これが、「神の国」の到来である。
この世、つまり肉体を持って行きる生活と、あの世つまり「霊」のみになって生きる生活が違うということ自体が「堕落」の結果である。
行くべきあの世の事を学ぶなど、考えてみれば滑稽といえる。
自然に移行できるはずの世界。ただ次元が違うだけのことだった。
なのに、「とんでもない世界」と認識し、怖れなければならないという悲劇は、「堕落」の産物である。
「死」が怖いものであったら、神はなんと情なしで、意地悪で、酷極まりない「冷酷な親」であろうか・・・。否、そうしたのは「人間」である。
みなさまにおかれましても、先日の出題に対する答えも解説も不要と思われます。
が、一応ね、出題者の意図がどこにあったかを知るためにも、一つ二つ説明なぞ加えてみようかと。
全ては天法(創造原理の世界)に基づきます。
自ずと答えは出てくるでしょうが、あまりにも「下界」(肉界・人間社会)は面倒が多過ぎ、入り乱れすぎていることから、なるべく問題の要点を絞り、簡潔にしたうえで法に照らせばいいか・・・、と。
情状酌量の余地は、この際省く事とします。
一、・・・いつもの事。省きます。
二、サタン不可侵圏
場所はかつての「エデンの園」。その状況をいいます。
サタンの存在がない状態。「サタン」などという単語すらなかった時。
もし今、どこにあるか?と問われれば、「無い」と答えるしかない。
いずれ来る「地上天国」が、「それ」を現すということ。それ以外には?・・・。
個人においては、ありえる。「神の子」の条件を全て備えた「人物」においてはである。
しかし、他から命を脅かされる可能性がある限り、それを「サタン不可侵圏」とはいわない。
つまり、かつての「イエス」が絶対に死なない、という保証がなければならない。
せめて、あの時代あの時に「三人の弟子たち」が決して裏切らないという保証がなければならない
。イエスと一緒に三人が自ら進んで「磔(はりつけ)」にあったら、何がどう変わっていたのだろ うか・・・。天変地異が起きたか、はたまた日本の日蓮のように、「槍(刀)を持った者」が雷に 打たれたか?・・・。奇跡は起きた可能性がある。しかし、地上には「それ」すら起こす条件がな かった。サタンが付け入るスキが、あまりにも有りすぎたのだ。
三、省きます。
四、天使は、本来人間がひれ伏す存在ではない。
彼らは「人間の僕」であり、「神の使い」である。これ以上でも以下でもない。
人間が「本来の人間」以下になったことからおこる諸現象は、堕落後の悲しい「産物」でしかな い。
五、病気や事故などにより「人の顔の形」を失った時に限り、「らしき形」を再生する目的で行われ る医療的な手術は「あり」でしょう。(顔のみに限ったことではない)
他は「我」の産物であり「欲」の産物です。
「神の刻印」から「人間の刻印」に代える意味は、どこに正統性があるでしょうか?・・・。
もし「あの世」で開かれる法廷に出た時、あなたは何と釈明できますか?。そしてそれは満場一 致をもって支持されると、自信はおありでしょうか。
六、もし逆に動物や植物に「霊」があったら、三段階を越えて「成長」「完成」しなければならない
い。必ず言葉として神は「戒め」を与え、その期間を与えているはずです。
まず彼らに「言葉」がありますか?。神と相対するには「言葉」です。
人間だけが「言葉」をもち、神と交流できる存在です。
他には「天使」がいる。彼らは言葉によって、神と人に相対出来る。しかし天使は肉体を持たず
霊のみの存在として創造されたにすぎない。
霊と肉をもった人間のみが、地上における「ある期間」、成長段階を通過して完成するという神 の子としての道があった、という特別な存在であった。
それが「神の子」であり、「万物の霊長」としての存在意義だった。
結論は「霊はない」です。
七、一人一人は「神の刻印」が押され、神の分身たる存在意義をもって生まれてくる。
天上天我唯我独尊の意味が「ここ」にある。
同じ「臓器」だから、「あげちゃったっていいじゃないか・・・」?・・・。
「臓器」は、人間の部品ではないのだから、他人には合わないようになっている。
「死ぬ時」は、偶然ではない。その必然を何と解くおつもりか・・・。
人の異質な臓器を使って「延命」を計っても、それは所詮人為的な策である。
「霊界の必然」を、むしろ知るべきである。
なぜ「その死」が、「その人」に、「その時」訪れたのか・・・。知るべきは「そのこと」で ある。
八、あなたは「ドナドナ」という歌をご存じだろうか?
♪ ある晴れた昼下がり 市場へ続く道
荷馬車がゴトゴトと 子牛をのせてゆく~
その後「その子牛」は売られてゆくのだ。さらに、いずれ「」で食肉として解体され、
我々の食卓に乗るのだ。
その動物たちが、「殺されること」を瞬時に知るとき、彼らは抵抗し、鳴き声をあげ悲鳴(断末 魔の叫び)をあげて死んでゆく。
その場に居合わせた者たちは、決して「その肉」を食べようとはしない。(という)
現に私は「ニワ鳥」が処理されるのを、家の近くの肉屋の裏で観ていた。
来る日も来る日も見続けた。殺されたはずなのに、空(くう)を飛ぶ。死んでいるはずなのに道 路まで走り出る。その後私は「鶏肉」が食べられなくなった。
人間はいずれ、海の幸と山の幸、つまり海産物と野菜で食卓を囲むようになるだろう、といわれ ている。(肉食が消えていくのだそうです)
九、人の命は地球より重い。
いつから「人」になるのか?
今後「出生前検査」などという「現代医学」がすすむにつけ、どれだけ多くの「あの世からみた
タブー」が犯されていくのか・・・。
(この件における「情状酌量の余地」が気になる方は、天法に精通されよ)
十、性は人が選択する余地などなく、神からの授かりものである。
さらに、そう生まれた(生まれる)背景には、神の意図がある。
「そこ」に手を加える者は、言い訳出来るとお思いか?
「なぜそんな心」が生まれるのか?、むしろそうさせる背景・背後を探られたほうがいい。
性転換や、同性愛や同性の結婚は、本来性において無いものであれば、天法に反するものである 。
十一、100%人為的なものである。
十二、人は男も女も、一人で生きるようには造られていない。
必ず「ペア」を組むように造られている。
しかし、結婚だけが人生じゃないと思い、また望む人が多くなったことも時代の流れでもある。
本来性から逸脱した結婚に「意味」も「魅力」も「喜び」も感じられなくなった男女も多い。
これが終末のこの世の現象の一つでもある。
理想がなんたるものなのか、どんな姿を描いて「いい」「悪い」を決めているかは、それぞれ違 うだろうが、この世の結婚が、何をもたらすものであるかをうすうす感づく人には、止めたほう がいい。
時代が代われば、何かが起きることを素早く知った「あの世」の協力者が、その「足止め」をし ているかもしれない。
「あなた」は、どんな結婚が理想ですか?。そしてそれは「あの世」で認められるものですか?
人の本来性を取り戻す手順を踏んだ結婚ですか?・・・、もしそうであったら、あの世は喝采す るでしょう。
「一人」は、あの世でもこの世でも、「不自然」なのです。
神の創造の意図から外れるためです。
それゆえに、「私」が地獄へ行くと言った「アベル」の言葉は真実ですね。
だから私は「はい」、とだけ答えたのです。
人は両方の目、耳、手、足などなど、それによって見るだけではなく、聞くだけではなく、遠近
や空気感がつかめるといいます。
女の全てをつかっても、男の見る目、耳、手、足、感性がつかむ「もの」は、異性からしかもら う以外に完全・完璧は得られません。
これが、神の創造における男女の正しい、また理想の姿だということです。
それを「この世」に示したかったのが「イエス」の結婚であり、イエスの家庭だったのでしょう
。見せて教える「神の姿」が与えられないまま、6000年の時間がたった今。
もうそろそろ「今でしょう!」と、言いたくもなります。
本当の「幸せの完成」は、一人では出来ない。というのが答えです。
キャリアの才媛でも、未完成のままであの世へいくことは免れません。
かの私も未完成はなはだしく、姉はいつも私をみては「結婚もせず、子供も産まず、あなたはカタワものねぇ」と辛らつに言い放ちます。
はいはい、何とでも。そんな言葉にめげずに今日までやってきました。
いまさらユーターンは出来ません。
人生いろいろ。片肺飛行でも、一応飛んでいられるんですぞ!、とまぁやせ我慢で生きています。
私もしつっこい女ですこと。
簡単に、手短くと思いながら、こんなに書いてしまいました。
「みんな天法に反しますよ~」と言えば、すぐ終わりますものを・・・。
言い訳がましく、自分のことのように、おおーやだやだ!。
ごめんあそばせ。
この世、つまり肉体を持って行きる生活と、あの世つまり「霊」のみになって生きる生活が違うということ自体が「堕落」の結果である。
行くべきあの世の事を学ぶなど、考えてみれば滑稽といえる。
自然に移行できるはずの世界。ただ次元が違うだけのことだった。
なのに、「とんでもない世界」と認識し、怖れなければならないという悲劇は、「堕落」の産物である。
「死」が怖いものであったら、神はなんと情なしで、意地悪で、酷極まりない「冷酷な親」であろうか・・・。否、そうしたのは「人間」である。
みなさまにおかれましても、先日の出題に対する答えも解説も不要と思われます。
が、一応ね、出題者の意図がどこにあったかを知るためにも、一つ二つ説明なぞ加えてみようかと。
全ては天法(創造原理の世界)に基づきます。
自ずと答えは出てくるでしょうが、あまりにも「下界」(肉界・人間社会)は面倒が多過ぎ、入り乱れすぎていることから、なるべく問題の要点を絞り、簡潔にしたうえで法に照らせばいいか・・・、と。
情状酌量の余地は、この際省く事とします。
一、・・・いつもの事。省きます。
二、サタン不可侵圏
場所はかつての「エデンの園」。その状況をいいます。
サタンの存在がない状態。「サタン」などという単語すらなかった時。
もし今、どこにあるか?と問われれば、「無い」と答えるしかない。
いずれ来る「地上天国」が、「それ」を現すということ。それ以外には?・・・。
個人においては、ありえる。「神の子」の条件を全て備えた「人物」においてはである。
しかし、他から命を脅かされる可能性がある限り、それを「サタン不可侵圏」とはいわない。
つまり、かつての「イエス」が絶対に死なない、という保証がなければならない。
せめて、あの時代あの時に「三人の弟子たち」が決して裏切らないという保証がなければならない
。イエスと一緒に三人が自ら進んで「磔(はりつけ)」にあったら、何がどう変わっていたのだろ うか・・・。天変地異が起きたか、はたまた日本の日蓮のように、「槍(刀)を持った者」が雷に 打たれたか?・・・。奇跡は起きた可能性がある。しかし、地上には「それ」すら起こす条件がな かった。サタンが付け入るスキが、あまりにも有りすぎたのだ。
三、省きます。
四、天使は、本来人間がひれ伏す存在ではない。
彼らは「人間の僕」であり、「神の使い」である。これ以上でも以下でもない。
人間が「本来の人間」以下になったことからおこる諸現象は、堕落後の悲しい「産物」でしかな い。
五、病気や事故などにより「人の顔の形」を失った時に限り、「らしき形」を再生する目的で行われ る医療的な手術は「あり」でしょう。(顔のみに限ったことではない)
他は「我」の産物であり「欲」の産物です。
「神の刻印」から「人間の刻印」に代える意味は、どこに正統性があるでしょうか?・・・。
もし「あの世」で開かれる法廷に出た時、あなたは何と釈明できますか?。そしてそれは満場一 致をもって支持されると、自信はおありでしょうか。
六、もし逆に動物や植物に「霊」があったら、三段階を越えて「成長」「完成」しなければならない
い。必ず言葉として神は「戒め」を与え、その期間を与えているはずです。
まず彼らに「言葉」がありますか?。神と相対するには「言葉」です。
人間だけが「言葉」をもち、神と交流できる存在です。
他には「天使」がいる。彼らは言葉によって、神と人に相対出来る。しかし天使は肉体を持たず
霊のみの存在として創造されたにすぎない。
霊と肉をもった人間のみが、地上における「ある期間」、成長段階を通過して完成するという神 の子としての道があった、という特別な存在であった。
それが「神の子」であり、「万物の霊長」としての存在意義だった。
結論は「霊はない」です。
七、一人一人は「神の刻印」が押され、神の分身たる存在意義をもって生まれてくる。
天上天我唯我独尊の意味が「ここ」にある。
同じ「臓器」だから、「あげちゃったっていいじゃないか・・・」?・・・。
「臓器」は、人間の部品ではないのだから、他人には合わないようになっている。
「死ぬ時」は、偶然ではない。その必然を何と解くおつもりか・・・。
人の異質な臓器を使って「延命」を計っても、それは所詮人為的な策である。
「霊界の必然」を、むしろ知るべきである。
なぜ「その死」が、「その人」に、「その時」訪れたのか・・・。知るべきは「そのこと」で ある。
八、あなたは「ドナドナ」という歌をご存じだろうか?
♪ ある晴れた昼下がり 市場へ続く道
荷馬車がゴトゴトと 子牛をのせてゆく~
その後「その子牛」は売られてゆくのだ。さらに、いずれ「」で食肉として解体され、
我々の食卓に乗るのだ。
その動物たちが、「殺されること」を瞬時に知るとき、彼らは抵抗し、鳴き声をあげ悲鳴(断末 魔の叫び)をあげて死んでゆく。
その場に居合わせた者たちは、決して「その肉」を食べようとはしない。(という)
現に私は「ニワ鳥」が処理されるのを、家の近くの肉屋の裏で観ていた。
来る日も来る日も見続けた。殺されたはずなのに、空(くう)を飛ぶ。死んでいるはずなのに道 路まで走り出る。その後私は「鶏肉」が食べられなくなった。
人間はいずれ、海の幸と山の幸、つまり海産物と野菜で食卓を囲むようになるだろう、といわれ ている。(肉食が消えていくのだそうです)
九、人の命は地球より重い。
いつから「人」になるのか?
今後「出生前検査」などという「現代医学」がすすむにつけ、どれだけ多くの「あの世からみた
タブー」が犯されていくのか・・・。
(この件における「情状酌量の余地」が気になる方は、天法に精通されよ)
十、性は人が選択する余地などなく、神からの授かりものである。
さらに、そう生まれた(生まれる)背景には、神の意図がある。
「そこ」に手を加える者は、言い訳出来るとお思いか?
「なぜそんな心」が生まれるのか?、むしろそうさせる背景・背後を探られたほうがいい。
性転換や、同性愛や同性の結婚は、本来性において無いものであれば、天法に反するものである 。
十一、100%人為的なものである。
十二、人は男も女も、一人で生きるようには造られていない。
必ず「ペア」を組むように造られている。
しかし、結婚だけが人生じゃないと思い、また望む人が多くなったことも時代の流れでもある。
本来性から逸脱した結婚に「意味」も「魅力」も「喜び」も感じられなくなった男女も多い。
これが終末のこの世の現象の一つでもある。
理想がなんたるものなのか、どんな姿を描いて「いい」「悪い」を決めているかは、それぞれ違 うだろうが、この世の結婚が、何をもたらすものであるかをうすうす感づく人には、止めたほう がいい。
時代が代われば、何かが起きることを素早く知った「あの世」の協力者が、その「足止め」をし ているかもしれない。
「あなた」は、どんな結婚が理想ですか?。そしてそれは「あの世」で認められるものですか?
人の本来性を取り戻す手順を踏んだ結婚ですか?・・・、もしそうであったら、あの世は喝采す るでしょう。
「一人」は、あの世でもこの世でも、「不自然」なのです。
神の創造の意図から外れるためです。
それゆえに、「私」が地獄へ行くと言った「アベル」の言葉は真実ですね。
だから私は「はい」、とだけ答えたのです。
人は両方の目、耳、手、足などなど、それによって見るだけではなく、聞くだけではなく、遠近
や空気感がつかめるといいます。
女の全てをつかっても、男の見る目、耳、手、足、感性がつかむ「もの」は、異性からしかもら う以外に完全・完璧は得られません。
これが、神の創造における男女の正しい、また理想の姿だということです。
それを「この世」に示したかったのが「イエス」の結婚であり、イエスの家庭だったのでしょう
。見せて教える「神の姿」が与えられないまま、6000年の時間がたった今。
もうそろそろ「今でしょう!」と、言いたくもなります。
本当の「幸せの完成」は、一人では出来ない。というのが答えです。
キャリアの才媛でも、未完成のままであの世へいくことは免れません。
かの私も未完成はなはだしく、姉はいつも私をみては「結婚もせず、子供も産まず、あなたはカタワものねぇ」と辛らつに言い放ちます。
はいはい、何とでも。そんな言葉にめげずに今日までやってきました。
いまさらユーターンは出来ません。
人生いろいろ。片肺飛行でも、一応飛んでいられるんですぞ!、とまぁやせ我慢で生きています。
私もしつっこい女ですこと。
簡単に、手短くと思いながら、こんなに書いてしまいました。
「みんな天法に反しますよ~」と言えば、すぐ終わりますものを・・・。
言い訳がましく、自分のことのように、おおーやだやだ!。
ごめんあそばせ。