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ただのおじさんの「フルス フルス フルス」    ………フルス(葫芦絲)は中国雲南省生まれのひょうたん笛です………

まろやかな音色のフルスに一目(耳)惚れした「ただのおじ」さんが日本でフルスを普及させようと一念発起。はてさて………。

結婚してからも………

2011年08月31日 | 日頃の活動

 

九州ではただ一人のフルス奏者、廖明智さんは
お父さんは漢族、お母さんはミャオ族だそうだ。
お母さんからもらったという民族衣装がよく似合う。

 今年の4月のこと、九州国立博物館の催し「黄檗」の行事の一環で長崎のフルス奏者廖明智さんの演奏があるということを聞いていた。それで、福岡県内のメンバーにお知らせしていたところ、大牟田市はもちろん、福岡市からも聴きに行ってくれた。九州ではフルスの演奏を聴く機会が少なく、始めて本格的な中国曲を聴くメンバーも多く、大変感動していた。午前は観客は少なかったが、午後は大変多かったそうだ。フルスを持って、ニコッと微笑むだけでオーラが出る廖明智さんだが、フルスはもちろん歌も大変上手だ。
 その廖明智さんが結婚したそうだ。9月3日には結婚を記念して長崎の仲間で、お祝いのコンサートを開くので、招待を受けていたが、残念ながら私は行けない。結婚後も長崎ばかりではなく、どこででもフルスの演奏をして頂けるようにお願いしたい。


東北がんばれの歌「斉太郎節」

2011年04月12日 | 日頃の活動

 

東北大震災により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。



写真で言えば震源地は牡鹿半島の東(右側)の沖合。
4月10日の新聞によると半島の陰になる松島市は
死者1名、しかし、それよりもっと陰になる石巻市は2482人とある。



歌詞にも出てくる日本三景の松島十島(としま)。
松島湾の入り口にあるこれらの島々により、
松島市の津波の被害は和らげられた。

 

 

私は昨年の夏に松島市に行った。高台からもいわゆる松島をの島々を眺め、なるほど、これが昔から知られている日本三景の一つの松島なんだ、と感じ入ったものだ。

地震直後から被害状況を気にしていたら、新聞に松島市は周辺各市に比べると 地震の被害が少なかったと出ていた。
地図を見ると震源との間に牡鹿半島があり、それで遮られたのかと思った。しかし、同じく震源からの陰になっている東松山市や石巻市も大きな被害に遭っている。

震源は地震のきっかけになった地点であって、実際の津波の元になる海底の急激な隆起は400キロ以上にわたり、南北に連なった断層の反発で起こっているのだそうだ。したがって、少々の障害物があっても津波はあらゆる方向から回り込んで入ってくる。その結果 松島市の北側にある石巻市や南側にある仙台市でも大きな被害が出ている。

ところが、松島市は牡鹿半島の陰に出来た湾の中のさらにあるもう一つの湾の中に位置しており、しかも、その入り口にいわゆる日本三景の一つと言われる松島の島々がある。この島々が津波を遮ったのだという。

だれでも知っている松島が、こんな形で人々の命を救ったのである。壊滅的被害といわれるこの地域のほんの一部ではあるが、被害が少なかった地域があったのは不幸中の幸いである。生き残った方々は是非、立ち直って、元気に立ち直って頂きたい。

救援コンサートにおいて、私たち「おおむたグリークラブ」はそんな気持ちを込めて歌った。中でも このあたりの漁師たちの歌「斉太郎節」は「エンヤーオット」のかけ声にのせて「松島のサーヨー、瑞巌寺ほどはー」と、いつもよりもっと心を込めて力強く歌った。そして、いつの日か、生き残られたこのあたりの漁師さんたちがこの歌のように力強くこぎ出して行かれることを祈っています、と、しめくくった。

小さなコンサートなので、私たち団員の募金も含めて義援金が2~3万円も集まれば上々だと思っていたが、感動してくださった方からその場で10万円の大口の募金もあった。また、別の方が1万円札を募金箱に入れられる場面も見た。それで、総額は予想の数倍以上になった。この義援金は大牟田市社会福祉協議会を通して被災地に送られる。
私の生き方のテーマのフルスを通してではなかったが、同じく音楽活動の一つで気持ちを表すことができたので、ちょっと一息ついている。

 


おおむたグリークラブサロン未来塾で支援募金

2011年04月09日 | 日頃の活動

東北地方大震災により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。




おおむたグリークラブはごらんの通りかなり高齢者が
多い合唱団だが、この町では結構人気がある。


震災被害に 今現在苦しんでいる方々のために何か自分で出来る支援はないだろうかと常々考えている。簡単で、明快な方法は募金をすることだ。私は機会があるごとに募金には協力している。

しかし、1個人ではなくて、自分の置かれた立場から何か出来ないか、と考えると、フルス普及活動を通してということになる。しかし、それは今すぐにはなかなか実現出来ない。

ところが、私の別の音楽活動で、震災復旧支援に少しだけ貢献することが出来た。一刻も早く気持ちを表したいと思っていたが、一応 やれやれ、という思いである。

私は20年以上、この町の「おおむたグリークラブ」という男声合唱団で活動している。以前から、フルスの活動でお世話になっている「コーヒーサロンはら」から「サロン未来塾」で歌いませんか、と、お誘いがあっていたのだが、いろいろな都合で延び延びになっていた。「サロン未来塾」はこの町の未来を見据えた文化の向上を目指して、様々な文化的催しを「コーヒーサロンはら」主催でしてくださるものだ。

今回は「もっと近くでおおむたグリー」というタイトルで、私が全てのマネージメントをやり、実行することにしていた。喫茶店でやるので、普通は観客が最大で、60人ぐらい。しかし、20人ぐらいの合唱団なので、そのスペースが必要だから、最大で40人ぐらい。
いつも文化会館の大ホールでは1000人ぐらいの観客を動員する合唱団なので、「コーヒーサロンはら」に来て頂くお客様の口コミだけで観客を動員しようと決めて他の宣伝はいっさいしないようにしていた。

ところが、チラシも作り、限定チケットも作り、コンサート準備も最終段階に、さしかかったばかりの時に東北大震災が起こり、気がふさぐ毎日。たった40枚のチケットさえも売れきれず、何でも自粛ムードのこんな時にやってもいいのかと、何とも気が乗らない状況になった。

しかし、私にはこんな時にこそ、何かできないかという思いがあり、急きょ 主催者の「はら」と団員に「災害復旧支援」というタイトルをつけることを提案した。さらに、曲目の組み替えや、コンサートの筋立てを考え、それにふさわしい内容にして実行することにした。

すなわち、東北大震災復興支援 おおむたグリークラブサロン未来塾コンサート 「もっと近くで おおむたグリー」と長い名前のコンサートになった。

その結果、客席も埋まり、演奏も大変好評で、思いもよらぬほどの結果になった。


その時、せめてできること

2011年03月29日 | 日頃の活動

その時、せめてできること

東北関東地震により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

以下の文は3月11日投稿の記事のコピーです。間違えないで下さい。

赤い文字にして目立たせるようにはしているものの、
あわてて書いたので、期日の表記を間違っている。

3月11日午後3時40分ごろ いつものようにメール確認やフルスの記事の検索のためにパソコンをつけた。

ところが画面のニュース速報で地震発生の記事がでていた。地震発生1時間後ぐらいだ。確認のため何気なくテレビをつけたら、名取川付近を襲う津波の空中からの実況中継が目に飛び込んできた。まさに現在進行形の実況だ。

茫然として見ていたが、何度か行ったことのあるこの地域。 家を、車を、飲み込みながら押し寄せる津波。この地震は今までにない大地震だということが直感できた。

そんなことは何も知らないかのように通行する車………。私もこの道路をレンタカーで通ったことがある。運転手はおそらく何も知らないのだろう。私は彼に対して教えることも助けることも出来ない。私はもどかしさでいっぱいだった………。

しかし、何でもいいから、今できることをしたいと思った。親戚知人がいるならとにかく電話をしただろうが、この地域にはいない。
それで、思いついたのが、このブログに何かのメッセージを書くということだ。そして、急きょ記事を書いた。それが上の記事だ。

こんなのが役に立つかどうかはわからないが、もしも、もしも、この地域で津波が襲ってきていることを知らないでパソコンに向かっている人がいて、その中で、この記事を見た人がいたら、窓を開けて外の様子を見たであろうし、そうでなくて違う地域の人が見て、驚いてこの地域の知人に電話で知らせたかもしれない。それは万分の一にもならない確率だったろうが、とにかく、何もすることができない私がせめてもできる唯一の方法だったと思う。

そのメッセージを発信することができたのは16時ちょっと過ぎで、まだ津波がどんどん登っている最中だった。

それは直接的にはほとんど効果はなかったとは思われるがその時せめてできることはそのくらいだったのだ。最近のインターネット検索は結構速い。その日のうちに、「名取川」「津波」などで、私のブログにアクセスしていただいた方があるので、この情報発信の効果は全くのゼロではなかったということだ。

その後も、何とか、災害復旧あるいは被災された方々に役に立つ支援が出来ないのかを考えている。できればフルスの活動で………。


3ヶ月でステージに立つ

2011年03月19日 | 日頃の活動

東北関東地震により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。



高齢者の徘徊のための対策集会で200人の前で吹いた。

 

私が作った練習曲集と練習用伴奏曲CDで練習すると大体3ヶ月で難しいテクニックは別として指使いはうまくできるようになる。

ほとんどの楽器は下手なうちは音まで汚い、というより、不快にさえ感じる。ところがフルスはどんなに下手な人が吹いてもまろやかないい音が出る。さらに、フルスの音色は始めて聴く人が多いので、非常に珍しがられ、しっかり聴いてくれる。
小学生が習うリコーダーそっくりの指使いであり、日本人には特に易しいので、3ヶ月もすると人前で吹いてもまあまあ何とかなるというレベルになる。

私は2年前、始めての人前で吹いた演奏は厚かましくも200人の前で一人で吹いた。そのときにフルスを吹きたい人をチラシで募集したら、5人の人が応募してこられた。やはり、それは私が上手だったからではなく、フルスの音色がよかったからである。

そのグループが15人になったので、二つに分けた。今年はそれらが、さらに増えて 現在12人と10人のグループになったのだ。

私には教えてくれる先生がいなかったから、どうしても自分でやらなければならなかった。
それで、個人的なテクニックの問題は別にして、オカリナやリコーダーでやっておられるように少人数のアンサンブルや合奏という形態でやっている。結構それが吹く人にも聴く人にも好評で会員がどんどん増えているのだ。これが日本的なフルスの普及のあり方ではないかと思っている。


「フルスのふるさと大牟田」

2011年03月17日 | 日頃の活動

東北関東地震に被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 

三池地区公民館での合同練習。皆さんの熱気を感じる。

先日の三池初市のステージで、私はお別れに、観客の皆さんに「昨年はこのステージに5人で立ちました。今年は20人です。その計算で言うと来年は80人ですね。皆さんもどうぞ、フルスを始めてください。」と言った。80人は無理としても30人~40人は十分に考えられる数字だ。

大牟田でフルスを始めて約2年。色々なイベントに呼ばれたり新聞に載ったりするようになったので、大牟田でフルスという楽器を知っている人はかなり増えてきていると思う。おそらく、その率から言えば国内ではダントツでトップであるはずだ。

かつて21万人あった人口も今では12万人。2つあったデパートも今はゼロ。元々炭坑町だったので、閉山後(その前から)は急激に落ち込んでいった。夕張市が炭坑町で赤字再建団体になったように、いつ大牟田もそのようになるか戦々恐々としている。今年はなんとか免れたようで、ホッとしているのが実情である。

お金もほとんどかからない、おまけに楽しくて、腹式呼吸をするので、健康にいい。慰問や街のイベントに出て、地域に貢献できる………。

私は自分を含めて、老人ばかりがやたらと目立つこの町の市の活性化の一つの方法としてフルスによる町おこしを考えている。「フルスのふるさと大牟田。」そういわれる日が来ることを夢見ている。まんざら、これは夢ではない。5年後に100人のフルスを楽しむ人が出来るかもしれない。そうすれば大した力になる。

日本フルス普及会の本部はこの小さな田舎町大牟田にある。何が何でも中心は東京である必要はない。インターネット時代は12万人の大牟田だって、十分に中心になれるはずだ。ただのおじさんはそう考えている。


フルス演奏で研修生とニアミス

2011年03月15日 | 日頃の活動

地震、津波で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。




天道校区社会福祉協議会の会報。
上白川フルス愛好会の出演を知らせている。

 

上白川フルス愛好会は昨年の10月31日に大牟田市立天道小学校で行われた天道校区校区民の集いという福祉関係の行事に招かれ、フルスを吹いた。私は泰安にいたので、参加できなかったのだが、愛好会の会長さんのご主人 前畑さんは奥さんが出るその会を見に行かれたそうだ。

前畑さんはその後、泰安の研修センターに来て私と一緒に同じ仕事をした。そして天道小学校の集会のとき、中国人研修生も招待されていて、前畑さんは研修生たちとちょっと話をしたが、出身はどこなどとは聞かなかった、と言っておられた。

そのときは大して気にしなかったが、実はあとで分かったのだが、そのとき天道小学校に来ていた研修生は 武さんと同じ会社の研修生だったという。本来は武さんもその場にいたはずなのだが、帰国直前で、最後の思いで作りにと、会社からハウステンボスに遊びに連れて行ってもらっていたのだそうだ。武さんはその2日後の11月1日には中国に帰ってきたという。

本当に、世界は広いようで、狭い。もしも、日程が少しでもずれていれば、私たちのやっているフルスの活動を武さんはその目で見て来たし、、もしかして前畑さんと話してきたかもしれなかったのだ。本当にニアミスだった。


大牟田日中友好協会春節祭でフルスを吹いた

2011年02月26日 | 日頃の活動




市内の中華料理店で開かれた日中友好協会の春節祭

私は上白川フルス愛好会の皆さんとともに「さるく観光」の一部を楽しんだあと、一人別れて
一足早い電車で大牟田に帰った。というのは この日の夜は大牟田日中友好協会の春節祭にフルス演奏で招かれていたからだ。

この会には昨年も呼ばれた。会員の皆さんは本当に日中友好の精神に基づき、中国との交流を細やかにしてくださる。その献身ぶりには頭が下がる。

中国で 日本に研修生を送り出している会社の社長さんと食事をしたとき、大牟田の日中友好協会の活動を引き合いに出して、日本ではある程度の規模の町には必ず日中友好協会があって、心から中国人のお世話をしたり、交流をしたりしている、という話をしたら、涙を流して喜んでくださった。話した私も驚いたほどだったのだが、送り出す方も研修生が日本でどう扱われているかが気になることなのだ。

フルスの曲は初めて中国の民歌「竹林深処」を吹いた。もう、座が開けたあとだったのであんまり聴いてもらえなかったが、中国でイン先生に習った本格的な曲を初めて人前で吹いたのである。必ず引っかかる、と思っていたので、あんまり聴いてくれないこういう機会がいいかと思い、あえてこの曲を選んだのだが、案の定 つまずいたので 判断は正しかったわけだ。もう少し、上手になってから、きちんと聴いて頂く場で吹けるように練習をしたい。いまのところ、4月16日にそういう機会があるので、私の技術的な向上目標の一つである。
あとは「少年時代」など楽しい曲を吹き、楽しんでもらった。


同期会で、フルスを吹いた

2011年02月19日 | 日頃の活動




卒業後、48万年もたてば 黒部川渓谷だって
鶴見岳だってできるアルヨ。


高校時代の同期会が毎年決まった日に行われる。現職の時は忙しくて、ほとんど参加できなかったが、退職してからはいつも参加している。

1回目の時は私が男声合唱をしていることを知っている人からいきなり指名され、歌わされた。こんな時のためにいつでも伴奏なしで歌える歌を1曲用意している。よく聴いてくれて大好評だった。
2回目は また指名があるだろうと思い 密かにフルスを持って行っていた。そして、フルスを紹介したあと、吹いた。珍しいので、よく聴いてもらった。
3回目は事前に係の人からフルスを吹いてくださいと連絡があっていたので、伴奏付きで吹いた。

4回目の今年は事前に3曲お願いしますと連絡があった。そして、お世話係で司会者である友人から自分も中国服を着るので、私にも着てくださいと注文があった。実は彼の奥さんが上白川フルス愛好会に入会され、中国服を持っておられるのだ。体型が奥さんと同じなので、そのまま着ることができるそうだ。

そこで、3曲は多すぎるので、二人でコントをしたあと2曲吹くことにして、すぐにコントの台本を作り、ファックスで送っておいた。

コントは二人が中国人になって、「私、中国人アルヨ。」と、怪しげな日本語を使い、みんな昔は若くてかわいかったが、今はしわくちゃになっているという話をする内容だ。
「(顔に)グランドキャニオンあるアルヨ。」「そうそう、菊池渓谷もあるアルヨ。」………、といって、「深いしわの谷間」ならぬ「赤い川の谷間」を吹くという設定だ。

座が開けてしまったあとで、おしゃべりや酒飲みに夢中であんまり聴いてくれなかったが、二人で出来たので、楽しく心強かった。来年同じようなことがあれば、今度はちょっとコントの練習でもして、惹きつけるようにしなければならない。

この会ではフルスは当たり前になったので、珍しくもないが、こうやって場を設けてくれることはたいへんうれしいことだ。


千仏山山頂でフルスを吹いた

2010年11月28日 | 日頃の活動



今日の天気は晴れ。
しかし、済南の街並みすら、はっきり見えない。
黄河も、河北平野も見えない。残念!!



誰も注目はしない。よかった、よかった。
また、どこかで、フルスを吹こう。

前の週、曲阜に行ったときには孔府の前でフルスを吹かなかったことをあとで、残念に思ったので、今回ははじめから、山頂でフルスを吹くことを心に決めていた。
千仏山は標高280メートルのほどの低い山だ。しかし、晴れていれば南には雄大な泰山、そして、北には済南の街並みが見えるはずだ。さらにその町並みに接するように長く横たわる黄河、その先は北京の先まで500キロメートル広がる広大な河北平野が見えるはずだ。

そんな期待を胸に、山頂に着いた。天気は晴れていたが、この地域特有のかすみで眼下の済南の街並みさえよく見えなかった。中国では晴れていても大体このような日が多い。

あまり広くない頂上には岩場があり、ここそこに人が集まっている。場所を決めて、研修生にカメラを渡し、撮ってくれるように頼んだ。曲は「竹田の子守唄」。この曲についてはこのブログで何度もふれたが、中国でも「祈祷」(チータオ)として知られ、研修生たちは歌詞を見なくても歌えるほどだ。中国では平和を祈る歌となっているので、こういう場所で吹くのは一番ふさわしいと思う。

これは実際は動画で撮っているが、中国ではYOUTUBEが使えないので、写真のみ掲載しているが、日本に帰った後、動画にして変更しようと思う。