ただのおじさんの「フルス フルス フルス」    ………フルス(葫芦絲)は中国雲南省生まれのひょうたん笛です………

まろやかな音色のフルスに一目(耳)惚れした「ただのおじ」さんが日本でフルスを普及させようと一念発起。はてさて………。

フルスの海外展開

2011年01月31日 | 中国、海外のフルス事情

 
台湾最高峰玉山山頂にて日の出を待つ。
この山の近くに阿里山があり、「阿里山的姑娘」は
テキストに載っていてフルスでよく吹かれる曲である。


中国で人気の民族楽器は二胡がダントツだ。
私は2番目がフルスと思っていたが、李春華先生によると、古箏だそうだ。ただ、フルスは学校で正課にとりいれているところがあるが、古箏はそういうわけにはいかないだろう。手軽に演奏できるという意味ではフルスに利がある。それにしても、10年ぐらいの短期間にこれほどに普及したくらいだから今後さらにのびる可能性がある。これは全て、李春華先生のご功績というものだ。

それでは「海外では?」と、聞いてみた。そしたら、アメリカとイギリスで吹く人を知っています、ということだった。「吹く人を知っています。」ということは相当な腕前の方がいらっしゃる可能性がある。ということはその周辺にはかなりの人が吹いているかもしれない。私はどこかの動画サイトで、西洋人がフルスを吹いているのを見たことがある。
さらに、先生はアメリカの大学で、2週間ほど、フルスについての講義をされる予定で、準備中だと、楽しみにしておられる。ということはそれを受け入れる大学もあるということで、その周辺にもフルス人口があるかもしれない。

日本はもちろん伊藤悟さんが活躍されていることはご存じだだったが、日本フルス普及会の活動は今回初めて知ったし、このような会がある国は他には知らないと言うことだった。だからこそ今回私に会ってくださったのだと思う。

それでは台湾はどうですか、と尋ねたら、台湾には愛好者がけっこういます。ただ、組織的な動きは知りません、と、言うことであった。私は昨年台湾に行ったとき、フルスに関する情報はないかと、キョロキョロしながら観光したが、何の手がかりもなかった。李春華先生のテキストの中の台湾民歌「阿里山的姑娘」は私たち大牟田のフルス愛好会のお気に入りの演奏曲である。

李春華先生の「フルスによる民間外交は大変うれしいです。」という言葉に我が日本フルス普及会もまだ、組織は小さいが、文化交流という意味で世界に先駆けて、大きな働きが出来るのだと大いに元気づけられた。


日本にはじめてフルスを伝えた人

2011年01月30日 | 中国、海外のフルス事情

 

タイ族の服装で吹かれる李春華先生のポスター

フルスと日本のことを話せば必ず伊藤悟さんの名前が出てくる。李春華先生は3回ほど会ったことがあると言っておられた。

私がフルスとはじめて出会ったのが2005年。そのときすでに伊藤悟さんのホームページでフルスを紹介してあった。その後もフルス紹介の書籍や新しいホームページは現れず、現在でも日本語による唯一の情報源である。

伊藤悟さんは1998年に雲南大学に留学された。そのときエン先生と出会い、フルスを知る。その後大学に残り、少数民族の文化について研究されており、最近日本に帰ってこられたようだ。

一方、師を同じくする李春華先生は音楽教育者である。 どちらもフルスをこよなく愛する方だが、その曲や吹き方は全く違う。李春華先生は主に雲南省の少数民族や中国の民歌などを吹き、オリジナル曲も発表されている。音楽教育者であり芸術家である。一方伊藤悟さんは学者であり、少数民族の研究のために少数民族の村に伝えられた古い曲を発掘して吹いておられる。李春華先生によると、伊藤悟さんの笛は昔の様式の笛だそうだ。吹き方も李春華先生は様々な修飾音符を巧みに使いこなし、芸術的に仕上げられるのに対して、伊藤悟さんは少数民族の村に伝わる昔の吹き方を再現し、副管による通奏音を鳴らし、循環呼吸を用いて、とぎれなく吹き続ける神秘的な奏法で吹かれる。

同じ先生の指導によるのに、それぞれが自分の行くべき道をきちんと進んでおられるのは大変すばらしいことだと思う。きっと、共通の師であるエン先生の心が広く、自分の流儀を押しつけないでそれぞれの仕事上の必要性と興味を重視して指導されたからであろう。
伊藤悟さんのホームページはここ。


日本からのファンレター

2011年01月29日 | 中国、海外のフルス事情

 

日本から贈られたCDを聴きながら………。
後ろにあるのがそのケース。

李春華先生はプアール茶をたてながら日本の歌のCDセットを取り出し、実は日本から送って頂いた ものです、と言ってCDをかけてくださった。手紙らしい紙も大事に保管されているようだ。曲目は「さくら」であった。

私はとっさにひょっとしたら知っている方かもしれないと思い、どなたですか、と聞いた。そしたら、平沢さんと、おっしゃった。やっぱり知っていた。まだ、日本のフルス人口はそれほど多くないのだ。

平沢さんは1年半前に今回と同じ滞在先の泰安で、私がブログ検索で探し出したある人のブログを見ていたら、東京下町地区の日中友好協会でフルス講座が始まった、よく頑張っている、という記事が書いてあった。そこに載せてあったポスターの写真を拡大してみたらご本人の電話番号が書いてあった。それで、当たるも八卦、当たらぬも八卦で、日本フルス普及会のご案内のファックスを送ったのだ。ところが、うまく受け取って頂き、向こうから、電話がかかってきた。フルスに対する愛情がいっぱいこもった温かい電話だった。

墨田区 江東区等で教えておられ、千葉県船橋市でも始められたということで、東京には支部ができていたので千葉支部長にお願いして快諾して頂いた。しかし、ご本人はインターネットをやっておられないので、私が会員に送っている「フルス通信」も届いているかどうかよく分からない。

退職後、雲南大学に留学され、そこでフルスに出会われた。帰国後、一般の皆さんにフルスを教えておられる。時々、インターネットでそのご活躍が紹介されている。(ここをクリック)
その後、一度東京で会ったとき、雲南へもう一度行きたいと行っておられたが、今回同行をお誘いしたなら、大変喜ばれたことだろう。ただ、何せ、急に決まったことで、そこまで、思いつかなかった。大変申し訳なく思っている。


李春華先生のお話を聞いた。

2011年01月28日 | 中国、海外のフルス事情




フルスの音色はすばらしい。心を込めて吹いている。



フルスを吹くときは毎回初めてのような気持ちで吹く。



少数民族の心を伝える楽器フルスの魅力を「絶対に」伝えたい。
人差し指を立てられたのは「絶対に」という部分を
中国語で「一定(イーティン)」と言われた瞬間の表現である。


李春華先生は本論のフルスの魅力について語り始められた。
今やフルスの第一人者である李先生もフルスを吹くときは緊張される。毎回新しいことに挑戦するように音を探りながら表現していくのだそうだ。

特に雲南の少数民族のすばらしい音楽を吹くときにはフルスでしか出来ない音色と技法で伝えなければならない。フルスを吹くときには怖いほどだ。少数民族の心の深さを追求して表現したい、と言われる。

フルスが普及することは大変うれしい。そして、普及させる活動をする人に対して大変ありがたく思う。外国まで伝わるとなおうれしい。ただ、フルスは雲南の少数民族の民族楽器として広く普及させたいし、他の楽器と競争するような国際楽器になる必要はない。

最後の「国際楽器になる必要はない」というところについては別に私の私見があるので、この件に関してはまた別に記事を載せたいと思う。

とにかくほとんど分からない中国語の話しぶりや手振り身振りの表現から先生のフルスに対する情熱と愛情がひしひしと伝わってくるお話であった。


李春華先生がプアール茶で迎えてくれた。

2011年01月27日 | 中国、海外のフルス事情




事務所内のポスター。
先生のCDやテキストなど、私は全部買っている。



プアール茶は1回目のお茶はそのまま流す。
茶立て台には水受けがある。湯飲みは小さめ。


李春華先生の家は高級マンションの3階にあった。
迎えてくれた方はまさしくビデオや写真で何度も見た紳士だった。当たり前の話だが、言葉や振る舞いもビデオで見たように理知的でありながら、温かい語り口そのものだ。通された部屋は先生の出版されたCDや本の表紙を拡大したポスターが張ってあるものの、高級邸宅の応接室という感じだ。

先生はまずは雲南省のもっとも有名な特産品プアール茶を入れながらお話をされた。
中国では何度か経験があるが、主人が客人を迎えるとき、お茶たて台でゆっくりとお茶を入れ、本論に入る前の話をする。日本の茶の湯にも似た作法のようだ。
主人のていねいな手の動きや湯気の立ち上がりなどを見ながら話すと、自然に心が和み、話す雰囲気が高まるようだ。プアール茶は長年貯蔵したものほど発酵が進み、いいお茶とされる。

その話の中で、先生は38歳、家の中に他に人がいないようなので、独身かと思ったが、先生には大きい子供さんもいらっしゃることが分かった。そして、ここはお住まいではなくて先生の事務所だそうだ。先生の本職は大学の先生だが、先生ぐらいの方なら、事務所があっても当然である。その日は土曜日だったので、おそらく事務員さんもお休みだったのだろう。通された部屋は事務所事務所していなくて、そのあたりに先生の感覚がしのばれる。

おそらく、先生は同じ団地内にお住まいなのだろう。
あとで車を取りに行かれて、数分で帰ってこられたので、車は自宅においてあったのだと思う。


王計さんの工房でご挨拶

2011年01月26日 | 中国、海外のフルス事情



王計さんの工房は一般のアパートにある。
よく見ると外壁にフルスがぶら下げてある。



王計さん、奥さん、甥子さんと


第31中学校前で、ちぃふいさんと会った。
渋滞と直前にタクシーで接触事故があり、ハーハーと息づかい荒く走って来られた。メールとブログではいつもお会いしているが、その印象からは快活で活動的な方だが、実際に会ってみると結構ていねいで女性らしい印象を受けた。

王計さんの工房はすぐ近くだった。アパートの1階から4階までを店舗 倉庫 工房 住居にしてあり、外から見てもここが一見フルス工場だとは分からない。親戚家族でフルスを作っておられて、ちぃふいさんによると、ここのフルスは大変すばらしいという。

約束の時間に行ったが、その日は土曜日で休みなので、1階のドアはまだ、閉まっていた。やがて出てきた王計さんは小柄で、丸顔、非常に気さくな方で、家族と従業員(親戚の甥や姪など)を紹介してくださった。
主に奥さんはコンピュータ関係、甥子さんはリードの取り付け調整、姪子さんは絵付け彫刻関係を担当されているようだ。

ここはまず、挨拶のみで、李春華先生のお宅を訪問したあと、また、来ることになった。

李春華先生の家は都心から十数キロ離れた高級マンションの3階にあった。


真夜中のホテル探し

2011年01月25日 | 中国、海外のフルス事情

 

向こうの扉がトイレの扉。珍しくトイレのにおいはしなかったが、
閉まらないトイレの扉から割れたガラス窓を抜けて
入ってくる冷たい風がベッドの近くにも押し寄せてくる。

中国の飛行機は遅れるのが当たり前。
元々、その日は仕事を終えてから行くので、泰安に一番近い済南空港を20時35分発で、昆明到着は23時35分と遅いのだ。案の定飛行機の出発が遅れ、到着は1時頃という。ホテルは予約してあったので、安心のはずだったが、念のために「遅れます」と電話を入れてもらったら、何の手違いか、なんと予約が入っていなかったそうだ。仕方なく、済南の空港から電話でちぃふいさんの泊まっているホテルを含め、探してみたが、うまく折り合うところがなく、翌朝ちぃふいさんと会う予定の場所「第31中学校前」の近くへ行ってホテルを探すことにした。

昆明到着後、飛行場を出たのが1時半。タクシーでその場所に行ったが、途中、電気の灯っているまずまずのホテルが左手に見えたので、候補として一応頭の中に入れておいた。 第31中学校はすぐに分かった。その付近には安宿がいくつかあった。そのうちの一つに聞いたら、部屋は7階というので、重い荷物を持って上がるのもいやだと、先ほどタクシーから見たホテルの方へ、重い荷物を持って歩いていった。

ところが、思ったところにホテルはなかった。私の頭の羅針盤が狂ってしまい、方向感覚が全くなくなっている。あとで分かったことだが、タクシーが曲がるべき交差点は左折禁止なので、タクシーの運転手は、先の交差点まで行きそこで、Uターンをして、入るべき道へ入っていたのだ。そのことを私が見落としたために180度逆の方へまがってホテルを探していたのだ。

仕方がないので、先ほどの安宿があったところへ戻って別のホテルを探した。幸い開いていたので、そこに宿を取った。陳先生の部屋が30元(450円)、私の部屋が45元だ。一度こんな安宿に泊まってみたいと思っていたのだが、期せずして泊まることになった。

常春の別天地、雲南の冬は暖かいというが、この日は特に寒いときで割れた窓から風がどんどん入り、なかなか眠れなかった。

翌朝分かったが、目的の王計さんの工房はホテルの目と鼻の位置だった。


歳はとるもの、やってはみるもの

2011年01月24日 | 中国、海外のフルス事情

 

ただのおじ(い)さんが、あの李春華先生と一緒に写っている。

どうして、あのフルス界の大御所である李春華先生が、私みたいな「ただのおじ(い)さん」と会ってくださるのだろう。演奏活動や講演に 中国中あちこち飛び回っておられるはずなのに……… と思うが、きっと私の「日本フルス普及会会長」の肩書きがものを言ったのだろう。

このブログの「プロフィール」の中に定年までの仕事を「ごっこ遊び」と決めつけているが、決してそのごっこ遊びが悪いと言っては言っていない。きちんと、そのごっこ遊びのルールにしたがい、楽しく遊ぶのが一番いい。そのごっこ遊びの中で、本当に自分が偉いと思って、権力を振り回す人は世の中が見えないかわいそうな人だと思っている。
ところが、私は定年後の新しい「ごっこ遊び」を始めたのだということに いま、気が付いた。
ただし、この「ごっこ遊び」は「フルスが好きな人、この指とまれ」と呼びかけて集まった仲間である。好きな人だけが参加しているし、いやになったらやめればいい遊びだ。

もし、私がもっと若くしてこのようなことをはじめても、決して人は集まらなかっただろうし、まろやかな音色のフルスを日本中に広めたいという思いも伝えられなかったであろう。
歳はとるべきものだ。そしてせっかく頂いた歳は活用すべきだ。

私の昆明行きの日程も決まり 切符も買ったが、同じ研修生をコンビで教えている中国人日本語教師の陳先生が忙しくて、行けるかどうかがずっと分からなかった。さらにこの日に研修センターの引っ越しの日程が入り、最悪となった。研修生上がりで、同行を予定していた人も今からたのんでもうまくいくかどうか分からないという状況で、自分一人で行くしかないと思っていた。その場合はちぃふいさんもだいたい中国語が出来るというので、おんぶにだっこで、お世話になろうと考えていた。

ところが、最終段階で段取りをうまく調整してもらい、私は3泊だが、陳先生は2泊で行くことになった。しめしめ、李春華先生と会う日に陳先生がいてくれるということは全てがうまくいくと、いうことだ。


李春華先生に会える!!!

2011年01月23日 | 中国、海外のフルス事情



李春華先生の御近影

正月が開けたばかりの頃、ちぃふいさんから、メールが来た。
フルス工房の工場長王計さんが王春華先生と連絡を取ってくださり、私に会っていただけるという。そして、ちぃふいさんからは「私も連れて行ってくださあい。」と、書いてあった。 ちぃふいさんは興奮気味で、「カメラのメモリーもいっぱい残して、電池も充電しておいてください。私が李春華先生に演奏して頂くようにたのみますから………。」とある。 まさか、あの李春華先生に会える???!!!………。

李春華先生は前にもこのブログで紹介したが、フルスの演奏家、普及家、作曲家、教育家で、特に、緑の表紙のフルステキストはほとんどのフルス愛好者が使っているもので、中国でフルスを吹く人なら知らない人はいない。 フルスのバイエルとでもいえるものだ。バイエルとちょっと違うところはそこに載せてある曲がそのままコンサートや、昇級試験で使われる曲ばかりである。 だから、「パイエル+ショパンの名曲集」とでもいえるテキストである。
このテキストのおかげで、今、中国中でフルスが大流行しているのだ。

中国でフルスの有名人と言えばこの方をおいては語れない。中国で、フルスのDVDなどの売り場を覗いたら8割方は李春華先生か李先生のお師匠さんのエン先生の演奏のものが並んでいる。ただ、フルスの神様といわれていたエン先生は残念ながら2年前にお亡くなりになり、本当の神様になられた。残された春華先生はそれこそ中国(すなわち世界)フルス界を一人で背負っておられる超リーダーなのである。

ある人から「李春華先生はどんな方ですか、たとえば小澤征爾さん?………」と、質問があったが、オーケストラは音楽界のトップに位置しているので、ちょっと合わないかもしれないが………、と言葉を濁していた。

ギターの古賀政男とオカリナの宋次郎を合わせたような人かなあ、と、今はそう思っている。 そんな先生に直接会えるのだ。
正月早々こんなにいいことがあっていいのだろうか。今年のフルス活動のスタートダッシュはすごい。その後もこの勢いで行ければいいと思う。

昆明についての情報収集

2011年01月22日 | 中国、海外のフルス事情



青年路の楽器屋街の周辺にもフルス屋さんが
ありますよとの情報も頂いた。
青年路の一部は西洋を思わせる雰囲気の高級品街だ


ネットでつながっている方で、昆明に詳しい方数人にメールで情報提供をお願いした。
全員から返信があったが、あまり、詳しいのはなかった。そうならばネットで工房を調べ、
そこに事前に連絡したうえで直接行くしかないと決め、準備をしていた。そしたら、成都支部長のちぃふいさんから自分が行ったことのあるところでよければ工房を紹介できます、という返事が来た。

それから、旧正月明けから新しく3人の成都在住の日本人の方にフルスを教えるので、場合によってはその工房へ3人分のフルスを買いに行きます。もしそうなれば、詳しい情報を現地で調べてきます。というメールが来た。
ちぃふいさんはフルス普及の意義をしっかりと理解して頂き、いつも応援してくださっている方だ。

ありがたい。願ってもない情報。私は全面的にちぃふいさんの情報に頼ることにした。
「家族で迎えてくれる王計さんの工房で作られたフルスは心がこもっていて、本当にすばらしい。」と、ちぃふいさんが絶賛するフルス、私も是非行って確かめてみたいと思った。日程は私の研修生の閉講式が終わってからの1月14日から17日と決めた。

泰安からもっとも近い飛行場済南空港から直通で往復する。それにしたがって私の帰国日も19日と決めた。