以下は前章の続きである。
松井やよりは、かつては公害、農薬害問題を追求し、〈王様が裸なら裸と見える目がなおあり、裸と見えた以上は正直に裸と書いていた〉敏腕記者だったという。
その彼女がなぜ、運動家の如きスタンスに変貌したのか。
長谷川は、日本の対英米開戦五十年を考える『AERA』特集の取材でマレー半島を訪れた。
戦中、抗日ゲリラに対抗する「三月掃討」が行われたが、関係者は車法会議で死刑判決のあと、処刑されている。
これを「民衆虐殺」とし、日本の罪として改めて告発する動きが、九〇年代に入って起こっていた。
そして当時、朝日新聞社アジア総局員としてシンガポールにいた松井も、虐殺関係の告発記事を書いていた。
だが現地を訪れた長谷川は、驚くべき証言を耳にする。
長谷川がこのヌグリスンビラン州を回った1991年11月のことだ。〈少なくとも三ヵ所で合わせて九人に話を聞いた。いずれも華人の地区だった。(中略) 二、三軒で取材を終え、さて次は、と路上にいたら、直前の取材で同席していた中年の華人女性が外に出てきて、聞いて欲しいと言わんばかりの風情で、まとめると次のように、確か英語と北京語を混ぜて話した。「シンガポールにいるという日本の朝日新聞の女性の記者が、虐殺は日本軍がやったことにしておきなさい、かまわない。と言ったんです」 そして、その女性記者の名前を「マツイ」と述べた〉
(ヌグリスンビラン州でも地元によっては、以前から分かっていたか新発見された多数の遺骸の全てが果たして日本軍による犠牲者なのかどうか、内々のところ覚束なかったのだが、それを言われた記者「マツイ」が、その心配をあえて潰そうとした、ということになる〉