逝きし世の面影

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対ソ干渉戦争(シベリア出兵)と有志連合

2008年03月11日 | 社会・歴史

日本軍中心の軍事作戦であるにも拘らず、今や日本人に完全に忘れられた、不思議な戦争に、対ソ干渉戦争、日本の『シベリア出兵』がある。

ブログ界でも余程の物好きだけが取り上げる日本の『シベリア出兵』だが、この事件は調べれば調べるほど面白い。

なんと、今とソックリな事件なんですよ。

第一次世界大戦の終わりにロシア革命が勃発し、ロシア(ソ連)が欧米列強と何の相談も無く、突然に戦争から離脱して、事実上第一次世界大戦の東部戦線が崩壊してしまう。
1991年の突然ソ連民主化で、冷戦から離脱(冷戦構造の崩壊)したのとソックリ。

このときにソ連極東シベリア地域に米英仏日本など8カ国が人道支援(チェコ軍救出なる摩訶不思議な理由)を名目に、多国籍軍として進駐(侵略)する。
今のアメリカ軍と多国籍軍、有志連合による対テロ戦争?や強制民主化戦争?なる珍妙な理由によるアフガン戦争やイラク戦争とソックリ。

当時の経済状態は第一次世界大戦を当て込んだバブル景気が起こり新興財閥が雨後のたけのこのように生まれた。
堀江隆文や、村上ファンド騒動などと、よく似た事件も次々と起った。
次に起るバブル崩壊。成金騒動や格差拡大と、今の話かと、み惑うばかりのソックリぶりで、経済情勢が、バブルの後のデフレの発生に因る庶民の生活苦など、余りにも似ている。

自衛隊の派兵問題での『人道支援』や『国際貢献』なんて笑ってしまうぐらい、全くそっくりでしょう。

ソ連干渉戦争(シベリア出兵)は、人よりは詳しいんですよ。なにしろ私の親父が一兵士としてですが出兵しています。
この時、シベリア鉄道の有蓋貨車に、家畜のように詰め込まれた、全く何も知らされていない大勢の徴兵された日本軍兵士が、遠くタイガの大平原を西に向け占領軍として進軍していった。

その2十数年後に、一見まったく同じように、全く何も知らされていない大勢の敗残の日本兵が今度は占領軍ではなく、哀れな捕虜として抑留される為、同じ鉄道の有蓋貨車に乗るはめに陥るなどの事柄を、その時に予想したものは誰も居なかった。

地図さえ持たされていない、一兵士だった父の経験した戦争は、映画やドラマの話とは随分違い、兵士同士の窃盗とか、古参兵のリンチとか、上官の横領とか、占領地の現地人(ロシア人)をからかう話とかだが、それでも日本軍の敗北は、その時から十分に予想されたことだった。
まあしかし、シベリア抑留の話は聞くが、逆にソ連のシベリアのバイカル湖付近に占領軍として進駐していた話は、数少ないので希少価値があるでしょう。

日本にとっては、シベリア出兵と自衛隊派遣問題は90年の時を隔てて、同じ『国際貢献』、『人道支援』と名目も同じなら体制も『多国籍軍』、『有志連合』と同じで、たぶん結果も同じになるはずです。

4年間に3000人以上が死亡し、当時の日本の国家予算の4年分近くを浪費した挙句に、世界の人々の誰からも感謝されず、何の成果も残せず、全く無意味に派兵し、そして撤兵する。

歴史は繰り返す。一回目は悲劇として、二回目は喜劇としてと言うが、現実に起った事件(シベリア出兵)は 一回目が喜劇じみた悲劇で、二回目が悲惨を極めた、悲劇中の悲劇として繰り返された。




『シベリア出兵,概略』

1919年(大正8)から1924年にいたる期間,日本およびアメリカならびにイギリス・フランス・イタリアなどの諸国が,チェコ軍救援を名目として,
実は口シア革命に対する干渉を目的に,シベリアに出兵した事件。

日本の軍隊は,他国の軍隊が撤兵したのちも居座って,シベリアに単独駐留をつづけたが,結局は失敗する。
 
1918年8月2日において,日本政府はシベリア出兵を宣言したが,実は1カ月前の7月に,日本・アメリカ・イギリス・フランスは,実に総兵力2万4,800人,そのうち日本軍は1万2,000人の有志連合軍を,極東のシベリアに送ることを協定した。

日本のシベリア出兵に対する意見は,積極的な出兵論と多少は消極的ともみられる出兵論の二つが存在し,対立していた。

積極的な出兵論とは,イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく,日本は主体的かつ大々的に出兵を断行せよという,参謀本部の出兵論,
対して、やや消極的な出兵論、すなわち対米協定の出兵論
これら二つが対立していた。
そして妥協案が,やがて成立した結果,実質的には独自の出兵であるが,形式的には対米協定の線で,日本はシベリア出兵を行うことになった。

日本政府は,〈アメリカ合衆国の提議に応じシベリアにいる,チェコ軍救援のために出兵する〉という宣言を行うと,すぐさま,協定全兵力をウラジオストックに送ったばかりではなく,厚顔にも協定を無視することを意にもかいさず,平気でザバイカル方面に2個師団の大軍を出動させた。
そのあともますます増兵を重ねつづけ,実に7万3,000人の日本の大軍が,進軍を開始し,東部シベリアの全要地を占領するとともに,可能な範囲内において軍事的意図を秘めた軍用地図を作成した。

しかし“天の時”は,必ずしも日本軍に幸いせず,極寒のシベリアにおいて,アメリカの日本出兵抗議を無視してきた日本軍も,1919年1月から,労働者・農民などで組織された非正規軍のパルチザンなどとの戦いに苦戦し,点と線の確保すなわち交通の要地を確保するのがせいいっぱいという思いもかけなかった守勢に立たされ,反革命軍の後押しをしてみても,強固な反革命政権を樹立することに日本は結局のところ失敗を重ねるのみであった。

この1919年秋において,連合国が後押しをしていた反革命のコルチャック政権は赤軍と戦って決定的な大敗をこうむり,歴史の歯車を止めようとした無謀な干渉は,ついに失敗に終わるだろうということが,誰の目にも明らかになってきた。

このあいだ,シベリア現地における日本とアメリカ両軍の摩擦も増加する一方であった。
まずアメリカが,1920年1月にシベリア撤兵を宣言し,この年の6月までには,日本を除く各国はみなシベリアから引き揚げていった。

1920年3月12日にソヴィエトのパルチザンがニコライエフスクの日本軍を武装解除したが,そののち,同年5月25日にニコライエフスクで日本領事らが,パルチザンとの休戦協定を破って殺された。
これを尼港事件と呼ぶ。
1922年6月24日に政府は,ついにシベリアから撤兵する旨を声明した。
そして10月25日においてシベリアからの撤兵を完了した。
シベリア出兵の戦費は,当時の金で約10億円という巨費をむだに使ってしまった。死者は約3,000人の多数に及んだが,しかも悲惨なことに,シベリアの凍傷者は全軍の約3割もあった。


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4 コメント

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反対に…… (kaetzchen)
2008-03-13 06:55:33
ロシア沿海地方(プリモーリエ)から見た,ロシア人による,ロシア科学アカデミー極東支部 歴史・考古・民族学研究所編『ロシア沿海地方の歴史』(明石書店,
2003) という高校教科書もなかなか参考になりますよ.これの5章に露日戦争について詳しく書いてあります.面白いことに満洲から移り住んできた中国人商人とのトラブルが日露ともに介在していたという記述は意外でした.また,日本の敗退後,中国人や朝鮮人が全体の17%も外国人労働者として雇用され,特に都市部では高レベルの都市化が整備されたことも参考に掲げておきます.
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面白い話はいっぱい有るが (ブログ主)
2008-03-13 09:33:01
個人的な体験談なので、ブログに書きにくい内容が多く、困っています。
今の日本では、シベリア出兵の記録が殆ど有りません。
対ソ干渉戦争の、記録も、記憶も薄れてきているので、絶対に成功しない、失敗が確実に保証されている人道支援の多国籍軍なんて話に、うかうかと日本の自衛隊が参加するのでしょう。
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幕僚監部が暴走するか否か (kaetzchen)
2008-03-13 14:24:17
という問題に収斂するんじゃないかなぁ.

以前は陸軍が暴走したという神話がまことしやかに流れていたけれど,実は海軍も終戦末期には暴走していたということを纐纈厚さんという歴史学者が証明しています.

http://www.mod.go.jp/j/defense/mod-sdf/index.html を見ると,陸上・海上・航空のそれぞれの幕僚監部と統合幕僚監部が並列に置かれているのは3軍の暴走を防ぐという意味なのだろうか.その辺がよく分からない.
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url はまだ「自衛隊」(笑) (kaetzchen)
2008-03-13 20:05:43
済みません,寝ぼけて上の発言ミスりました.削除をお願いします.m(__)m

そいえば,上記の www.mod.go.jp を見て気付いた方も多いと思います.

そう,url ではまた「自衛隊」なのです.
もし「軍隊」つまり「防衛省」ならば,

www.mod.mil.jp または www.mil.jp になるはずです.
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