逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

早すぎた悲劇、天誅組と中山忠光

2009年08月17日 | 社会・歴史
1853年ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊4艘が浦賀沖に来航し、圧倒的な軍事力を背景にして日本(徳川幕府)に開国を迫った。
以後日本国内は開国か攘夷か、朝廷を担ぐ尊皇か親幕府の左幕かで国論が二分し大騒動となり、徳川幕府は急速に弱体化していく。
この時、歴史の流れに逆らった『遅すぎた悲劇』が近藤勇や土方歳三の新撰組なら、『早すぎた悲劇』とは、今から146年前の今日。明治維新の4年半前の1863年8月17日の中山忠光らの『天誅組』の決起(挙兵)であろう。

『攘夷(外国排斥運動)で日本が騒乱状態』

ペリー艦隊来航から十年後の1663年には開国の影響による日本からの金の流出、物価の高騰やコレラなど疫病の大流行などによる庶民の不満や怒りは巷にあふれ、攘夷(欧米列強など外国の排斥)運動は頂点をむかえていた。

『下関戦争(馬関戦争)』

5月10日、長州藩は下関海峡を航行中のアメリカ商船ベンプローク号に対して陸上砲台や砲艦から砲撃を開始する。
その後、イギリス軍艦を見つけてこれも攻撃する。日本と長い友好関係に有ったオランダ軍艦まで攻撃するに至って、此処に長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との『馬関戦争』が勃発した。
列強4国の最新装備の艦隊の総攻撃をうけた長州藩は、軍艦や陸上砲台を破壊され馬関戦争(下関戦争)に完敗する。

『薩英戦争』

7月2日、島津久光の隊列が横浜でイギリス人4人を殺傷した生麦事件の責任者の処罰や賠償を拒む薩摩藩に対して、イギリス東洋艦隊の7艘の軍艦が鹿児島を攻撃して『薩英戦争』も起こっている。
イギリス艦隊は大きな損害を受けながらも、薩摩藩の軍艦3艘を破壊して鹿児島城下の街並みを焼き払い引き上げる。

『天誅組の挙兵』

8月13日、孝明天皇の大和行幸(攘夷祈願のために天皇が神武天皇陵・春日大社を参拝)に乗じて、明治天皇の叔父に当たる過激派の公家中山忠光は大和で挙兵する。(天誅組)
大和五條の代官所を襲撃して代官を殺害して首をさらし、代官所に放火して焼き払う。
桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地として『御政府』を宣言し本拠とする。
天誅組はその後、高取城攻略を企てるも激しい抵抗に合い失敗。以後は転々と本拠地を移し吉野大峰山中を敗走しながら戦闘を繰り返していた。

決起にかき集められた1200人の十津川郷士は、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなく、郷士数名は天誅組の作戦に抗議し、天の辻で斬首されている。
天誅組は相次ぐ敗戦と十津川郷士の離反で、挙兵から40日後の9月27日の鷲家口の戦闘で、天誅組としての組織は完全に壊滅する。
その後、1万人の幕府軍の包囲を辛くも脱出できた首領中山忠光ら七名は尊皇攘夷派の長州藩を頼って遠く山口県へ落ちのびて行く。

中山忠光は天誅組の変の3ヶ月前の5月に起こっている下関戦争(馬関戦争)時に、長州藩に招かれ禁門の変で戦死した久坂玄瑞の率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加していた。

『中山忠光卿暗殺』

長州藩に落ち延びた天誅組総裁であった中山忠光は、天誅組の変から1年後の1864年12月13日(元治元年11月5日)に最期の頼りの長州藩により無残にも暗殺されてしまう。
中山忠光にとって、逃亡の最期に頼っていった拠り所が長州だった。
しかし天誅組の存在が邪魔になった(尊皇攘夷が旗印の)長州藩により、山口県豊浦郡豊北町田耕にて暗殺(絞殺)される。享年20歳。

中山忠光卿は、明治天皇の母親の中山慶子の弟なので、明治天皇の叔父に当たります。
忠光が暗殺された後に生まれた遺児仲子は嵯峨公勝夫人となった。
清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の浩は、忠光の唯一の遺児である仲子の孫にあたる。
また、孫文の号の中山は日本亡命時代にたまたま忠光を祭る中山神社の前を通りかかり天誅組の『中山』忠光を自分の号にしたとの説もあります。

中山忠光の辞世

思ひきや  野田の案山子の梓弓  引きも放たで 朽ち果つるとは

『抹殺された史実と語られない歴史』

今までの文章で残っている歴史は、基本的には勝者によって書き残されてきた。
現存する日本独自の最も古い記録は古事記や日本書紀で有るが、それ以前に在った大和朝廷の公式な記録である国記(くにつふみ)や天皇記は蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変で曽我氏と共に失われている。
これは史実どおりに、本当に乙巳の変で焼失した可能性も有る。
其の反対に天智天皇や藤原氏が、歴史を新しく創作する為には曽我馬子編纂の国記や天皇記は存在自体が新体制にとっては困るので、密かに破棄して新しく古事記や日本書紀を作った、とも考えられる。

1300年以上前の昔でなく極最近の出来事でも、公式に宣伝したい歴史に反する事件や出来事は見ざる聞かざる言わざるで、歴史から抹殺される運命に有る。
第二次世界大戦のソ連の対日参戦は語られるが、日本がソ連成立直後のどさくさに、ソ連のバイカル湖以東のシベリアやサハリン北部を4年間にわたって占領していた史実『対ソ干渉戦争(シベリア出兵)と有志連合』(2008年03月11日 | 社会・歴史)は滅多に語られることはない。
歴史は繰り返す。
『人道』を目的(口実)とした米英仏日など8カ国列強有志連合の対ソ干渉戦争は、その90年後に行われた、いわゆる強制民主化の為の米英スペインオーストラリア有志連合の対イラク侵略戦争と全く瓜二つで有る事が判るだろう。

『新撰組と天誅組』

同じ時代の同じ様な歴史の流れに乗りそこなった『悲劇』であるが、一方(新撰組)は語られすぎで、一方(天誅組)は語られない。
語られる事が少ない『天誅組』は新撰組に比べて小さな組織の小さな事件だったのだろうか。?
しかし事実は全く違う。
天誅組は新撰組など足元にも及ばないほどの大きな影響を当時の社会に与えているし、参加した関係者の数でも抜きん出ている。
規模的に一桁以上の大きな事件である『天誅組』が何故いま『歴史の闇』に埋もれようとしているのだろうか。?
この答えは簡単で、公式の歴史(教えたい歴史?)からは天誅組は逸脱しているからでしょう。
天誅組の何が、みんなに教えたい公式の歴史にとって、不都合なのであろうか。?
この答えも簡単で、尊皇攘夷の長州藩の作られたイメージと、天誅組とは合い入れない不都合な真実なのです。(長州(山口県)は歴代の自民党首相の出身地)
尊王をいいながら明治天皇の叔父を殺したのでは話にならない。
本来嫌でも保護しなければならない義理や人情や日頃の主義主張などの建前に真っ向から反する汚い裏切り(中山忠光の謀殺)を行っているからでしょう。
匿っていた山口組組長狙撃犯の鳴海清を、邪魔になってきたので六甲山中でガムテープでぐるぐる巻きにして殺した(ヤクザの建前の)義理も人情も仁義もない組織暴力団一和会の悪事と、この時の長州藩の悪事(中山忠光卿謀殺)は全く同等かそれ以下の見下げ果てた行いだったのです。



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対ソ干渉戦争(シベリア出兵)と有志連合(2008年03月11日 | 社会・歴史
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/3d21ef45ca6484553ddadbec007abb9a

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2 コメント

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『歴史の闇』に埋もれようとしている?? (通りすがり)
2014-11-18 16:04:29
ウィキペディアで天誅組を見てみてもわかるように、天誅組は歴史的に社会的影響力をおよぼすようなことは何もしていない。中山忠光も長州藩の幕府恭順派である俗論派によって暗殺された。尊皇攘夷派ではない。尊皇攘夷派が暗殺を隠す必要はまったくなく、暗殺はむしろ公にしたほうが自分たちにとっても都合がいいのだが。
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5年も前の記事にコメントが・・ (宗純)
2014-11-19 17:21:49
なにはともあれ、一応は喜ばしい現象でしょう。
本来なら通りすがりなど個人を特定していないHNは不掲載なのですが、今回は例外として残しておきます。

ウィキペディアとは知識有る人々にとっては『シシュボスの石」であると言われています。ギリシャ神話ではシシュボスは大岩を山の頂上まで運びあげるのですが、苦労してせっかく担ぎ上げた呪われた岩は元の谷底に転げ落ちて水の泡になる。年号とか人命のつづりを調べるのには大変便利ですが、それ以上の利用は憚られる不思議な代物。
あまり、頭からウィキペディアを信用しない方が得策でしょう。無関係な他人から自分の無知を笑われるだけです。
中山忠光卿は、明治天皇のおじさんですよ。薩摩や長州の田舎ものの下級武士とは大違いなのです。もしも殺されず生き延びていれば大久保など足軽ふぜいの下っ端の出る幕が無い。
もしも中山忠光が生きていればその後のニホン国の歴史は大きく変っていたことだけは間違いようの無い事実ですよ。
さきがけとしての1863年の天誅組が無ければ1868年の明治維新が無かったことは多くの歴史学者が指摘している歴史的な事実なのですが、ところが何故か天誅組も中山忠光も日本の場合には、教科書の歴史にもマスコミの報道にも出てこない。
我が日本国のタブーの一つに、この天誅組が関係しているのですよ。だから表には出てこないのです。
元々関東武士団には『王殺し』の恐ろしい伝統があり頼朝などの源氏三代の将軍は北条家に殺された可能性が高いが、公武合体派だった孝明天皇も長州が殺した可能性が高いのです。幕末のアーネスト・サトウの日記によれば、長州派の岩倉具視が徳川将軍家と縁戚関係の邪魔な孝明天皇を暗殺したと書いている。
暗殺の真偽は不明だが、当時の一般の日本人は普通の有り触れた出来事として長州藩の行った凶暴な悪事を噂していたのです。
そもそも長州藩とは天皇の住む京都御所に向かって何の遠慮なく大砲をぶっ放すような朝敵そのものなのです。ところが何かの歴史の歯車の間違いで日本の政府を乗っ取ることに成功してしまい、それ以後は官軍として正義を主張しているのです。
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