逝きし世の面影

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ポーツマス条約調印1905年9月5日

2019年09月05日 | 東アジア共同体

敗戦と外交勝利 ポーツマス条約と日露戦争の終結 2019年09月05日 13:01       Sputnik

1905年9月5日、米国ニューハンプシャー州の都市ポーツマスで日露代表はポーツマス条約に調印した。これは日露戦争(ロシア側の表記で露日戦争、1904−1905年)を終結させるためのものである。日本に大敗を期したロシアが、どのようにして全てを失わずにすんだのか、振り返ってみよう。
確かに日露戦争は、ロシアには敗北を意味し、日本海海戦の大敗後、日本の示す提案をのまざるを得なくなった。
日本は開戦した1904年7月の時点ですでにロシアに講和条件の交渉を持ちかけていた。
実は、日本は開戦前の試算で戦費調達は1年が限界とふんでいた。つまり望みの綱は、ロシアの主力を満州へ南下させる前に、早い段階で勝利することだった。

{抜粋)

『奇襲で戦争を始め「短期決戦で早期決着」を目指した日本』

当時の大日本帝国の国力ではロシアとの全面戦争は最長でも1年が限度で、日本軍が短期決戦で勝利して有利な条件での講和を目指していたことは良く知られた事実であった。明治時代の日清戦争にしろ日露戦争にしろ同じで、日本軍の奇襲攻撃(相手が油断していいる時に、だまし討ち的に)で開戦している事実は日本人なら誰でも知っている常識である。
★注、
しかし『日本は開戦した1904年7月の時点ですでにロシアに講和条件の交渉を持ちかけていた。』の方は驚きで、ほぼ誰も知らない秘密の話である。

1905年4月、日本政府はセオドア・ルーズベルト米大統領に正式に講和の斡旋を申し入れた。講和会議にはロシア全権代表セルゲイ・ヴィッテ首相、ロマン・ローゼン駐米大使、日本側は小村寿太郎外務大臣高平小五郎駐米公使が参加した。決裂すれすれの激論が繰り広げられたが、日本側は賠償金などの講和要求を取り下げたので決着する。

『ポーツマス条約の日露合意』  Sputnik

1、ロシア帝国は、日本が大韓帝国の同意を得ずに、その主権に触れる措置はとらないことを条件に、朝鮮半島における日本の国益を認める。
2、満州からは日露の両軍ともが撤退する。
3、ロシア帝国は、旅順、大連および南満州鉄道の租借権を日本に譲渡する。
4、ロシア帝国は、サハリンの大部分の面積に対する領有権を手元に残し、日本には、南サハリン(サハリンの北緯50度以南)および付属島嶼に軍事要塞を建設しないという条件で、これを割譲する。
5、この条約は日露両国の貿易関係の確立と捕虜の交換方法を規定する。

ポーツマス条約
ポーツマス条約
 
目からウロコ、『ロシア側から見た、驚きのポーツマス条約(日露講和条約)の内容』

ポーツマス条約の内容に賠償金が1円も無かったことから、日露戦争での膨大な戦費の調達(戦時国債)で国家財政の危機に見舞われた日本では、『条約締結に強い不満を示し、戦争の再開と小村外務大臣の辞任を要求。東京では日比谷焼打事件に代表される暴動が荒れ狂った』などは教科書にも載っている良く知られた事実で日本人にとっては一般常識である。
ところが、その逆にロシア帝国から割譲された南サハリンに日本軍の軍事要塞を建設出来ないとの条件付きだった事実は誰も知らない。
もっと知らないのが、
ロシア帝国は、日本が大韓帝国の同意を得ずに、その主権に触れる措置はとらないことを条件に、朝鮮半島における日本の国益を認める。 満州からは日露の両軍ともが撤退する。』とのポーツマス条約の驚きの条件である。

なんと、関東軍による国家テロの張作霖爆殺とか満州事件、満州国の建国以前に、朝鮮植民地化そのものがポーツマス条約(日露講和条約)の違反だったし、そもそも満州から日本軍が撤退することが前提だったのである。(もしも日本が1905年のポーツマス条約を守っていれば1945年の敗戦も無かった)
 
『現在の日韓対立の原因の多くは、114年前のポーツマス条約(講和条約)違反に由来』

日清戦争に勝って
台湾を植民地にし、日露戦争で朝鮮を植民地にしたが、丸々日露講和条約(ポーツマス条約)違反だったのですから挙国一致で隠すのもむべなるかな。
 
観閲式で旭日旗を持って行進する海上自衛隊員
 
五輪、旭日旗の持ち込み禁止せず 2019/9/3 共同通信

2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は3日、韓国国会の文化体育観光委員会が旭日旗の競技会場への持ち込み禁止措置を組織委などに求める決議を採択したことを受け「旭日旗は日本国内で広く使用されており、旗の掲示そのものが政治的宣伝とはならないと考えており、持ち込み禁止品とすることは想定していない」と明らかにした。

   

     町山智浩 @TomoMachi                    
つまり、2020年の東京オリンピックは、1964年に成功した平和の祭典ではなく、1940年に中止された「民族の祭典」をやりたいわけですね。


コメント (6)    この記事についてブログを書く
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6 コメント

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9月2日樺太解放記念日 (十三湊淳之介)
2019-09-05 16:31:51
旧豊原駅の駅前広場では九月二日の”日本帝国主義からの解放”が祝われます。当初は、「帝国主義とは何を大げさな…」と思ったものですが、宗純様のこの記事を読み、ロシアの考え方に一層の共感を感じるようになりました。
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Sputnikの歪曲/ (中田)
2019-09-05 18:07:09
>(1)、ロシア帝国は、日本が大韓帝国の同意を得ずに、その主権に触れる措置はとらないことを条件に、朝鮮半島における日本の国益を認める

第二條

露西亞帝國政府ハ日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝國政府カ韓國ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス
 
>(4)、ロシア帝国は、サハリンの大部分の面積に対する領有権を手元に残し、日本には、南サハリン(サハリンの北緯50度以南)および付属島嶼に軍事要塞を建設しないという条件で、これを割譲する。
 
第九條

露西亞帝國政府ハ薩哈嗹島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼並該地方ニ於ケル一切ノ公共營造物及財産ヲ完全ナル主權ト共ニ永遠日本帝國政府ニ讓與ス其ノ讓與地域ノ北方境界ハ北緯五十度ト定ム該地域ノ正確ナル境界線ハ本條約ニ附屬スル追加約款第二ノ規定ニ從ヒ之ヲ決定スヘシ

日本國及露西亞國ハ薩哈嗹島又ハ其ノ附近ノ島嶼ニ於ケル各自ノ領地内ニ堡壘其ノ他之ニ類スル軍事上工作物ヲ築造セサルコトニ互ニ同意ス又兩國ハ各宗谷海峡及韃靼海峡ノ自由航海ヲ防礙スルコトアルヘキ何等ノ軍事上借置ヲ執ラサルコトヲ約ス

http://teikoku-denmo.jp/history/kaisetsu/other/portsmouth_1905.html
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Unknown (ローレライ)
2019-09-05 19:33:25
ロシアに泳がされていた日本!
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ポーツマス条約勅令版第3条の紹介 (現田石)
2019-09-05 20:11:39
近代史に興味ある現田石です。
ポーツマス条約のころは、条約の条文はフランス語のものが一番優先。とりあえず日本の勅令版から引用。
第三條
日本國及露西亞國ハ互ニ左ノ事ヲ約ス
二 前記地域[遼東半島]ヲ除クノ外現ニ日本國又ハ露西亞國ノ軍隊ニ於テ占領シ又ハ其ノ監理ノ下ニ在ル滿洲全部ヲ擧ケテ全然清國專屬ノ行政ニ還附スルコト

フランス語が読めなくても、上の日本語を素直によめば満州は中国の行政の元に戻し、露日の軍隊は撤退すると読める。
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セザルはセサルでは (十三湊淳之介)
2019-09-05 20:47:39
田中様のご指摘の通りですね。原文にSputnikの説明に当たるものは見当たりません。今インターネットに出てくる同条約を読んでいるのですが、第二条「…方リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス」は真正の文章ではありませんね。当時の文語では濁音は清音で表記しました。帝國憲法でも「天皇戦ヲ宣シ和ヲ講ス」でしょう。当然、「…干渉セザル…」は「…干渉セサル…」とあるべきではないでしょうか。Sputnikの日本語には誤りが多いですね。「殉職」とあるべくを、「殉死」となったことが多々ありました。ひょっとしたら、「大韓帝國不干渉」という秘密約定文をレニングラード大学出身者の訳者は見たのかも。
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日本語版の信憑性は低い。! (宗純)
2019-09-06 16:50:42
フランス語版の原本を訳したスプートニクの方が正しいらしいですよ。

DEEPLY JAPAN
敗戦の否認は実にリアル&ポーツマスも再考余地あり

2019-09-05 19:51:17 | アジア情勢複雑怪奇
https://blog.goo.ne.jp/deeplyjapan/e/5781a42b281f9c3decc7450796f00999

■ 原文書を読もう!

極東軍事裁判の話の時も書いたけど、とにかくまず原文を読みましょう。

ポーツマス条約の英語正文はこれ。

http://www.portsmouthpeacetreaty.com/process/peace/TreatyText.pdf



そもそも、114年前のポーツマス条約の話どころか、今の日本国憲法ですが日本政府の日本語版と、その原本らしい日本国の外務省の英語版では内容が違っていた。同一の日本政府内部でも違うのですから驚くやら呆れるやら。

「人々」(The people)だった日本国憲法の「国民」

2012年05月03日 | 憲法
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/959fa6694087e742848e59e984866701

それなら、114年前のポーツマス条約で、ロシア語版と日本語版が、大事な部分で中身が違っている話などは、ある意味では当然なのです。
少しも不思議ではないどころか、あって当然。無い方が驚きだ。
今回、当該スプートニク記事で一番驚いたのは、
★印と太字で強調した、
『日本は開戦した1904年7月の時点ですでにロシアに講和条件の交渉を持ちかけていた』

此方の方は驚きで、ほぼ誰も知らない秘密の話。この部分が記事の目玉なのですが、
何故か誰も気にしていないらしい。何とも残念だ。
そもそも戦争とは、開戦時に出口戦略まで考えてから始めるのが戦争の基本の基本なのです。

そのそも、全面戦争とは敵国の首都を攻略して皇帝を殺すか捕虜にし、全土を占領して、やっと戦争が終わる。
日露戦争の10年前の日清戦争では、日本軍の連戦連勝で、首都北京の攻略を恐れた清朝が、戦意を喪失したから1年で終わっているが、欧州では30年戦争とか100年戦争などまである。

しかし、日露戦争では日本にはモスクワ攻略などまったく考えてもいないし、その力も無い。(日本の常備軍25万に対してロシア帝国は150万)
日本軍が戦ったのは中国遼東半島とか満州南部、日本海に限定されていた。
典型的な局地戦なのです。
日露戦争当時の日本軍は慎重で、ロシアが本気にならないように、ウラジオストックなどロシアの本土には一切手を出していなかった。
バイカル湖まで進出して東シベリアを占領し、ウラジオストックを7年間も占領統治した第一次世界大戦のシベリア出兵とは大違いなのです。

日本は最初から全面戦争に陥ることを極度に恐れていて、始めた時からロシアに対して講和条約を申し入れていた。戦争というよりも、巨大な戦闘(合戦?)だった。
それなら、『日露事変』とか、『日露の役』と呼んだ方が、日露戦争の今の名称よりも間違う人が少ないかも知れません。

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