日本史事典.comより【比叡山焼き討ちとは】わかりやすく解説!!女子供を殺害した理由・内容・その後などを紹介します。
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目次です。
- 1 比叡山焼き討ちとは
- 2事件の場所『比叡山延暦寺』
- ①日本仏教の母山
- ②武力を持つように…
- 3 比叡山焼き討ちに至るまで
- ①比叡山領の横領
- ②浅井・朝倉軍をかくまった延暦寺
- ③そして、焼き討ちが行われる
- 4 比叡山と信長のその後
- ①土地を分配
- ②逃げ延びた僧たち
- ③本能寺の変のその後
- 5 まとめ
古代から信仰の対象で、大半の各宗派の開祖を育てた比叡山。
力を付けると、時代なのでしょうか。武力を持つようになります。なぜ、慈愛の仏教に武力??
本願寺のように、独立国のような力をつけた延暦寺は、奈良興福寺と共に「南部北領」と恐れられました。
姉川の戦いの後、延暦寺に逃げ延びた浅井・朝倉の兵をかくまったために焼き討ちに遭います。
信頼性の高い『信長公記』に、僧侶から女子供まで手にかけたという記述が残っていることから、信長の恐ろしさが伝えられてきましたが、発掘調査の結果、 信長が焼き討ちしたと思われる形跡はごく一部でした。
太田牛一 が嘘を書いたのか、大げさだったのか、それなりの意図があったのかはわかりません。でも、そこにはいなかったと言われています。ミステリーです。
ここはきちっと調査して、信長の汚名を消してあげたいものですね。
まとめを見てみましょう。
・1571年(元亀2)、織田信長と比叡山延暦寺の戦いのことを「比叡山焼き討ち」という。
・比叡山延暦寺は日本仏教の各宗派の開祖たちを育てたため、「日本仏教の母山」と呼ばれている。
・比叡山延暦寺は「寺社勢力」として財力、武力、権力を強めていった。
・織田信長は比叡山の寺領を横領したといわれている。
・「姉川の戦い」で逃げ延びた浅井・朝倉の兵を、延暦寺はかくまうことにしたが、信長の反感を買った。
・焼き討ちでは比叡山のほとんどが焼かれ、男女関係なく3000〜4000人が殺された。
信長の焼き討ちから13年後、秀吉によって延暦寺復興が企てられた。
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