気がします。。。

さて、この後向かったのは、芝は慶応義塾の近くに在る、港区港郷土資料館です。

ここではこの時、徳川家菩提寺の三緑山増上寺に関する企画展が開かれていたので、行って来ました。
場所は田町駅からすぐ、区立三田図書館の上階で、行ってみると、終わったと思っていた展示解説がちょうど行われていたので、帯同して、一緒に聞いて回りまわりました。

中々興味深いことがたくさんありましたが、まず、増上寺は、例えば仙台の瑞鳳殿に勝るとも劣らない豪華絢爛な廟屋があったそうです。が!先の大戦中の、度重なる空襲によって焼失してしまったそうです。
幕末や明治の頃には、既に観光名所となり、来日した外国人たちもこぞって行っては、その見事さに感嘆したそうですが・・・返す返すも、当時の日本国政府の無策ぶりには腹立たしい思いでいっぱい!ですが、それは置いておいて。。。

展示の中には、往時を偲ぶ大小の絵図や写真,絵画もありましたが、なるほど、立派です。
上野寛永寺をも凌ぐ規模だったことが、察せられます。

将軍は、ご先祖様たる歴代将軍の月命日に参拝するのを勤めとしていますが、いままでは、一般的な墓参に近い形式だったのかな?!と考えていたのですが、これで漸く、その時の情景を想像することが出来ました。
なお、この参拝に関して、家斉公の事例や、幕末の家茂公の時の、秀忠公廟所の修繕に関する資料が展示されていましたが、肝心の葬礼に関する史料は、あまり無いそうで、その様式などはよく判っていないことが多いとか。
その中でも貴重なのか、家宣公の葬礼に関する資料が展示されていました。

展示室は、実にこじんまりとしていましたが、展示史料は、いずれもかぶりつきて見たくなるものばかり。
珍しい企画展に大満足して、帰路につきまいた。

ちなみに。
前々から、なぜ、増上寺と寛永寺に別々に眠っているのかが不思議に思っていたんですが、展示解説後、その質問を学芸員にしているのを側で聞いていました。
すると...
よく判らないそうです。
ただ、4代家綱と5代綱吉が続けて寛永寺に眠ることになったとき、増上寺は訴願までして反対したそうです。
時の将軍の信仰なども作用しているでしょうけど、門跡(皇族が入る寺)である寛永寺が、政治力を使って勧誘したというのが、少し透けてみてとれます。

<<< 【尊皇】の意思確認
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尊皇佐幕の意思確認【尊皇方】

2009年12月29日 | 知識補給
今日は、世間一般的には「勤労感謝の日」という旗日ですが、実は、天皇祭祀(神事)の一つ、新嘗祭の挙行日で、戦前まではその趣旨での旗日でした。
そこで!・・・という訳ではないんですが、この日まで、皇居東御苑で御上の「御即位20年記念特別展」として、践祚の翌年霜月12日に挙行された「即位礼正殿の儀」(即位礼)に関する展示がされていると聞いて、観てきました。

最寄の大手町に着いたのは11時半頃。
普段利用する駅なんですが、その時とは全く違う、静かで人気の少ない雰囲気に若干戸惑いながら・・・大手門(高麗門)へ。

徳川幕府の時代、多くの大名諸侯はここから御城へ入城しており、展示場までの道すがら、そのことを明かす番所、今で言う警備室(監視所)が残っていました。

その中の一つで、最も大きい百人番所(大手三之門内)に、即位礼で供奉者が着した装束類が展示されていました。

女性は十二単や釆女服,男性の基本は衣冠束帯で、(今でも)官職によって袍(上着)の色が違うようです。

また、文官,武官や役目でも若干の相違があり、中には、束帯の上に鎧を着る供奉者(黒袍・威儀の者)や、太刀や弓を携えているのもありました。

その側では、即位礼の映像が、大型ビジョンに映し出されていました。
高御座の中で黄櫨染御袍を召された陛下の御姿を拝見して(なぜか)感動し、水玉大好首相(当時)の発声で万歳三唱が行われた時、思わず自分も!と条件反射的にやりそうになってしまいましたが、周りの目があるのでグッと堪えて、次へ。

大手中之門より入って、大番所の前を通って中雀門を抜けると、そこは本丸跡です。

その側の本丸休憩所に、雅楽器と大嘗祭で使用した正殿の模型や、その時のパネルなどが展示されていました。

大嘗祭。
在位中一度だけ行われる、天皇として最も大事な祭祀の為だけに、とても立派な正殿が設けられていたのには、驚きました。
即位礼の時、私は中2でしたが、こうした事に全く関心がなかったので、今思えば、何と勿体無い事を・・・と、思いました(苦笑)

そして、その向かいの、広大な芝生広場=本丸御殿跡には、旛類など展示されていました。

青空の下、煌びやかな錦御旗が・・・徳川幕府の政庁,本丸御殿跡に翻っているのを観て、何でしょう、とっても不思議な、素直に展示を楽しめない、複雑な心境でした(苦笑)


気を取り直して、次に向かったのは天守閣下。
ここに、即位礼後のパレードなどに用いられた御料車が展示されていました。

如何に御料車とはいえ、キチンと車検を受けて通っていることが、何だか微笑ましく、面白かったです(笑)

展示は以上で、ちょうど竹橋(北桔橋門外竹橋)までやってきたので、次に、同じく記念特別展を開催している国立公文書館へ行こう!と、思ったら、見事に休館日でした。
内心、「え゛ーっ、そりゃないよ」と思いながらも是非もなし。
踵を返して東御苑(=旧江戸城)内を散策してみることに。


途中、松の大廊下(白書院外大廊下)や富士見櫓などを巡って、ちょい、感慨深かったです。
富士見櫓は、天守閣が焼失してしまった後の「天守閣」並みの扱いだったようで、ペリー来航時、時の将軍・家定公が望遠鏡で江戸湾内の様子を見ていたそうです。


これで、展示と本丸御殿の巡覧は終わりました。
予定だと、国立公文書館へ行っているはずなんですが、、、
思いがけずも休館で、しかも、まだ時は正午過ぎだったんで・・・次に、大森へ行きました。


ちなみに。
これから1ヵ月後の23日=天皇誕生日の日に、皇居へ行って来ました。
勿論!普段入れない皇居内へ入るためです!!(マテ)
本当は、午前中の一般参賀に行きたかったんですが、出遅れて(^^ゞ
午後に受付ける記帳に合わせて、入城しました。

幸い、この日は手ぶらだったので、煩雑な手荷物検査は省略して、身体検査だけ受けて、普段は厳重に護られている坂下門を難なく通過。

なんだか、とても得した気分,いや、偉くなった気分がします(笑)

この辺りで、安東対馬は襲われたのか?!

・・・などと考えながら、順路に従って進むと、格調高い洋館に辿り着きます。
これが、宮内庁庁舎です。

また、その横には・・・!宮殿です!!
午前中、陛下が御出座しになったベランダが見えます。

なんか、感動的です。。。

そういえば、大学時代にここでアルバイトをしてたい友達が居て、たまに、陛下が職員たちを慰労すべく御出座しになるとか?!
それを聞いて、その友達に「私にも紹介して!」と、猛烈に願ったことを、ふと、思い出しました(苦笑)

さて、宮内庁前に設けられた記帳所で記帳を終えると、もう、終わり。
あとは城外へと、順路に従って行くだけですが、その間にも、普段見られない場所をしっかりと!

この脳裏とデジカメに収めてきました(笑)


出城は、これまた日々厳重に護られている桔梗門からですが、スルーで通れるのが、なんとまた、気持ちがよかったです。

普段見られない光景ばかりですが、感動も一入です。
来年も、また機会があったら行ってみようと思います。

若干、本来の趣旨とは違うので、何となく、本末転倒の様な気がしますが(笑)


佐幕】の意思確認 >>>
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一目あったその時から...

2009年12月27日 | 知識補給
出会いは先日。
場所は、丸の内のオアゾに在る丸善東京丸の内本店の3階。
一目見て、その「名」と「親」を知り、思わず触れてみてみると・・・思ったとおり!
実に素晴らしい!!
ただ、この日は一緒に帰ることをグッと我慢して、少し考えてから・・・と思い、元居た場所へ返そうとしたら、は、入れない?!
隣近所のやっかみか,元居た場所へ入ることが出来なかったので、これも運命か!?と得心して、一生涯、私の手元に置くこととしました。

藤田覚『田沼意次-御不審を蒙ること、身に覚なし-』
(ミネルヴァ書房,2007年)
を(笑)


田沼意次公は、私が大学在学中に研究していた御方で、その成果を卒業論文に書き上げました。
世上、とかく悪評高い意次公ですが、調べれば調べるほど、実に興味深くて面白く、我ながら、その評価を多少なりとも覆せたか?!と、思っていました。

それから、早10年...。
正直、この一冊がその時有れば、より深く、より充実した卒論が書けたのでは?!と思い巡らすほど、私の探究心を奮い起こさせ、初手から、もう、読み耽ってます。
ただ、あまりに充実した内容なので、1時間読み耽ったら、もう、知的満足度が一杯になります(笑)
ミネルヴァの日本評伝選の1つで、それほど肩肘張らずに読める本なのですが、如何せん、私が研究対象としていた御方の本なので、あれやこれやと考えながら読み耽っているので、他書以上のえねるぎーを要しているようです(^^ゞ
それこそ、自分が学生時代に書き上げた卒論が恥ずかしく、「これを読んで、もう一度書き上げたい!」と思うほど、今回、これを読んで知ることが多かったです。
恥ずかしながら(^^ゞ

意次公が政権与党であった時分は、利益追求型の政策が採られ、「山師」が跋扈した時代。
多くの興利策が勘定奉行所主導で検討し、実行されるも、計画が杜撰だったり、数値目標が大雑把だったりして、いずれも頓挫...。
やがては、これが、意次公失脚の要因ともなるのですが・・・なんだか、同じようなことをここ最近も聞いているような気がしてなりません。
空米切手=先物取引の横行と、それに伴う武家方財政の逼迫や、貸金会所や両替商などへの御用金負荷など、取り易い所からの徴税。
それに反発する当事者の、お上(要職)への運動=手入,口利きなどなど。。。
読めば読むほど、「これ、ホントに江戸中期の話?!」と疑ってしまうほどです。

やはり、歴史は繰り返されるということなんでしょうか(苦笑)

みなさんも、ご興味があれば手にとって、パラパラと読んでみてください。
面白いこと間違いなし!だと、思います(^^ゞ

余談ですが...
著者の藤田覚先生にお会いしたことはありませんが、卒論の史料面での「師」であり、直接の恩師よりもお世話になったお方。
その後も、私の琴線に触れる著書ばかりを上梓され、いずれも、買うか借りるかして読んでいます。
(『幕末の天皇』『遠山金四郎の時代』)
私に、かなりの知恵と勇気があったら、直接お教えを乞いたい・・・と、思います。

そういえば...
先日、意次公(隆興院殿様)が眠る巣鴨の勝林寺へ、初めて行って来ました。
都立染井霊園の一画に在るそこは、寺務所兼住宅と墓地しかなく、檀那以外は入ることが出来ませんでしたが、意次公の、一際大きく立派な墓碑は、路地から確認できました。
正面から見ることは出来ませんでしたが、側面には、命日の「天明8年7月24日」と刻まれていたので、それと確認できました。
世上では、賄賂塗れで悪の権化的な扱いを受けていますが、遺訓案などを読むに、およそそれとはかけ離れた、謹言実直な人柄が見られます。
しかし...
600石の旗本から、一気に100倍の城持大名に大出世をして、家臣に、そして、親族や与党に人を得なかったことが、返す返すも残念でなりません。
あっ、そうそう...
この近くの本妙寺には、天保期の町奉行・遠山左衛門尉景元公や、北辰一刀流の千葉周作成政などが眠っています。

p.s.
リンクを貼るのにミネルヴァのサイトを開けたら、皇學館大学岡野友彦先生が『北畠親房』を?!
よ、読みたい...。
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明大博物館の特別展「お殿様のお引っ越し」

2009年12月13日 | 知識補給
御茶ノ水の明治大学駿河台キャンパスの一角に聳えるアカデミーコモン。

ここの地下にある明治大学博物館で、「お殿様のお引っ越し」=転封に関する特別展が開かれていると知って、行って来ました。

明大には、日向の延岡内藤家の文書類などが多く収蔵されており、4年前にも、「内藤家の至宝」として公開されて観に来ましたが、今回は、その中から転封に関する史料などをピックアップしての展示。
転封は、知識としては知ってますが、内実は、あまり調べたことがなかったので、大変興味深く観て来ました。

内藤家は、三河以来の譜代大名ですが、あまり、他の譜代大名に比べて移動が少なく、上総佐貫→陸奥磐城平→日向延岡と、2回しかないのですが、最初の転封(元和2年)に関する史料はないそうで、今回公開されたのは、延享4年の転封に関しての史料です。
この延享4年の転封は、内藤家含めて3家が一度に所替えとなり、内藤家の抜けた磐城平城主には常陸笠間から井上家が、常陸笠間には日向延岡から牧野家が、それぞれ引っ越すことになります。

この「三方地所替」は、江戸後期の天保11年に予定されていた武蔵川越の松平家と出羽庄内の酒井左衛門尉家、越後長岡の牧野家との一件が特に有名で、出羽庄内領出身の藤沢周平は、この騒動を『義民が駈ける』として世に発表しました。
ついでに、この騒動の顛末を述べると、財政が極度に悪化していた武蔵川越の松平家が、裕福の聞こえ高かった出羽庄内への転封を画策し、大御所家斉公を初め、幕府要職への強力な働きかけ(=賄賂など)を行って、ついにそれを実現させ、その欲の目晦ましとして、越後長岡の牧野家を巻き込んだ転封となった。
しかし、これに酒井左衛門尉家と庄内領民が猛烈に反対運動を展開し、これに、家門・譜代から、伊達や佐竹などの近隣の外様大名からも異論が出て、あわせて、川越松平家の不幸と、大御所家斉公の薨去とともに取り消される・・・というものです。
この顛末は、川越松平家には、家斉公の子・斉省(なりさだ)君が養子として入っていた縁という面から、大御所政治の象徴とともに、一度発せられた台命=将軍家慶公の命令が撤回される前代未聞の事態に、この後の上知令と合わせて、幕威低下の象徴として取り上げられることもあります。

ただ、三方地同時所替えは特別なことではなく、幕府の「人事異動」として、ちょくちょく行われていることでした。
上記の騒動に大きく関わっている、時の老中・水野忠邦も、肥前唐津から遠江浜松への所替に際して、浜松城主井上正甫が陸奥棚倉へ、陸奥棚倉の小笠原長昌が肥前唐津へと、3家が同時に引っ越してます。
しかし、その作業(引継ぎ)は、とても大変だったようです。

内藤家は、他の大名家文書に比べて、転封の実態を明らかにしうる良質な史料が多く残されているそうです。
しかも、転封は2回だけで、最初の転封からも100年以上経っており、勝手もあまりわからない内藤家中は、他家の例等を参考に、滞りなく城邑の授受ができるよう、また、入封後の統治が円滑に行えるよう、引っ越し先の大名家との折衝に家臣を派遣したり、文書を頻繁にやり取りなどして情報収集に努め、準備に余念が無かったようです。
(「井上河内守様郡奉行ヨリ問合答書」「延岡請取方内藤備後守御家中より諸事聞合帳」)
また、その準備の為に、他家の先例を参考にすることもあったようです。
(「遠州浜松・参州吉田得替御用止帳」「牧野大学様三州吉田より所替の節請取り方覚帳書抜」)

今まで、知識としては知っていた大名家の引っ越し=転封も、この特別展の史料群とパネル解説を読んで、漸く、その流れが解りました。
特に面白く、興味深かったのが3点。
まず1点目は、城邑は「将軍家が与えるもの」であり、大名間の授受が行われる間は、将軍家が上知する形になったいたそうです。
ゆえに、授受には将軍上使と代官が、大名間の代表と共に立ち会い、絵図面なども、この為に用意もされます。
絵図面の中には、検分に訪れる上使と代官の経路まで、しっかりと朱書きされていました。(「岩城平城図」)
次に、武具類は城の付属品ということ。(「延岡城置付武具帳」)
武具類は、てっきり大名家の所有かと思ってましたが、「城」の位置付け,正確を、改めて認識させられました。
これとあわせて、領内の寺社仏閣の祭礼に必要な品々も、城保有となっていて、これが、城邑や武具類の文書と共に、新領主へ引き継がれていること。
(「祭礼并祈祷代参詣遷宮神事能取曖」,「延岡城下図屏風」)
これによって、例え領主が入れ替わっても、すぐに祭礼神事が行える・・・ということです。
内藤家が牧野家から引き継いだ物の中には、延岡の今山八幡の祭礼具も含まれています。
(「檜垣桐唐草蒔絵面箱」「三番叟鈴」「黒式尉」「白式尉」)
この、祭礼神事の道具類が引き渡される所以は、領主が交代しても、領内の秩序は保たれる・・・という、効果があるそうです。
例えば戦国時代でも、占領した城邑の寺社仏閣にはいち早く領地安堵の文書を発給したりして、地域の秩序と安定を図っており、天下泰平の世になっても、寺社仏閣の持つ力と効果は大きい・・・と、いうことでしょう。

現代でも、首長なり、政権与党が変われば、施政の方針に変化は生まれますが、江戸時代、転封などによって領主が変われば支配機構ががらりと変わり、領主側も領民側も、不安に駆られ、疑心暗鬼になるのは当然です。
(「今度延岡江御所替被遊候ニ付木戸方郷士・与力・新切取・郷足軽御供奉願候口上書」「仏浜村先年古御貸物年蒔済口書上帳」「上郡山村古御貸物書上帳」「演説覚書」)
だから、天保の三領知所替えで庄内の、特に領民側が、強力な反対運動を展開したんです。
生きるも死ぬも、お互い次第なんです。
(「文久3年騒立一件裁許申渡」)

転封に際して、事前準備に腐心した内藤家も、入封後に領民の騒擾が発生し、幕府代官に事情(仕置)を説明せざるを得ない事態を招いてしまいます。
(「宮崎騒動一件留書」「宮崎騒動につき書状」)
元々、内藤家が延岡へ転封となったのは、家中と領国仕置の宜しからざる儀に付き,言わば、懲罰的転封なんですが、やはり、仕置きとは難しいものなんですね。。。

展示史料の数は、然程多くは無かったですが、転封に関する多くの史料群を観られて、とても大満足で、知的欲求は十二分に満たされました。
「転封」にまつわる史料展なんて、そうそう開かれるものではありませんから、興味のある方は、是非是非行ってみてください。
一般は、300円掛かりますが、私は、お手頃価格だと思います。

しかし...
近世文書も、やっぱり読み辛い(^^ゞ
史料購読、受けてたんだけどね(苦笑)

p.s.
常設展は無料ですが、こちらも中々面白いですよ。
中でも刑事関係は、勇気のある人は、是非、観てもらいたいです(笑)
何があるかって?!
それはご自身の目で、お確かめください。
滅多に観られない、法律学校としてスタートした明治らしいモノが、展示されていますので。

常設展示室出口にあった募金箱・・・中にはなぜかドル札が数枚。さ、さすがはグローバル30選定校!(違)
コメント (2)
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フルーティスト

2009年09月15日 | 知識補給
フルーツ大好き!な人でも、パティシエの仲間でもありません(笑)
ピアニストやヴァイオリニストと同じく、フルート奏者のことをそう呼びます。
正直、私は始め聞いたとき「前者」だと思いました(爆)
ただ、この“言葉”からイメージするにはとても遠く似つかわしくない方々も多く居られます...が、以前、これにピッタリ!な、新進気鋭の“フルーティスト”と業務上お会いする機会がありました。

このお方は私と同年ですが、小さい頃から“フルーティスト”としての才能と実力を発揮。
数々のコンクールで優秀な成績を収められ、母校で教鞭(レッスン)を取る一方で、演奏会に於いても高い評価を得て世間も注目を受け、マスコミなどでも度々取り上げられるほど、有名な方・・・なそうです。
私は、その道の仕事に携わっていましたが、(その手の情報には)カラッキシ疎くて、その実力や価値、有り難味がサッパリ判らなかったんですが...
その道に明るい方達には“超”有名人で、間近で見、聴けてとっても感動的で、「しびれる!」くらいに嬉しかった!!そうです。
確かに、仕事終わりにサインを(何人かに)求められてましたから。。。
この道に明るいとある方は、このフルーティストを「アカの付いていない、高島ちさ子」と言ってました。
それがどういう意味なのか?!
後者とお会いしたことが無いので判りませんが、ファーストコンタクトの印象は、全くオーラが感じられなかったことです。
これは、決して私が鈍感なのではなく、この業務に携わった方々に共通した“実感”なのです。
何せ、約束の場所へ30分も前に着いて、未来の“フルーティスト”や“ピアニスト”とプチレッスンやら歓談やらしていたのに、事務方は全くこれに気付かず(^^ゞ
予定(約束)の時間になっても「来ない!」と、右往左往の小騒ぎに。
私は、開始予定の15分前に現場へ行ったらそんなことになっていていましたが、業務上の経験から...
まるで(ウワサに行く)イタリア人的な時間感覚は音楽家(特にベテラン)によくあることなので(苦笑)
若干楽観的に対応していたら、実は既に着いていたというオチで(苦笑)
改めて、音楽家の時間感覚の読みの難しさを知らされました(爆)

そんな、ちょっとした“騒動”の後に“無事”お会い出来たご本人は小柄で清楚。
一見すると、確かに女子大生の様でしたが、一度フルートを握れば、そこは流石にプロの“フルーティスト”
音楽的素養のある職場の方たちは、その奏でる音色に甚く感動と興奮をし、感性ある未来の子達や聴衆からも拍手喝采、暫くそれが止むことはありませんでした。
一方、それがカラッキシ無い私でも、良く聴く未来のフルーティスト達とは全く違う,いや、比較するのもおこがましいほど、きれいでのびやかで、とても心地好い音色に聴き惚れてしまいました。。。
(お題は、プロコフィエフの「フルート・ソナタ」(室内楽)なる曲で、私には全く判らないんですが、結構難しいそうです。)

それは正に、“フルーティスト”と聞いて直感する、とても綺麗でなんだか新鮮,爽快感溢れるとピタリと符合するものでした(笑)

注)音楽関連の話題を載せるのにあたって、この記事のことをふと思い出して、内容を一部変えて再掲載しました。
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なぜ「あの時」に...。

2009年09月13日 | 知識補給
昨日の読売の夕刊に、(私的に)驚くべき記事が載っていました。
それは、上越市(立総合博物館)で...
聚楽第行幸の様子を描いた屏風が発見され、公開される
...というもの。
正式には「御所参内・聚楽第行幸図屏風」といい、高さが約1.6m,幅が約3.6mの六曲一雙でモノ。
記事には屏風の写真がカラーで載っていて、右雙の三扇に正親町院の鳳輦が、左雙の(同じく)三扇には関白秀吉の乗った牛車が描かれているのがしっかりと判ります。
また、美術的価値からしても、とてもきれいで鮮やかです。

制作されたのは慶長年間で、市内の個人が所有していたそうで、それを、依頼を受けた上越市立総合博物館が鑑定していたそうです。
この、個人が有した経緯がとても気になりますが...
先祖伝来の家宝ならば、堀家(左兵衛督秀治もしくは上杉景勝)に下賜されたモノを、更に褒美もしくは御礼として下された・・・と、いったところでしょうか。

記事によると、聚楽第を描いた屏風は今までに3例確認されているそうですが、参内と行幸の模様が描かれているのは今回発見されたこの屏風が初めてだとか。
思えば、聚楽第の史料を今までに見た記憶がないので、他の2例も気になりますが(笑)
是非とも観て見たい!です。

しかし...
な、なぜもっと早くに!
せめて、せめて謙信公祭の時に公開して欲しかった。。。
天地人博」なんて、どうでもいいから(マテ)
いや、これとタイアップすれば、更なる集客が望めただろうに(マテマテ)。。。
しかも、公開は来月の4日まで。
ちょ、ちょっと短すぎる...。

先に上越へ参陣した際、あらかた観尽くしたから・・・是非とも観たい!けど、行こうか行くまいか、激しく葛藤中。

常設化されるのを待つか、はたまた、何処かで貸与出展されるのを待つか?!

行くとしたら、シルバーウィーク中しかないですね。

ちなみに。
社会面にはもう一つ,「西郷隆盛辞世の漢詩」とみられるモノが発見されたそうです。
その漢詩が、解釈付きで載っていましたが、それを見ずに辛うじて(漢詩が)読めたことが、何より嬉しかったです(笑)
コメント (6)
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「愛」って、なに?!

2009年05月01日 | 知識補給
残念ながら(?!)、今年の大河ドラマに纏わる話です(笑)

主人公の「直江兼続」とその活躍した時代は、大変魅力的で楽しみにしていたのですが...
如何せん,端的に言ってツマラナ過ぎる!

なんなんでしょう、あれは...。

なんだかもう、ペラッペラな内容と、見る気を悉く殺いでくれるスポットライトや、毎回必ず3回以上は入るスローモーション...。
それに、越後府中と春日山実城の難解なCGと城内普請,パパイヤ「景継」や小栗「三成」などの髪型などなど・・・・・出るわ出るわ!
(苦笑)の止まない,辟易とさせるツッコミどころが満載で、もう、お腹一杯過ぎて消化不良気味で、今後のことを考慮して、もう、いまは見てません(爆)

尚且つ、いま、時代劇専門チャンネルで「太平記」を放送しているので、これと比較対照すると、もう・・・出来具合に歴然とした違いがあって、余計に、今年のにげんなりとします。

ところが、視聴率なる物指で計ると随分人気があるようで、これが私にはサッパリ理解出来ないのですが、これに輪を掛けて不可思議に思うのが、主人公の直江山城兼続が冠した「六十二間筋兜」に付されたことで有名な“愛”の前立の由来と解釈です。

私は原作を読んでいない(・・・と言うか、読む気にもなれない(苦笑))のですが、著者はこれを「愛民」だの「仁愛」と解釈している・・・と聞きました。

そういえば、以前「その時、歴史が動いた」に原作者がゲストで出ていたとき、そのようなことを言っていたやに記憶していますが...

私にはどうしても、違和感を覚えてなりません。

著者が主張する「愛民」や「仁愛」と言った思想を為政者階級が自覚するようになるのは、私が知る限り、17世紀も後半。
世は江戸幕府の頃。
武断から文治へと政策転換が為され、儒学に傾倒していた5代将軍綱吉公が、信賞必罰主義で幕政改革を断行した「天和の治」からで、これが更に鮮明に,かつ強化されたのは、これから100年後=今から200年ほど前に行われた寛政の改革の頃。
これを主導した松平越中守定信の政治方針もさることながら、天明期に猛威を振るった天変地異と、重商主義政策で荒廃した農民階級の建て直しに、こうした思想が積極的に取り入れられてからなのです。
※教科書的には、岡田寒泉や早川正紀,竹垣直温、寺西封元などの代官職が大いに活躍したのも、こうした背景と方針があったから・・・ですが、世相は現世の状況とちょっと似ています。

これは、私の学生時代の研究テーマでもあったので、もうちょっと詳しく披露できますが...
今回はこの辺に収めておきましょう(^^ゞ

さて、それゆえに、著者が上げる“愛”の根拠に、強い疑問と違和感がありました。
しかし、これを解消させる記事を、読売朝刊の2月20日(金)文化面で見つけました。

題してズバリ!
『直江兼続「愛」の真相』です。

読売朝刊の中面にある文化面は、曜日毎に「文芸」や「美術」などとテーマを決めて取り上げていて、その中に「歴史」も、毎週金曜日に取り上げられていて、勿論欠かさず読んでますが、この日の特集を、いつも以上に隈なく読みました。

この中では3人の先生方が論証されており、その中でも特に興味深かったのが、甲冑武具の研究が専門(の人が居たことにビックリ!と言うのは置いといて(笑))藤本正行國學院大學兼任講師の解説。

「“愛”はあくまでも宗教上の問題」とし、その論拠として愛の下,土台の「雲形」に着目。
雲は古来より「宗教的な存在を示すもの」であり、「“愛”が神仏を表す字であることを強調」し、「人知を超えたものにすがろうとした気持ちがあった」と解説されています。

なるほど...
絵や彫刻(像)などでご覧になったことがあると思います。
神や仏やご先祖様が、あの世からこの世に現れる時、雲に乗っているのを。
そう、古来、雲はあの世とこの世とを結ぶ“連絡バス”の様な役割があると考えられていました。
また、屏風に描かれた金雲は“異時同図”,即ち、六曲一雙の限られた空間の中で、例えば合戦図屏風で生死が同時進行しているのは、こういう“カラクリ”になっているのです。

また、直江山城が崇敬して止まなかった謙信公(不識院殿様)は、神仏への信仰心がとても篤く、特に北方世界の守護神・毘沙門天を崇拝し、自らをその化身と称し、軍旗に「毘」の一字を用いたことは、余りにも有名です。
それからして、幼少の頃から主君の喜平次顕景(謙信公養子)とともに謙信公の薫陶を受けていたのですから、大いに影響を受けて、神仏への信仰心を篤くするのは、自然と理解できます。

またもう1人,戦国史が専門の近藤好和神奈川大学特任教授はもっと単純に、「目立つから」と解説。
愛宕権現への信仰心は認めつつ、「己の勲功を誇示する為に、これを用いた―」としています。
なるほど・・・とは思いますが、ただ、直江山城は中納言景勝を若年より輔け、股肱第一の臣であることはつとに有名なので、何もそんなに目立たせる必要など無かったのでは?!という、気がちょっとします。

ただ、“目立つ”というところに着目すると、敵味方入乱れる戦中の目印となり、山城が獅子奮迅の活躍を見せれば、味方を鼓舞し、士気を大いに昂めて奮い立たせ、敵には畏怖の念を抱かせる効果があった・・・かもしれませんね。

最後に、戦国史研究では世間的に最も有名な静岡大学の小和田哲男教授が、原作者の論説に一定の理解を示してはいました・・・が、三者とも一様に、「“仁愛”だの“慈愛”だのでは無い」と述べられているのにはスッキリとしました。

ちなみに、最初の「雲」絡みで一つ・・・は、別の日に改めて。

参照:読売新聞 平成21年2月20日(金)朝刊19面文化欄
肩書きは、新聞掲載時のものです。

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