逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

吉本隆明、新左翼のアイドルか賞味期限の切れた毒キノコか

2012年04月04日 | 社会・歴史

『吉本隆明逝く』大槻義彦のページ3月19日

評論家 吉本隆明氏が亡くなった。
朝日新聞やNHKなどは大騒ぎ。『戦後最大の思想家』と持ち上げた。
1960年代後半から、新左翼運動のカリスマとなったので、私の大学院生時代から助手の時代には多くの左翼友人たちがこの人物にかぶれていった。
しかし、私はどうしてもこの人が好きになれなかった。
どこかニヒリズムのにおいがした。『真っ当な生き方』を心がけていた私には吉本隆明は危険な思想家であった。
それでも常に興味がわく思想家であった。いわば毒キノコであったが、つい手をだして食べてみたい誘惑に駆られた。
私は真っ当な科学者にあこがれて努力に努力を重ねていたから、このような誘惑に懸命に抵抗した。友人の左翼活動家は次第に私から去っていった。
そして、やがてすっかり吉本隆明のことは眼中になくなったころオウム真理教事件が起こった。
このとき忘れていた吉本隆明が登場した。
彼はこともなげに言い放った。『宗教家としての麻原彰晃は評価する』と。
一体麻原彰晃のどこが宗教家なのだろうか。宗教家とはこんなグロテスクなものか。
なるほど宗教家というものがもともとグロテスクで殺人狂ならば、まさに麻原彰晃は宗教家である。
しかし、吉本隆明は『いい意味での宗教家』と評価したのだった。
ああ、やっぱり、私は吉本隆明に近づかないでよかった。
ニヒリストは毒キノコだった。そういえば彼が『反核、反原発運動』を批判していたことをおもいだした。
反核運動、つまり原水爆廃絶のための運動を拒否していたのだった。
それは単に『典型的な戦後の左翼運動』だからだった。
つまり『新』左翼運動ではなかったからだった。合わせて反原発の運動も批判した。
実際には反原発運動は主に新左翼運動だったのに、である。
ともかく時代は変わった。
そして吉本隆明は死んだ。今にして思えば吉本隆明の思想はどの点からしても誤りであったことが明らかとなった。
麻原彰晃のオウム真理教がまっとうな宗教でなかったことはいまや明らかではないか。
反核、反原発運動は世界的に高く評価されているではないか。
毒キノコは所詮毒キノコである。

『大槻義彦の吉本隆明毒キノコ説』

大槻名誉教授は吉本隆明の実像を科学的に正しく見ているのに、ご自分は『原子力は科学の成果であり原発は危険だが必要です。』との立場なのですから困ったは話ですね。
大槻氏は、『今にして思えば吉本隆明の思想はどの点からしても誤りであったことが明らかとなった』と断定しているのですが、その根拠とは麻原彰晃やオウム(破壊的カルト宗教)への吉本隆明の賞賛と同時に、それと対になっている『反核、反原発運動』(民主運動)への露骨で浅ましい敵意である。
大槻氏も言うように『オウムの悪さ』も『反核、反原発運動の正しさ』も、今では世界でも日本でも誰でもが知っている。
それなら実は吉本の『間違い』や『悪さ』は、例外なく今では誰でもが知っているのです。
一言でいえば、民主主義とか科学的事実に敵対する『毒キノコ』である。
ところが一部の極左のアイドル(カリスマ)だったが、世間的には誰も知らない吉本隆明は、毒キノコの当人が死んだ途端、『戦後最大の思想家』の枕詞で語られているのですから大笑いですね。 
NHKのETV特集『吉本隆明 語る沈黙から芸術まで』なる1時間30分もの長い放送を行うし他の新聞社も歯の浮くような軽薄な意味不明の賞賛を繰り返している。
実は吉本隆明が極左のカリスマとなりえた理由は極簡単で、反戦平和の日本共産党の非転向を非難したことに尽きるでしょう。
永久であると信じられていた大日本帝国の敗北により、共産党の先見性(正さ)は誰の眼にも明らかで有り、この点に関しては右翼を含めて誰一人も批判出来なかった。
その唯一の例外が、この吉本隆明なのですが、彼の屁理屈では、『共産党の反戦の主張は、戦争を止めれなかった』→『だから共産党は悪いのだ』ですね。
この無茶苦茶な主張にネットウョと同程度の社会常識しかない60年代の新左翼はしびれたのです。
『戦後最大』どころか、お馬鹿な子供の主張で支離滅裂。意味をなしていない。
この吉本の理屈が正しいなら同じ意味で、万年助教という屈辱的な原発村からの露骨なイジメに耐え清貧を貫いて40年間一貫して原発の危険性を世間に訴えた小出裕章助教も『原発事故を止められなかった』から原発ムラの御用学者と同じで『悪い』となる。
事実、吉本隆明は無条件の原発賞賛で経団連の米倉会長や石原慎太郎や渡辺恒雄と原発に関してはそっくり同じ凄まじい見解なのです。
ぐるっと360度回ればもとの位置に帰るマゼランの法則で西経180度と東経180度が同じ位置である。
極左のアイドル吉本隆明は、歴史を自分勝手に解釈する破廉恥な極右政治家と同じ思想や政治的立場で、新左翼云々とか戦後最大の思想家とか不真面目であり呆れ果てる。
その主張やお粗末なオツムの程度は、今では漫画中毒のお馬鹿なネットウョよりも遥かに劣ることが明らかなのです。

『知の巨人加藤周一とリトマス試験紙としての吉本隆明』

ブログに加藤周一の『日本人とは何か』に付いて書いていたのですが、奇しくも吉本 隆明が死に、何と驚いたことにこの人物が加藤周一と同じ様に『戦後思想界の巨人』と呼ばれてたらしい。
呆れ返る話です。
大槻義彦氏は吉本隆明をずばり毒キノコと表現しているが大笑いですね。
加藤周一と吉本隆明では、同じ知の巨人でも意味が正反対。
本来なら著作の紹介では出来る限り要約して短い文章にするのですが、加藤周一の場合には主張の内容が深いので、簡単には要約できなくて長文になってしまった。
反対に吉本隆明はその主張の中身が、内容的には何も無い衒学(ほとんどが感情論)であり、1行で要約が可能なのです。
今回の吉本隆明の死でマスコミが特集を組んでいるが、ここで面白いことを見つけました。
マスコミの常連の有名知識人、学識者ですが、この連中が本物か偽ものかのリトマス試験紙として、この吉本隆明が使える。
これは『国民的人気の安倍晋三』のように統一協会(勝共連合)との関係の有無と距離の近さで、その政治家の主張や判断力が本物かニセモノかのリトマス試験紙として、誰でも正誤が簡単に識別できるのに似ている。
胡散臭いが悪賢い内田樹や中島岳志や橋爪大三郎が、今回吉本隆明を褒めちぎっているのは哀れであり、『なるほど』『やっぱり』その主張がニセモノだったと納得する話である。
吉本が何を主張して何を非難していたのかを少しでも考えれば、答えは自ずと明らかなのです。
知恵足らずの馬鹿馬鹿しい極左のゲバ学生ならいざ知らず、知識人を自称するなら、どの面下げて吉本隆明の『正しさ』を主張できるのか。
恥知らずにも程がある。
少しは羞恥心を感じて欲しいものである。
新自由主義を賞賛し小泉改革を手放しで喜び原発推進に狂奔、ついでの破壊的カルトまで賞賛する吉本隆明が知の巨人に見えるとしたら、その人物のお頭の程度(論理的な思考力の有るなし)と極左に対する距離感(政治的な判断力の正誤)が判ろうというものです。

『かんながらの道?の吉本隆明』

バーチャルなインターネット空間ですが、これは私達が住んでいるリアルな現実世界とは必ずしも一致しない。
読んでも面白い、『他と違う意見』の護憲とか左翼系のブログ記事ですが、驚いたことにこれが全て極左の全共闘崩れといって良いほどに多いのです。
これとは対照的に選挙の得票数から考えて普通なら沢山あるはずの共産党系とか護憲左派系は例外的な少なさなのですよ。
余りにも実生活と違いすぎる。
普通の社会人で極左や元新左翼の友人知人がいる人は粗ゼロですよ。
一般の普通の市民には極左と実生活で遭遇する機会そのものが無い。
極左との遭遇は、沖縄旅行をしてヤンバルクイナやイリオモテヤマネコに遭遇する確率よりも低いでしょう。
生息数の絶対数が少なすぎるので、県外の旅行者どころか地元の沖縄県人でも現実に目撃した人は皆無なのです。
ところがネット世界では正反対。
この珍現象はネット空間だけの限定した話ではなくて、実はマスコミ界でも(ネット程では無いが)良く似た状態であることが、今回の吉本隆明の25日のETV特集で証明されたようです。
あれは酷すぎた。批判する気も起こさない代物。
ご自身で極左上がりを自認しておられた元マスコミ人の岩下俊三さんの例もあるが、マスコミ界には今でも元極左の全共闘崩れやそのシンパが不思議なことに沢山いるのですね。
吉本隆明のまともな日本語で無いぐちゃぐちゃの日本語表現ですが、これらの吉本用語の『関係の絶対性』などのらりくらりして雲を掴むような話で徹底的に抽象的で、そもそも内容自体が何も無い。
いくら読んでも何を書いてあるかが誰にもよく判らない。
ところがこの『誰にも良くわからない』ところが全共闘連中には馬鹿受けしたのですから大笑いですね。
何故なら、吉本の誰にも判らない抽象的なぐちゃぐちゃの観念論とは、逆に『何にでも自分勝手に当てはまる』ことでもあるのですよ。
NHK放送の1時間半ものETV特集での吉本隆明の講演内容を文字に起こしてみれば、この事実は誰の眼にも明らかでしょう。

『趣味の悪いブラックジョーク』

知恵足らずの極左にとって超難解な言葉を駆使するとらえどころの無い吉本隆明は、そもそも新左翼は勉強不足で社会科学に疎いので何となく賢そうに見えたのですね。
基本的に何にでも当て嵌まる万能薬とは何の効能も期待できないが、吉本隆明の場合には具体的個別的問題に答えた時の荒唐無稽な主張の出鱈目ぶりが際立っていた。
到底正視に耐えない徹底的な『お粗末さ』と『悪質さ』のコラボレーションなのです。
例えば原発問題を見ればこの東工大出の吉本隆明の科学知識がどの程度のレベルかが誰にでも明らかです。
だからNHKでもその他のマスコミでも『戦後最大の思想家』とは宣伝したが具体的な、お馬鹿過ぎる発言例は意識的に避けていた。
当たり前です。
原発村の住民以上の歯の浮くような原発賞賛なのですから呆れ果てる。
加藤周一のような『知の巨人』ではなくて、一字違いで大違いで吉本隆明の場合は『痴の狂人』だったことは具体的な事例に当たれば誰にでも判るレベルなのです。
こんなお粗末な吉本隆明の言葉に簡単に簡単にだまされるとはオウムの麻原にだまされた理科系の高学歴の信者の社会性の無さと共通する。
無邪気な軍国少年だった吉本少年だったが、良く考えれば1945年当時、そもそも20歳の大学生ですが、特攻隊の予科練よりも年上であり到底『子供とは言えない』のですよ。
しかも、敗戦後も自分の今までの間違いに気が付かず、敗戦後に転向した知識人を攻撃した。
ついでに非転向の共産党も同じように口汚く攻撃した。
反核兵器運動も左翼運動だからとの理由で攻撃した。
今では正しいことが誰の眼にも明かな、『反原発』も攻撃した。
しかも吉本隆明少年の場合、反省も無しで態度も変えなかった67年前の敗戦時と同じで、去年の福島第一原発の爆発後でも態度を変えないし反省もしない。
事実によって、今までの自分の主張の間違いが完膚なきまでに明らかになっても、主張を変えず以前のまま。
まったく自分の間違いを認めようとはせず、今までの狂気の態度を変えなかったのです。
これは社会性がまったく無い、頑是無い幼児以上に子供染みていて無茶苦茶。
少しも面白くないブラックジョークですね。
今度のマスコミによる『吉本劇場の悪ふざけ』ですが、不思議なことに元新左翼系の政治ブログは完全無視なのですよ。
誰も取り上げない。
理由ですが、多分ネットのブログとは一方通行のマスメディアとは性格が大きく違い双方向。それなら『戦後最大の思想家吉本隆明』何て、マスコミと同じことを自分のブログに書いたら批判が殺到することは間違いないし、自分の阿呆ぶりが丸出しになる。
政治ブログの大炎上間違いなし。
かといって自分で昔信奉していた吉本隆明の毒キノコの正体が判っても今更手のひら返しで批判もできない。
どちらにしても福島第一原発事故以後では『吉本隆明』は極左にとっては鬼門で、なんとも都合が悪い。
だから結果的に新左翼系政治ブログでは吉本は完全無視で、それ以外には何も出来なかった。

『1時間半の吉本隆明ETV特集を見る』

記事で新しく吉本隆明の実像を批判するに当たって『つまみ食い』程度で、ETV特集『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』を一回も完全に見ないではフェアではないので、NHK番組を最初から終わりまで1時間30分の間、苦痛ではあるが何事も修行の心算で視聴する。
結論を先に言うとまったくの時間の無駄だった。何ら目新しいものは一つも無い。
一言でいうと『意味不明の単なる低級な言葉遊び』ですね。それ以上でもそれ以下でもない。
あえて指摘すると、この吉本隆明講演の『無いよう』(『内容』の転換ミスだが此方のほうが意味的には合っている)ですが、高齢者の介護施設に行けば今回の吉本隆明の抽象論の『言葉遊び』程度の御粗末な話よりも、もっと具体的で誰にでも理解出来る『内容がある』素晴らしい話が必ず聞けますよ。
それにしても内容の無さが酷すぎる、何故編集して30分以下に短くしなかったのか不思議な話である。
吉本隆明の最大の売り(キーターム)の『自己表出と指示表出』であるが自分の本では、
>『指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼり出したものとしてみるところに、言語の価値はよこたわっている。あたかも、言語を指示表出によって意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の構造につきあたるように』<
と、最初から最後まで意味不明の言葉のマジックで煙に巻いている。
ところが喋らすと肝心の『表出』の意味は『表現』と同じで、『自己表出』とは頭の中で考えたこと、『指示表示』とは『コミュニケーション』と同じであると手品のネタ晴らしを行うのですから、これでは詐欺師としては失格です。
喋る間中途切れることなく、意味なく両手を間断なく動かしていたが元プロボクサーのムハメド・アリと同じで可哀想に脳障害を起こしているのだろう。
今回のように『判りやすく』話をしてはインチキが丸判りで絶対に駄目なのです。吉本隆明が最も大事だと主張した沈黙の『自己表出』ですが、小さな子供でも可能です。否、コミュニケーション能力に劣る乳幼児の方が大人よりもっと優れている。
もっと言えば人間でなくても犬でも可能である。基本的に吉本隆明の主張には何の意味も無いのですね。
とんでもなく難解な吉本方言を駆使して『誰が読んでも判らない』ところにこそ意味があったのです。

『グロテスクな毒キノコが魅力的に見えた?』

何度読んでも誰にも判らない。ところが多くの人々は善良に出来ている。
しかも日本人は謙譲の美徳も心得ている。
自分が『良くわからない』のは→自分の『理解力が足らない』からだと善意に善意に解釈して仕舞うのです。
それ故に『吉本隆明は凄い思想家』だと勘違いした。
しかも多くの新左翼活動家は不勉強で歴史に疎かった。
半世紀前の日本浪漫派や京都学派の悪行を、まったく知らなかったので簡単に騙されたが、これは高尚な哲学思想の話ではなくて、インチキなリフォーム詐欺に引っかかった高齢者が振り込め詐欺にも騙されるという、柳の下にドジョウが二匹いた阿呆臭い笑い話である。
吉本の『主張』とは、そもそも坊主の説教とかキャリア官僚の答弁書と同じで、実は『誰にも判らない』ようにと、わざわざ不明瞭に小難しく書いてあるのですよ。
『戦後最大の思想家』吉本隆明の思想とは、半世紀ほど周回遅れでやってきた日本浪漫派と京都学派の二番煎じである。歴史的な視野で冷静に判断すれば『だまし』に使用されている『手口』がまったく同じである。
それ以上でもないし、それ以下でもない遅れて生まれた一卵性双生児である。
(日本浪漫派と京都学派と瓜二つの吉本隆明なので双子ではなく三つ子?)
彼等三者の『主張』の際立った特徴とは、話が抽象的過ぎて全てに当て嵌まる可能性があるのですが、一たん具体的個別的な話に言及すると様子が一変、悲しいかなその支離滅裂な主張が明らかになる所でしょう。

『反・反原発、反核兵器反対、オウム賛美のニヒリスト吉本隆明』

吉本隆明ですが、自分が得意な左翼批判だけにしておけばよいものを、今大問題に成っている原発にも言及しているのですが、お粗末の極みで現実離れした間違いだらけあり、その主張の余りの非科学性には呆れ果てる。
原発に関する発想は、読売のドン渡辺恒雄や石原慎太郎、経団連の米倉会長と『戦後最大の思想家』吉本隆明の主張がまったく同一である。
根本的な主張が完璧に狂っているので、一々批判する気も起こさない程の馬鹿馬鹿しい代物。
それなら今のマスコミの金太郎飴状態の主張が正しくて、本当に吉本某が『戦後最大の思想家』なら、ナベツネも慎太郎も米倉も同じ意味で全員が戦後最大の思想家だという馬鹿馬鹿しいお笑い話になる。
1960年代に極左の教祖だった吉本隆明が世間から忘れ去られた頃に、運悪くオウム真理教事件が起こったが、吉本隆明はこともなげに『宗教家としての麻原彰晃は評価する』、『いい意味での宗教家』と言い放ったのである。
単なる『左翼憎し』に凝り固まり、反原発や核兵器反対さえも『左翼運動だから』との理由で敵視して口汚く罵倒ししていたが、何のことは無い今ネット空間だけに蔓延る知恵足らずのネットウョの先駆け的な阿呆臭さ過ぎる支離滅裂な言動である。
毒キノコは所詮毒キノコで、知性の欠片さえ感じさせないのは滑稽でも有り、最早哀れですらある。

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8 コメント

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至極妥当な内容でしょう (けっつへん)
2012-04-28 05:18:05
お久しぶりです。ブログを閉じて、日本から脱出して、しばらくぶりにブログを拝見させて頂きました。日本に居ると閉塞感だけが漂います。やはり私は若い頃の留学生活で味わった、「非国民」の生活が似合っているようです。

最初に出会ったのは小学高学年の頃でしたか。知ったかぶりの中学生が「リューメイ」と言っていたのを思い出します。『共同幻想論』はどこから読んでもテツガク用語の使い古しで、こいつは偽者だと直感はしていました。

私も回りからは「左翼過激派」と名指しされて、実際学部時代には溶接用マグネシウム粉で爆弾を作って統一協会や右翼のアジトを襲ったこともありますけど、無能な公安は逮捕もできず、真面目な学生として日々を過ごしてました。

吉本隆明の思想は「空回り」「自滅」という言葉が似合っています。彼の本を読むほど、時間の無駄だったという思いはありますね。

結局、彼がユーメイジンになったのは、町工場の維持のための資金稼ぎと、長女をデビューだけで終わらせたマンガ家にさせたことと、次女を能無しのショーセツカにしただけじゃないかと思うのですが。

なお、表示されてる IP アドレスは日本のプロバイダですが、送信元は海外ですので念のため。時差もちょっくらあります。

……誰もコメントされないようなので。なお、ブックマークから私の「存在しない」ブログを外して頂けると幸いです。
返信する
吉本隆明などは論じるだけの値打ちが無い (宗純)
2012-04-29 11:06:46
けっつへんさん、コメント有難う御座います。

このブログ記事ですが、吉本隆明を論じているようで、実は論じていない。
論じているのは『吉本隆明を天まで持ち上げる腐ったマスコミとか似非文化人』のお馬鹿さ加減なのであり、メディアリテラシーの問題なのです。
その目的での『吉本隆明論』なのですね。
吉本某ですが社会科学のリトマス試験紙的には利用価値があるのですよ。
幾ら偉そうに見えても、吉本について『何を語ったか』でその人の知性の程度が丸判り。簡単に判定出来るのですから、ある意味では恐ろしい話ですね。
ブックマークですが、このブログ開設が2008年なのですが今では幾つものブログが開店休業か閉鎖状態、続いている方が少ないのですから困ったものです。
愚樵空論などは一応は続いているが内容が完璧に『カルト宗教』に変質してしまっている。少し前から愚樵さん言葉使いが今回の記事の吉本隆明の口調と似てきていたので心配していたが、悪い予想が的中したようです。愚樵空論は仕方なくブックマークから削除したのですが、閉鎖されているからとそれ以外も削除すると随分寂しくなって仕舞うのですよ。

JR尼崎事故の原因ですが、以前の緩いカーブを高速化と共に急カーブに付け替えられていたのは、この巨大事故にだけ当て嵌まる特異事項です。
そして、ご指摘のダイヤ編成の問題点は、JRに限らず全ての鉄道にも当て嵌まりる普遍的な問題点です。ですからこの場合に両者を比べるのは不適当でしょう。
長すぎるのと記事の趣旨とも無関係であり残念ながら削除としました。
返信する
真摯なコメントをありがとうございました (けっつへん)
2012-05-01 06:49:27
宗純さま、私の拙い文章に、いつも誠実にコメントをして下さる姿勢はいつも尊敬しております。

| 論じているのは『吉本隆明を天まで持ち上げる腐ったマスコミとか似非文化人』のお馬鹿さ加減なのであり、メディアリテラシーの問題なのです。

なるほど、時間に追われて、『吉本隆明論』の文脈まで読んでいませんでした。確かに過去ログを読んでみると、宗純さまは単に「吉本隆明」を「血祭りに上げた」に過ぎないことが見えてきました。似た様なことは立花某や渡部某やイザヤ・ベンダサンこと山本七平など「知識人」とか「知の巨人」と祭り上げられたエセ言論人にも言えるかも知れません。

本多勝一も朝日の遊軍記者だった頃はまだ読めたものの、社を追われて一出版社の経営者になってからの堕落ぶりを見ていると、吉本と同じ運命なのかなと思ったりしました。素直に薬剤師国試を受けて、長野でスーパーの薬局のおやじをしていた方が良かったのではと考えたりもします。彼なら調剤薬局を始めて多くの店舗の経営に乗り出したかも。

| 幾ら偉そうに見えても、吉本について『何を語ったか』でその人の知性の程度が丸判り

それは本多勝一にも言えるかも知れませんね。ある意味、惜しい人材です。

| ブックマークですが、このブログ開設が2008年なのですが

twitter とか様々なメディアに流れましたから、これも時代の流れでしょう。宗純さまも経験された通り、昔は Webページというと学術論文の発表の場でしたけど、あっというまに大衆化して、携帯やスマホや SNS に市場を奪われ、まともに HTML で書いているのはプロだけかも。私も HTML が 5 となり、JavaScript が動かなくなって、改めて分厚いマニュアルを買って、勉強し直している状態です。

| 閉鎖されているからとそれ以外も削除すると随分寂しくなって仕舞うのですよ。

それもそうですね。(^_^;)

| JR尼崎事故の原因ですが

その件に関しては管理人の宗純さまに一任していますから、削除に関しては「また雑学博士が何か言い出した」とお笑いになったと考えてますので気にしておりません。

ちなみに「以前の緩いカーブを高速化と共に急カーブに付け替えられていた」区間はまだありますよ。お知り合いの鉄道工学に詳しい方に尋ねられてみて下さい。それでは仕事ですので。職住接近は運動不足になるので良くないですね。
返信する
詐欺師 吉本 (eegge)
2014-07-08 23:09:30
吉本隆明の罪(5)

吉本に影響を与えた最も重要な思想が『実存主義』である。「大衆の原像」という概念は、生の充実を与えることのできない知の虚しさに対する批判であり、自戒から生れたということは周知の事実である。国民とは自分自身のことであり、現にここにこうして生きている実感がある、対して国家は見ることも触ることも出来ない、ただ概念としてあるのみである。しかし、概念を生き概念に生きる知識人にとって概念を完全に消し去ることはできない。そこで、吉本が考えた姑息な戦術が自己幻想→対幻想→共同幻想という「程度問題」の提示である。吉本は「国民は国家のために死ねない」といって国民の実在性にこだわるが、「国民は国民のために死ねない」、生身の人間が自殺することもまた至難であるということを忘れている。こんな中学生レベルの単純なロジックがわかってはいない。

「国民は国家のために死ねない」VS「国民は国民のために死ねない」、さて、どちらが真実なのか?

(まだまだつづく)
返信する
死せる隆明、生けるマスコミを嗤う (智仁)
2015-01-04 17:31:50
(一)
 吉本隆明の死に伴って多くの追悼文が新聞に載った。私は大手全国紙は2紙しか見
ていないが、それらを読んだ感想を記す(見落としがあると思うが)。私は吉本氏の
ことはほとんど知らないので、氏のことは紙上の記事によって知ったと言った方がい
い。だから吉本氏評というより、「吉本氏評にみる新聞論調」とでもいうべきもので
ある。

 まず感心したことは、吉本氏は「戦後最大の思想家」「戦後を代表する思想家」と
いう評価が定着しているように思えること。では吉本氏が最高ならそれに次ぐ思想家
は誰か?私などにわかる筈がない、何しろ吉本氏が最高だと知ったのはこれらの記事
によってなのだから、2位が誰かわかる筈もない。
 それでは戦前最高の思想家は? 戦前といえば明治から敗戦までのことだろうな、
と思う。まさか、徳川以前をいうことはないだろう。
 その戦前で最高・最大の思想家といえば・・・残念ながら「この人」というのが思
い浮かばない。恐らく、その人は、アカデミズムにも属さず、マスコミにもちやほや
されず、静かに思想を紡いで、わずか周辺の人にだけ自分の思想を語っていた人だろ
う。だが、そういう人は「思想家」とは言わないのかも知れない。社会に認知されな
い思想は思想ではないし、その人も「思想家」ではあり得ないのだろう。そもそも自
分の思想を全く語らない人は絶対に思想家などではありえない。だが中国・戦国時代
の思想家荀子によれば、徳と智を兼ね備えた天子は「天下に隠れた賢人も忘れられた
善人もなからしめた」という。現代のわが国では、そんな天子がいなくても吉本氏が
わが国での、世界での「戦後最大・最高」の思想家であったということをマスコミは
証明して見せた。

(二)
 整理の都合上、日付の順に、吉本短評を拾ってみる。
○ 3・16、「毎日」記事。
 「戦後思想界を牽引した詩人」「大衆の実相に寄り添う評論を発表」
○ 3・16、「毎日」梅原猛
 「独創的で稀有な思想家」「世間の風潮にこびることなく・・・自分の言葉で」
○ 3・16?「毎日」大井浩一(記者)
 「戦後の最大の思想家」「大衆に寄り添った巨星」
○ 3・17「朝日」「天声人語」
 「時に戦後最大と称された思想家」「大衆に寄り添う人情家」
○ 3・17「朝日」記事
 「庶民の姿勢貫いた」「庶民の一員という姿勢を崩さなかった」
○ 3・17「毎日」重里徹也(論説委員)
 「戦後を代表する思想家」「大衆の側に寄り添った」
○ 3・17「朝日」中沢新一(人類学者)
 「同時代の世界中のどんな思想家をも凌駕する、斬新で大胆な思考を展開」
○ 3・19「朝日」高橋源一郎(作家)
 「「正面」だけでなくその思想の「後ろ姿」も見せることができた」
○ 3・19「毎日」夕、加藤典洋(文芸評論家)
 「この人がいなければ、戦後思想がいまある明瞭な姿を取ることはなかった」
○ 3・21「毎日」中島岳志(北海道大准教授)
 「大衆に寄り添うことを是とする」「一貫して態度の思想家だった」
○ 3・28「毎日」鹿島茂(仏文学者) 
 「大衆から離脱し、最終的には世界認識の最高水準にまで到達する大知識人」
○ 3・28「毎日」夕、田中和生(文芸評論家)
 「戦後最大の思想家とも呼ばれた」「吉本の思想は・・・敗戦後の文学がもたらし
 た恩寵の一つ」

(三)
 とりあえず「朝日」の「天声人語」で驚いた。吉本が伊豆の海で死にかけたとき、
「朝日」記者は「戦後日本思想界の大事件」と書いたそうだが、今回の死去は「掛値
なしの一大事となろうか」と評している。それほどの大事件だったのか!
 もっとも賛美しているのが、「世界中のどんな思想家をも凌駕する」
と評価した中沢新一だろう。中沢によれば、私たちの経済では、商品の交換が行われ
て価値が増殖するのだという。この一節の前に彼はマルクスの名を出しているので『
資本論』を看板にしているのかも知れない。ではマルクスは「商品の交換が行われて
価値が増殖する」などと述べているのだろうか? 価値、使用価値、交換価値の関係
を中沢はどう考えているのだろうか。現代資本主義のウエイトが「生産」から「消費
」へ転換した時期に生み出した吉本の斬新で大胆な思考が「どんな思想家をも凌駕」
と続く文脈なのだが、それが事実なら実に「大胆な思想」であることは間違いない。
中沢は、吉本がスミスやマルクスを勉強する中で独力で一つの体系を作り出したとい
うが、多分ノーベル経済学賞でも貰えるほどの大理論を生み出したということなのだ
ろう。中沢氏には「ノーベル空想物語賞」・・・もしそういうものがあるとすればの
話だが、そういう賞でも貰って欲しいほどだ。
 上掲の新聞上の諸説は、吉本はそのぶれない思想、態度を高く評価している。典型
的な例として挙げられているのが麻原彰晃を持ちあげる文章を書いていた吉本は、地
下鉄サリン事件以降も動じることなく自己弁明もしなかったという(中島)。
 原発擁護派であった吉本は、原発事故後も原発維持の姿勢をくずしていない。反原
発は人間の進歩や学問の進歩の否定であり、どんなに危なくて退廃的であっても否定
は出来ないと主張する(3・17「朝日」記事)。同じく、「反原発批判の持論を変えな
かった」という(大井)。「吉本は震災前から原発容認であり、その思想の核心には
科学技術への信頼がある。そしてその科学技術への信頼こそ戦後日本に平和と繁栄を
もたらしたもの」だから「この思想はフクシマを生んだ戦後日本を検証する貴重な足
がかりになる」(田中)。
 これらの主張は、吉本の一貫した姿勢を是認し評価する立場から書かれている。私
には、科学技術への理性のない信頼、原発安全論に乗っかった信頼こそが平和と繁栄
を覆しフクシマの悲劇を呼んだと思うのだが、田中氏にとってはそれが逆になる。
 これらの新聞上の論調の大勢は、ぶれない一貫した姿勢を評価していると私は理解
したのだが、その最たるものに戦時中非転向を貫いた共産党指導者への容赦ない、罵
倒に近い批判であった。吉本のことをほとんど知らない私でも、そのことくらいは知
っている。
 吉本は今日その一貫した姿勢、思想が評価されているのだが、戦前・戦中一貫して
反戦を貫いた人々を彼は「非転向であることはどんな思想的な意味もない」と全面否
定したそうだ(加藤)。非転向組など、そのより困難な思想の勝負(吉本のいう勝負
とは、移入されたマルクス主義と、軍国主義下の日本の現実の矛盾のあわいに身を置
き、そこでありうべき未知の解を探ることこそが思想の使命だということ)から優等
生的にオリたにすぎない(加藤)と貶したという。
 日本の大手新聞は、戦前・戦中軍事政権に協力し、大東亜共栄圏論を賛美し、戦争
を美化して若者たちを(後には中年も)お国のため、天皇陛下のためといって戦場に
送り込むことに率先して協力した。というよりも、積極的に戦争政策にのめり込み、
さらには煽った。戦後申しわけ程度に反省の意を表し、口辺を拭って今度は「民主主
義」「民主主義」と言い出した。一貫した姿勢など全くない。その大新聞の諸論調が
吉本を一貫してぶれない思想・姿勢と言って賛美し、戦後最高の、否、世界最高とま
で、天まで持ちあげる論調のために場を提供している。
 つまり吉本は、ぶれなかった非転向者を非難しながら、麻原彰晃のぶれない態度を
評価し、自身も原発支持ではぶれない態度を貫いた。そういう吉本の矛盾を指摘する
こともなく・・・そういう矛盾を指摘すれば、マスコミ自身の矛盾が指摘されるのを
怖れたのかどうかは知らないが、そしらぬ顔で吉本賛美を繰り返している。

(四)
 「大衆に寄り添う思想家」という批評がもう一つの売りになっている。「全共闘世
代の『教祖』」という看板も持っている。60年から70年頃まで、全共闘はマスコ
ミの寵児だった。東大安田講堂での攻防は劇映画のように華やかで、マスコミはこぞ
って全共闘を支持した(私にはそう映った)。だが、マスコミは庶民の心を読もうと
しなかったあ。彼らは自分たちだけで酔っていたのではないか。大衆・庶民は圧倒的
に全共闘に批判的だった。少なくとも私の周辺の人で全共闘を賛美する人はいなかっ
た。私の周辺は大衆であり庶民である。いま大手新聞に論説を依頼される人たちは、
全共闘の幻影に酔った経験のある人たちが多いのでは?
 麻原彰晃を評価する庶民がいただろうか、麻原信者を除いて。
 フクシマ以後も原発擁護を主張する大衆もいるが、否定する大衆の方が多いのだ。
原発を積極的に擁護する人物を大衆に寄り添う思想家といえるだろうか。原発を擁護
する人が「大衆に寄り添う」のなら、「原子力ムラ」の人びとこそ「大衆に寄り添っ
た」ということになりはしないか。
 重里は、吉本が大衆の側に寄り添った例をいくつも挙げているが、それが、彼の言
う「戦後を代表する思想家」の資格だとしたら、それくらいのものは山ほどもいるだ
ろう。「高みから説かず」「アニメやマンガの表現にも理解を示した」「被災した人
たちの負った精神的な傷を心配した」「どんな質問にも答えた」「ポピュラー音楽も
積極的に論じた」・・・。
 「食いしん坊で好物はカツレツ」「娘たちに弁当を作る一面もあった」(「天声人
語」)のも大衆の側に寄り添った一面なのだろうか。

 最初に述べたように私は吉本隆明の思想についてはほとんど知らない。せいぜい、
新聞や雑誌に時たま載る記事を読んだ程度だ。日本一、いや世界一の思想家であるこ
とは初めて知ったので、興味を持って新聞を読んだ。結局、その理由はわからずしま
いだった。考えてみれば、そんな新聞記事でわかる筈がない。それで分るようなら軟
弱で薄っぺらな思想家に過ぎないだろう。結局、新聞の軟弱生や薄っぺらさを改めて
知ったことが取り柄か。吉本は、そんな新聞の論調を地下の黄泉の国で? あるいは
天上世界で? 嗤っているだろうか。

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智仁さん、コメント有難う御座います (宗純)
2015-01-05 17:09:55
何か誤解が有るようですが、

先のコメント、『吉本隆明などは論じるだけの値打ちが無い』 (宗純)
2012-04-29 11:06:46
にすでに、書いているのですが。繰り返すと、

『このブログ記事ですが、吉本隆明を論じているようで、実は論じていない。
論じているのは『吉本隆明を天まで持ち上げる腐ったマスコミとか似非文化人』のお馬鹿さ加減なのであり、メディアリテラシーの問題なのです。
その目的での『吉本隆明論』なのですね。
吉本某ですが社会科学のリトマス試験紙的には利用価値があるのですよ。
幾ら偉そうに見えても、吉本について『何を語ったか』でその人の知性の程度が丸判り。簡単に判定出来るのですから、ある意味では恐ろしい話ですね。』
そもそもコメントのタイトルである『吉本隆明などは論じるだけの値打ちが無い』の一言に尽きるのです。

何故かネット世界では護憲左派には絶大な人気が有る内田樹が、何と、この毒キノコを絶賛しているのですが、有る意味では愉快である。
この『逝きし世の面影』ブログでは2008年の開設以来何回も内田樹の胡散臭さを論じているのですが、それでも未だに内田神話はゴキブリ以上に丈夫でしぶといのです。
つい最近では、内田樹の「資本主義末期の国民国家のかたち」を取上げて絶賛するお馬鹿で善良な、困った人たちが現れて、一つとは『進化論は偽科学』なる、とんでも獣医が乱入して、低級な罵倒を投げつけた挙句にブログ主(たぶん隠れキリシタン)がぶち切れ。出入り禁止になるし、もう一つは返答拒否。
内田樹が胡散臭いとの事実が少しも判らないのですから不思議である。この男は毒キノコの吉本隆明を天まで持ち上げているのですよ。
今回ですが、
『何時もの簡潔な内田樹に比べ、今回は明らかな駄作ですよ。
何故名作だと思えるのか不思議です。
先ず、意味無く、だらだらと長い。
次に肝心の今の日本にとっての緊急課題である消費税もアベノミクスも、放射能も一切無視する態度が不真面目。
今回は、そもそもの論が、成り立っていないのです。
日本の対米従属ですが、間違いなく半世紀以上の成功体験ですよ。
1972年の沖縄返還だけではないことぐらい、誰でも知っている。
1991年のバブル崩壊までは日本の対米従属は大成功していたが、その後は180逆転して、失敗の連続なのです。
今の日本の苦境ですが、全てが日本独自の政策では無くて、対米従属の結果、起きている事は明らかなのです。』
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失礼しました (智仁)
2015-01-06 16:16:19
大変失礼しました。私の思い違い、勘違い、そして愚かなことでした。このコメントを含めて全文を即刻削除してください。
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資料価値がある (宗純)
2015-01-07 11:36:57
智仁さん、コメント有難う御座います。

先の智仁さんのコメントですが内容的に少しも間違っていないのですから、この『吉本隆明、新左翼のアイドルか賞味期限の切れた毒キノコか』記事に対する、補足説明とか資料(討論材料)として見れば十分値打ちがある。
『全文を即刻削除してください。』など、もったいない。このまま残して置きましょう。
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