霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

海の底にも都はさぶらえ・・・

2013年11月04日 | 心霊現象
平家最後の闘い「壇ノ浦」。
その時、二位の尼はまだ幼い安徳天皇(?)を抱いて、船の上から下を見て「こう」言う。
「帝。海の底にも都はさぶらえ(そうらえ?)」と。
「幼い我が孫である帝。きっと海の底にも都はございましょうよ」と言って海に身を投げた。

平家物語を引き合いに出して、誠に申し訳ない限りではあるが、私はいつも思っている。
「地獄の底にも、救いはありましょう・・・」と。(決して天国があるとは、言えないが)


「原理原則に合わなければ、地獄に行く」とは、「アベル」の立場にいた者たちが異口同音に語った言葉だ。
その心の奥には、「地獄に行かないために」学び、信仰し、実践しましょうね、という思いが伝わってくる。そうだ、どこも間違ってはいない。
だが、その言葉の裏には作為、作戦が見え隠れする。
ともすれば「恐怖」を植え付け、一つのマインドコントロールによって「救い」や「神の道」(人の道)を教えていやしませんか・・・?、という事だ。
宗教と名のつく教えや教団に身を置いた者は、一度は経験したことがきっとあるだろう。
「地獄ゆき」を言い渡された事が。言い方を代えれば「あなたは地獄へ落ちますよ・・・」という脅かしの言葉を。
私も何度か聞いた。こんな「信仰生活ぶり?」だった私だから、何度も聞いた。
しかし「神の創造原理」が、私の心には希望だった。
その「光」の中へ、また、その「ふところ」へ戻りたいとも思った。
しかし、そこまでたどり着くには、罪深い私には、気が遠くなるほどの距離があるのは分かっている。
「ひとまかせ」にして歩ける道でもない。分かった分だけ進み、さらに石橋を叩いて渡った。
そして、とうとう「渡らない橋」いや、「渡れない橋」に出くわした。
一人ならまだいい。違う人格であり、違う血統が出会うとき、道の進み方に異変が起きた。
何の事かって?・・・。
はい。それは「結婚」です。
統一協会で教える「教え」の、第一段階は「教えを学ぶ」こと。
第二は男女の結婚であり、誰もが願ったことだった。(天国行きの切符を得る、といってもいい)
そうだ。それは『合同結婚式』といわれ、いまもって奇異な目でみられている。
教祖が決める結婚。これだけとってみても、今の世には「ありえない」事柄だ。
教祖が決める「その内容」、つまり決定の大半は、「先祖」にあると言われている。
だから目でみた「見た目」、つまり親や、職業や、学歴などは関係ない。
そんな「二人」が、マッチングと称して「組み合わされる」。
信者数が今よりはまだ少なかった時代、大きな部屋に一堂に会して行われた。
男性と女性が別れて、一塊になって座る。その中から「教祖」が先ず男性を立たせ、そして女性を選ぶ。一組が決まるのに、一分とかからない組もあれば、長い時間を要する組(カップル)もある。
教祖は神の承認と先祖の承認を、瞬時に得るという。
そして信者は、初めて見る「相手」に、それぞれの思いをいだく。
瞬間「仰天」する者もいれば、「寒気」がくる者もいる。
そして「踊りだしたくなる」という者もいる。
人間臭い「本性」が、その時とっさに現れるのかもしれない。
そして、・・・。
私の番がきた。
「この方」(教祖)は、まさか適当にやってんじゃないだろうな?・・・。
という私の疑いは、私の場面で崩れた。
神はよくよく私をご存じである。私は指さされても立たなかった。
前の女性だとばかり思ったからだ。案の定、私の前に座っていた女性が立ち上がった。
「やっぱりな」・・・、しかし違った。
手で合図されて「私だ」ということが分かった。

そして、地獄がそこから始まった。
親、それも両親、兄弟、親戚がいっさいいない結婚式。(私の方は、である)
「それでもやりたい」と、「その男」は言った。そして、なるべく早く!と促す。
お互いに年齢は「30歳」。(この男は早く子供を、とでも思っているのか?・・・)
(それは、私から言わせれば、タブー中のタブーであった)
この世の結婚をしに来たのではない。私の心はいつも「そこ」にあった。
あれ以来、私の生き方の原点は「死神」だった。
やっと「理論」を聞きかじっただけではないか。しかし「二人」で歩く道みちで、しっかり魂に刻み込み、実践の中で「基台」をつくればいいじゃないか~、とも思っていた。
だから、何のために「学んだ」かは、つまり「その動機」は、重大な要となる要素だったのだ。
「結婚するためにきた」、「いい女がもらえると思って」などなど動機は人それぞれにある。
しかし、エデンの園を元返し、本来の人間性を養い、神の子になる道があるというのならば、「それ」を歩こう・・・。これが、皆の目的だと、私は一人で思っていたものだ。
しかし、違ったようだ。二人の話はことごとく食い違った。
そのころあった「深夜喫茶」で朝まで話込む。
そして私は、「その男」から最後の極め付けの言葉を聞いた。
『祝福家庭に、因縁があってたまるか!!』・・・、と。
私は、それをこそ解こうと相手に言った。
二人の幸せは、それによってもたらされる部分も多い、とも。


私は一族大反対の中を一人で、「針のむしろ」に座った。
ただ、両親は「あなたが不憫だから」という理由で、泣く泣く結婚式と称する場に列席してくれた。
「彼」は親族の中で、大満足の様子で座っていた。


と、まあ、長々書いても「人ごと」であれば、その後の話は省略しましょう。
段々と合わなく会話。そして会う機会さえ少なくなっていく。
どうするのか!と言われて「私」は「離婚」を打ち出した。
結果、なにもしないうちに、「バツ一」になってしまった。(速く籍だけは入れなくては、という彼の言葉にせかされてのこと)
(女だけが欲しければ、他へ行け! 自分の女房がご所望ならば、他へ行け!)
心ではいつもそう叫びながら、きっと鬼の面体で相対していたのでしょう。
(この人と一緒に行っても、あの時の死神に相対すことは、かなわない)
これが、私が最後に出した結論でした。死んだ者しか分からない「あの時の恐怖」・・・。
一人で生まれて、一人で死んでいくのだ。その時の死線を越える恐怖は、誰も私に成り代わって通ってはくれない。自分で肉体生活の全てをひっさげて、渡っていく世界こそ「あの世」と呼ばれる「霊界」なのである。
私という人間の相手に選ばれた「かの人」こそ、いい面の皮だっただかもしれない。(可愛くない女で、ごめんなさいね)

結果、「アベル」という立場にいた教会でも偉い人の前に立った。(引きずり出されたのではないから、ま、いいか・・・)
そして、「地獄に行ってもいいですか?・・・」と。「はい!」と私は即答した。


皆様におかれましては、なぜ「私」が地獄の門番かと・・・?、不思議に思った方も多いかと。
統一協会の「アベル」の、それも『お墨付き』の地獄の門番となれば、胸をはって喜んで「その役、あい勤めてごらんにいれまする~」ってところでしょうか。
その前後ですよ。夜三日三晩に渡って夢を見、そして「声」を聞いたのは・・・。
「それでいいのか」「本当にいいのか」「いいんだね・・・」・・・と。
私は神でも、教祖でもいい、「ダメ押し」までして私の心に忍び寄ってくださる存在に、今でも感謝しているのです。

きっと私の思い過ごしであり、一人よがりの思い込みでしょうが・・・。
その後の守護霊降霊時にね、いろんなところから「同じ」言葉が聞かれるようになりました。
一人は高山右近の次女。いま一人はあの「松月尼」。(前にブログで書いています)
『神にそむいたとしても、決して神はお見捨てにはなりません・・・』、と。


ね、二位の尼みたいでしょ。
「海の底にも都はあるでしょう」と。

ちょっと違ったかな。
とにかく、地獄へ行きたくない!の一心で、自分の心を偽って進んでも、いつか本当の魂(本心)が、必ず頭をもたげてきます。
天国とは、自分の本心を偽っていく所でもないし、また行けるはずもないのです。
「本心」とは、神の分身たる「わたし」の神宿る所(こころ)なのですから・・・。


さあ、皆さまの「都」はいずこにありや・・・。
一所懸命に、まじめに本心で生きて、行き着いたところが「地獄」なら、これぞわたしの人生だ!と、喜んで海の底でも、山の上でも、まいりましょうぞえ~。
私も喜んで、喝采いたしましょうからに~。はい。