霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

祇園精舎の鐘の音・・・(墓石の不法投棄に思うこと)

2013年12月28日 | 心霊現象
続ければ「諸行無常の響きあり」となります。
言わずと知れた「平家物語」の書き出しの文です。
いかにこの世が無常ではかなく、空しいものであるかを一貫して描いています。
だからかどうかは知らないけれど、「鐘の音」はなぜか無常の響きがいたします。
それも「寺の鐘」は・・・。
けっして教会の鐘の音とは違う、「何かの響き」がある。
私達日本の年の瀬は、なぜか「その音」を聞いて「暮れてゆく年」を偲ぶのに慣れてきた。
108つの煩悩か、それとも次の年を見据えての不安か、静かに魂に忍び寄る「何か」を確認しながら、私達はそれでも生きていこうとして新年の「ご来光」を拝む。
日本での、繰り返されてきた「民族的魂におけるリセットの仕方」でもある。

こうして続いてきた「日本の習慣」に、少し少し「異変」が起きてきたようだ。
それは一つに、「無縁墓の始末」今様がある。
墓石の不法投棄が後を絶たないのだ。
京都のある場所には、いつ、誰が運んできたのか「捨てられた墓石」がゴロゴロしているという。
さすがに「墓石」と分かると、細かくして建築現場の再利用とはいかないらしい。
無縁になった墓、つまり『無縁墓』のその実態は、いままでにないほどスピードアップして現象化している。
また捨てこそしないが、墓はそのまま「ほったらかされた」ままであるのも多くなった。
回りは雑草や木が生い茂り、その根は時として墓石を持ち上げ砕く。
つまり「墓」が次の世代へと、繋がっていかないのだ。
だから死ぬのにも条件が必要になる。つまり、「墓を引き継ぐ人」を決めて死んでいかないといけないという。
その実態は、東京都で一年間「345区画」。その撤去費は「1億3000万円」。
広島・福山市の墓の不法投棄の多さもダントツである。
では、それは「砂利」(じゃり)にリサイクルできるか?・・・。
墓の石は固いので、費用もかかるという。それより何より再利用を「魂・心」が躊躇するという。

少子化が進む一方、高齢社会が押し寄せようとする日本。
もうこうなったら「墓」に入ることなど考えずに、国中が墓だと思えばいい。
そして「合同慰霊祭」を一回ですます。「国民の命日」に国あげて黙祷する。
「どなたさまも、安かれ・・・」。こうして少しづつ少なくなっていく「日本人」を噛みしめながら、西暦3000年まで続くであろう民族を最後に送るのは・・・、誰だろう。


縁起でもない!、とおっしゃいますな。
縁起でもない現象は、墓にかぎらずあちこちに見えてくる。
ただ見ようとしないだけ。まさか、よもや、そんな、日本に限って・・・。
お寺によって多少の違いはあるにせよ、大体どのくらい放ってある墓が処分されるのか・・・?。
有名無名はあっても、後孫が続かない血統であれば、「処分」の対象はまぬがれまい。
時の為政者でもない限り、豪華な伽藍の中でほぼ永続して安寧を保障される遺骨は、指折るくらいだろう。
そうでなくても、「千の風」になりたいという「墓なし」の希望者も増えてきた。
姫路城をはるかに望み、高台に有名な寺がある。古刹だ。
今からその土地を買って、墓を作るなど不可能なほどの寺に、私の義理の兄の一族の寺がある。
つまり私の姉の「つれあい」の先祖代々の墓があるのだ。
が、誰もそこへの行き方を知らない。(いや墓までの道を知らないのだ)
先の「淡路・神戸大震災」に亡くなった「おやじさん」(祖父)しか、行ったことがない。
寺の名前を辿れば、まだまだ知る人ぞ知る寺であれば、行くことは出来る。
しかし「墓」がどうなっているかは、誰もしらない。
この度やっと腰をあげたようだ。跡取りの息子(長男)にだけは教えておかなければと・・・。
しかしその人間(父)も、行ったことがない。
来年こそ、今年こそと言っているうちに10年過ぎた・・・。

そんな人事(ひとごと)を言ってはいられない。
私の足元にも、今火がついている。
弟と私。先に子供がいない。私達姉弟が死んでしまえば、墓守は絶える。
何の因果か独身の二人で、先には何一つ繋がる者がいない。
遠い親戚縁者にたよるしか「すべ」はないが、果たして縁者とて少子化の波の中で、同じ思いをしているとさえ思えてくる。あと10年、20年、30年・・・。
気が遠くなる月日の中で、荒れ放題の墓に「いつ」「誰が」花を手向け、供養の費用など約束してくれようか・・・。
『永代供養』の費用など、夢のまた夢。
一年に一万円を基本にすれば・・・、墓のお守りに今から先払いしてくれる者など・・・。
さらに、寺に札束を積んでその先を約束されても、どこでどうして、この先何が起こるかもわからない。
その「寺」が存続することさえ、危ぶまれる昨今。


ね、こう考えてくると、実に「無常(無情)」でしょ。
人の一生も無情であれば、墓の将来も無常である。
つまり「この世」に永遠(永生)を願うほうが無理というもの。そんな道理は最初から無い、となる。
あの「平家一門」が、あの「秀吉」が、あの「徳川家」が・・・、と考えてくると、やはり行き着くところは「無常」・・・。
秀吉の御製に「・・・なにはのことは、夢のまた夢」とあるように・・・。


先日ね、夕方のTV番組で「増加する無縁墓その実態」と称して「墓石の不法投棄の社会問題」を扱っていました。
つい目と耳が釘付けになり、何も出来ずにそのままの姿勢で、他にやることをも忘れて見入ってしまいました。
長い、実に長い「スパン」でみれば、本当にただごとではない問題でしょうが、自分の家族だけを見れば、将来は「夢」のように膨らんで見えているでしょうね、「今」は・・・。
長男が長男である「証」は、家を継ぎ、家業を継ぎ、財産を継ぎ、そして墓をも継いできた。
だから親の介護もするし、死に水もとった。
子供が生まれないことは、即「お家断絶(血統の断絶)」を意味し、酷のようでも『産まず女(うまずめ)」(石女とも書いた)は去れ、と離縁したのだ。
確かに封建的であり、女性の「人としての扱い」は無きに等しい時代だった。
が、家を中心に考えれば、また墓を中心に考えれば「やむなき事」ともいえた。
今は自由であり、平等であり、権利と義務はついて廻るが「いい時代」になったものである。
人権の賛歌に酔いながらここまできた時代の「つけ」や「しわ寄せ」が、今になってきたことも一つの事実であれば、今年の除夜の鐘は、いつになく「余韻」を残して我々の胸に直接響くに違いない。


♪ もういくつ寝ると、お正月~

と、年の瀬の「除夜の鐘」を一っ跳びにして、子供たちは歌います。
が、わたしたち大人は、しっかりと「今年」に「それなりに正しいケリ」をつけて、新しい年の船出をすることにいたしましょうぞ・・・。








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