霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「罪」、四つの非とは何?・・・

2013年08月04日 | 心霊現象
今日もまた、漢字からくる「暗示」をもって解析しょうかと・・・。
漢字は覚えて、読めて書ければ、それでいいじゃないかと思っていたのに~、とおっしゃらずしばしのおつきあいをば。
何気なく書いたり読んだりしていた「罪(つみ)」、この漢字って何を表しているのか?・・・。
読んで字のごとし。つまり「つみ」って、四つの非、つまり「あらず」を言うのだ、と分かる。
では、その四つの非って、何と何と何と何?。
ね、ちょっとドキっとするでしょ。
昔の人は、いえ、漢字文化は案外思った以上に「すごい」文化なのかもしれない。
字一つが「全て」を表して目に飛び込んでくるなんて、そうそう他にはないでしょう。
学校でもね、ただ読んで書くだけではなくて、もっと意味を伝えてくれたら、かえって記憶に残り、決して忘れないものになるかもしれない。


では「罪」ね。
四つって、何だと思いますか?。
はい、宿題です。というよりも、パソコンで検索すればほぼ何でも出てくる時代、すぐにお分かりになるかと。
ただ、罪(つみ)という意味は、「的外れ」という意味をいい、本来の目的から反れてしまうこと。
つまり、神が創造された目的から反れる、「的外れの人生」や、その内容をいう。
と、こんなことが書かれている。
なるほど、なるほど。では神の人間を創造された目的って何?。
それが分からなければ、的を外す行為を限定出来ないではないか。
そしてさらに掘り下げていくと、どうも「聖書」を読まないと分からないようで、仕方なく一部でも読んでしまう。コリント人への手紙に「四つの罪」の内容が書かれてあるとの誘いにのって、とうとう「罪」を知ってしまう。
しかし、私達はまだそれを認めたわけではない。
逃げ道はちゃんと用意しながら、それでも気になって深みにはまっていく。
例えの表現は悪いが、「富士山麓の青樹ヶ原」へ「いのち綱」をつけて分け入るのに似ている。
時々、迷いはしないかと綱を確かめながら、出口への脱出は確保しておく。
私でさえそうだったのだから、その心はよーく、痛いほど分かる。
しかし元の道へ帰ろうとする気がある限り、道(真理)は決して姿を現さない。
結果、「その命綱」を自らの手で断ち切らない限り、神も的も真理も見えてこない、という鉄則がある。
だから、あきらめるのが一番であり、手取り早いとなる。
「それ以上分け入って、奥へ進んではなりませぬ!!」
こんな声が本当に聞こえてくる。親しい聞き覚えのある声であれば、その人は100パーセント命綱を辿って、元来た道へと急ぎ帰ってゆく。
個人から人類歴史までの、いつものパターンである。

最も「知らせたくない」ものが、神の向こうで「わたし」を見つめる。「サタン」である。
姿を代え、声まで変えて、必死でその心に忍び寄り、行かせまいとする「もの」。
その「もの」との闘いが、その生死を分ける「青樹が原」のまっただ中、丁度中心あたりで展開するのだ。
たった四つのものを知るというだけで、何と大袈裟な話を、と言われるか?。
さにあらず、「一事が万事」である。

ローマ枢機卿の時代。
「七つの大罪」というのがパソコンで示される。それをたどれば「罪」の四つに的を絞ることが出来るようだ。
『暴食、色欲、強欲、憂鬱、傲慢、憤怒、怠惰、虚飾』とあり、どれかが一緒にくくられて、七つになり、さらにそこへ「嫉妬」が加えられ・・・、と書かれている。

ある人が言う。
「欲」がよくないのなら、全ての欲を断ち切ればいいではないか~と。
さにあらず、「欲」こそ神が与えられた人の生命、向上心を鼓舞するものであり、神性ともいえる。
悪いのはその使い方、方向性にあるのだ。
そして「コリント人への手紙」で四つに絞ることになる。
一、悪をむさぼる
二、偶像を礼拝する
  (本当の神でないものを神として拝む)
三、性的に淫らなことをする
四、不平を言う

さて、この四つと限定されたとしょう。
あなたは、今から「これ」を守って生活出来るだろうか。
また、その内容の具体例を確実に言い当てることが出来るだろうか・・・。
では「悪」って何?、そして「不平」は禁止でいいの?
淫らな性的な行為って何?、偶像は全部燃やすの?・・・となる。
具体性のない認識からは、具体的な生活は営めないのです。
分かっていないことは、実生活で行動するのは不可能となる。

現実社会において私達は、罪つまり犯罪を犯さない限り、安泰に生きていけるとなる。
「それでいいのだ!、他に何がある!」と、どこかでささやく声が聞こえる。

はい!これが現実であり、私達の普通の、平和な生活が営まれていくことになる。
そして「法」の全く違う「霊界」において、「天法」なるもので、今度は魂だけの価値観でそれも永遠という世界で暮らすことになる。
長さにおける「その差」は、一瞬と永遠の違いである。一瞬とは「瞬(まばた)きをする時間」をいう。霊界にいく宿命は、人間として生を受けた者は一人として例外はない。
神が人に与えた「喜びの創造の意義」は、知らないゆえに「恐怖」であり「不条理」であり「理不尽」にみえる。だから「不老長寿」の薬や、不老不死の肉体を願った。
皇帝も乞食も、寿命がくれば死ぬように本来造られたものであると知らないゆえに、肉体にしがみつくこの無知の哀れさ。
歳をとらない者も、死なない者も、この世にはあり得ない。
生きて死ぬまでに「何をしたか」。この全てを魂に刻んで「あの世」へと渡る。
これが人の道であり、神が与えた「本来の歓びの宿命」であったはずである。

もう一度「人間の本来性」に目を向け、「わたし」の魂の声を聞かなければならない。
そこにこそ親なる神の「霊なる声」が聞こえてくる。この世に一つしかない「わたし」の魂を目指して飛んでくる「親の声」を聞く事は、人間であれば誰でもでき、当然の出来事なのである。
ただ、長い歴史を通して、「この四つの罪」に代表される事柄が、人類と神を隔ててきた。
その間に分け入り「待った!」をかけ、さらに近づくことを邪魔立てし、遠ざけようとする「サタン」がいることを学ぶべきである。
その魂に忍び寄り、神と真逆の言葉を語りそそのかし、「わたし」を遙かかなたの暗い光無き世界へと引きずる存在に、負けてはならない。
人間にとって一番大切なもの。それが「命」と「愛」だと神が位置づけ与えられたものである。
その情を逆手に取り、引き換えにしてもいいかと迫る。それがサタンの存在であり正体である。
だから守護霊は、地上人を時々試すとき、必ずと言っていいほど『命を縮めてもか!』と問いただすのだ。
そしてその心は、「上等だ、覚悟の上だ!」と言い切る者の出現を待ちわびて、「今」に至っている。




さあ、このへんで終わりにしましょうか。
余韻を残して去るのもまた一興。結論はもう皆様にお預けします。

明日からちょっと、留守にいたします。宿題に励む方もあろうかと・・・。
がんばれ、がんばれ。
私も心の葛藤という世界に、励みいどんでまいります。
お互い、浮世はなんと難儀なことでしょうかねぇ~。