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言論の自由はどこまで許されるのか『自由論|ミル』

2024-06-03 06:10:23 | 哲学の窓

言論の自由はどこまで許されるのか『自由論|ミル』

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□注釈と引用

*1 ジェームズ・ミルには明確に「息子を功利主義の論者として育てたい」という目的意識があったようです。また、ジェームズはアソシエーショニズムという地縁ではなく共通の目的を持つコミュニティーを重視する思想の支持者でもあり、そのような思想の代弁者になるためにミルに英才教育を施していました。結果的に、ジェームズの目的は達成されたと言って良いでしょう。

*2 ちなみに、私は38歳にていまだに『歴史』を読破できていません。すっごく苦手。

*3 ちなみに、ミルは厳密には学者ではありません。生前から名声を獲得していた彼ですが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学からの研究の場の提供を全て断り、父親と同じく東インド会社の仕事に就職しました。そういう意味で、彼は学者という仕事を専門としていたわけではありません。

*4 『自由論』ミル (光文社古典新訳文庫) ーさらにまた、人民の意志というのは、じっさいには人民のもっとも多数の部分の意志、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせることに成功したひとびとである。それゆえに、人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それにたいする警戒が、ほかのあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要なのである。したがって、権力の保持者が定期的に社会に、すなわち社会内の最強のグループに説明責任をはたすようになっても、個人にたいする政府の権力を制限することは、その重要性を少しも失わない。  こうしたものの見方は、思想家たちの知性にも、また現実であれ思い込みであれ民主主義と利害が対立するヨーロッパ社会の主要な階級の気持ちにも、ひとしく訴えるものがあったので、すぐさま常識と化した。いまでは政治について考えるとき、「多数派の専制」は一般に社会が警戒すべき害悪のひとつとされている。

*5 ミル. 自由論 (光文社古典新訳文庫) ーその原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。

*6 『自由論』においては「判断が能力が成熟した大人」以外の存在について、大人ではない子供はもとより「まだ発展していない低俗な文化を持つ民族」を想定しています。この辺りは西洋至上主義というか、彼の傲慢さが現れている箇所ですね。このような西洋至上主義的な思想は、後に構造主義者たちによって批判されます。

*7 ミル. 自由論 (光文社古典新訳文庫) ーそれでは、なぜ合理的な意見と合理的な行為が、全体として、人類のあいだで優勢なのだろうか。  このような優勢が事実であるとすれば──というか、人間の生活は過去も現在もずっと悲惨な状態にあるわけではないのだから、それは事実であるにちがいないのだが──この優勢は人間の精神のひとつの特性のおかげである。すなわち、人間は自分の誤りを自分で改めることができる。知的で道徳的な存在である人間の、すべての美点の源泉がそこにある。

□参考文献 自由論 (岩波文庫) J.S.ミル (著), 関口 正司 (翻訳) https://amzn.to/3U4UUVu


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