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『超訳 ニーチェの言葉』-100-

2023-12-09 06:10:19 | 哲学の窓

『超訳 ニーチェの言葉』(Discover)白取春彦 編訳 より、ニヒリズムとして名高い思想家によるポジティブな言葉を紹介します。



短期は人生を厄介なものにする 

第100回も全文を紹介します。

-------以下引用--------

愛し合うときで、戦い合いをするときでも、また尊敬し合う場合でも、
両者のうちの一方だけが、いつも煩わしいことを引き受け役割を
担うことになるものだ。

その人たちの特徴は共通している。
つまり、短気なのだ。

短気な人は,どういう場合や状況にあっても,
物事が中途にもかかわらず短絡的に反応し,
そのつど感情を破裂させ,過剰な言動をしてしまう。
そのため,まったくふつうのことすら,手のかかる
煩わしい事柄になってしまうのだ。
   
   『 曙 光 』        

-------引用終わり--------

『曙光』は、これまでの価値観を否定する内容が多く見られます。
それは、これまでの自分の否定も含まれます。

この「短気な人」は、おそらく、自分の中にあることを自覚しているのでしょう。

『曙光』の後半からは、新しいニーチェが見えてきます。

ニーチェ年譜
1844 10月15日、プロイセンのザクセン州の田舎町レッケンに生まれる
1858 名門プフォルタ学院に給費(奨学)生として転校
1862 「運命と歴史」を口頭発表
1864 プフォルタ学院を卒業。卒業論文はラテン文の「メガラのテオグニスについて」。10月、ボン大学に入学
1865 古典文献学のリッチュル教授と同時にライプツィヒ大学に移り、同教授の下で古典文献学を専攻。ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を耽読し、深く感動
1869 古典文献学の員外教授としてバーゼル大学に赴任。5月、トリプシェンにワーグナーを訪う。ブルクハルトとの交友が始まる
1872 『悲劇の誕生』を出版。バイロイト祝祭劇場の起工式に出席
1876 病気のため大学の講義を中止。バイロイト祝祭劇に出席するが、幻滅のあまり途中でボヘミアに旅す
1878 『人間的なもの、あまりに人間的なもの』を出版。ワーグナーとの友情関係は破断する
1879 バーゼル大学を正式辞職。
『さまざまな意見と箴言』(『人間的な、あまりに人間的な』の2巻第1部に入れられる。)
1880 『漂泊者とその影』(『人間的な、あまりに人間的な』の第2部に入れられる。)
1881 シルバプラーナの湖畔で、永劫回帰の思想に「襲われる」。『曙光:道徳的先入観についての感想』、晩秋より翌1882年にかけ『悦ばしい知識』を執筆
1882 ルー・ザロメに恋愛し求婚するが、拒絶される。のちに『力への意志』で総称される遺稿群は、ほぼ本年から1888年にかけて書かれた
  『悦ばしき知識』(含 「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」)は中期の著作の中では最も大部かつ包括的なも。永劫回帰説を本書で提示。
1883 『ツァラトゥストラはこう語った』第1部を出版
1886 『善悪の彼岸』出版
1887 『道徳の系譜』を自費出版
1888 デンマークの文芸史家ゲオルク・ブランデスより、コペンハーゲンで「ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ」について講義した旨の通知を受け、気をよくする。年末、精神錯乱の徴候
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『偶像の黄昏』(Götzen-Dämmerung, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce homo, 1888)
1889 トリノの広場で昏倒。知人らに妄想の表れた手紙を出す。医者の診断は「進行性麻痺症(まひしょう)」
1891 妹エリーザベト、ニーチェの作品公刊に干渉し、『ツァラトゥストラはこう語った』第4部の出版を阻止する
1894 妹、「ニーチェ文庫」を設立、ニーチェの助手格で友人のペーター・ガストを排除し、自分で全集の出版に着手
1900 8月25日、ワイマールにて死去する
1901 『力への意志』刊行。
1906 ニーチェの妹エリーザベトが編集し、初版から大幅に改訂された『力への意志』刊
1908 『この人を見よ』刊行。

1956 『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)

 


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