険しいがけ道を3時間ぐらい歩き、あたりがちょっと開けたところでレストランに着いた。それはこのルートでは一番大きな村の中心にあって、昔から茶馬古道を通る隊商たちの休憩所になっていたところと思われる。
村には100戸ぐらいの民家があるので、当然学校はあるものと思ってどこにあるのか聞いたら、この村にはないという。現在は700メートルぐらい下の長江沿いに茶馬古道と平行に車が通る道路ができていてそこからこの村に道が通じている。下の道路沿いに学校があるので、村の車で子供たちを送るのだそうだ。
10数年前までは茶馬古道以外には道はなかったはずだ。以前はどうしていたのだろう。
きっと、大人やお年寄りたちが村の中で子供たちを集め、村のしきたりや山での仕事の仕方を教えていたのだろう。そのときの教育の道具の一つがフルスであり巴烏であったのだろうと私は思っている。写真は下の道路から上ってきた自動車と茶馬古道を行き来する馬。
村には100戸ぐらいの民家があるので、当然学校はあるものと思ってどこにあるのか聞いたら、この村にはないという。現在は700メートルぐらい下の長江沿いに茶馬古道と平行に車が通る道路ができていてそこからこの村に道が通じている。下の道路沿いに学校があるので、村の車で子供たちを送るのだそうだ。
10数年前までは茶馬古道以外には道はなかったはずだ。以前はどうしていたのだろう。
きっと、大人やお年寄りたちが村の中で子供たちを集め、村のしきたりや山での仕事の仕方を教えていたのだろう。そのときの教育の道具の一つがフルスであり巴烏であったのだろうと私は思っている。写真は下の道路から上ってきた自動車と茶馬古道を行き来する馬。