霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「あの世の常識」が「この世の常識」になる日

2013年11月16日 | 心霊現象
これが、「神の国」の到来である。
この世、つまり肉体を持って行きる生活と、あの世つまり「霊」のみになって生きる生活が違うということ自体が「堕落」の結果である。
行くべきあの世の事を学ぶなど、考えてみれば滑稽といえる。
自然に移行できるはずの世界。ただ次元が違うだけのことだった。
なのに、「とんでもない世界」と認識し、怖れなければならないという悲劇は、「堕落」の産物である。
「死」が怖いものであったら、神はなんと情なしで、意地悪で、酷極まりない「冷酷な親」であろうか・・・。否、そうしたのは「人間」である。

みなさまにおかれましても、先日の出題に対する答えも解説も不要と思われます。
が、一応ね、出題者の意図がどこにあったかを知るためにも、一つ二つ説明なぞ加えてみようかと。
全ては天法(創造原理の世界)に基づきます。
自ずと答えは出てくるでしょうが、あまりにも「下界」(肉界・人間社会)は面倒が多過ぎ、入り乱れすぎていることから、なるべく問題の要点を絞り、簡潔にしたうえで法に照らせばいいか・・・、と。
情状酌量の余地は、この際省く事とします。


一、・・・いつもの事。省きます。

二、サタン不可侵圏
  場所はかつての「エデンの園」。その状況をいいます。
 サタンの存在がない状態。「サタン」などという単語すらなかった時。
 もし今、どこにあるか?と問われれば、「無い」と答えるしかない。
 いずれ来る「地上天国」が、「それ」を現すということ。それ以外には?・・・。
 個人においては、ありえる。「神の子」の条件を全て備えた「人物」においてはである。
 しかし、他から命を脅かされる可能性がある限り、それを「サタン不可侵圏」とはいわない。
 つまり、かつての「イエス」が絶対に死なない、という保証がなければならない。
 せめて、あの時代あの時に「三人の弟子たち」が決して裏切らないという保証がなければならない
 。イエスと一緒に三人が自ら進んで「磔(はりつけ)」にあったら、何がどう変わっていたのだろ うか・・・。天変地異が起きたか、はたまた日本の日蓮のように、「槍(刀)を持った者」が雷に 打たれたか?・・・。奇跡は起きた可能性がある。しかし、地上には「それ」すら起こす条件がな かった。サタンが付け入るスキが、あまりにも有りすぎたのだ。

三、省きます。

四、天使は、本来人間がひれ伏す存在ではない。
  彼らは「人間の僕」であり、「神の使い」である。これ以上でも以下でもない。
  人間が「本来の人間」以下になったことからおこる諸現象は、堕落後の悲しい「産物」でしかな  い。

五、病気や事故などにより「人の顔の形」を失った時に限り、「らしき形」を再生する目的で行われ  る医療的な手術は「あり」でしょう。(顔のみに限ったことではない)
  他は「我」の産物であり「欲」の産物です。
  「神の刻印」から「人間の刻印」に代える意味は、どこに正統性があるでしょうか?・・・。
  もし「あの世」で開かれる法廷に出た時、あなたは何と釈明できますか?。そしてそれは満場一  致をもって支持されると、自信はおありでしょうか。

六、もし逆に動物や植物に「霊」があったら、三段階を越えて「成長」「完成」しなければならない
  い。必ず言葉として神は「戒め」を与え、その期間を与えているはずです。
  まず彼らに「言葉」がありますか?。神と相対するには「言葉」です。
  人間だけが「言葉」をもち、神と交流できる存在です。
  他には「天使」がいる。彼らは言葉によって、神と人に相対出来る。しかし天使は肉体を持たず
  霊のみの存在として創造されたにすぎない。
  霊と肉をもった人間のみが、地上における「ある期間」、成長段階を通過して完成するという神  の子としての道があった、という特別な存在であった。
  それが「神の子」であり、「万物の霊長」としての存在意義だった。
  結論は「霊はない」です。

七、一人一人は「神の刻印」が押され、神の分身たる存在意義をもって生まれてくる。
  天上天我唯我独尊の意味が「ここ」にある。
  同じ「臓器」だから、「あげちゃったっていいじゃないか・・・」?・・・。
  「臓器」は、人間の部品ではないのだから、他人には合わないようになっている。
  「死ぬ時」は、偶然ではない。その必然を何と解くおつもりか・・・。
  人の異質な臓器を使って「延命」を計っても、それは所詮人為的な策である。
  「霊界の必然」を、むしろ知るべきである。
  なぜ「その死」が、「その人」に、「その時」訪れたのか・・・。知るべきは「そのこと」で   ある。

八、あなたは「ドナドナ」という歌をご存じだろうか?
  
  ♪ ある晴れた昼下がり 市場へ続く道 
    荷馬車がゴトゴトと 子牛をのせてゆく~
  
  その後「その子牛」は売られてゆくのだ。さらに、いずれ「」で食肉として解体され、
  我々の食卓に乗るのだ。
  その動物たちが、「殺されること」を瞬時に知るとき、彼らは抵抗し、鳴き声をあげ悲鳴(断末  魔の叫び)をあげて死んでゆく。
  その場に居合わせた者たちは、決して「その肉」を食べようとはしない。(という)
  現に私は「ニワ鳥」が処理されるのを、家の近くの肉屋の裏で観ていた。
  来る日も来る日も見続けた。殺されたはずなのに、空(くう)を飛ぶ。死んでいるはずなのに道  路まで走り出る。その後私は「鶏肉」が食べられなくなった。
  人間はいずれ、海の幸と山の幸、つまり海産物と野菜で食卓を囲むようになるだろう、といわれ  ている。(肉食が消えていくのだそうです)

九、人の命は地球より重い。
  いつから「人」になるのか?
  今後「出生前検査」などという「現代医学」がすすむにつけ、どれだけ多くの「あの世からみた
  タブー」が犯されていくのか・・・。
  (この件における「情状酌量の余地」が気になる方は、天法に精通されよ)

十、性は人が選択する余地などなく、神からの授かりものである。
  さらに、そう生まれた(生まれる)背景には、神の意図がある。
  「そこ」に手を加える者は、言い訳出来るとお思いか?
  「なぜそんな心」が生まれるのか?、むしろそうさせる背景・背後を探られたほうがいい。
  性転換や、同性愛や同性の結婚は、本来性において無いものであれば、天法に反するものである  。

十一、100%人為的なものである。
  
十二、人は男も女も、一人で生きるようには造られていない。
   必ず「ペア」を組むように造られている。
  しかし、結婚だけが人生じゃないと思い、また望む人が多くなったことも時代の流れでもある。
  本来性から逸脱した結婚に「意味」も「魅力」も「喜び」も感じられなくなった男女も多い。
  これが終末のこの世の現象の一つでもある。
  理想がなんたるものなのか、どんな姿を描いて「いい」「悪い」を決めているかは、それぞれ違  うだろうが、この世の結婚が、何をもたらすものであるかをうすうす感づく人には、止めたほう  がいい。
  時代が代われば、何かが起きることを素早く知った「あの世」の協力者が、その「足止め」をし  ているかもしれない。
  「あなた」は、どんな結婚が理想ですか?。そしてそれは「あの世」で認められるものですか?
  人の本来性を取り戻す手順を踏んだ結婚ですか?・・・、もしそうであったら、あの世は喝采す  るでしょう。
  「一人」は、あの世でもこの世でも、「不自然」なのです。
  神の創造の意図から外れるためです。
  それゆえに、「私」が地獄へ行くと言った「アベル」の言葉は真実ですね。
  だから私は「はい」、とだけ答えたのです。
  人は両方の目、耳、手、足などなど、それによって見るだけではなく、聞くだけではなく、遠近
  や空気感がつかめるといいます。
  女の全てをつかっても、男の見る目、耳、手、足、感性がつかむ「もの」は、異性からしかもら  う以外に完全・完璧は得られません。
  これが、神の創造における男女の正しい、また理想の姿だということです。
  それを「この世」に示したかったのが「イエス」の結婚であり、イエスの家庭だったのでしょう
  。見せて教える「神の姿」が与えられないまま、6000年の時間がたった今。
  もうそろそろ「今でしょう!」と、言いたくもなります。

  本当の「幸せの完成」は、一人では出来ない。というのが答えです。
  キャリアの才媛でも、未完成のままであの世へいくことは免れません。
 
  

かの私も未完成はなはだしく、姉はいつも私をみては「結婚もせず、子供も産まず、あなたはカタワものねぇ」と辛らつに言い放ちます。
はいはい、何とでも。そんな言葉にめげずに今日までやってきました。
いまさらユーターンは出来ません。
人生いろいろ。片肺飛行でも、一応飛んでいられるんですぞ!、とまぁやせ我慢で生きています。


私もしつっこい女ですこと。
簡単に、手短くと思いながら、こんなに書いてしまいました。
「みんな天法に反しますよ~」と言えば、すぐ終わりますものを・・・。
言い訳がましく、自分のことのように、おおーやだやだ!。
ごめんあそばせ。
 
  
  

 
  

この世の常識は「あの世」では?・・・

2013年11月11日 | 心霊現象
先日、また「あのお寺」の前を通りました。(西永寺)
今度はこんな言葉が書かれていました。

 『私は しばしば仏を忘れるが 仏は私を忘れない 』

なるほど、なるほど。修行された住職さんでさえ、たまには仕える仏様を忘れるか・・・。
そこで私は、同じように「神」を入れ代えて唱えてみる。
『私は しばしば神を忘れるが 神は私を忘れない 』と。
よく出来ましたぁ~。

では皆様におかれましては、「あの世」を代わりに入れて唱えてみれば、どうなりますかしら?。

『わたしは しばしばあの世を忘れるが あの世はわたしを忘れない 』・・・。
ふふふ、実に、よく出来ました。
今日はこれを言って終わりとします。(はい、さようなら)


でね、ここで少しばかり「頭の整理・体操」をいたしましょう。

次の問題を解いてください。
と、申し上げれば、「あの世に行くのに、テストがあるんですかぁ」と、聞かれるかもしれない。
テストなんて、そんなものしませんよ。
日々の意識が無い者に、何を聞いたって分かりっこない事くらい、みんなお見通しです。
でもね、この世の「常識」が、あの世では通用しないとなれば、ちょっとは慌ててもいいかもしれない、とまあこんな意味から「出題」してみまーす。
最初は、いつもの「私の口癖」でもあり、もう耳にタコでしょうが・・・。

一、 あなたは何ものであるか。
   どこから来て、どこへ行く?

二、 「サタン不可侵圏」とは、何をいい、どういう所か?

三、 輪廻転生(生まれかわり)は、あるのか、ないのか?
   (それは、なぜ?)

四、 天使の役割とは何? 
   出会ったら「わたし」は、どういう態度をとればいいの?

五、整形美容手術は、いいの?
  (もし、いい場合と悪い場合があるとしたら、どんな場合?)

六、動物・植物に霊はあるの?
  (あの世で見たとか、あるとか言われているけど、それって何?)

七、臓器移植はいいの、悪いの?

八、肉食は気にせずに、どんどん食べてもかまわないかしら?

九、人工中絶は、いつから殺人になるの?
  (しても、しなくてもいいの?)

十、性転換は、あの世からみてあたりまえ、正しい?、それとも?
  (同性愛、その結婚についてもどうなの?)

十一、卵子凍結は、天法からみてどうなの?

十二、「キャリア」を目指して、一生結婚せず、子供もいらないわ!という才媛のあなた。
   あの世では、常識範囲内なの?



と、今回は思いつくまま、こんなところです。
考えてみてくださいね。
いま、曽野綾子さんの本が売れているとか。
先日TV出演され、山本晋也監督のインタビューをうけて、「こう」言い放っておられました。
「人間にとって『成熟』とは何か」との問いに、答えて曰く。
「よい加減に生きることです」と。
いいかげん、つまり丁度よい加減ということだと。
彼女はミッション系の大学を出られ、クリスチャンだと思っていた私ですが・・・。
最後の結論をこう結ばれてしまっては、・・・困りましたねぇ。

『人間とは? 分かりません。一生かかって眺めているものです・・・』 

昨日会った友人は、その本をこれから買いに行くんですって・・・。

二つの「龍の絵」

2013年11月10日 | 心霊現象
私ごとですが、今の今まで、龍の絵が「二つ」あるなど、思ってもいませんでした。
ですから龍は、必ず「玉」をもっているものだと思っていましたねぇ。
しかし違った。どこどこにある「龍の絵」は「玉」をもってはいない。
その意味はね、・・・とまで言われてよーく絵をみれば・・・。
あーら不思議。確かに玉はもっていないし、足の指の本数さえ違う。
なんということだ、認識不足もはなはだしい、となる。
ではいったい「龍」は何を現しているのだろう?・・・。


電車の中で「ジパング倶楽部」を読む。
今月は「宮本武蔵」の特集である。
ふむふむ、なるほど。彼は確かに文武両道だったようだ。
彼が書いた「五輪書」。兵法は、すなわち「人の法」としても読み取れる。
さらに晩年に描いたといわれる数々の書画。それは円熟した筆で表現されているという。
絵から名湯へと続く編集が、「天井画」へと移る。
そこで私は知ったのだ。
龍の絵の「ある違い」をである。
日本の天井画を見て回る、というジパング独特の旅の仕方が編集されていた。
その中での「龍の絵」。数ある絵の中で、「身延山久遠寺」の天井画の「龍」は違うという。
写真では小さくて観にくいが、確かにどこか違う。
解説がされている。
いままでの「龍の絵」は、ほとんどが玉をもち、その指(爪)の数はたいていが「三本」である。
それに比べ、久遠寺の天井画は、玉を持たない。さらに爪の数は「五本」である。
なぜか・・・?
それはね、龍が改心し、お釈迦様に「その宝珠」をお返ししたことを表すのだという。
その龍は「黒龍」といい、どこから観ても「その目」が自分と目を合わせているようだというのだ。

古くから「龍」は、仏法守護の霊獣といわれ、水を司る神であるから、火除けの意味もこめられているとか。
「五本爪の龍」は、中国の王侯、貴族のシンボルであり、龍の王様を意味する。
宝珠を持たないのは、龍女がお釈迦さまに宝珠を献上して悟りを開いたという法華経の教えに則っている。
つまり、天井画の黒龍は、悟りを開いた龍。

だそうですよ・・・。

知らなかったなぁ。
ま、こんなことをも頭にいれながら、天井画を観て回るのも一興かと。
その特集の写真を観ているだけで、日本の「文化」は何と素晴らしい芸術品であるとともに、「教え」を国中に広めた先達の知恵でもあったと感心した次第です。
北海道小樽市の「にしん御殿小樽貴賓館」の天井画や、長野県北部、「岩松院」の葛飾北斎の描いた天井画は圧巻。特に葛飾北斎晩年のこの絵「八方睨み鳳凰図」は、あの有名な『どこから観てもその目が自分の目と合い、睨みをきかしている』という絵である。
まだまだある。「熊本城本丸御殿」の天井画。大広間「昭君之間」。圧巻としか言いようがない。
まるで見てきたようなものい、とお叱りをうけそうであるが、これから是非に(死ぬまでには)見てみたい!と思わせる「日本の宝」の数々でもあります。

現代人はなぜか、建造物は「高さ」を誇っているかにみえるが、先達は高さもさることながら、その中身の「豪華絢爛」をむしろ誇っていたかのようである。
現代人の我々が、我を忘れて魅入る「その人間を越えた領域」に、彼らの気高く研ぎ澄まされた感性に脱帽する。


日本もいろいろ、その歴史も文化もいろいろ。
しかし、その「いろいろ」の中に、見え隠れする「永遠性」の高さにしばし絶句するのです。
そして「人生いろいろ」、と歌った昭和の歌姫の一人。その「星」がまた落ちた。
昭和はいずれ心の中から忘れ去られるだろうが、日本のもつ四季や文化や文明。
それが感性となって残る限り、日本人の将来は「元号」が何と代わろうと、ゆるぎなく続き、より高められて世界を席巻すると信じてやまないものです。

今日は、龍の絵について私が驚き、感心し、発見したことをば、お分けいたそうかと筆をとりました。
仏教と、キリスト教の違いは「龍」ひとつとってみても、こんなに違うと思召せ・・・。
しかし、霊界の龍は「今」も生きずいて、我々の心の中を、じーっとみている事だけは、どうぞお忘れなく・・・。


海の底にも都はさぶらえ・・・

2013年11月04日 | 心霊現象
平家最後の闘い「壇ノ浦」。
その時、二位の尼はまだ幼い安徳天皇(?)を抱いて、船の上から下を見て「こう」言う。
「帝。海の底にも都はさぶらえ(そうらえ?)」と。
「幼い我が孫である帝。きっと海の底にも都はございましょうよ」と言って海に身を投げた。

平家物語を引き合いに出して、誠に申し訳ない限りではあるが、私はいつも思っている。
「地獄の底にも、救いはありましょう・・・」と。(決して天国があるとは、言えないが)


「原理原則に合わなければ、地獄に行く」とは、「アベル」の立場にいた者たちが異口同音に語った言葉だ。
その心の奥には、「地獄に行かないために」学び、信仰し、実践しましょうね、という思いが伝わってくる。そうだ、どこも間違ってはいない。
だが、その言葉の裏には作為、作戦が見え隠れする。
ともすれば「恐怖」を植え付け、一つのマインドコントロールによって「救い」や「神の道」(人の道)を教えていやしませんか・・・?、という事だ。
宗教と名のつく教えや教団に身を置いた者は、一度は経験したことがきっとあるだろう。
「地獄ゆき」を言い渡された事が。言い方を代えれば「あなたは地獄へ落ちますよ・・・」という脅かしの言葉を。
私も何度か聞いた。こんな「信仰生活ぶり?」だった私だから、何度も聞いた。
しかし「神の創造原理」が、私の心には希望だった。
その「光」の中へ、また、その「ふところ」へ戻りたいとも思った。
しかし、そこまでたどり着くには、罪深い私には、気が遠くなるほどの距離があるのは分かっている。
「ひとまかせ」にして歩ける道でもない。分かった分だけ進み、さらに石橋を叩いて渡った。
そして、とうとう「渡らない橋」いや、「渡れない橋」に出くわした。
一人ならまだいい。違う人格であり、違う血統が出会うとき、道の進み方に異変が起きた。
何の事かって?・・・。
はい。それは「結婚」です。
統一協会で教える「教え」の、第一段階は「教えを学ぶ」こと。
第二は男女の結婚であり、誰もが願ったことだった。(天国行きの切符を得る、といってもいい)
そうだ。それは『合同結婚式』といわれ、いまもって奇異な目でみられている。
教祖が決める結婚。これだけとってみても、今の世には「ありえない」事柄だ。
教祖が決める「その内容」、つまり決定の大半は、「先祖」にあると言われている。
だから目でみた「見た目」、つまり親や、職業や、学歴などは関係ない。
そんな「二人」が、マッチングと称して「組み合わされる」。
信者数が今よりはまだ少なかった時代、大きな部屋に一堂に会して行われた。
男性と女性が別れて、一塊になって座る。その中から「教祖」が先ず男性を立たせ、そして女性を選ぶ。一組が決まるのに、一分とかからない組もあれば、長い時間を要する組(カップル)もある。
教祖は神の承認と先祖の承認を、瞬時に得るという。
そして信者は、初めて見る「相手」に、それぞれの思いをいだく。
瞬間「仰天」する者もいれば、「寒気」がくる者もいる。
そして「踊りだしたくなる」という者もいる。
人間臭い「本性」が、その時とっさに現れるのかもしれない。
そして、・・・。
私の番がきた。
「この方」(教祖)は、まさか適当にやってんじゃないだろうな?・・・。
という私の疑いは、私の場面で崩れた。
神はよくよく私をご存じである。私は指さされても立たなかった。
前の女性だとばかり思ったからだ。案の定、私の前に座っていた女性が立ち上がった。
「やっぱりな」・・・、しかし違った。
手で合図されて「私だ」ということが分かった。

そして、地獄がそこから始まった。
親、それも両親、兄弟、親戚がいっさいいない結婚式。(私の方は、である)
「それでもやりたい」と、「その男」は言った。そして、なるべく早く!と促す。
お互いに年齢は「30歳」。(この男は早く子供を、とでも思っているのか?・・・)
(それは、私から言わせれば、タブー中のタブーであった)
この世の結婚をしに来たのではない。私の心はいつも「そこ」にあった。
あれ以来、私の生き方の原点は「死神」だった。
やっと「理論」を聞きかじっただけではないか。しかし「二人」で歩く道みちで、しっかり魂に刻み込み、実践の中で「基台」をつくればいいじゃないか~、とも思っていた。
だから、何のために「学んだ」かは、つまり「その動機」は、重大な要となる要素だったのだ。
「結婚するためにきた」、「いい女がもらえると思って」などなど動機は人それぞれにある。
しかし、エデンの園を元返し、本来の人間性を養い、神の子になる道があるというのならば、「それ」を歩こう・・・。これが、皆の目的だと、私は一人で思っていたものだ。
しかし、違ったようだ。二人の話はことごとく食い違った。
そのころあった「深夜喫茶」で朝まで話込む。
そして私は、「その男」から最後の極め付けの言葉を聞いた。
『祝福家庭に、因縁があってたまるか!!』・・・、と。
私は、それをこそ解こうと相手に言った。
二人の幸せは、それによってもたらされる部分も多い、とも。


私は一族大反対の中を一人で、「針のむしろ」に座った。
ただ、両親は「あなたが不憫だから」という理由で、泣く泣く結婚式と称する場に列席してくれた。
「彼」は親族の中で、大満足の様子で座っていた。


と、まあ、長々書いても「人ごと」であれば、その後の話は省略しましょう。
段々と合わなく会話。そして会う機会さえ少なくなっていく。
どうするのか!と言われて「私」は「離婚」を打ち出した。
結果、なにもしないうちに、「バツ一」になってしまった。(速く籍だけは入れなくては、という彼の言葉にせかされてのこと)
(女だけが欲しければ、他へ行け! 自分の女房がご所望ならば、他へ行け!)
心ではいつもそう叫びながら、きっと鬼の面体で相対していたのでしょう。
(この人と一緒に行っても、あの時の死神に相対すことは、かなわない)
これが、私が最後に出した結論でした。死んだ者しか分からない「あの時の恐怖」・・・。
一人で生まれて、一人で死んでいくのだ。その時の死線を越える恐怖は、誰も私に成り代わって通ってはくれない。自分で肉体生活の全てをひっさげて、渡っていく世界こそ「あの世」と呼ばれる「霊界」なのである。
私という人間の相手に選ばれた「かの人」こそ、いい面の皮だっただかもしれない。(可愛くない女で、ごめんなさいね)

結果、「アベル」という立場にいた教会でも偉い人の前に立った。(引きずり出されたのではないから、ま、いいか・・・)
そして、「地獄に行ってもいいですか?・・・」と。「はい!」と私は即答した。


皆様におかれましては、なぜ「私」が地獄の門番かと・・・?、不思議に思った方も多いかと。
統一協会の「アベル」の、それも『お墨付き』の地獄の門番となれば、胸をはって喜んで「その役、あい勤めてごらんにいれまする~」ってところでしょうか。
その前後ですよ。夜三日三晩に渡って夢を見、そして「声」を聞いたのは・・・。
「それでいいのか」「本当にいいのか」「いいんだね・・・」・・・と。
私は神でも、教祖でもいい、「ダメ押し」までして私の心に忍び寄ってくださる存在に、今でも感謝しているのです。

きっと私の思い過ごしであり、一人よがりの思い込みでしょうが・・・。
その後の守護霊降霊時にね、いろんなところから「同じ」言葉が聞かれるようになりました。
一人は高山右近の次女。いま一人はあの「松月尼」。(前にブログで書いています)
『神にそむいたとしても、決して神はお見捨てにはなりません・・・』、と。


ね、二位の尼みたいでしょ。
「海の底にも都はあるでしょう」と。

ちょっと違ったかな。
とにかく、地獄へ行きたくない!の一心で、自分の心を偽って進んでも、いつか本当の魂(本心)が、必ず頭をもたげてきます。
天国とは、自分の本心を偽っていく所でもないし、また行けるはずもないのです。
「本心」とは、神の分身たる「わたし」の神宿る所(こころ)なのですから・・・。


さあ、皆さまの「都」はいずこにありや・・・。
一所懸命に、まじめに本心で生きて、行き着いたところが「地獄」なら、これぞわたしの人生だ!と、喜んで海の底でも、山の上でも、まいりましょうぞえ~。
私も喜んで、喝采いたしましょうからに~。はい。

「イエス誕生」の秘密

2013年11月03日 | 心霊現象
今日は、いよいよ「歴史の謎」に迫ります。
大袈裟な、と言われますな。これが分からなくて、私の父は「聖書」と「神」を捨てたのですから。
父は電気という世界から、この世の仕組みを見た人間でした。
第二次世界大戦に「違う意味」で参画した、ということになる。
「軽金属の会社」と、「電気計器試験場」で戦争に加わったのです。
「ゼロ戦」などの戦闘機の電気回路の試験に携わった彼は、来る日も来る日も「プラス」と「マイナス」の世界を見続けていた。
そんな父が、聖霊によって女がみごもるなど笑止千万。牧師といえども「神」といえども「ざれごと」を言うな!、となる。
さらに死人が三日後に蘇ると?・・・。(実際には有り得る。だから死後三日は待って遺体を荼毘にふすではないか)
聖書へのつまずきは、いたるところにある。そのほとんどが比喩であったり例えであったり暗示であったり、「サタン」の目を欺きながら「事をすすめる」神の作戦であれば、その「謎を解く」のは人間であり「メシヤ」の仕事だったのだろう。

アダムとイブに語った神の言葉が、「木の実」そのものであるような言い方はしていないが、そう受け取った者にとっては、手っ取り早く「りんご」にしたのだろう。
そこから「真理」は、大きく狂っていったが・・・。
「りんごの戒め」は、父のつまずきの原因の一つでもあった。
さて、では「イエスの本当の父」つまり血を分けた父は誰か・・・?。


答えから申し上げる。
「洗礼ヨハネ」の父、『ザカリヤ』その人である。
聖書を100回読めば、たいがいの謎は解けてくる、とこれを解いた方が言う。
マリアが一時、ザカリヤの家を訪ねた時があった。
その時である。ザカリヤの妻でありマリアの姉である「エリザベツ」が、こう言っている。
「あなたはなんと幸せな方でしょうか。お腹の中の子は神に祝福されている」と。
その時点で「洗礼ヨハネの母」となるエリザベツには、マリアのお腹の子の立場が分かっていた事になる。いずれマリアに子が生まれたら、「それ」を教えられる立場にいた。
万万が一、マリアが「分からずや」になっても、いずれ生まれる「その子」が、どういう立場の人間であるかを諭すことも可能であった。
奇跡を身に受けた「ザカリヤ」その人も、息子ヨハネについては「神がかり」的な立場であることは、容易に理解できた。
あとは「大工のヨセフ」。マリアの戸籍上の夫のことである。
自分の身に覚えのない「子ども」が生まれる?・・・。
当時の律法からすれば、「姦淫を犯した女」は石打の刑で殺される立場にあった。
マリアをどうするか・・・。
マリアと腹の子(イエス)の運命は、彼にかかっていたと言っても過言ではなかった。
マリアの不安は日々頂点に達していっただろう。夫への背信。ユダヤの法律。
どんな角度からも、マリアの「罪」は、許し難いものであった。(ただ、この世の律法によれば、である)
しかし、こともあろうに「神」は、法を犯すという暴挙?に出た。
なぜだ?・・・。
この世という「サタン」が決める法の裏をかく。よもや、まさか・・・、これが神の戦略だともいえる。
神は何をしてもいいのか・・・?。否!、否!である。
きっちり、「天法」に則って事をすすめるが、「この世の法」は網の目を縫うように図っていくのだ。ヨセフには何度も言葉が与えられている。マリアのお腹の子が祝福されている子だと、教えられているのだ。天使が言う。マリアは聖霊によってみごもったのだから・・・、と。
大工ヨセフは、マリアをそれでも愛していたのだ。自分の一言で、彼女をこの世から抹殺したくない。
お腹が大きくなっていく彼女をみながらも、内心複雑になってく。
そんなとき、マリアにもいく度か天使が現れ、神に祝福された子供の誕生を、霊界も地上界も待ちわびていると、彼女の萎えていく心を励まし続けた。

疑心暗鬼・・・、人間たちの心には、たとえ神から、たとえ天使からの言葉を聞いても「まさか・本当か」と心がゆらいでいっただろう。

多分「その秘密」を知っていたのは、この世ではたった二人だ。つまり、ザカリヤとマリアだ。他の人間は知らない。エリザベツさえ事実を知らないだろう。ヨセフの子だと当然思っている。
ヨセフだけが疑心暗鬼で、常にその心は揺れていた。だが結果、マリアを守ったことになった。
このヨセフの行為が、エデンの園で展開した「堕落の経緯」を逆転したことを証明したことになる(らしい)。
本来の「アダムとイブの結婚」に元返した、という立場を復帰した「神の摂理」が成立した・・・という。
大工ヨセフは、何だったのか・・・・。
彼はルーシェルの立場だったという。ヨセフがその、つまり「神の復帰摂理」の内容と、その経緯を知っていたわけではない。さらに自分が果たすべき責任分野を分かって行動したわけでもない。
たった一つ、「それでもマリアを愛している」という彼の心が、メシヤ誕生を、いやイエス誕生を「この世」にもたらしたことになった。

こうして、「イエス」という神の血統を霊的にも肉的にも持つ、一人の人間を「この世」に誕生させた。
その血統書は、マタイ伝の始めに長々と記されている。

と、あなたはこれを信じますか・・・・。




こじつけではないか・・・。
どこかに落とし穴があるのでは・・・。
何とでもおっしゃいませ。それに代わる真理を神に提示しさえすれば、神はきっと「あなた」こそ
「ユダ族のしし、ダビデの若枝」とおっしゃるでしょう。


その「イエス誕生」の結果、この世はどうなっていったか、は誰もが知っている。
なぜそうなったのかは、知らない。しかし、イエスが十字架について死んだことで「全てが終了・完結」した、と思っている人にとっては、むしろ矛盾だらけで謎だらけではないのか?・・・。

せめて、分かっていた者が、分かっていた部分だけでも自分の立場を全うしてさえいたら、こうはならなかっただろうに・・・。
と、言う事は簡単である。
当時者ではない私達は、今は何とでも言える。
が、ならば「今」わたしはどんな立場にいるのか・・・。
そして何をすることが「責任分野」なのか・・・。
それとも、何もないのか?、何もしなくていいのか?・・・。
「あなた」は、それをご存じでしょうか・・・。

と、同じことを自分に問いながら、「今」を生きている私でもあります。
あーあ、やっと父の墓前にこのことを知らせる「リベンジ」を果たせて、内心ほっとしています。
きっと私の背後には、父がいるのでしょうねぇ。
牧師に食って掛かり、聖書を破り捨て・・・、ね、似た者同士が二人三脚で「真理」とやらに食らいついてきた姿が、目にうかぶでしょ。
やっと父の「恨み」を解放出来るかな~と思いながらも、私のこれまで取ってきた行動を思い出しながら、苦笑いの連続でございます。(親子はこんなにも似るものでしょうかねぇ、ふふふ)

おっと、ときどき三人の尼様が頭をかすめるのは、ひょっとして、あなた方もご一緒か?・・・。