郷が杜備忘録

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奇策(北の関ヶ原・福島城松川の合戦) 風野真知雄著

2020-12-19 | 読書

私の故郷、福島に係わる小説であった。

今、 私の住んでいる宮城県は江戸時代は伊達氏の領国であった。

伊達家は鎌倉時代、奥州合戦により頼朝軍の前衛軍として活躍した中村常陸入道念西が、頼朝から伊達郡を拝領、

姓を伊達氏と改め伊達郡高子岡に居城したという。したがって当初の領地は福島県県北地方の伊達郡であった。

伊達政宗は17代目で、当時の居城米沢城で生まれている。

戦国時代、南奥州には、会津の芦名氏、二本松の畠山氏、三春の田村氏、相馬の相馬氏、南の茨城には佐竹氏がおり。

北の山形には最上氏、宮城県は国分、留守、大崎、葛西の各氏が割拠していた。

南の福島県中通り、会津エリアを中心に領土争いが行われ、芦名氏とは摺上原(すりあげはら)の合戦で雌雄を決し、

芦名氏は滅亡している。時は1589年、政宗は米沢と福島県、宮城県に最大領土を獲得し、会津の黒川城にはいる。

しかし、全国的には豊臣秀吉の天下統一が進んでおり、1590年北条征伐が起こり、政宗は小田原参陣、北条氏の

滅亡とともに、秀吉の奥州仕置(東西一統)が行われる。

この奥州仕置により、会津と福島は蒲生氏郷に、大崎・葛西の宮城県は木村吉清父子に与えられ、政宗に残ったのは

米沢と宮城の県南部分だけであった。

その後、大崎・葛西一揆があり、政宗の居城米沢を没収され、岩出山に移った。

 

前置きが長くなってしまった。

今回の小説の舞台と時代は、先に書いた福島市の周辺であり、1600年の関ケ原の合戦の前後のことであった。

奥州仕置きの後に、会津の城主は上杉景勝となっており、米沢にはその家臣の直江兼続が入っていた。

当時政宗は岩出山におり、福島周辺は本庄繁長という武将が城代をしていた。

上杉征伐に小山まで出てきていた徳川家康他東軍は、西軍の蜂起の情報により、小山から西に転進を進めていた。

上杉軍は、家康軍の後背を突くわけではなく会津に居座っていた。上杉軍は、北の最上軍や伊達軍も警戒していたのである。

政宗は、上杉軍の武将のいた白石城を攻撃し奪っていた。福島の北の国見の峠を越えて、福島城を狙っていたのである。

福島城代の本庄繁長は、今の福島県庁あたりにあった居城で、政宗の攻撃への対応を考えていた。

 

この時期、米沢にいた直江兼続はNHKの大河ドラマでも有名になったが、北の山形城を攻撃するため、その西にあった

長谷堂城を攻撃していた。通常これが「北の関ケ原」といわれているようだが、その他にも、奥州南3県周辺では、上杉氏、

最上氏、伊達氏の攻防が行われていたのであった。直江は、関ヶ原の合戦が東軍の勝利になると、急ぎ長谷堂城から撤退している。

 

福島城の攻防では、伊達軍が福島の南の大森城を攻略して、北と南から挟み撃ちにしようとしたが、本庄軍の画策で失敗し、

信夫山の麓に本陣を置いていた伊達政宗軍に、本庄軍が北側を回りこんで本陣下に現れ、福島城を攻撃しようとする伊達軍を

追い込んだようです。

なお、ここに言う松川という川は今は信夫山の北側を流れていますが、その当時は信夫山の手前、南側を流れていたといいます。

小説に言う「奇策」とは、本庄軍の一部が福島城の前を流れていた阿武隈川を下り、下流の摺上川のあたりで上陸し

信夫山の裏側を回り政宗本陣の近くに攻撃をかけたことを言います。

この福島城松川の合戦では、伊達軍は2万に対して、本庄軍は4千ともいわれます。

この奇襲によって伊達軍は崩れ、撤退に追い込まれたようです。

 

関ケ原の西軍敗北により、上杉景勝は会津の領土を奪われ、米沢三十万石に押し込まれます。

それでも福島市周辺はまだ上杉領でしたが、1664年に上杉藩の跡継ぎ問題で15万石に減らされ、

その際福島周辺は幕府の直轄領となりました。

 

なお、この小説の作家「風野真知雄」さんは、1951年生まれの福島出身の作家でした。

NHKでも放映された「妻は、くノ一」などが有名だったようです。

 

 

 

 

 

コメント (1)
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