車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

多様性と優越性

2009年04月23日 | 政治

今日の産経ニュースの主張がいいことを言っていると思うので紹介する。

麻生太郎首相が靖国神社の春季例大祭に真榊(まさかき)を供物として奉納した。「内閣総理大臣 麻生太郎」名で奉納され、供物料5万円は私費から支出されたという。

麻生首相は「国のために尊い命を投げ出された方々に感謝と敬意を表するものだと思っている」と説明している。できれば靖国神社に参拝してほしかったが、真榊奉納も、国民を代表して戦没者らに哀悼の意をささげた行為として相応の評価をしたい。

今回、中国外務省は「靖国神社は中日関係の中で重大かつ政治的に微妙な問題だ」としながら、直接的な批判を避け、「問題を適切に処理してほしい」と述べるにとどまった。韓国も「正しい歴史認識という側面から、非常に遺憾だ」(外交通商省)とする論評を発表したが、批判のトーンは盧武鉉前政権のときのように強いものではなかった。

今月上旬、北朝鮮がミサイルを発射し、日本と中国、韓国は協力して北の核・ミサイル開発を封じ込めなければならない時期だ。今月末には、日中首脳会談も予定されている。

そうした近隣外交への配慮もあり、麻生首相は参拝でなく、真榊奉納という形を選択したと思われる。中韓の抑制的な反応を見る限り、外交的にはやむを得ない判断だったように見える。だが、遺族や国民の立場に立てば、小泉純一郎元首相が行ったように、直接、靖国神社を訪れ、参拝するのが本来のありようである。

麻生首相は今後の靖国参拝について「適切に判断する」と明言を避けた。機会がめぐってくれば、8月15日の終戦記念日などに堂々と靖国に参拝してほしい。

今年1月の米大統領就任式で、オバマ大統領はリンカーン元大統領が用いた聖書に手を置いて宣誓を行った。就任2日目には、ワシントン大聖堂で行われた礼拝にクリントン元大統領夫妻らとともに参加した。

多くの国々では、政治は伝統的な宗教と密接に結びついている。それを国民に押しつけない限り、「政教分離違反だ」などと問題視されるようなことはない。

戦没者の霊が靖国神社にまつられ、その霊に国民が祈りをささげるのは日本の文化である。中国や韓国などが互いの文化の違いを認めつつ、北の核や拉致問題解決など共通の目標に向かって力を合わせるような関係を築きたい。

多様性を認めるといって、日本の伝統や行事、文化を否定したら、それは相手の優越性を認めることに他ならない。尊重と優越の違いを理解する必要があるだろう。ましてやそのような主張をしてくる相手が先ごろ露骨な外国人労働者排除政策を発表した韓国や、少数民族を弾圧し虐殺している中国なのだから益々だ。相手の思考回路は中華思想に基づく上下関係の論法に過ぎない。日本は日本として行うべきことを行っていく権利があるだろう。

余談なのだが、宗教が力を持ちすぎると一つの価値観を強制しがちになるということは確かなのだが、政教分離が進んでいると考えるのも一つの偏った考えであるということは心に留めておいたほうが良いかも知れない。ヨーロッパにおいては、教会が精神世界と物質世界の権力を一手に握り、社会に偏った価値観を強制し、内部対立によって宗教戦争という惨劇をもたらしたという過去があるが、宗教が社会に安定をもたらした社会も多かった。中世のイスラム社会においては、イスラム教の教えの下にイスラム教だけでなく、ユダヤ教やさらには仏教をも包括した社会が存在したし、アメリカもまた教会が社会活動において重要な役割を今でも担っていることを言っておく必要がある。

自由な社会を築くには一つの価値観が強制されることを警戒する必要があるが、それは政教分離によって確実に達成されるのではなく、十九世紀から二十世紀のヨーロッパによる植民地支配から明らかなように他の偏狭さや価値観の強制を排除しようとしなければならない。そのような、多元的な試みを否定し政教分離を絶対的に優先することは、また一つの偏狭さであるだろう。

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色々な要因を考慮すると

2009年04月23日 | 論理

今回の話は少し前の貸金法改正の話の続きでもあるのだが、いろいろな要因を考慮する必要があると言う主張はよく聞くのだが、その結果間違うということがよくある。問題は、色々な要因を考慮するのはいいのだが少ししか影響を与えない場合も有れば、答えを完全に変えてしまうほどの影響を与える場合もある。そこのところをちゃんと考えないと結局は勝手に置いた前提が答えを決めることになってしまう。

古代ギリシャ・ローマでは民主制が行われた。現在でも欧米社会では民主的な制度が社会の基本だと考えられている。しかし、一方で衆愚政治に対する危惧があった。また、民主制が議論された当時は社会に貢献したかどうかで選挙権を与えるかどうか決めるべきだという議論があった。その結果、選挙権を与える範囲が限定された。通常の解釈では、貴族制という一部の者が権力を握っている専制的な制度から、民主的な制度へと移行したとされる。しかし、現実的には底辺の選挙権を持たない層や奴隷達の待遇は劇的に低下した。だから、そういう人たちは抵抗したが、僭主を支持する専制主義者として抹殺され、民主制が絶対的な善として君臨した。

ここでも問題なのは、多くの人にとって本当に一部の者による民主制は好ましいものであったのかどうかということである。不完全かもしれないが民衆それぞれに伝統的に権利を与える王制や貴族制と、崇高な理想を掲げてはいるが現実的には一部の者にしか権利を与えない民主制ではどちらがより優れているのだろうか。また、民主制を支持しつつ、他の要因を考慮して選挙権を一部の者にだけ与えるというのは合理的なのだろうか。支持者の考えでは貴族制よりも民主制は絶対的に上回り、それをさらに衆愚政治を考慮したより上のものにしたことになっている。しかし、これでは衆愚政治に関しては民主制さえも絶対的に優越する優先順位を与えつつ、他の問題点に関しては完全に無視しているだけであるかもしれない。

この前の貸金法改正の議論で言いたかったのは、なぜ上限金利を規制することや過払い金返還の影響だけが重視され、そもそもの消費者金融による社会問題の発生という現実を超越してしまうのかというのが疑問だということだ。普段は、赤福のような些細な問題であっても大騒ぎし、雪印は廃業に追い込まれたのに、あれだけ深刻な社会問題を起こした消費者金融に対しては、対策が悪影響を与えるかも知れないというだけで非難が止み、弁護の嵐となっている。そこのところが可笑しいのではないだろうか。ほんの少しの罪でも徹底的に断罪する一方で、別の要因が考慮されれば突然重大な組織犯罪が弁護すべきものに変わってしまう。結局は、ほんの少しの別の要因がほとんどすべてをきめてしまっているのである。

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