逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

最初で最後のウラン型原爆リトルボーイ

2019年08月06日 | 軍事、外交
渡邉英徳‏ @hwtnv
74年前の今日。1945年8月6日8時15分,広島市への原子爆弾投下。当時の推定人口35万人のうち,9万〜16万6千人が,被爆から2〜4か月以内に死亡したとされる。写真は,B-29「Necessary Evil(必要悪)」号から撮影されたきのこ雲。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補


同日,呉市の吉浦町(現:若葉町)の海軍工廠砲煩実験部から撮影された,広島原爆のきのこ雲。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。(写真:尾木正己)

onodekita‏ @onodekita · 8月6日 (元東電原発職員の医師)

一般人をどれだけたくさん被ばくさせるかを考えて、平日の8時過ぎに原爆を投下した。その30分前に現地調査をして、空襲警報をださせて、油断させてである。
これを戦争犯罪と言わなければ、いったい何を戦争犯罪というのか

片渕監督講義『この世界の片隅に』暮らしと戦争2

「呉からは丸一日キノコ雲が見えていた」
叶精二 映像研究家、亜細亜大学・東京工学院講師 2017年08月04日 論座RONXA


広島県呉市から撮影された原爆投下2、3分後のキノコ雲。地上写真として新聞紙上に掲載された最初の写真=撮影・尾木正己さん

前回(「片渕監督講義『この世界の片隅に』暮らしと戦争1――「昭和18年秋まで女性はスカートを履いていた」)に続き、片渕須直監督講義録の後半を掲載する。

後半では第二次大戦末期の呉と広島の様子が語られている。中でも、昭和20(1945)年8月6日の朝に投下された広島原爆が隣町の呉からどう見えていたのか、二つの街の絆と人々の暮らしについての内容は、映画『この世界の片隅に』後半部の描写を支えたリアリティの内実が垣間見える証言と言える。
作品が投げかけた日々の暮らしの愛おしさ、それを奪う戦争というものを今一度考える契機として頂ければ幸いである。(構成・載録/叶精二)

呉の空襲被害と東日本大震災

戦争中の日本は、国全体が統制された社会でした。
それまで市町村ごとにあった消防団が、戦中に国の消防機関(警防団)として警察組織の一部にして統合。広島県でも、消防本部が出来て、町・村でお金を出し合って買った消防車を、重要都市である広島(県庁所在地)と呉(海軍工廠)の2箇所だけに集めた。
呉市は昭和20年7月1日~2日の夜間戦略的爆撃で広域が焼ける。広島の人々は真夜中に空を赤く染める大空襲を見ていた。広島からは消防車が大量に出動、消火に走り回った。翌日、広島から呉に万単位の数のおにぎりが届いた。
命令があったかも知れませんが、『空襲罹災者のことを思って救援する』意識もあったと思います。戦争中は金属製品は軍事物資として回収していたが、集めた鍋などを家を失った罹災者に再配給するというようなこともされています。
その後も呉は7月24日、25日、28日、29日と何度も空襲被害に晒されるが、その度に(空襲を受けなかった)隣町の広島市は何かしら支援をしていた。これは東日本大震災の時に被災者支援を行ったことと似ている。

20キロ離れた呉から見た原爆
昭和20年8月6日、朝8時15分に広島に原爆が投下され「ピカッ」という光の後に「ドンッ」という衝撃波「ピカドン」があった。「ピカッ」というのは単なる閃光だけでなく、様々な放射線・熱線も含まれています。爆心直下にいた人たちは、一瞬にして人体が黒こげになったわけです。

『この世界の片隅に』の主人公(北條)すずさんたちが暮らす20キロ離れた呉はどうだったか
「ピカッ」の光速と「ドンッ」の音速は届くまでに差があります。20キロだと50秒くらい。熱線については、「呉ではほっぺたがちょっと温かくなった」という手記があり、かえって生々しいリアリティを感じる。
爆心地だけではなく、その外側にも少しずつ影響が減衰しながらも広がって行ったんですね。

なおかつ、キノコ雲が立ち上がる
どのくらいの高さだったのか? 計った人がいないのでいろいろな説があったんですが、最近では高度1万6000メートル、16キロ付近まで上がったのではないかと言われています。その頂点と20キロ地点の呉を直線で結んで三角関数で計ると40度くらいの角度になります。この角度でキノコ雲を見上げていた人たちがいたわけです。つまり広島市街だけでキノコ雲が見えていたわけではないんです。

キノコ雲は夕方まで出ていた
20キロ離れた呉市の人たちは丸一日それを眺めて「大変だなぁ」と思いながら、お昼ご飯を作り、晩ご飯も作ったわけです。

呉からは大量の消防車が広島に救援に駆けつけた
呉空襲の時の恩返しの意図もあったでしょう。
でも、広島市内には既に大量の放射性降下物が拡散していて、それを体内に吸い込んで内部被ばくしてしまった人がたくさん出たんですね。「入市被ばく」という言葉があるわけです。この物語の登場人物の何人かも被ばくして放射線被害に苦しんだりしています。

原作では原爆投下の日は「20年8月」だが映画ではすずが機銃掃射を受けた「その9日後」としました。8月6日の朝を生きていた人たちにとっては、その日は特別な日ではなかったはずだからです。
(抜粋)


広島原爆のキノコ雲が呉市からはどう見えていたかを語る片渕須直監督

叶 精二(Seiji Kanoh)‏ @seijikanoh 16:33 - 2019年8月5日

片渕監督によると、1945年7月米軍による呉への執拗な空襲が続き、隣町の広島からは多数の消防車が駆けつけ、(1日大空襲の翌日)おにぎりが数万個届いたそうです。一体どこに米の備蓄がそんなにあったのか、供出か外米か分かりませんが、何とか力になりたいという切実な思いが感じられるお話です

原爆投下の際、今度は返礼として呉から広島へ数百人規模で救援に駆けつけた。その結果、大勢の方が「入市被曝」で命を落とされたり、被害に苦しむことになってしまった…。2016年末早大特別講義でこのお話を伺った際、二つの街の間に深い絆を感じ、何とか記事にして広めたいと思いました。

片渕監督からは、すずさんが右手を失っていなかったら家族救援の為に広島に駆けつけた筈で「入市被曝」していたのではないか…といった話も伺いました。
その時、すずさんは失った右手に、晴美さんに、生命を救われたと言えるのかも知れないのだなぁ…と思いました。(続

片渕監督は映画で「8月6日」と明示していないことについて、次のように語っていらっしゃいました。
「すずさんが空から機銃掃射を受けた話の後、『その9日後』としました。
8月6日の朝を生きていた人たちにとっては、その日は特別な日ではなかったはずだからです」


1945年 7月16日アメリカ合衆国ニューメキシコ州の世界最初の核実験(爆縮型のプルトニウム原爆)のTrinity 「トリニティ」とはキリスト教の根本原理の三位一体の意味。

『最初で最後のヒロシマのウラン型原爆リトルボーイ』

ウラン型原爆は原理的に必要量の核物質の重量さえあれば必ず爆発する。核実験をする必要性が無いので世界で広島に投下されたリトルボーイの一発以外には作られていない。
ウラン型原爆リトルボーイの場合、核爆発で得られるエネルギーよりも、ウラン濃縮に使われるエネルギーの方が上回る。エネルギー効率が悪すぎる欠点があり、いくら大金持ちのアメリカでも最初の一発以外は作る余裕が無かったのである。

『対日戦争の勝敗が決した後で、原爆を使ったアメリカ』

唯一の同盟国だったドイツが降伏した後では、もはや反撃する手段を持たない日本はノーガードで殴られ放題の一方的な戦況なので、原子爆弾を開発したロバート・オッペンハイマーやアインシュタインなどの科学者も、アメリカ軍高官も『もはや戦争の勝敗は決している』として原爆は威嚇目的での使用にとどめて、実戦での使用には反対していた。
軍人や科学者の反対を押し切って出来上がったばかりの原爆を実戦使用した理由とは、(日本の731部隊のような)生きている人間を使った人体実験か、それともソ連との覇権争い(第二次世界大戦中から米英が密かに始めていた冷戦)の恫喝目的であったと言われている。

『100万人の米兵の命を救った原子爆弾』

もしもトルーマン大統領が言うように対日戦争で『100万人の米兵の命を救った』(米兵死者が100万なら間違いなく日本人の死者数は2000万人)原爆投下が戦争終結に少しでも役立ったのであれば、我々日本人にとっては原爆は悪ではなくて180度反対の『救いの神』である。
最低でも『荒ぶる神』なので、今頃は日本中、全国各地、津々浦々に原爆神社が祀られているはずだ。しかし、そんなものは何処にも無い。(★注、原爆投下後に爆心地に入った日本人の記憶によれば、原爆で戦意喪失どころか、新型爆弾による無差別殺戮の極悪非道を行ったアメリカに対し、失いかけていた戦意が高揚『鬼畜米英』なんとしても仕返しすると思ったらしい)



『復讐するは我にあり』 独裁的権力を失った最高権力者は殺される

国家ファシスト党による一党独裁制を確立したイタリアのベニート・ムッソリーニは、いわゆる『史上最大の作戦』(連合国軍によるフランスのノルマンディー上陸作戦)の1年も前の1943年7月に行われたシチリア上陸とそれに続くナポリなどイタリア南部侵攻。その後ムッソリーニはドイツの傀儡国家であるイタリア社会共和国の首相に就任するが、1945年4月28日赤色パルチザンに捕まり愛人とともに処刑され、遺体はガソリンスタンドの屋根に逆さに吊るされる。
ヒトラーは盟友のムッソリーニの結末と同じにならないようソ連赤軍に包囲された首都ベルリンの地下壕で4月30日に愛人エバと自殺。ドイツは5月8日フランスのランスでドイツ軍作戦部長が、5月9日には首都ベルリンでドイツ軍最高司令官が降伏文書に署名して欧州での戦争は終結する。



『実質的に1945年5月9日(ドイツ降伏)で終わっていた第二次世界大戦』

ドイツ降服で勝敗が決まったアメリカ軍は、店じまいの在庫一掃セール的な無差別の猛爆撃を日本本土に行っていた。
レイテ海戦の敗北以後の日本には反撃する空軍力も海軍力も残っていなかったので、もはや戦争ではなくて一方的なサンドバッグ状態に陥っていた。
連合国(アメリカ軍)としても、リング上で棒立ちになりながらもファンティングポーズを続けているので(もはや意味が無い愚行だとは知りながらも)ダウン(降服)するまで日本を殴り続けるしか方法が無かったのである。
日本が連合国軍に降服したのはドイツ降服から4ヶ月後の9月2日東京湾のアメリカ戦艦ミズリー号での降服文書への署名捺印であるが、この最後の4ヶ月間でほぼ全ての日本の都市が焼け野原に変わり果てる。
ところが最後の同盟国ドイツ降服後4ヶ月間も日本が世界中を敵に回してまで、何のために避けられない降服を引き伸ばしたのかの合理的な説明は『国体の護持』(天皇制の維持)だった。

『本土決戦(一億玉砕)しか無かった日本軍の戦略』

対米戦争に先立つ1945年1月に陸軍大臣だった東条英機は『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ』との戦陣訓で自ら退路をなくしてしまった。日本軍としは、幾ら降服したくても『降服できない』のである。
降服できない日本がドイツ降服後に行ったのは一億玉砕の本土決戦の準備だったのである。凄惨を極めた地獄の沖縄戦はその準備のための時間稼ぎだった。
この『降服できない日本』との特殊事情を熟知していたアメリカのルーズベルトは、1943年11月のカイロ会議でソ連のスターリンにドイツ降服後3ヶ月以内の対日参戦を要請する。


★注、
対日カイロ宣言が出された『カイロ会談』の前後にはモスクワ会議やテヘラン会議など米英ソ三国首脳の会談が極秘に重ねられていて、ソ連対日参戦と千島列島引き渡しが決定されていた。

『ドイツ降伏から3カ月以内のソ連赤軍の対日参戦』 

対日参戦はヤルタ会談やポツダム会議でも再度確約され8月9日未明のソ連軍の侵攻が始まったが、即座に日本は御前会議で無条件降服を決定する。


今では歴史のエピソードの一つにすぎないがムッソリーニの処刑は3ヶ月前でありロシアのロマノフ王朝の皇帝一族が赤軍に処刑されたのは27年前。当時の日本にとって過ぎ去った『過去』ではなく、恐ろしい目の前の『現実』だった。
本土決戦を決意して着々と準備していたのに突然方針転換した不思議ですが、ソ連軍参戦では『即座の無条件降服』しか日本には選択肢は無かったのである。
ソ連赤軍の対日参戦(原因)による唐突なポツダム宣言の受諾(結果)ですが不思議でもなんでもなくて、単純明快な何とも簡単な話だった。


アメリカに遅れること4年と1カ月。1949年8月29日にソ連初の原爆実験(核出力22キロトン)がセミパラチンスク核実験場で行われた。
最初の水素(核融合)爆弾(10.4メガトン)は1952年11月1日アメリカが太平洋のエニウェトク環礁で行ったが、ソ連は翌1953年8月12日に早くも水爆爆弾の実験に成功する。

『人類の歴史上最強の心理兵器としての、恐怖の原子爆弾』

ソ連の核開発で、それまでの核兵器の独占を失ったアメリカは恐怖心にかられて『赤狩り』(レッドパージ)や朝鮮戦争を始めるが、暴走するマッカーサー司令官は北朝鮮や中国に対する核攻撃を主張した。
日本人の悲劇を知っている朝鮮半島の人々は『アメリカ軍による核兵器使用』のうわさから、米韓側の保導連盟事件の大虐殺より、核の恐怖の方が上回って朝鮮北部から南部に向かって一斉に逃げ出す。
核兵器は『威嚇目的』として絶大な威力を持っていたのである。

『禍々しい原爆神話の誕生』

『ソ連軍参戦での日本の降服』という単純明快な話が、突然複雑になるのは1945年7月16日アメリカが世界初めての原子爆弾トリニティ (trinity) の実験に成功したことが原因だった。
当時のアメリカ軍の高官たちは『戦争終結には役立たない』として原爆の使用には反対だったが、トルーマンは何としても実戦に使ってみたかった。8月6日にはウラン型原子爆弾のリトルボーイがヒロシマに、8月9日にはプルトニウム型のファットマンがナガサキに原爆投下される。
当時の原爆は4トンにも達する超大型なのでB29でも搭載できないので特別仕様に改造された機種で何回も日本各地の都市で原爆と同じ大きさの模擬爆弾の投下練習が繰り返されていた。
トルーマン大統領の原爆使用の動機とは、高価な新しい玩具を買ってもらった子供と同じで、膨大な経費を浪費した原爆を何としても使いたかったとの説も有るが、アメリカとしては5月のドイツ降服の時点で第二次世界大戦は事実上終わっている。

『第二次世界大戦を終わらす前から。早くも対ソ全面戦争(第三次世界大戦)を準備していたアメリカ』

8月時点で既にアメリカにとって第二次世界大戦の同盟国であるソビエト連邦との、『新しい戦争』(冷戦)が密かに準備されていた。
(目の前に迫った)冷戦勃発を見据えた政治家トルーマン大統領とすれば、軍人にすぎない米軍高官の(目先の)『戦争終結に原爆の使用は役に立たない。逆効果である』との忠告を無視したのは当然だった。
終戦後に早々と冷戦を始めたトルーマン大統領が言い出したのが『原爆投下で戦争が終わった』(百万人の米兵の命を救った)との禍々しい神話である。
原爆投下は(これまでの古い敵)日本軍国主義に対する恫喝では無くて、(これからの新しい敵)ソ連共産主義に対する恫喝だった。
本当に原爆が終戦を早めたのであれば、日本人を含め世界の人々にとって原爆は『悪』では無くて『救い神』『正義』である。(原爆投下で戦争が終わったが本当なら、日本人は原爆反対では無くて逆に『原爆神社』を建立して毎年盛大に祭礼を執り行う)
薄々はソ連軍参戦と日本の降服が連動している事実を知っているのだが、これを認めるのは腹立たしい『原爆が戦争を終わらした』とのアメリカの神話と同じで、絶対に有り得ないのである。(特に冷戦が始まったことから余計に認められなくなる)



『天皇(現人神)ヒロヒト下血騒動と、マスコミや有識者の「天皇御聖断」(対米戦争を終わらした天皇)との不思議な関係』

善人も悪人も最高責任者も、死ねば皆ほとけになる無責任国家、不思議な日本国。
1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇死去。
日本がバブル経済に浮かれる(バブル崩壊が迫る)1988年末から1989年にかけて昭和天皇の下血騒動が連日メディアに取り上げられて、これに対して共産党は世間の動きとは180度正反対に機関紙赤旗紙上で連日昭和天皇の戦争責任のキャンペーンを連載記事で書いて真正面から対向する。
当時の共産党は、今とは大違いで選挙の度に議席が倍増する勢いだった。 明治憲法下では条文を読めば誰でも分かるように、大日本帝国の唯一の主権者は天皇ただ一人だったのです。
戦争終結に果たした天皇ヒロヒトの功績が全てのマスコミで大宣伝されるのですが、それなら(天皇のお蔭で戦争が終わったのが事実であるなら)、自動的に戦争の開始にも責任があるとの共産党の主張には論理的な整合性があり正しい。

『責任者には責任が無い、日本国の不幸』

そもそも未曾有の国難をもたらしたアメリカとの戦争(第二次世界大戦)は軍部が勝手に始めたものではなくて、まさに天皇の御聖断(勅令)で始まってるのですから、(戦争責任を問われて絞首刑になった)優秀な軍事官僚程度の東条英機以上にヒロヒト天皇には開戦した責任がある。
ところが、そんな論理的な『責任論』は日本人には馴染まない。
それどころか例え大悪人であろうと無かろうと関係なく今現在、目の前で死につつあるものに対する責任追及は日本人的道徳観からは反感を買い、政治的にマイナスにしかならない。
善人も悪人も『死ねば皆ほとけ』になる無責任国家日本では以後長い間共産党は低迷期に入って仕舞ったのである。これはヒロヒト天皇の呪いか祟りですね。
本来責任をとるのが責任者の役目なのだが我が日本国に限っては世界基準とは正反対に、『責任者には責任が無い』のである。
それならヒロヒト天皇のような『最高責任者にはもっと責任が無い』となるのであるから無茶苦茶。
世界の常識(論理的思考)の180度正反対の無茶苦茶が、日本だけは平気で罷り通るのであるから恐ろしい。(1945年8月15日の現人神ヒロヒト『玉音放送』を聞いた当時の人々ですが、最悪なら責任をとって自決するか、最低でも『退位する』と思ったらしい)

今年も国連の『核兵器禁止条約署名』を拒否した日本

「日本も核兵器禁止条約に署名・批准を」被爆者団体
2019/08/06 NHKニュース

広島市の平和記念式典のあと、被爆者団体代表らが安倍総理大臣に、日本も核兵器禁止条約に署名するよう要望しました。
安倍総理大臣は「核兵器禁止条約については、アプローチは異なる・・・・核兵器国と非核兵器国の橋渡しを務める」と述べ拒否しました。
被爆者団体代表は「政府はいつも核保有国と非保有国の橋渡しと言うが、私たちの思いは伝わらないのではと感じた。私たちは一貫して核兵器廃絶を訴えていきたい」。「これまでと何ら変わらず、期待はずれだった。政府には、まずは核兵器禁止条約に署名するよう働きかけていきたい」と述べた。
(抜粋)

『いさという時(戦時)に、核兵器を使う「核の傘」(相互確証破壊)の日本政府』

佐藤栄作総理がノーベル平和賞を受賞した日本の『非核三原則』(持たず作らず持ち込ませず)ですが、一番肝心要の『核兵器を使用しない』が日本の『非核三原則』には最初から入っていないことに注意。いわゆる『核の傘』とは、戦時には核兵器を遠慮なく使うと宣言しているのですよ。(★注、日本政府は、『日本は核の傘で守られている』と曖昧に誤魔化しているが、その意味とは『戦時の核兵器の使用』そのものだった)





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3 コメント

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Unknown (フラビオ農山村)
2019-08-06 17:59:06
1)ソ連の対日参戦を決めたのはカイロ会議ではなくヤルタ会談だったと思います。ヤルタの秘密協定
2)1945年1月時の陸軍大臣は杉山元です。東条は1940年7月22日から1944年7月22日までのちょうど4年間。1941年10月18日からは首相と兼務です
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無条件降伏ではない (中田)
2019-08-06 18:12:22
国体護持が条件
象徴天皇制で形式的には国体護持は達成された
返信する
クルスク大戦車戦 (宗純)
2019-08-07 11:37:05

ナチスドイツですが、1942年6月のスターリングラードの戦いが転換点となり、
1943年7月のクルスク大戦車戦以後は、ソ連の勝利(ドイツの敗北)は決定的であった。
敗走するドイツ軍を見て、アメリカ(ルーズベルト)はソ連の対日参戦を要請している。

ソ連の対日参戦を決めたのは1945年のヤルタ会談だったというのは、公式発表的な発想ではあるが、事実とは大きく違っている。
クルスク大戦車戦以後に米英ソ3国の首脳会談を繰り返していて、カイロ会談前後にはソ連参戦は決定されていた、
日本の場合には最後の防衛ラインのサイパン陥落で実質的に戦争は終わっている。東条以後小刻みに内閣が代わっているが、単なる敗戦処理であり、ほぼ意味がありません。

日本の歴史では飛鳥時代とか後醍醐天皇、王政復古の大日本帝国などごく短い期間を除いて、
すべて今と同じ権威はあるが権力が無い象徴天皇制ですね。だから世界に例が無い千数百年も続くことが可能だったのでしょう。



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