文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

私は中国人の警官と一緒にパトロールしましたが、死体がごろごろと転がっているなんて光景は、一度も目にしていません。

2018年08月12日 21時24分32秒 | 日記

以下は一昨日、発売された月刊誌Voice今月号に、総力特集、平成の終焉、日本再生

中国の「親日」を阻むものは何か

「歴史論争」の渦中の地を歩いて聞いた真実の声―と題して掲載された早坂隆(ノンフィクション作家)の論文からである。

月刊誌Voice(780円)が必読であると同様に、この論文は、日本国民及び世界中の人たちの必読である。

見出し以外の文中強調は私。

前文略。

南京戦に参加した元兵士たちの声

上海での取材を終えた私は、そのまま南京へと向かった。 

南京への交通手段は「中国版新幹線」とも呼ばれる「CRH(中国鉄路高速)」を利用した。

中国政府は「自主開発」と公言しているが、実際には日本やドイツからの技術移転を土台とし、中国側がライセンス生産したものである。

外観も内装も日本の新幹線とよく似ている。 

世界最高峰の技術が凝縮した鉄道のはずだが、私の訪問時、上海駅に自動改札機はなく、駅員に紙の切符を渡して「パチン」と切れ目を入れてもらうという様式であった。

私が小学生の頃には日本にもこのような景色がまだあったが、まさに上海駅には「新しさ」と「古さ」が混在していた。 

そんなCRHに乗車すると、二時間少しで南京に到着する。 

南京と聞くと、日本人の中には「大虐殺論争」くらいしかイメージが湧かない人も多いであろう。

私は南京に来る前、実際に南京戦を体験した元日本軍兵士の方々への取材を行なっていた。 

中支那派遣軍野戦電信第1中隊の1兵士だった島田親男さんは、昭和12(1937)年12月13日の午前中に、南京の城内(市街地)に入った。 

「城内には人の姿もなく、静まり返っていて、非常に不気味な様子でした。『がらん』とした感じです。

結局、銀行だった建物の中に第6師団の司令部が設置されたのですが、私はそこで通信業務を行うことになりました」 

島田さんが回想を続ける。 

「入城後の一週間くらいは、私も気が立っていたというか、興奮していたのでしょうね。夜もなかなか寝付けなかったのを覚えています。しかし、南京の市民はみんな安全地帯にとっくに逃げていますしね。城内では後に言われるような死体の山など、私は見たことがありません」 

島田さんは上海から南京への行軍中には「多くの死体を目撃した」と率直に語る。

そんな島田さんだが、南京での「30万人虐殺」に関しては首を傾げる。 

「入城時には交戦もあったし、犠牲者が多くいたことは事実です。それは認めます。しかし20万人もの大量虐殺なんていうのは、私としては本当に信じられないんですよ」 

もちろん、この1証言で南京戦のすべてが語れるわけではない。

しかし、実際の南京戦を体験した1兵士の生の証言として、軽視することもできないであろう。

冷静に受け止めたい。 

南京戦に歩兵第7連隊第1大隊第2中隊の歩兵伍長として参加した喜多留治さんにも話を聞いた。 

14日から安全地帯へと入り、市民に紛れている便衣兵を探しました。この掃蕩戦にあたっては、連隊長から厳重に注意事項が示達されたのをよく覚えております。軍紀は非常に厳しいものでした。特に強調されたのは、一般住民への配慮、放火、失火への注意といったことでした」 

安全地帯の雰囲気についてはこう語る。 

「非常に多くの中国人が集まっていました。人々でごった返しているという感じです。多くの南京市民がこの安全地帯に流入していたのでしょう。戦場の修羅場という雰囲気ではなかったですね。私は中国人の警官と一緒にパトロールしましたが、死体がごろごろと転がっているなんて光景は、一度も目にしていません。安全地帯の中に、いろいろな露店が出ていたのを覚えていますよ」 

喜多さんはこう語る。 

「もちろん、戦闘で多くの死傷者が出たのはその通りだと思いますよ。でも、中国側の言い分をすべて聞く気にはなれません」

この稿続く。


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