くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ!石和≪其の参:カルチャーショック≫

2005年11月03日 | 参陣記
ナビ設定のお陰で、無事甲斐までのルートに乗ったのですが、その走行中,燃料計が“E”(EMPTY)=空っぽを指していることに気付きました。
確か来る前に...「ガソリン満タンにし、しかもそこで竹友・相模守太郎浪人に出会った」と聞いはず...と思い、其のことを大魔王殿に訊ねてみると、あっさりと「壊れてるんだよ」って...
え?!何ですと!!
信じられないほどにあっさりと、しかも即答だったので思わず普通に疑問に思ったこと、「修理はしないんですか?」と聞くと、なにやら特殊な仕様だそうで、「直すのに数万も掛かるからね。」とのこと。
そんなんでいいのんか?と思い、続け様「それじゃあ、ガソリン入れるタイミングが読めないじゃないですか?」と聞くと、「走行距離で大体計算するよ。それに、いざって時にはトランクのガソリンを入れればいいことだから」って...そういえば、トランクに荷物を入れる時、赤いポリタンクのようなものがあったのを見付けて、気にはなっていたのですが...(- -;)

あとで確かめたら鉄製のようなので、一応は安心,大丈夫なのでしょうが、もし万が一,トラックなんかにオカマほられた時にはひょっとしたら...うむ、大魔王殿との心中は、御免被ります!!!

そんな一抹の恐怖心を抱きつつも、ナビを設定したお陰もあって、なんとか無事に中央道談合坂S.A.に到着。
ここで、逸れてしまった“松風”の皆さんと無事合流し、風光明媚なこの地にて一時休憩した後、今度は最初っからしっかりと行き先,武田神社を設定して、1年ぶりの彼の地へ出発しました。

その車中...
戦国合戦祭に臨むに当り、参陣者の知識,学力などを考査すべく、歴史系問題から一般教養まで種々の問題を出し合いました。
それら問題を、難なくこなす一同の中に於いてただ1人,一問も正解できなかったの者がいます。
其の者とは...誰あろう、大魔王運転手です!
答えのその一つ一つが頓珍漢で意味不明、中にはそれゆえに撃沈させられることありましたが、ホントにこれで石和5年連続皆勤者なのか?!と懐疑的になります・・・そのホンの数例をコチラ(↓)にて。

例えば...
ペリーが最初に上陸した地は何処か?
正 解)神奈川県(相模国,現・横須賀市浦賀
大魔王)下田(・・・)

孫呉に於ける諸葛忠武侯のライバルだった軍師2人を上げよ!
正 解)周瑜公謹陸遜伯言
大魔王)創作武将(シバキ?!)
などなど...
特に三国志問題の不正解は悔しかったのか、それとも三国志に詳しい親愛なる同属・雪魔王殿と話す切欠が欲しかったのか、(その答えを聞き出して)武田神社境内にていつものようにニコニコしながら私に寄ってきて、「司馬懿仲達」と解答してきました。けど当然「不正解」を告げると、大魔王殿と入れ知恵をした雪魔王殿が共に驚き、狼狽した其の時の表情などは、今思い出しても可笑し過ぎます。さすがは同属。
大魔王殿もキチンと説明をしないから...。

更に、地理の問題。
四国4県を上げよ。
正 解)香川県徳島県高知県愛媛県
大魔王)最初は「土佐」など旧国名を答え、それを総否定すると、ぎこちなく3県まで上げ、最後に「佐賀県」と回答。それは何故かと訊ねたら...「ナニワが歌ってるじゃん!」とキッパリ。
ナニワとは、勿論(?!)「はなわ」のことで、単なる言い間違え。しかも二重,三重に。
もう、意味が全く解らないのですが、この笑撃には耐えられなかったです。

そんな大魔王殿は、1問も回答できなかった屈辱を胸に、得意分野なのか、我々に反撃をすべく、出題をしてきました。其の問題とは...
太平洋戦争の戦端を開いた日本軍による真珠湾攻撃の、機動部隊の指揮官は誰か?
・・・と言うもの。
余程自信ある問題だったのか、それとも・・・なのか、いつものよりもニコニコしながら出題してきましたが、それをいとも簡単にと答えたのは、でした。それも瞬時に。
きっと、大魔王殿には「誰も答えられないだろう・・・」という自信があったのでしょうが、その自信と野望を一気に打ち砕かれてか、私に「正解」と言う時の声は、とても悲しげで寂しそうでした。

ちなみに、この答えは「帝国海軍中将南雲忠一(※)」です。
※南雲忠一(1887~1944)
山形県米沢出身。(旧米沢上杉家家臣の次男)
海軍兵学校卒業(第36期生)後海軍省に入省。
23歳で海軍少尉に任ぜられ、装甲巡洋艦「浅間」に乗船後、砲術,水雷での技量を磨きながら戦艦分隊長,戦隊参謀,駆逐艦艦長,軍令部参謀,軽巡・重巡艦長などを歴任。
専門技量面では、砲艦艦長,水雷学校長,海軍大学校長へと昇進し、その道のスペシャリストとして、また艦隊派として軍縮反対,対米英開戦論者という面から、(同志の)信望を集めていた。
その主張は、昭和16年,遂に現実化してしまう。
南雲はこれに先立って、海軍大学校長から新設の帝国海軍第一航空艦隊司令長官に任ぜられる。
しかし、この役には同隊の創設に尽力した小沢治三郎中将が任ぜられると目されていたが、全く対極の“大艦巨砲主義”であった南雲が、“畑違い”な一AF指令に着いたのは、海軍内の、如何ともし難い、年功序列な人事配置の産物であり、これがこの後、南雲と、延いては日本国にとって重大な惨劇を生むこととなります。
1AF指令となった南雲中将は、その緒戦,クイズにあった真珠湾攻撃に於いて上々の戦果を挙げます。
しかしこの半年後、北太平洋上の環礁・ミッドウェー諸島を巡る米軍との激戦,大戦の分水嶺とされる、いわゆるミッドウェー海戦に於いて、南雲は致命的戦略ミスなどを行った結果、空母4隻を含む多大な犠牲と敗北を喫してします。
この雪辱は、この後(第三艦隊指令として)南太平洋戦線にて辛くも果たし、以後は本土へ戻り、佐世保,呉の鎮守府司令長官に着く。
しかし、昭和18年に第一艦隊司令長官として再び第一線の出、翌年には中部太平洋方面艦隊司令長官に着いてサイパン島に赴任するも、既に優勢な米軍の進攻は防ぎきれず、同島に於いて米軍への反撃作戦,万歳突撃を敢行させ、自らは同じく現地指令だった斉藤義次陸軍中将と共に自決する。享年57歳。死後、海軍大将に特進し、国葬として送られる。
なお、南雲最期の地,サイパン島が陥落したことによって、日本本土が米軍の爆撃可能圏内となってしまったのです。


閑話休題...
こうして、甲州道中における大魔王殿の極めて激しきショウゲキは、腹筋を鍛えるのには十分で...我々の、その場凌ぎの付け焼刃な矯正では如何ともし難いものでした。。。

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