車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

多様性と優越性

2009年04月23日 | 政治

今日の産経ニュースの主張がいいことを言っていると思うので紹介する。

麻生太郎首相が靖国神社の春季例大祭に真榊(まさかき)を供物として奉納した。「内閣総理大臣 麻生太郎」名で奉納され、供物料5万円は私費から支出されたという。

麻生首相は「国のために尊い命を投げ出された方々に感謝と敬意を表するものだと思っている」と説明している。できれば靖国神社に参拝してほしかったが、真榊奉納も、国民を代表して戦没者らに哀悼の意をささげた行為として相応の評価をしたい。

今回、中国外務省は「靖国神社は中日関係の中で重大かつ政治的に微妙な問題だ」としながら、直接的な批判を避け、「問題を適切に処理してほしい」と述べるにとどまった。韓国も「正しい歴史認識という側面から、非常に遺憾だ」(外交通商省)とする論評を発表したが、批判のトーンは盧武鉉前政権のときのように強いものではなかった。

今月上旬、北朝鮮がミサイルを発射し、日本と中国、韓国は協力して北の核・ミサイル開発を封じ込めなければならない時期だ。今月末には、日中首脳会談も予定されている。

そうした近隣外交への配慮もあり、麻生首相は参拝でなく、真榊奉納という形を選択したと思われる。中韓の抑制的な反応を見る限り、外交的にはやむを得ない判断だったように見える。だが、遺族や国民の立場に立てば、小泉純一郎元首相が行ったように、直接、靖国神社を訪れ、参拝するのが本来のありようである。

麻生首相は今後の靖国参拝について「適切に判断する」と明言を避けた。機会がめぐってくれば、8月15日の終戦記念日などに堂々と靖国に参拝してほしい。

今年1月の米大統領就任式で、オバマ大統領はリンカーン元大統領が用いた聖書に手を置いて宣誓を行った。就任2日目には、ワシントン大聖堂で行われた礼拝にクリントン元大統領夫妻らとともに参加した。

多くの国々では、政治は伝統的な宗教と密接に結びついている。それを国民に押しつけない限り、「政教分離違反だ」などと問題視されるようなことはない。

戦没者の霊が靖国神社にまつられ、その霊に国民が祈りをささげるのは日本の文化である。中国や韓国などが互いの文化の違いを認めつつ、北の核や拉致問題解決など共通の目標に向かって力を合わせるような関係を築きたい。

多様性を認めるといって、日本の伝統や行事、文化を否定したら、それは相手の優越性を認めることに他ならない。尊重と優越の違いを理解する必要があるだろう。ましてやそのような主張をしてくる相手が先ごろ露骨な外国人労働者排除政策を発表した韓国や、少数民族を弾圧し虐殺している中国なのだから益々だ。相手の思考回路は中華思想に基づく上下関係の論法に過ぎない。日本は日本として行うべきことを行っていく権利があるだろう。

余談なのだが、宗教が力を持ちすぎると一つの価値観を強制しがちになるということは確かなのだが、政教分離が進んでいると考えるのも一つの偏った考えであるということは心に留めておいたほうが良いかも知れない。ヨーロッパにおいては、教会が精神世界と物質世界の権力を一手に握り、社会に偏った価値観を強制し、内部対立によって宗教戦争という惨劇をもたらしたという過去があるが、宗教が社会に安定をもたらした社会も多かった。中世のイスラム社会においては、イスラム教の教えの下にイスラム教だけでなく、ユダヤ教やさらには仏教をも包括した社会が存在したし、アメリカもまた教会が社会活動において重要な役割を今でも担っていることを言っておく必要がある。

自由な社会を築くには一つの価値観が強制されることを警戒する必要があるが、それは政教分離によって確実に達成されるのではなく、十九世紀から二十世紀のヨーロッパによる植民地支配から明らかなように他の偏狭さや価値観の強制を排除しようとしなければならない。そのような、多元的な試みを否定し政教分離を絶対的に優先することは、また一つの偏狭さであるだろう。

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色々な要因を考慮すると

2009年04月23日 | 論理

今回の話は少し前の貸金法改正の話の続きでもあるのだが、いろいろな要因を考慮する必要があると言う主張はよく聞くのだが、その結果間違うということがよくある。問題は、色々な要因を考慮するのはいいのだが少ししか影響を与えない場合も有れば、答えを完全に変えてしまうほどの影響を与える場合もある。そこのところをちゃんと考えないと結局は勝手に置いた前提が答えを決めることになってしまう。

古代ギリシャ・ローマでは民主制が行われた。現在でも欧米社会では民主的な制度が社会の基本だと考えられている。しかし、一方で衆愚政治に対する危惧があった。また、民主制が議論された当時は社会に貢献したかどうかで選挙権を与えるかどうか決めるべきだという議論があった。その結果、選挙権を与える範囲が限定された。通常の解釈では、貴族制という一部の者が権力を握っている専制的な制度から、民主的な制度へと移行したとされる。しかし、現実的には底辺の選挙権を持たない層や奴隷達の待遇は劇的に低下した。だから、そういう人たちは抵抗したが、僭主を支持する専制主義者として抹殺され、民主制が絶対的な善として君臨した。

ここでも問題なのは、多くの人にとって本当に一部の者による民主制は好ましいものであったのかどうかということである。不完全かもしれないが民衆それぞれに伝統的に権利を与える王制や貴族制と、崇高な理想を掲げてはいるが現実的には一部の者にしか権利を与えない民主制ではどちらがより優れているのだろうか。また、民主制を支持しつつ、他の要因を考慮して選挙権を一部の者にだけ与えるというのは合理的なのだろうか。支持者の考えでは貴族制よりも民主制は絶対的に上回り、それをさらに衆愚政治を考慮したより上のものにしたことになっている。しかし、これでは衆愚政治に関しては民主制さえも絶対的に優越する優先順位を与えつつ、他の問題点に関しては完全に無視しているだけであるかもしれない。

この前の貸金法改正の議論で言いたかったのは、なぜ上限金利を規制することや過払い金返還の影響だけが重視され、そもそもの消費者金融による社会問題の発生という現実を超越してしまうのかというのが疑問だということだ。普段は、赤福のような些細な問題であっても大騒ぎし、雪印は廃業に追い込まれたのに、あれだけ深刻な社会問題を起こした消費者金融に対しては、対策が悪影響を与えるかも知れないというだけで非難が止み、弁護の嵐となっている。そこのところが可笑しいのではないだろうか。ほんの少しの罪でも徹底的に断罪する一方で、別の要因が考慮されれば突然重大な組織犯罪が弁護すべきものに変わってしまう。結局は、ほんの少しの別の要因がほとんどすべてをきめてしまっているのである。

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北野誠謹慎に想う

2009年04月22日 | ニュース

芸能人の北野誠氏が不適切な発言をしたとして実質的な謹慎になった。

松竹芸能は13日、ABCラジオ(大阪市)の番組「誠のサイキック青年団」(3月8日で放送打ち切り)や関連イベントでの不適切な発言により関係者に迷惑をかけ、聴取者に誤解を与えたとして、所属タレントの北野誠(50)を無期限の謹慎処分にすると発表した。関係役員・社員についても同日付で社内規定に基づき懲戒処分とした。処分の内容は明かしていない。

この日、北野は名古屋市内で、月曜パーソナリティーを務めるCBCラジオ「ごごイチ」の生放送に出演。冒頭「他局のラジオ番組や関連イベントで不適切な発言をしてしまったため、関係者の皆様にご迷惑をおかけしました」と謝罪した。

さらに芸能活動自粛や同番組を4月末で降板することも発表。涙声で、時折声を詰まらせる場面もあった。(産経ニュース)

不思議なのは、差別的な発言、不適切な発言をしたとされているがどのような発言をしたのかがなぞであることだ。一説には、ある宗教団体を非難したかことが理由だとか、大手芸能プロダクションが原因であるとかされている。しかし、そもそも発言内容が明らかにさえならずにそれが問題視され、不適切、差別的とされたのであれば、本当のその発言に問題があったのかさえ判らない。

このような理由で謹慎処分を科されるのであれば、強い力を持つものが気にいらないなどの理由で誰でもが抹殺されることになるだろう。差別的という名の下に一部のものが自分の気分や感情で恣意的に、他の人間を社会的に抹殺し、都合の悪い意見を封じ込める。そのような状況を生む可能性が高い不適切な謹慎処分のやり方ではないだろうか。

テレビの偏向や捏造といった問題が世間を騒がせ、左翼による言葉狩りが多くの人に問題に上げられている。テレビ業界は電波という特権に守られつつ、特権的な地位を下請けや報道される側に強制する強圧的な態度を取ってきた。そのテレビ業界の中で大手プロダクションが力を握り、排他的な形で影響力を高めてきた。そんな中で、今回の事件が起こったのであるとすれば、マスコミの腐敗、偏向の程度はここに極まったという観さえある。発言が不適切かどうか、その判断さえ許さないのではすべてが思うがままになってしまうだろう。

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移民反対の波

2009年04月21日 | 政治

ネットを見回してて気づいたのだが、ネットでは左寄りの人も右寄りの人もほとんどが移民反対のようだ。論理的、客観的に考えればそういう答えしか出ようがないから当たり前といえばそうだが、経団連のトップや民主党の政治家、メディアの異常性が見事に浮き彫りになっている。多くの援助が必要な途上国の人たちをほっといて一部の外人や不法労働者を優遇することが効率的であるはずはないので移民反対は当たり前のことだが、移民を求めている人たちは自分の利益しか考えられない人たちなんだろう。

そういえば、麻生首相が靖国神社に供物を納めたそうだ。いかにも左翼が問題にしそうな話題だ。私自身は「あっ、そうなんだ。」って感じなんだけど、日本は日本人だけのものではないなんていっている人たちは国粋主義者・軍国主義者・ファシストといって非難するんだろう。はっきり言って、他の考えを尊重して靖国神社に参拝するなという人たちがいるが、それでは靖国神社に参拝するということを全否定していて、お互いの考えを尊重しているのではなくて向うの考えの絶対的優越性を認めているだけであることに気づかないのだろうか。

それでいて、そういう人たちは他の考えとして朝鮮半島や中国などの一部の国や、一部の不法労働者しか認めない。つまり、色々な考えを認めることを要求しているのではなくて、既存の考えとは違う一部の人間の特殊な考えを要求しているのだ。日本を否定して中国の言いなりになったり、在日朝鮮人の絶対的な権利を認めれば多様な共生社会が生まれるとはお笑い種だ。強制社会が生まれるだけだろう。

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製造業派遣の賃下げ議論

2009年04月21日 | 経済学

相変わらず製造業派遣の話題になると、海外で生産する場合と比較してコストで負けるから賃金を下げないと仕事自体がなくなると言い出す人が必ず現れる。だから、賃金を下げることがその人に取ってはいいことらしいがもう少しちゃんと考えたらどうだろうか。社会が繁栄するのに必要なのはいかにして待遇のいい仕事を生み出すかである。賃金を高めつつ仕事を創出することが難しいから昔から多くの政治家や経済学者が悩んでいるのに賃金を下げればいいというのは暴論だろう。

さらに、派遣労働者の賃金を下げる必要があると言う議論事態が正しいかどうかも実は定かではない。少し考えると分かることだが海外とのコスト競争に晒されている仕事はいくらでもある。さらには、派遣労働者が働いている工場には高給の正社員も働いているだろう。こう考えると、運送コストや地理的な条件、工場の生産方法や技術開発との関連性も含めた上で各企業は工場を日本に建てていることが分かる。だから、仕事を守るためにコスト削減は必要なのだが、派遣労働者の賃金の話になると海外のコストの話が突然出てくるのは意味不明であることが分かる。それなら、派遣社員以外の高コストの人員はどうなんだって話になる。

そういえば、トヨタが派遣労働者や期間工にある程度の賃金を払っているのは偉いと言って、ブログが炎上した経営コンサルタントがいましたが、その人は何を見ていたんでしょうか。工場にはもっと高給で非生産的な人材がわんさかいて、それが企業の大きな負担になっていたのに。という話はこれくらいにして。

つまり、社会全体としては如何にして賃金の高い仕事を生み出すかって考えないといけない。さらには、春闘などの労働組合の主張を聞いていると賃金を下げたり、賃上げをしないと消費が冷え込むといって賃上げが善であるかのような主張を繰り返している。それでいて、製造業派遣の話題になるとなぜか賃金を下げる必要があると言う話になる。どっちが賃金効率が良いんだろうか。こう考えれば、結局は自分達に都合のいい影響だけを取り上げて、それぞれ議論しているだけであることが分かるだろう。つまり、ある時は仕事を守るために賃下げしろ、別のときは待遇を完全に守ってさらには改善することが社会全体のためだという風にだ。

問題は、このようにそれぞれに別の基準を使うことが論理的に合理的かどうかということである。海外との競争で雇用が失われるからないよりは有るほうがいいという前提を置いて議論すれば賃下げが良いという結論が必然的に出る。しかし、そのような結論が出るのは都合がいい前提を置いたからであって、そんな前提を置けば他の議論ではもっと賃下げの必要性が高いことが次々と明らかになるだろう。つまり、勝手な前提が答えをほとんどすべて決めているんだ。このように都合がいいように前提を置いたら正しくなりましたというような議論は、他の状況も考慮した場合に本当に論理的に妥当なのだろうか。それこそ、ちゃんと議論するべきことだろう。

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景気対策反対

2009年04月20日 | 経済学

このブログを読んでいる人は分かっていると思うが、景気対策には基本的に反対である。現在、政府による大型の補正予算案が予定されているが、結局は大した効果がないだろう。日本は九十年代から二千年台に掛けて多くの財政出動をしたが結局は多額の財政赤字を将来の世代に残しただけに終わった問いって良いだろう。

まず第一の問題点は、景気対策となると資金の効率性という観点がまったく抜け落ちてしまうことである。財政出動するにしても結局はいつかはその資金を税金によって回収する必要があるのだから、そのことも考えてより効率的に使おうとすることが重要である。しかし、景気対策となると、どんなに非効率であってもとりあえず行うべきだという意見が支配的になり無責任で無駄な支出が肯定されてしまう。この前、アメリカで政府が巨額の財政支出によって景気を改善しようとしている時に財政の悪化によってカリフォルニア州が教育予算を大幅に削減しているという話を紹介したが、全体としてこのような状態になるのではお金が効率のいい使い方から効率の悪い使い方へと移動しているだけで悪影響しかないということになりかねない。

第二に、経済成長は結局のところ生産性の向上によってもたらされるということがよく忘れられる。生産性を向上させるためには、古い時代遅れの分野ややり方から、より高い生産性が見込まれる分野へと資本や人材を移動させる必要がある。だから、転職支援や職業訓練が重要なのであるが、旧来の生産性の低い仕事が過剰に保護されていると人材の移動が抑制される。日本が長年にわたって抱えている問題は、そのような非生産的な分野が高待遇によって優秀な人材をひたすら引き付けてしまっていると言うことである。その一方で、そのような保護されていない分野の賃金が安すぎて格差が広がっていると言うことである。格差が広がり不安定になるにしたがって、最も非生産的な公務員に人材が集まり、非生産的な公務員の相対的な待遇が上昇するというのは異常な事態である。

結局は、資金を使うにしてもどのようにして将来的に生産性の高い産業を築いていくかを考える必要がある。しかしながら、現在のやり方では最も非経済的・非生産的な分野の保護に使われるだけで、他の人たちは逆に犠牲になってしまっている。その点で、多くの支出をしながらホームレスが路上で寝ていたり、ワーキングプアが解決されずに残っている現在の状況は異常な状況であるといって良いだろう。何をするにしても効率的で公平なお金の使い方が求められるのである。

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移民問題のトレードオフ

2009年04月19日 | 政治

最近話題になっているニコニコ動画の民主党の鳩山氏の発言、近頃の流れに従ってトレードオフの観点から考えてみたい。まずは、問題の動画に対するアジアの真実の記事より。

以前からも当Blogでも扱っている問題ですが、民主党が政権をとってはいけない最大の理由となっているのがこの「外国人参政権問題」です。民主党は外国人参政権付与法案を以前から推し進めており、韓国政府や民団とも、「政権を執ったら真っ先に成立させる」と硬い約束を交わしています。

この動画は、これに対して「外国人参政権付与には、我々日本人にはどんなメリットがあるのか」としたものでした。私もどんなメリットを提示するのかと興味を持って見ていましたが、結局”メリット”には全く言及せず、ひたすら「日本人は自信がないだけだ。自身があれば受け入れられるはず」と訳のわからない主張を繰り返すだけでした。さらに、「彼らは税金を納めている」「韓国は参政権を認めている」と、参政権容認派の常套文句が飛び出します。この問題に詳しい方ならわかると思いますが、これは両者とも外国人参政権導入の理由にはなり得ません。以前から指摘しておりますのでここでは詳しくは書きませんが、税金を納めるのはその国や地域で生活する為のインフラを享受する為のものであり、政治に参加する権利の対価ではなり得ません。例えばイチローはアメリカで年間数十億もの多額の税金を納めていますが、彼にアメリカでの参政権はありません。また、確かに韓国は地方参政権を認めていますが、その資格を得るためには、韓国への投資額や年収、滞在年数などの厳しい制限があり、対象になる日本人はわずか数十人と言われています。一方で、日本に住む在日韓国・朝鮮人は60万人とも言われています。さらに、近年激増している中国などの永住者を含めれば、その数は莫大になります。そして最大の問題は、彼らの本国では徹底した反日教育が行われており、日本においてもその思想や間違った歴史観は修正されることなく生活し、本国と連携して反日活動を行う者までいます。つまり、韓国とは全く事情が違うのです。これでは相互主義とは言えません。韓国がやっているのだから相互主義で日本もと言うのであれば、日本への金銭的な貢献度や反日思想の有無などでその資格を制限することになるでしょう。・・・

資源分配とトレードオフの観点から考えると、移民受け入れは最悪の政策だ。日本国内の問題だけでなく、日本以外の国際的な社会に対する貢献を重視することは重要である。しかし、それを移民受け入れによって行うのは非効率的だ。まず、移民受け入れによってはごく少数の人間しか恩恵を受けず、それも最も支援が必要な人たちではない。さらに、移民受け入れによって社会は色々な面で莫大な負担を強いられることになる。治安の悪化、貧困の深刻化、移民受け入れのための福祉政策など社会的な費用は高額である。この結果、ヨーロッパにおいては移民受け入れによって社会は繁栄することなく停滞し、後には疲弊した社会が残っただけであった。

また、逆に移民受け入れによって恩恵だけを受け入れようとして高学歴者だけに受け入れを絞った場合には別の問題が起こる。途上国からの頭脳流出だ。途上国にとっては大学や大学院などの高等教育は高額であり、多くの人にとっては手の届かないものである。しかし、それでもどうにかして予算を割いて経済発展のための人材を育成しようとしている。それを、先進国が受け入れれば教育に割いた予算が先進国によって奪われることになる途上国にとっては大きな負担となってしまう。つまり、高学歴者の受け入れは全然国際支援になっていない。

国際的に貢献する方法は簡単だ。費用もそれほど掛からず、費用対効果の高い途上国の抱える問題を解決する政策に資金を出せばいい。一番費用対効果がいいのは感染症対策だ。コペンハーゲン・コンセンサスでもこの結果が出たが、感染症対策が一番多くの人を少ない費用で助けることが出来る。それ以外にも、餓えている人に対する水と食料の援助や、途上国のビタミンプログラムに対する援助は効率的だ。つまり、より効率的な国際貢献の方法は山のようにある。だから、国際化のために移民を受け入れるのはナンセンスである。

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不思議な民主党

2009年04月18日 | 政治

いつも思うことなのだが民主党の自民党に対する論戦や追及は揚げ足取りばかりで、ちゃんとした政策論争がほとんどない。だから、民主党の本来の政策を国民に知ってもらって支持を集めることが出来ず、ただなんとなく自民党は駄目だというイメージで選挙に勝とうとしているように思う。そんな印象を裏付けるかのような記事があった。

民主党の小沢一郎代表がまた党首討論を拒んでいる。今国会で党首討論は一度も開かれておらず、4月に入ってからの与党の呼びかけを3週連続で断っているのだ。

西松建設の違法献金事件で公設第1秘書が逮捕・起訴されたことから、首相と真っ向から勝負しにくいためではないか。そういう見方も少なくない。本当だとしたら情けない話である。

一方で、小沢氏は週明けから地方遊説を再開するという。党首討論より遊説が優先だと判断しているなら、議会軽視との批判は免れないだろう。

政府の新経済対策をどう評価するか。ミサイル発射を強行した北朝鮮にどう対処すべきか。首相にただし、自ら見解を示すのは政権を担おうという政党党首の責務だ。堂々と出席して説明責任を果たすべきだ。

麻生太郎首相と小沢氏による党首討論は昨年11月の1回だけだ。与党は4月8日、15日に続き、22日の開催を呼びかけたが、22日を逃せば5月の大型連休後まで開かれそうにない。

民主党が拒む理由に挙げているのが「首相が衆参本会議や委員会に出席した週は、原則として党首討論を開かない」という与野党の申し合わせだ。

政府側が持ち出すならまだしも、首相に討論を迫る野党から言い出すことだろうか。公明党への牽制(けんせい)を狙い、「政治と宗教」に関する参院予算委員会での集中審議が先決だと主張したこともあった。どちらも確たる根拠とはいえまい。

英国議会を参考にした党首討論の導入に熱心だった小沢氏は、どこへ行ってしまったのだろう。

有権者の大多数が、違法献金事件に関する小沢氏の説明は不十分だと今も考えており、民主党内も同様だ。事件やマスコミ報道などを検証する「第三者委員会」の報告書は1カ月も先になる。

小沢氏は再開する地方遊説について「国民に直接おわびしながら(支援を)お願いしに行きたい」と説明し、鳩山由紀夫幹事長は説明責任を果たす一環だと位置付けている。続投を前提としたおわび行脚なのだろうか。

小沢氏は一心同体といえる秘書が、政治資金規正法違反罪で起訴された政治責任や道義的責任をどう考えているのだろうか。知らん顔を続けていては国民の信頼を取り戻すことはできない。

政権交代を狙っている野党の民主党の代表であるにも関わらず、雲隠れしてしまったり、党首討論を拒んだりと直接的な政策論争をする気が有るのか疑問に思う行動である。自民党は多くの問題を抱えており、旧来の建設業や農業との深い関係を引きずっている。そこの点で自民党と違いを出すことも出来ると思うのだが、前回の選挙の公約を見ているとむしろ既得権を侵害しないことによって組織票を引き付けようとしていた面がある。民主党の主要な支持母体の一つは自治労であり、最大の既得権集団である公務員を守る政党であるから、既得権に切り込むような政策は難しいのかも知れない。

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アメリカに消費者金融があったら

2009年04月17日 | 論理

昨日の貸金法改正の話の続きだ。消費者金融の問題でグレーゾーン金利や過払い金利返還の話になると、後からルールを変更するのはおかしい、法治主義で行くべきだという主張がよく聞かれる。そのような主張が本当に妥当かどうか考えてみる。

突然だが、もし消費者金融各社が営業しているのが日本ではなくてアメリカだったとしたらどんなことが起こっていたか考えてみよう。アメリカは訴訟大国だ。特に大企業が不正なやり方で広大な被害を与えたら、集団訴訟において多額の賠償金だけでなく、懲罰的な賠償金も含めてものすごい額の負担を被ることになる。だから、逆にアメリカでは訴訟による懲罰的な賠償という現実が違法行為や差別的な行為を抑止することに貢献している。

そんなアメリカだから、日本の消費者金融がやってたようなことをしていたら、違法な取立てをしたら数千万、家族関係や友人関係を破壊されたら数億、自殺に追い込まれたら十億といったような額の損害賠償訴訟が山のように起こされていただろう。消費者金融にとってはそのような犯罪行為に対して甘い日本でよかったと言えるだろう。

つまり、日本の消費者金融がやっていたことは他の国なら一瞬で会社が消えてなくなるようなことだったのだ。法治主義で過払い金訴訟に反対するというが、実は法律を守っていなかったのは消費者金融の方だ。法律を守らずに暴力によって借り手の人間関係を現金化し濡れ手に粟で儲けてきたのである。それで法律を守って消費者金融を保護しようというのは、暴力で強制した約束を、約束は約束だからといって守ることを求めるようなものだ。つまり、そもそも消費者金融の権利を守ること事態が法律的に正しいかどうかさえ怪しいものでしかないのだ。法治主義というものをちゃんと理解した上で議論していく必要がある。

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改正貸金業法を指示する-池尾和人

2009年04月16日 | 論理

つい昨日気づいたのだが、アゴラに池尾和人氏の「改正貸金業法を指示する」という投稿があった。大いに賛成できる内容だったので引用する。

上限金利規制や総量規制といった統制経済的なやり方は、非効率で副作用の大きなものですから、そうした規制の強化や導入に伴って何らかのコストが発生していることは疑いありません。しかし、「便益ばかり強調し、まるで費用が存在しないかのよう」に言うのが正しくないように、「費用ばかり強調し、まるで便益が存在しないかのよう」に述べるのも間違っています。貸金業法の改正の以前と以後で、純便益(便益-費用)がどう変化したのかを考えなければなりません。

池尾・池田本のp.224で池田さんが指摘しているように、「最近の経済学で共有されている基本的な考え方は、市場メカニズムがちゃんと動くためにもルールは必要であるというものであって、ルールもなしにマーケットだけ導入したら滅茶苦茶にな」ります。しかし、果たしてこれまでの日本の消費者金融市場は、市場機構が適正に作動する前提条件となる「ルールとか暗黙の約束事」が遵守されるような状態にあったのだろうかと考えると、否定的にならざるを得ません。

私自身は、同書のp.226で「これまでの日本の市場経済は、ルールとか制度整備が不十分で、相手を騙して儲けるような行動を抑止する仕組みが十分に備わっていない、一言で言うと質の低い市場だった」と述べましたが、中でも従来の消費者金融市場はきわめて低質な市場であったと判断しています。それゆえ、略奪的貸付(predatory lending)が広範に横行していたとみています。

略奪的貸付の概念は、サブプライムローン問題で有名になったので、ご存じの方も多いかと思いますが、要するに借り手が不利益を被るような貸付のことです。自発的交換の世界で、どうして借り手が不利益な取引に応じるのかという疑問をもつ方も少なくないでしょう。確かに、完全情報で、交渉力等の面でも対等性が確保されているなら、強制されない限り、不利益な取引に応じる者はいません。しかし、情報の非対称性が存在したり、借り手の側に行動経済学的なバイアスがみられたりすれば、略奪的貸付は起こり得ます。

改正貸金業法に批判的な人は、よく「ヤミ金が増えるだけだ」といった言い方をしますから、ヤミ金が存在することは認めているわけです。それでは、ヤミ金がなぜよくないかというと、それは略奪的貸付行為にほかならないからです。この意味で、日本の消費者金融市場に略奪的貸付が存在することを前提として議論する必要があります。問題は、ヤミ金だけが略奪的貸付で、登録貸金業者はまったく略奪的貸付と無縁だったといえるかということになります。この点は、最終的に実証の問題ですが、少なくともヤミ金融に限定されず略奪的貸付がみられるというanecdotal reportsはたくさん存在します。また、いまのところそれを否定する実証結果も出されていません。

従前から、日本の消費者金融市場に関しては、「高金利、過剰貸し付け、厳しい取り立て」という現象がみられるという指摘が繰り返しなされてきています。このうち、厳しい取り立てというのは、私は、人間関係のような通常は「譲渡不可能(non-transferable)な資産」を譲渡可能(transferable)にする技術だと捉えています。

通常の意味での金銭的な資産や所得の他に、ある個人が職場や地域あるいは親族や家族との間で維持している人間関係の良好さといったことも、その個人の厚生水準の重要な規定要因です。その意味で、いわゆる無産者であっても人は、現在の人間関係から得ている便益の金銭相当額(あるいは、その人間関係を失うことの機会費用)を現在価値化した分の資産はもっていると考えることができます。厳しい取り立ては、親族や友人から借りて返済させるというかたちで、この資産を金銭化します。しかし、金銭化される割合はかなり低く、資産の大半は破損されることになる(すなわち、二度と親類つき合いや友達つき合いしてもらえなくなる)とみられます。

「多重債務の怖さは、その生活破壊力の大きさ、早さにある。」(岩田正美『現代の貧困』ちくま新書、2007年、p.179)と指摘されていますが、これは、いま述べたような事情があるからだと考えます。こうした理解が正しいとすれば、厳しい取り立てを伴う消費者金融は、大きな死荷重(deadweight loss)を発生させるものであり、その規模拡大は、社会的余剰をむしろ減少させるものになると考えられます。今回の貸金業法改正が信用収縮をもたらすことは、このような観点から意図されたものです。収縮する信用部分が、もっぱら死荷重を発生させるタイプのものであるならば、マイナスの効果を持つものがマイナスになれば、社会の厚生水準は改善することになります。

原因は「厳しい取り立て」にあるので、本当はそれだけを禁止できればいいのですが、立証可能性等の問題を考えると、取り立て規制の実効化(enforcement)はきわめて難しいものです。それゆえ、やむなく冒頭でも述べたように副作用が大きく、乱暴な手段である上限金利規制や総量規制を導入せざるを得なかったというのが、日本の消費者金融市場の情けない現状だといえます。改正貸金業法を批判する人は、社会的にもロスを生じさせるようなタイプの略奪的貸付を横行させてもよいというのでなければ、どのような代替的な方策があるのかを提示すべきでしょう。

ということで、貸金業法の改正後、略奪的貸付は顕著に減少しており、かなりの便益がもたらされたと私は判断しています(もちろん、これも最終的には実証の問題で、現時点で確たる証拠があるわけではない)。しかし、コスト増がこの便益を上回っていたら、失敗だということになります。

コストとして、一般に指摘されているのは、(1)中小零細事業者の資金繰りが困難化していると、(2)ヤミ金が増えているというものです。これらの点については、私も懸念していますが、辻広さんも指摘しているように、いずれもデータ的に裏付けられたものではありません。前者の点については、木村剛の『ファイナンシャル ジャパン』が特集するということのようなので、どんな証拠が出てくるのかを待ちたいと思います。

後者の点は、とても気にしているのですが、ヤミ金被害が増えたという感触は幸いなことにいまのところありません。もっとも、定義的に「ヤミ」ですから、公式統計とかがあるわけではないので、印象論にしかならないところがあります。首都圏とか関西圏では、警察の取締りが強化されたことから、明らかに減少していると思われます。東京在住であれば、神田駅周辺や新橋駅前の状況をみれば、このことは分かるはずです。しかし、(仙台や福岡といったクラスの都市を含む)地方では、増加しているのではないかと懸念される兆しがないわけではありません。

ヤミ金(の検挙数ではなく、被害)が増えているといっている人はいるのですが、どのような根拠に基づいているのか是非教えてほしいと思っています。ある記事のように、「ある大手消費者金融の関係者は『(断られた人は)おそらく他社でも断られているでしょうから、ヤミ金に流れるとみるのが自然でしょう』と話している。」というのだけが示された根拠というのでは、話になりません。

結論としては、純便益は増加しているという判断です。ただし、現状が最善でないことは当然で、次善どころか三善以下でしかない可能性も高いので、繰り返しになりますが、もっといい解決法があるということでしたら、是非ご教示下さい。

結局、貸金法改正に関する議論のおかしなところは、多くの消費者金融が違法な行為をして、それが社会の便益を大きく損なっているのに、規制をしないことによって消費者金融を保護する必要があると言う主張が出てくるところだろう。本来なら、もっと前から違法な取立てなどに対して厳しい刑事罰を科すなどの対策を取っておく必要があった。また、現在においても金融業者の違法な行為に対する取締りや対策は不十分だと言えるだろう。つまり、違法な行為を規制することによって正常な市場を生み出す必要があるのである。

それを、違法な状態の改善によって社会全体の利益を改善しながら貸金業界を改革していく必要があるのに、不法な行為によって多くの収益を上げてきた現在の消費者金融の利益を保護することによって市場を保護しようとするのがおかしいのである。少し考えれば分かることであるが、違法な取立てをしてでも貸し出しを回収する業者と違法な取立てをしない業者とがあれば、違法な業者は利益を上げ、合法的にやっている業者は貸し倒れによって潰れていってしまう。つまり、現在の違法な取立てが蔓延る状況は現在の消費者金融たちがまともな業者を排除することによって作り出したのである。

つまり、本来は健全な市場を作り出さないといけなかったのに、消費者金融が法律を無視して違法なことをし、それが他の健全な業者を排除して反社会的な市場が形成されたのである。このように、消費者金融が原因となって現在の違法な取立てが横行する状況が出来上がったのに、消費者金融が違法なことをしていなければ存在したであろうよりよい金融市場の可能性を無視して、現在の反社会的な制度を守ろうという発想が無茶苦茶なのである。

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