山腹にひっそりとたたずむナシ族の村
私は以前、タイ族などが使っていたフルスは教育の道具であり、恋の道具でもあったと書いた。おそらく、タイ族のみならずそれぞれの民族のそれぞれの楽器はフルスと同じような役割を果たしていたのだろうと考えている。
村に学校がなかった時代、閉ざされた山の中で生活する少数民族の子供たちの教育は村の大人や老人たちがやっていたに違いない。厳しい山の中で生きる方法やそのための村の決まり、そして祭りの仕方や作物の作り方などを教えるが、そのときにそれぞれの民族の固有の楽器を教えた。
そして、楽器を演奏できることは一人前の男としての教養でもあった。楽器をうまく演奏できる人が村の中で尊敬された。祭りの時も儀式の時も楽器が演奏された。山羊の放牧をするときも、楽器の演奏は退屈な見張りの仕事の慰めの手段だった。
男の子たちがある一定の年齢になると、好きな人の家の前に行って楽器を演奏する権利を与えられる。これが、村のにおける結婚の儀式の一つであり、楽器を演奏できるようになるのは大人になるための必須の条件だったのだろう。
今は大部分の地域に車の通る道路ができ、村の人たちが自分たちで教育をすることが少なくなり、それとともに楽器を使うこともなくなった。しかし、雲南の地の奥深くで密かに伝えられてきたフルスは先見の明ある人たちにより音楽用に改良され、すでに民族楽器として中国全土に広まっている。
しかし、フルスはまだ、その音色のすばらしさに比すれば、いくつかの欠点のある発展途上の楽器だ。私はこのようなフルスを日本に伝え、日本で、日本の技術と日本人の感性で新たな発展をさせることを願い、日本フルス普及会を主宰している。
実際は私はナシ族の地域に入ったので、この地の楽器はフルスではなかっただろうが、今回の雲南への小さな旅でフルス等、雲南の民族楽器が伝えらてきた環境や雰囲気を味わうことができた。さらに、日本に伝えることの意義を深めることができた。
そんなことを考えながら私は雲南の地を離れたのだった。