7つの贈り物 Seven Pounds 2008

2009-02-27 05:59:15 | Weblog
7つの贈り物 Seven Pounds

U.S. Release Date: 2008

■監督:ガブリエレ・ムッチーノ
■キャスト:ウィル・スミス/ロザリオ・ドーソン
■音楽:アンジェロ・ミィリ
■字幕:松崎広幸
■お勧め度:(★)

 「ウィル・スミスが「幸せのちから」のガブリエレ・ムッチーノ監督と再びタッグを組んだ感動のヒューマン・ドラマ。辛い過去を背負い心に傷を抱えた男が、ある計画を実行するために見知らぬ7人を選び、彼らの人生を変える贈り物を捧げようとするミステリアスな動向とその真意が明らかとなっていくさまを綴る。
 過去のある事件によって心に傷を抱えながら生きる男ベン・トーマス。彼は7人の名前が記されたリストをもとに、ある計画を実行しようとしていた。それは、7人がある条件に一致すれば、彼らの運命を永遠に変える贈り物を渡そうというもの。その7人は互いに何の関係もない他人同士だが、ベンにとっては彼らでなければならない理由があった。またこの計画の目的や、贈り物の中身が何であるか、ベン以外には彼の親友が唯一知るのみ。こうして、ベンは7人それぞれに近づき、彼らの人生を調べ始める。だがやがて、リストの中の一人で余命幾ばくもない女性エミリーとの出会いが、ベンの計画に大きな影響をもたらせていく…。」(allcinema.net/より。)

ネタ切れヤキ回りの洋画界としては、原作が無いと、まともな筋書きさえも書けなくなったようだ。逆転現象は円ドルレートにとどまらず、洋画が数年前の邦画レベルまで落ち込んだような。ベンの心の傷というのは、交通事故で妻を失った事だろうが、そもそもこの事が彼の落ち度として明確に描かれていない。むしろ運転の邪魔をした妻の方のような描き方。そしてその贖罪のために、赤の他人にプレゼントを贈るという筋書きだが、そのくせまっ先にエミリーに惚れて、自分の命と引き換えに彼女を助ける。筋になってないだろうが。あまりにも下らないので誰も観ないと思うので全てバラしてしまおう。原題の「Seven Pounds」は、7つの臓器の事で、ベンの「計画」というのは、マゾ的な贖罪ごっこの事で、自分の臓器を、自分が勝手に選んだ「いい人」に提供してあげるということで、その事を最後まで観ないと分からなくしただけの作品。単に分からないというだけで、ミステリーにさえなっていない。というような破綻した筋書きに無自覚のまま、ほとんど最初からラブストーリーにしたが、臓器移植というものが普通になっているアメリカでは普通なのだろうが、先天性の心臓病のエミリーに、自分が自殺して心臓を提供するというのは、あまりにも即物的で、ラブストーリーとして観たら、しらけるだけ。医学的な事は分からないが、この点も破綻しているかもしれない。なんせエミリーの場合は、ドナーが見つかる確率が3~5%と医者が言っているにも関わらず、ベンがその3~5%に入っていた。それで彼女を選んだというのなら分かるが、その彼女に惚れるというのは全く無関係だろう。強いて面白い部分といえば、ベンが弟の名を借りて国税局の役人になりすまし、その裁量で何人かを助ける部分だろうが、この事も贖罪ごっこの一環でしかないため、終わってみると、まるで印象に残らない。まあ、みじめな役の巧いウィル・スミスを使ったのは、こういうマゾ男を演じるには最適だっただろうが、それならそれで、そのように描かないと、あるテーマもなくなる。しかしこういうのを見ると、臓器移植に関しては、これと言って意見は無いが、それが普通の事のように行われる社会になると、やはり人間としての尊厳が失われるような気がする。秀作、「感染列島」に比べると、ラブストーリーとしての描き方も、臓器を提供することで自分は生き甲斐、というより自己満足を感じ、提供を受けた方のエミリーにしても、それを受け入れてしまうようなエンディングで、何の感動も無い。なんかアメリカ経済の破綻を映し出しているような殺伐感すら感じる。命を守るために臓器を移植するという事と、人間らしく生きて死ぬという事とは、全く別の次元の事じゃないか。作品ではなんか臓器を移植すること自体が、人間らしい生き方のように描かれている。この二つの事がごっちゃに観念されているとするなら、臓器移植には絶対反対という立場にならざるを得ない。


ヒアリング度:★★★
感動度:
二度以上見たい度:
劇場で見たい度:
ビデオ/DVDで欲しい度:
ビデオ/DVDで見た方がいい度:
ムカつく度:★★★
考えさせられる度:★
(「ヒアリング度」は英語のヒアリングの勉強になるかどうかの度合)

マンマ・ミーア! Mamma Mia! 2008

2009-02-21 09:22:48 | Weblog
マンマ・ミーア! Mamma Mia!

U.S. Release Date: 2008

■監督:フィリダ・ロイド
■キャスト:メリル・ストリープ/ピアース・ブロスナン/ジュリー・ウォルターズ/クリスティーン・バランスキー
■音楽:ベニー・アンダーソン
■字幕:石田泰子
■お勧め度:★★★★

 「往年の人気ポップグループABBAのヒットナンバーで構成され世界中でロングランとなった傑作ミュージカルを銀幕へと昇華したロマンティック・コメディ。メリル・ストリープら豪華キャストを迎え、ギリシャのリゾート地を舞台に、結婚式を目前に控えた娘とその母親をめぐる24時間の一騒動を歌と踊りで陽気に綴る。監督は舞台版も演出し、これが劇場長編初メガホンのフィリダ・ロイド。
 ギリシャの美しいリゾート地、カロカイリ島。小さなホテルを営む母ドナと2人暮らしのソフィは、恋人スカイとの結婚式をいよいよ明日に控えていた。またそんな彼女には、“父親と結婚式のヴァージン・ロードを歩きたい”という密かな夢があった。しかし、母子家庭で育ったソフィは未だに父親が誰なのかを知らない。そこで母の昔の日記から、父親であろう3人の男性、建築家のサム、銀行マンのハリー、冒険家のビルを探り当て、ドナに内緒で結婚式の招待状を送ってしまっていた。やがて、道中鉢合わせた3人が揃って到着。ソフィは結婚式のサプライズのため、ドナの目が届かない場所に彼らを匿うことに。ところが、ドナが偶然3人を目撃してしまったことを機に、様々な問題が湧き起こっていく…。」(allcinema.net/より。)

なんとなく観るなら面白いし楽しい作品ながら、これもやはり先週の「レボリューショナリー・ロード」と同じで、本来は舞台作品を無理矢理映画作品にしたことでアンバランスな部分が目立つ。ただしいい点としては、最近のミュージカル作品と違って、元のミュージカルをそのまま映画化しようとした事だろう。主演のメリル・ストリープとピアース・ブロスナン以外は、ほとんどをミュージカル専門の役者で占め、本物のミュージカル感を味わえる。ミュージカル役者と映画役者はかなり違って、舞台でやる事からそもそも顔立ちが違うし、演技というか動作が舞台用なので、普段、ミュージカルを観られない場合は、本作品でミュージカルの良さや楽しさがかなり味わえる。ただしそれを映画化すると問題が起きるわけで、端的な例が、何故メリル・ストリープとピアース・ブロスナンなのか。答えは簡単。映画だから。ミュージカルをそのまま映画化するなら、この二人は余計で、ミュージカル役者を主演に使えば何ら問題は起きない。ただしそれだと客が入らない。要するに興業収益の問題。これはおそらく監督ではなくて製作者か配給会社の無理強いだろう。しょうがないので、監督さん、最大限の努力をしたような。たとえばメリル・ストリープの親友役の二人はかなりな実力派のミュージカル役者。特にノッポのクリスティーン・バランスキーは、ミュージカル界ではトップクラスだろう。この二人が歌っている時は綺麗にハモっていていいが、問題なのはこれにメリル・ストリープがリードヴォーカルとして加わった場合。メリル・ストリープは彼女なりに最大限の努力をしているものの、所詮は映画俳優であってミュージカル役者ではない。結果としてバックの二人がハモれない状況になり、お世辞にも歌が巧いとは言えないメリル・ストリープの引き立て役になってしまう。監督としては主演の二人にもミュージカル役者を使いたかっただろうし、その方が作品としてははるかにいい物になっていた事は間違いない。「シネマ歌舞伎」を見れば、この事は一目瞭然だろう。同じことが何故ハリウッド作品で出来ないのか。興業収入。最近の洋画の不調は、ネタ切れのヤキ回りと、ここらへんの根本的な考え方にも問題があるだろう。時代的なものもある。60年代、70年代とかそれ以前にミュージカル映画が盛んだった頃は、歌って踊れる映画俳優はいくらでも居た。それらが主演するのだから、上のような問題はそもそも起きない。その後、音楽自体が下火になるというかダンス系で堕落し、スタンダードとして残るような曲も書けなくなり、むしろそれを補うために映画俳優を使って繕っていたに過ぎない。これが悪循環になって、ミュージカル映画が加速度的につまらないものになってしまった。これを防ぐ試みもなされたが、賛否両論で、結局は定着しなかった。端的な例が、おそらく、特に日本人なら多くが知っている「シェルブールの雨傘」(1963)。この作品では興業収入の関係で主演にカトリーヌ・ドヌーヴを使ったが、歌えないので音楽担当のミシェル・ルグランが、監督を説き伏せて姉きだったか妹だったかににアフレコで歌わせた。作品自体は素晴らしいものの、この事の不自然さでこの試みはボツ。何故できないのか、ミュージカル映画をミュージカル役者で占めるという事が。特に主演クラス。本作品ではむしろ主演の二人がオマケ的で、見所はクリスティーン・バランスキーとかのミュージカル役者になってしまっている。それでも洋画界の現状を考えれば、本作品はミュージカル映画としては最高の出来だろう、この数十年間で。例によって余談ながら、皮肉なのは、ちょうどABBA(これ、「B」をひっくり返せない)が出だした頃が、ちょうど音楽が死に始めたころで、それを題材に選んだというのを、密かな批判と見たい。誰の?踊ってた方々。そう、あなた達なのです、音楽を殺したのは。


ヒアリング度:★★★
感動度:★★★
二度以上見たい度:★★
劇場で見たい度:★★★★
ビデオ/DVDで欲しい度:
ビデオ/DVDで見た方がいい度:★★★
ムカつく度:
考えさせられる度:★
(「ヒアリング度」は英語のヒアリングの勉強になるかどうかの度合)

レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで  Revolutionary Road

2009-02-14 05:40:28 | Weblog
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで  Revolutionary Road

U.S. Release Date: 2008

■監督:サム・メンデス
■原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』(ヴィレッジブックス刊)
■キャスト:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/キャシー・ベイツ他
■音楽:トーマス・ニューマン
■字幕:戸田奈津子
■お勧め度:(★)

 「「タイタニック」以来の再共演となるレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが理想と現実の狭間で苦悩する夫婦に扮したヒューマン・ドラマ。原作はリチャード・イェーツの『家族の終わりに』。1950年代のアメリカ郊外を舞台に、一見理想的な夫婦が虚しい日々から脱却を図ろうともがく姿とその顛末を生々しく描く。監督はケイト・ウィンスレットの夫でもある「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデス。
 1950年代のコネチカット州。“レボリューショナリー・ロード”と名づけられた閑静な新興住宅街に暮らすフランクとエイプリルのウィーラー夫妻は、二人のかわいい子供にも恵まれた理想のカップル。しかし、その見た目とは裏腹に、彼らはそれぞれ描いていた輝かしい未来と現状のギャップに不満を募らせていた。元陸軍兵のフランクは事務機会社に勤めるもセールスマン人生の我が身を嘆き、かつて女優志願だったエイプリルも大成せずに至っている。するとフランクが30才の誕生日を迎えた夜、エイプリルが、家族一緒にパリで暮らしましょう、と持ちかけ、パリでは自分が秘書として働くからフランクは気ままに暮らせばいい、と言い出すのだった。はじめは妻の突然の提案に戸惑うも希望を膨らませ、ついには移住を決意するフランク。それは間もなく、周囲にも知るところとなるのだが…。」(allcinema.net/より。)

洋画にしては出来の良い作品ながら、大問題がある。フランクとエイプリル夫婦が破綻にいたる過程を心理描写も含めてリアルに描いたことはいいにしても、それが何なのさ、という問題。平凡さという現実に飽き足らない二人がパリに新天地を求める。しかしその平凡さの根源でもあるフランクの仕事が、ひょんな事から認められて出世する機会が訪れる。妻の方も妊娠してパリ行きはだめ。フランクとエイプリルの事が良く描かれているにしても、個人レベルの描写にとどまって、なんら普遍的なテーマが出ていない。言い換えると物事には「現象」の段階がまずあって、それから本質的な何かを導きだせるものだが、本作品では単に現象を描いたに過ぎない。結果として観終った段階では何も印象に残るものが無い。「感染列島」に比べれば、この事は一目瞭然だろう。おそらく原作の小説では、妻の方がメインだったのじゃないだろうか。女、妻の心理を描くという。それが証拠に二人の浮気の仕方がある。夫の方のが「普通」に描かれ、妻の方のは、その事が結婚生活破綻の過程の一部として描かれる。これが、ケイト・ウィンスレットのミスキャストと重なった。何故この二人を選んだかは知らないが、夫の方はディカプリオでなくても、目立たなければ誰でもよかった。妻の方に演技派女優を使えば、テーマがはっきりしただろう。たとえば、こういうドラマ的な心理描写の巧いケイト・ベッキンセール。本作の主演の二人を比べると、ディカプリオの方に目が行ってしまうので、このテーマは見過ごす。本来的に言うと、この作品(原作)は、余計な部分を省いて舞台作品にした方がはるかに観られた作品だろう。それを作品では、おそらく原作に忠実に映画化し、結果的に原作のテーマが失われた。1950年代というのにも意味がある。まだテレビは、あっても白黒で、オフィスで好きに喫煙するなど、今と比べると、はるかに自由で「健康」だった時代。そうした時代背景で平凡さと理想を描くという事は、今の時代のような手枷足枷を取っぱらう事で、夫婦のあり方を、より自由に描くことが出来る。そこまではいいが、上の話しに戻ると、この夫婦が破綻する過程を深く、ただし表面的に描いただけで、1950年代という時代設定が、単なる、便宜的なものに終わってしまった。内容的には「結婚ホラー」作品だろう。結婚(同棲も含めて)してる方、その予定のある方は、観ない方がいい。やめたくなる。いいテーマもあるが、それが台詞としてしか表現されない。これがやはり映画ではなくて舞台作品にした方がよかった点だろう。舞台の場合は風景とかの余計な部分がなくて台詞が中心になるので。出来の良さと台詞、これだけでも、なんとか賞にノミネートは分からないでもないが、映画作品として観るとはっきり言ってつまらない。


ヒアリング度:★★★
感動度:
二度以上見たい度:
劇場で見たい度:
ビデオ/DVDで欲しい度:
ビデオ/DVDで見た方がいい度:(観ない方がいい)
ムカつく度:
考えさせられる度:
(「ヒアリング度」は英語のヒアリングの勉強になるかどうかの度合)

誰も守ってくれない  2008

2009-02-07 21:51:25 | Weblog
誰も守ってくれない 

U.S. Release Date:

■監督:君塚良一
■キャスト:佐藤浩市/志田未来/松田龍平/木村佳乃/柳葉敏郎/石田ゆり子
■音楽:村松崇継 主題歌: リベラ『あなたがいるから』
■字幕:
■お勧め度:★★★★

 「社会的に注目を集める殺人事件を巡って巻き起こるネットの暴走やマスコミ報道のあり方を、警察による容疑者家族の保護という新たな切り口で問い直す力作社会派エンタテインメント。「踊る大捜査線」シリーズの脚本を手掛けてきた君塚良一監督が、その取材の中から生まれてきた構想を基に自らメガフォンをとり映画化。突然兄が殺人犯となったことから追いつめられていく少女と、彼女を世間の非情な視線から守ることを命じられた刑事が繰り広げる過酷な逃避行の行方をドキュメンタリー・タッチに綴ってゆく。主演は「ザ・マジックアワー」の佐藤浩市とTV「14才の母」「母べえ」の志田未来。
 ある日突然、未成年の長男が小学生姉妹殺人事件の容疑者として逮捕されてしまった船村家。両親と15歳の妹・沙織は状況も分からぬままマスコミの好奇の目に晒され、激しいバッシングに追いつめられていく。そんな中、刑事の勝浦は容疑者家族の保護という任務を命じられる。さっそく保護マニュアルに則り所定の手続きが進められ、三人別々に保護するため、同い年の娘を持つ勝浦が沙織を担当することに。しかし、沙織を匿おうと懸命に手を尽くす勝浦だったが、マスコミはその度に居場所を嗅ぎつけ執拗に沙織を追いかけ回す。やがて勝浦は、東京を離れ、ある場所へと向かうのだったが…。」(allcinema.net/より。)

この作品をテレビ局(フジ)が作ったというのがまず驚き。単に容疑者に過ぎない少年の家族を取材攻めにし、母親を自殺させ、妹を追い回す。その過程で容疑者宅の植木とかを平気で壊す。自分たちがやっている事をここまでリアルに隠さず描いたのはどうしてだろうかというのがまず疑問。しかしこれはすぐ答えが出る。マスコミの報道というのは、視聴者が見たいものを報道するのが仕事で、たとえばマスコミの報道が行き過ぎだという言い方は、裏を返せば、視聴者がそれを煽っている、期待しているという事で、視聴者の立場からマスコミを批判する事は出来ない。この点をはっきりさせるために、作品では、興味本位で容疑者の家族、特にかっこうの的になる妹の居場所やらを暴いて掲示板に書き込む様が描かれるが、この事の動機というのは、マスコミに報道を期待する一般の視聴者と同じだろう。おそらく作品がいいたかったのは、自分たちには何を報道するべきか、実際には、あるいは現実的には選択肢がなくて、視聴者の言いなりにならざるを得ない。それで果たしていいのだろうか。良くないに決まっているが、自分たちには視聴者の期待や興味を裏切るような選択肢は無いのではないか。これを読んでいる人だとまず知らないだろうが、昔、全学連というものの活動が活発だった頃、新聞社が報道を自主規制した事があった。どっちが恐いかというと、自主規制の方だろう。視聴者が知りたい事を報道し、その事で悲劇が生まれるのは事実にしても、その悲劇を防ぐために報道を自主規制することの方が恐いとも言える。この悪循環を断つのは実に簡単な事で、その手の番組を見なければいいわけで、誰も見なければ、行き過ぎた報道をする必要もなくなる。つまりマスコミの報道が悪いとか行き過ぎだというなら、それを防げるのは、それを見ている、当の視聴者しか居ないという事になる。この事を言いたかったのじゃないだろうか。このテーマはかなりヘビーなもので、それが良く、深く描かれている。もう一つのテーマは極限状態に追い込まれた人物たちの考えや行動で、妹の件は分り易いが、彼女を護衛する刑事も、結婚生活破綻寸前、その上、3年前に上司の命令であったにせよ、シャブ中を泳がした事で小学生が殺され、行き場を失った二人は、その殺された小学生の両親が経営するペンションに行かざるを得なくなる。ここでの両者の、ある意味で対決もリアルな感情も含めて描かれ、犯罪の犠牲者というのは、どっちが殺されたかという事は関係なく、両方なのじゃないか、この事も明確に描かれる。表面的に見ると、まだ容疑者の段階で、犯罪者呼ばわりするのは、日本的な悪しき慣習っぽいが、これにしても、興味本位でマスコミに報道を期待し、単に一つの事件が社会現象に発展するという、いつぞやの納豆品切れ事件を思うと、なぜこうした事が起るのかという事を、視聴者にも考えて欲しかった。ついでに言うと、いわゆる言論の自由というのは、戦後、アメリカに押し付けられたようなもので、それが「平等」の美名の元に行われたため、新聞もテレビ局も含めて、メジャーな報道機関が無差別平等になってしまい、その結果として、視聴率至上主義になってしまったのではないか。この意味では戦後日本の民主主義のあり方も問うた作品とも言える。映画作品としては(解説の)エンタテインメント性はゼロに等しいし、予算的にもテレビドラマと変わり無いだろう。それでもこれだけの作品が作れるというのは、もうまぐれじゃない。今やアカデミー賞より日本映画大賞、日本アカデミー賞とかにノミネートされた作品の方がはるかに上だろう。こうなると、ガキ用作品まで観たくなる(ヤッターマン)。


ヒアリング度:
感動度:★★★★
二度以上見たい度:★★
劇場で見たい度:★
ビデオ/DVDで欲しい度:
ビデオ/DVDで見た方がいい度:★★★★
ムカつく度:
考えさせられる度:★★★
(「ヒアリング度」は英語のヒアリングの勉強になるかどうかの度合)